戸高雅史 チョモランマ遠征レポート 98


ここでは、FOSの杉山さん、前田さんのご協力により、現在単独のチョモランマ登頂を目指している、
「日本FOS チョモランマ登山隊 1998」 
の戸高雅史氏とBCマネージャーの優美さんのレポートをお届けいたします。


レポート4

 連日雨や雪という天気が、8月20日を境に少し変わってきた。夕方から夜、そして翌朝にかけ
ての降りが少なくなってきたのだ。朝晩の冷え込みも出てきた。南(ネパール側)が若干乾い
てきたのだろうか?北西壁にはやはり手が出せずチャングツェ峰(6777m)を利用して、21日に
6500mまで、23日に6650mまで順応で登った。上部の方は雪が多く雪崩の危険のため、ピークま
では行かなかった。そろそろ北西壁の7千〜8千mぐらいまでは夜に雪さえ降らなければ登れ
そうな感じになってきた。といっても1日のうち冷え込む時間帯(朝3時頃〜11時まで)で
なければならないが。アタックをするには、まだ8千m以上の雪が多すぎる。昨日今日と頂上
直下から何個所も雪崩れている。この上部の雪が落ち着かねばアタックはかけられない。もし
この天候が続いてくれれば丁度9月6日の満月前後にアタックをかけられるかもしれない。
明日から最後の順応と壁の偵察のためチャンツェ西稜のふもとに設けたC1(5900m)
に入る予定だ。昨年とは異なりここをしっかりとしたキャンプにするため、ここに快適で丈夫
なアライテントのゴア3人用を張り食料や燃料も充分に荷上げした。もしアタック時に天候が
不安定な場合は2〜3日は問題なく待機できる。また、C1から先のルートは冷え込みが弱か
ったり、昼間行動する時はこの時期膝ぐらいまでのラッセルになるので、今年はスノーシュー
ズを持ってきた。これで壁までのアプローチが楽になりたのしくなった。
8月4日にABC入りしてから時間があったおかげで体調も次第にいい形に仕上がってきてい
る。精神的には非常に落ち着いた気分だ。とにかく自分の状態がいい形になれば後はチャンス
を待つだけである。
最高の状態を待つ。それにもしアタックをかけたら、引き返すポイントを間違えないこと。全
てが順調であればそれは頂上となる。決して僕はこの登山を命懸けのチャレンジだとは思ってい
ない。登山とはそんなものではない。山という場を舞台に天候や雪のコンディション等様々な形
で現れる天の節理の中、刻々に変化する今という場で「行為」していくものである。その今とい
う瞬間において自らの行動、生き方を決めるものは「考える」ということよりも「感じる」こと。
「考える」ことは時間の行為でダイナミックに変化するこの今という瞬間を捉えきれないように
思う。僕が登山という行為に夢中になったのは、その瞬間性にあるのだろう。それは登山に限ら
ず生そのものが過去から未来へ続く直線で、その線上に今という時があるのではなく、あくまで
も今という時はその時限りのかけがえない点のようなものだと思う。
自己が消えた時、人は自然と一つになる。チョモランマに登るという行為がそういうものになり
うるだろうか。
                                     戸高 雅史



8月17日(月) 晴れ、みぞれ

今日はメールランナーのペンバが上がってきてくれた。昨年も野菜やガスを届けてくれたペンバ。
赤い毛糸を髪に編み込みトルコ石のピアスをした22歳の青年。父はロンブク僧院のラマであり、
私たちの安全祈願をしてくれた人である。今回は全く2人きりなのに驚き、ペンバを水くみ等で置
いたらどうかと提案してくれた。そこでメールランナーとして2週に一度、上がってもらい、郵便
と私たちの様子をダグさんに伝える仕事をお願いしたのだ。正午すぎ、はずかしそうにキッチンテ
ントに入ってくる。ダグさんからの手紙とりんごを届けてくれる。おいしそうに牛丼を食べると、
「下りは3時間で行くよ。」と言って風のように下山して行った。私なら5時間はかかる。さすが
は秋にはネパール国境を越えて行商を営んでいるチベッタンである。

