目の前にいる黒いヤツ。サイズ、色ツヤ、存在感、真心。
 どれをとっても申し分ない。
 落ち着け…僕は自分にそう言い聞かせた。
 しかし、心の底ではこいつに気付いてしまったことに対する後悔でいっぱいだ。
 そう、人には知らない方が幸せな事だってあるのだ。
 だが、僕は気付いてしまった。
 ヤツを凝視する。今は静止しているヤツも、何かのはずみで動き出すかもしれない。
 そうしたらアウトだ。ヤツの動きは、僕では捉えられないほど早い。
 第一、動作中のヤツにはあまり近づき無くない。
 沈思する。新聞紙? スリッパ? 駄目だ。潰れたヤツを見るのはごめんだ。
 人道にはもとるが、やはり化学兵器に頼ろう。
 スプレーはどこに置いただろう? 確か、玄関のハズ。
 よし、僕は、ヤツに注目したまま、ゆっくりと後ずさり…

「何しているんですかぁ?」

 静かに! 奴に気付かれる!

「ヤツ? あ、ゴキブリだ。あれ? 掃除はちゃんとしているんですけど」

 ヤツは、そんなことにおかまい無しに現れる。
 やばい。奴に気付かれたようだ。
 僕は、ゆっくりと、だができうる限り迅速に玄関の殺虫剤に手を伸ばそうとして。

「えい」

 セリオ(偽)は、ヤツをいともあっさりと素手で掴んだ。

「捕まえましたよ」

 わっ、近づけないで! 危険だ! さっさと捨てるんだ!

「別に、そんな大騒ぎするほどのことでもないです」

 セリオ(偽)はヤツが平気なようだ。

「そりゃ、ゴキブリを怖がるようでは家事はできません」

 まあ、確かにそうだけど。
 と、セリオ(偽)は、部屋の中をぐるっと見回す。
 どうやら、ちり紙を探しているようだ。

「ご主人様、ちり紙どこに置きましたっけ?」

 ええええと、その辺りに無いかな?
 僕は、ずささっと後ろずさり、できるだけセリオ(偽)に近づかないようにする。

「何しているんですか? ははぁ、さてはご主人様…」

 そうして、セリオ(偽)はすげえジト目を僕に向けて。

「意外と臆病なんですね〜」

 むか。
 ちょっとばかりむかっと来た僕を尻目に、セリオ(偽)は手早くちり紙を発見、
ちゃちゃっと丸めてヤツごとゴミ箱へポイポイのポイした。
 とりあえず、ヤツの脅威は去った。

「それにしても、今までゴキブリが出たときはどうしてたんですか?
 まさか今回みたくいちいち大騒ぎしていたんですか?
 それはさすがに問題ありませんか人としてそれとも見なかった振りですかそれもやっぱり問題あるでしょう」

 セリオ(偽)は、そんな風に語ってくれた。
 正しい。実に正しいよセリオ(偽)。
 でもね(新聞紙を丸めて)。
 人は、正しいことだけじゃ生きていけないんだ。
 つーことで、丸めた新聞紙を、セリオ(偽)方向に加速度を持たせてみた。
 平たく言って叩いた。

「あたっ」

 最初の瞬間、セリオ(偽)は、何が起きたんだ? という顔をして。
 次の瞬間、セリオ(偽)は僕の方を見て(なんですかヤんですかコラ?)
 という顔をした。
 そして、すぐに満面の笑顔を取り戻し、新聞紙を丸め始めた。
 
 間。

 セリオ(偽)が右手を振りかぶりその手に持つ新聞紙を僕に向け襲い掛かるその新聞紙を僕は左腕でブロック返す刀で僕はセリオ(偽)の肩口を狙うと見せかけて軌道を変化させ上方向から狙う新聞紙をセリオ(偽)はすばやく後退して避け体勢の崩れた僕の頭を狙うセリオ(偽)の一撃を僕はすかさず受けようとしてセリオ(偽)の意図に気付くしまったこれは罠。

 スリッパが飛んできた。
 新聞紙に気を取られていた僕には一たまりも無かった。
 セリオ(偽)の足から放たれたスリッパは、僕の顔を直撃し、ずるずると落ちる。
 笑い転げるセリオ(偽)。
 やはり、彼女は問題あるメイドロボだ。しかし、今はそんな事どうでも良い。
 ここまでやるからには、骨の2〜3本は覚悟しているんだろうね?

「そっちこそ。今から流動食に馴れておいた方が良いですよ」

 良く言った。それでこそセリオ(偽)。
 ならば、僕も不退転っぽい決意で立ち向かうのみ。
 こうして、血で血を洗う争いが始まった。
 丸めた新聞紙で。
 
 …今になって思う。
 何やってんだ? 僕ら。

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