降りしきる雨の中で、少女が一人、走っている。
 傘は持っていない。朝のうちは本当に良い天気だったのだが、午後あたりからぐずつき始めた空は、帰宅すべき時間になると、待ち構えていたかのようにバケツを引っ繰り返したような雨を振り出した。
 そんな雨の中で、傘など持っていないその少女は、雨に耐え兼ね、近場の店舗の軒先にて雨宿りをすることとした。
 傘を購入しようかという考えがちらりと掠めるが、何せ今は養われている身。無駄な出費をすることは出来るならば避けたい。それに、もうここは家からそれほど離れているわけではない。
 と、そこで少女は違和感に気付く。ここは何処だろうか? 確かにこのあたりに来てから日も浅く、またこんな軒先になど立った事はないものの、辺りの風景は確かに覚えが無い場所だ。
 後ろを振り向いて見る。ごく普通の店舗に見えるが、板張りの壁に目立たぬ扉が一つ。他に窓などはない。扉を見ると、ノブに小さな札が掛けられておりかすれた文字で『開館中』と書かれている。とすると、ここは美術館か博物館の類だろうか。よく見ると、さらにかすれた文字で『入館無料』とも書かれている。どこかの金持ちの道楽か何かだろう。
 空を見ると、雨は未だ降り続けている。
 彼女は、雨が止むまでの暇つぶしのつもりで、ドアのノブに手をかけた。ノブを捻り、扉を押す。
 中は、外であった。
 扉を開けたその中は、確かに今まで自分が立っていた町並みが見えた。慌てて、周りを見返すと、そこは既に建物の中であった。
 不可思議な。自分は中に入ろうとしていた筈なのに、なぜ扉の向こうが外でこちら側が中なのか?
 その薄暗い部屋に目が馴れてくると、後ろの壁に矢印が描かれている事に気付いた。順路ということだろうか?
 彼女は恐怖心と警戒心を知っていた。しかし、同時に好奇心も持っていた。世界に生まれて間も無い彼女にとって、好奇心は極めて強い衝動であった。
 扉を閉め、矢印に従って歩き出す。少々老朽化が進んでいるのか、それともそういう作りなのかは知らないが、歩くと床はみしみしと唸り、また空気もかなり埃っぽい。そんな中を歩いていると、ろくに照明も付いていないものの、壁の絵が飾られている。確かに美術館といった風体ではある。
 ゆっくりと絵に近づいて見てみる。何の変哲も無い風景画。彼女はあまり芸術に関する教養はないが、なかなか上手なものに見える。
 しばし絵を眺めてみる。風景画。動植物の絵。人物画。様々な画風の絵が節操無く並べられている。とくに根拠がある並びとも思えず、あまり人に見せることを考えているようには思えない。
 そうして絵を眺めているうち彼女は少し驚愕する。絵に、自分の顔が映っていたからだ。しかし、よく見てみると、その絵は自分の動きに合わせて変化する。落ち着いてみれば何の事はない。ただの鏡だ。全体的に暗く、またこの部分に光などが入らないように構成されているため、近づくまで鏡であることが解らなかった。それだけだ。
 胸を押さえると、まだやや高鳴っている。落ち着くのを待ち、彼女はその場を去ろうとしてから、ふと、違和感に気付く。鏡には窓が写っている。高い位置にあり、おそらく採光用だろう。しかし。
 その窓には、月が写っていた。
 慌てて後ろを振り向く。窓が写っていた部分を見る。しかし、そこは薄暗い天井があるのみ。窓などは見当たらない。改めて振り向く。
 鏡は、既に消えていた。
 ぞくっとした。なぜだか物音を立ててはいけないような気がして、音を立てないようにゆっくりと、しかし出来うる限り早く、という矛盾した衝動の中で入り口の方に向かおうとする。
 そこに何かがいた。
 良く分からなかったが、多分人だったように思う。しかし、後になって思い出そうとしても、それは幼い少女だったような気もするし、年老いた老人だったきもするし、あるいは……自分自身だったようにさえ思える。
 ただ、少なくとも、それはこっちを見ていた。そう思えた。
 こちらも、じっとそれを見る。目を逸らすなどということは、とても恐ろしいことに思えた。
 息が詰る。手のひらが汗で湿る。時間が流れるのがひどくゆっくりに感じられる。
 緊張に耐え兼ね、ぎし、という床の軋む音とともに、一歩、踏み出す。
 途端に、周囲が変化した。
 暗く、しかし広い空間。床には、様々な雑多なものが積み上げられている。
 良く見ると、それは使い古された様々な道具たち。
 目の前。そのモノは、依然としてそこにいる。
 それは、ゆっくりと、手を、差し伸べた。
 その手は、いやその部屋にあるすべてが、彼女を誘っている。
 それは古い木馬であり、ゼンマイの壊れた時計であり、時代遅れになったコンピュータであった。
 それらを見つめながら、しかし彼女は言った。

「私には、まだ帰る場所があるんです」

 ユニが気が付くとそこはいつもの帰り道。
 空を見上げても、雨なんか降りそうにも無い秋晴れ。
 後ろを振り向くと、確かにその建物。
 ただし、そのドアにはでっかい張り紙で『売家』
 ドアに手をかけてみても、鍵がかかっていてびくともしない。
 ふう。
 ユニはためいき一つ。
 と、道路を見ると古びた少女人形。
 手にとってみる。ちょっと考えた後、それを自分の鞄の中に入れる。
 時々考える。
 自分は、壊れた後、どうなるのか、とか。
 行く先はスクラップ置き場か、はたまたお墓を作ってもらえるのか、とか。
 ペットのお墓なんてのも、結構前からあるけど。
 それと。
 自分たち用の天国は用意されているのか、とか。
 まあ、そんなことは今考えてもしょうがない。
 今のところ、壊れる気配も無いし。
 それに。
 まだ、帰る場所があるし。

(つづく) 


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