8月18日(火) 雨、みぞれ

 一日中、みぞれ交じりの雨が降り続いた。17日7:00pm、C1入りしていた戸高が下山してくる。
北西壁は連日の雪で、壁についた雪が次から次へとなだれ、まるで雪崩の巣のようであったという。
「晴天が3日以上続いて壁の雪が落ち、冷え込みが来るまで、C1には行かない方がいい。精神的
ダメージが大きすぎる。」と参っている様子。夕食も胃が受け付けないとお茶漬けをすする。戸高
がこれまでに、雪崩に会ったのは、85年アンナプルナU峰、92年GT、それに昨年のチョモラ
ンマ。昨年のチョモランマノーマルルートでは、大雪崩の中心にいたにもかかわらず、自分を通り
抜けていくという奇跡的な体験をしている。本人は始め、この体験を人に話すことを躊躇していた。
何回考えても、不思議な、理解し難い体験である。しかし、今は、深く解釈したり、理由づけせず、
事実のみを受け入れている。ただ、雪崩に会う状況、思考、行動は、反省するところがあるらしい。
昨年の状況:ノーマルルート7500mにて、同時期にアタックしていたスイス人の著名な登山家ジャン
・トロワイエ氏に、「雪崩の危険があるから一緒に下山しよう」と声をかけられるが、戸高はそれ
を断り、一人登り続け、直後に雪崩に会う。
 「あの時は、シェルパやジャンに強い所を見せたいという欲や、この機会になんとしてもアタッ
クをかけたい野心的な気持ちがあった。状況は悪いけれど、自分の調子はいいのだから慎重にぬけ
さえすれば大丈夫と思った。」とふりかえる。その後、すぐ下山するが、その時、ジャンに「命よ
りも大切なものはないんだよ、マサ」とアドバイスを受けている。16年間ヒマラヤに登り続け、
数々の記録的な登攀をし生き残っているクライマーの言葉は、戸高に深い印象と教訓として心に残
るものとなる。今冬、ジャンは日山協の招待で日本に来日し、その素晴らしいクライミング哲学を
語ってくれた。中でも印象に残ったのは、「ヒマラヤに登り登頂したことで、友人と食事をする間
もなく、講演だ仕事だと、働かされていく者もいれば、登れなかったことを失敗とし、人生のどん
底のような心境におちいり、回りの者をまきこんで不幸になってしまう者もいる。ヒマラヤに人生
をとらわれる者になってはいけない。ヒマラヤが不幸の選択になってはいけない。ヒマラヤは日常
とかけ離れることで、日常生活の幸せについて再発見させてくれる所であり、生きていくことの価
値を確認させてくれる場である。そして何よりも自分の喜びや幸せの為に登るのだから。」

8月19日(水) 曇り時々雨

8月20日(木) 曇り

 ABCから真下に眺める中央ロンブク氷河は20kmにもなる。氷塔群はどれも個性的な形を創り、
北に向かって流れを作る。午後から氷塔アイスクライミングに出かける。テントから50m下へ、
砂利と斜面を落ちるように駆け下る。上から眺めると、小さく見える氷塔も、1つ1つが20mか
ら30m、大きいものだと50mを超えるビルディング。戸高は15m程の手頃な氷塔で、ストレ
ッチクライミングを始める。私はいつも上から見ているコバルトブルーの湖を探しに行く。岩や石
の下は氷の大地。日中の暖かさでとけた氷河は幾つもの小川を作り、その流れは集まると、濁流と
なって、ダムのような水かめへ、勢いよく流れ込んでいく。氷の地を上ったり、下ったり、回り込
んだりして、湖に着く。静かな湖面。かたわらに座っていると、からだも心も、その静寂に洗われ
ていくよう。強い沈黙に包まれる。自然の息吹きに心を解放すれば、安らぎと共に、平和な心があ
らわれる。不安や恐怖にとらわれず、いつも充たされていたならば、どんなにいいだろう。けれど
感情的でエゴ的な自分ともきちんと向き合うことができれば、人間として、少しづつ成長していけ
るのかもしれない。5550mのアイスクライミングは息がきれる。景色の壮大さもあって一回で満足。
それより、湖の美しい水の味が、体の内部をうるおし、心をしっとりと、癒してくれたように思え
た。

8月21日(金) 曇り時々雨

 満天の星が広がる。天の川は無数の星をかかえこみ、東から西の空に向かい橋を架ける。ヒマラ
ヤに来る前、ある小学校の移動教室へ行ったことを思い出す。1クラスづつ組まれる合宿なので、
少人数で、自然活動中心に子どもたちとおもいっきり遊ぶことができる。パートナーの指導員が星
好きな人で、毎晩必ず、星についてレクチャーしてくれた。「僕は、みんなくらいの時から、星が
好きだった。ブラックホールって知ってる?」と飾らない言葉で語りかける。そして空に見られる
星座を追っていく。自分の星座があるとうれしい。地球は回っているから、昼間にしか会えない星
座もある。夜空に子どもの心がすっぽりと入り込む。闇の中に子どもの瞳が輝き出す。想像をめぐ
らし、自然の神秘に触れた時、ドクドクと動き出すものがある。「きっと君らが大人になる時は、
人類は月に暮らす人もいるかもしれないし、この中から、宇宙旅行用の飛行パイロットになる人も
出るかもしれないね。」本当にそんな気がしてくるのだ。星を眺めながら浮かんでくることは、夢
や希望、そして未来。「いま科学では、(なんでだろー)(どうしてだろー)という心の中にぼんやり
疑問に浮かんでくる事を、(あーそれは科学的に証明されていて□□□なんだよ)とすぐ解釈したり、
分かったふりをするでしょう。けれど僕は、(あーどうしてなんだろう、不思議だなぁ。)と心をめ
ぐっているっていいことだと思うよ。不思議に思うことはたくさんあった方がいいよ。本当に宇宙
のことなんて、人間の考える中で、分かるもんじゃないように思えるんだなぁ。」いろんな人と仕
事を組むが、彼の本音や心で、子どもと関わっていこうとする姿勢に学び気づかされることが多い。
 ヒマラヤに来るようになり、人にとって重要なのは、良い関係を築こうと努力することや、見ら
れる私を磨くのではなく、本当にあなたは何者であるのか、という方であることを知った。それは
ごまかしのきかない自分との対峙。けれどその方がずっと私らしく自由でいられる。そして、そん
な個と個の関係で得た体験や経験は、心の中にずっと、やさしい色や暖かい感触を残して覚えてい
るものだから。子どもたちと見上げた星、あの夜に包まれていた闇の暗さが、ぼんやり心に蘇って
くる気がするように。

8月22日(土) 曇り時々雨

8月23日(日) 晴れ時々曇り

 朝6:00まだ夜が明けておらず、暗くて寒い。気温は-1℃。チョモランマ峰はその真白い姿を天に
映し、大きく天座する。戸高は北西壁での順応をあきらめ、東側の山、チャングチェ(6777m)に上る。
6200mまでは浮き石が多いガレ場歩きなので、夜が明けてから出発すると、ランタンの下で時を待つ。
夜から朝へと移りゆく時に身を置きながら、空を仰ぐ心地は静かで安らいだものだ。チャングチェ
から太陽が昇り、ABCに光が射す10:00am、戸高がガレ場を越え、雪壁にとりついている姿を確認
することができる。1000mmのカメラをセットし、その動きを追う。なめらかな雪壁にダブルアックス
で登る軽くリズミカルな動き。彼を登山へと揺り動かすものは、一体何なのかを考えた時、「ビヨン
ド・リスク(山と渓谷社)」の一節がそれを表現しているように思え、書き記すことにする。「クライ
マ―たちを駆り立てるのは死の願望ではなく、生の願望−精一杯激しく、完全に生きたいという願望
である。クライミングとは、難しいルートを完成させることだけではなく、自分自身を完成させるこ
とでもある。自己認識の道であり、自然と接し、成長し、再生する手段である。精一杯生きている時
のただならぬ喜びと大きな危険に立ち向う時のむき出しの恐怖という人間の感情の両極端を短い間に、
集中的に体験し、人間の生命の本質を垣間見る、ひとつの方法と見ることができる。」戸高が選んで
いる一つの生きる道は登山である。彼の主張することなく、無言で、その道に向かい歩む姿は、美し
い姿だと思う。

8月24日(月) 晴れ時々曇り雨

 朝10:00チョルテン(神台)に香を炊き一日の祈りに行こうとキッチンを出ると、遠くから地響きの
ような爆音が聞こえてくる。チャンチェ(7580m、チョモランマ北側)で、大雪崩が起きていく。もの
すごい雪塵をまきあげ、雪陵からガレ場へ落ちていく。巨大な生き物だ。戸高をあわてて呼ぶと、
「わぁ、いいぞ。こういう写真が欲しかったんだ。」と喜んでいる。いつもポケットに入れている
カメラでシャッターを押しまくり、ダッシュでテントへ走り、望遠カメラを構えている。私は「ス
ゴーイ、スゴーイ」とおもわず声が出る。驚異的な自然の力。圧倒される迫力。心の底から感心す
るような、尊敬するような、自然はやはり大きな生き物であり、そこには、やはり神が存在するよ
うに思える。

8月25日(火) 曇り時々晴れ

 戸高はどうやら、3日目に疲れがでるらしく、本日も休息。のんびりテントで読書やストレッチ。
また、この頃は、参考書を片手に呼吸法に取り組んでいるが、それが、はたから見ていると、変わ
っていて、かなり笑える。ライオンの呼吸法といって、両手でこぶしを作り、肩甲骨を中心に、軽
く叩きながら、5回程、息をすってはいてを繰り返し、最後に目と口を大きく開き、ガオーと肺の
中の息を吐ききるのだが、それがおもしろい顔になる。「絶対いいから、ユウミもやってごらん」
と、おもしろ半分にやると、首から下の息がスムースに通る気がしてなかなかよい。戸高の高所修
行も、本格的になってくると、そのうち宙に浮き出すかもしれない。私は横目で見ながら、その分、
どんどん自分が俗的になっていきそうな気がして、どっちにしても少し怖い。

8月26日(水) 曇り時々晴れ

 今日は2人してC1へ入る予定だったが、天候が思わしくない為、一日延期とする。めずらしく
来客が3組も来た。スイス人、カナダ人のトレッカー、そしてフランス隊が北西壁か、ノーマルに
するか、偵察に来た。フランス隊は、2人のスノーボーダーが頂上から滑降する世界記録をねらう。
昨年、ジャンが8600mで断念し、スノーボードも8600mまでの記録なので、もし、今回、彼らが滑れ
ば、世界初ということになるのだ。「なかなか力のありそうな人たちだ」と、戸高は久しぶりのク
ライマーとの話し合いに刺激を受けた様子だった。明日からC1に入る。望遠レンズを持っていく
ので、北西壁を登攀するシーンを撮れると思うと、とても楽しみだ。新月が少しずつ、大きく、そ
の光が増し始めている。満月は9月6日、風のないおだやかな夜がやってくるといい。
                                      戸高 優美