死刑廃止について


あなたは、死刑廃止に賛成ですか、反対ですか?。

「動物愛護」なのになぜ「死刑制度」が関係あるのかと思われるでしょうけど、「動物愛護」に関する事柄を考えていると、どうしても「死刑制度」に突き当たるのです。
その逆に「「死刑制度」を考えていくとやはり「動物愛護」に来てしまうのです。
作為的、人為的に罪のない人の命が奪われる、そして犬やねこ、その他の生き物の命も人間の手により奪われていく、そんな不条理はこの先も続くでしょう。 動物の命を大切にして、自分の命も大切して、そして周囲にいる人たちの命も大切にする、そんな、言葉で書けば簡単な事を万人の人に理解してもらうのは、 実はとても難しいのだと分かりました。
「動物愛護」と「死刑制度」、この双方はともに命が原点であることには変わらないのでは思いました。

本来の人間としての道徳は「人に迷惑をかけない」事が最低条件だと思うのです。「人のモノを取らない」「人を傷つけない」「命を大切にする」などなど・・・。
しかし人間が大小に関わらず社会、集団を営む以上、「争い」は古代のはるか昔から絶えず起きていたようです。
なぜ争いが起きるのか、それは私利私欲が絡んでいるからでしょうね。
仏教の教えを説いたインドの元皇帝ブッタ、つまりお釈迦さまのように私利私欲を捨てれば争いもないのでしょうけど、人間であるいじょうは難しいと思いますね。
宗教的な事はよく分かりませんが、この世に生まれて来た以上、何のためであっても人間は「何かをしなければならない」 運命を背負っているのだと考えもあります。と言っても与えられた事をして日々を過ごすのもその人の人生、何かをしようと頑張るのも人生です。

話がそれてしまいましたが、人ひとりが動けば、必ずしも万人が賛成し幸福になる訳ではないので、「争い」が起きてしかるべきでしょう。

その争いの要因や起因が何であれ、「道徳」と言う言葉で人を縛るのは簡単ではないのでしょう。

シュタムラー(Stammler:ドイツの法学者)のように「道徳と法を区別する」考え方もあるようです。

最初に書きますが、「何のためであれ誰のためであれ、また、どのような理由があったとしても、絶対に人の命を手にかけてはいけない」のです。
人を傷つけてもいけないのです。
どれほどに憎いと思っても、どれほどに恨みがあったとしても、人を手にかけてはいけないのです。
これは人間としての絶対的マナーです。
しかし、感情論としては、一概にそうとは言えない事もあります。。。

当然ながらも『死刑』と言う刑罰は無論知っていましたが、今ほど真剣に向かって考えた事はありませんでした。
わたしが『死刑廃止論』を真剣に考えるようになったのは、『日本死刑史』(森川哲郎・日本文芸社・750円)を読んだのが切っ掛けでした。 なぜだか、『日本死刑史』なんて聞くと胸がワクワクしてきて、本屋さんで見つけるとすぐに買って読みました。

内容は日本での死刑の歴史なのですが、ホントは日本の死刑史を語りたかったのではなく、死刑の残酷さを通して『死刑廃止』 について説きたかったのではないかと気づきました。
一応お断りしておきますが、普通の神経をしていたら、本文に入り10ページ読み終わる頃には、そこに書かれた刑のあまりにもの残虐さに頭がクラクラしてきます。
それでも、わたしは続けて読みたいと言う欲望は増すばかりで、現実から切り離されたもうひとつの“過去の現実”を追って次から次へと活字が目に入り夢中にさせられました。

さてさて、罪もない人たちの命を身勝手な理由で奪う“極悪人”。
その加害者を『死刑』にする処罰に反対するなんて、「どう言う神経してるのよっ」って感じでした。
所詮、自分が被害者、または被害者の遺族にならない人たちが、 馬鹿げた正義感で立ち上がっているのだ、と思っていました。

注意:家族(妻・娘)を殺され苦悩の結果、それでも『死刑廃止』を訴え続けた弁護士はいます。

まず死刑廃止の理由としてあげられるのは、『冤罪の危険性』ですね。
もしあなたが、ある事件の加害者にされ、その事件には全く関与してなく、まして殺してもないのに「死刑」と言われたらどうしますか?。
「自分はそんな事にはならない」と思いたい気持ちは分かりますが、決して人ごとではない ・・・と、よく本に書かれてます。
俗に言う「ぬれぎぬ」は、ドラマの中なら最後には真実が明らかになるけど、
現実には、常に「正義が勝つ」とか「正直者なら救われる」、または「正しく生きていれば悪い事は起きない」
なんて理屈通りには行かない事が多いと思います。
いつ、どこで、誰が「やってもいない罪」をきせられ、あげくには「死刑に処す」と裁判官に告げられるか分かりません。
それが死刑ではなく無期とか懲役○○年とかなら、最終的には再審請求の望みもあり無実が証明される可能性もありますが、 法の名のもので国家に殺されてしまったらやり直しがきかないというのです。これは理屈抜きで現実には恐ろしい問題だと思います。

注) 再審請求とは、刑が確定したものを再度「不服申し立て」をし、もう一度事件の審理を求めること。

もうひとつの死刑廃止の理由は、「犯罪への抑制力がない」って事です。
本来、刑罰と言うのは死刑に限らず「みせしめ」として、
「悪い事をした者は、このように罰を受けるのだ」と犯罪を抑制する意味だったようです。
が、しかしそれでも犯罪はなくならない。
「昔」もそうであった(抑制力がない)ようですが、現在を見ても犯罪が減るどころか、その時代ごとに実に巧妙な手口で、 または短絡的で一般では理解不可能な凶悪な犯罪が絶えません。

しかし、冤罪の危険性や抑制力のなさを理由に死刑を廃止にすると単純に考えるわけにもいかないようです。
まず被害者の遺族の気持ちで、被害者感情を無視できないでしょう。 自分の家族や愛する人が何の罪もなく命を奪われたら、それを許すには多大なエネルギーが必要になると思います。
被害者の遺族の方々からすれば、単に死刑にしただけでは気が済まないのではないかと思われます。

それでも、『死刑廃止』を説く人たちは、「自分が被害者やその遺族なら、死刑にしたいくらい加害者を憎むであろう。それでも自分は、死刑存置には反対だ」 と声を揃えて説きます。
あなたなら、死刑をどう思いますか?


死刑廃止を説く際にもうひとつ、絶対に忘れてはならないのが「死刑執行人」の存在だと思います。
どの「死刑廃止論」を読んでも「死刑執行人」である刑務官の存在は書かれてませんが、ここでは少し触れてみましょう。
死刑がある限りそれを執行する人がいるのは当たり前だと言うかもしれませんが、わたしはその執行人の人生なんて数年前までは考えませんでした。
執行人とは、その名の通り死刑に直接手をかす人の事です。これは刑務所の職員、刑務官です。
「あなたなら、この者は極悪人だから、すぐに絞首刑にして殺しなさい、と言われたら出来ますか?」
いきなりこんな質問をされても、あまりにも別の世界の出来事で死刑執行がどう言ったものかほとんど分からないと思います。
そりゃあ、わたしだって現実の死刑を見た事なんてないです。
でも、「死刑執行人の苦悩」(大塚公子・創出版)を読んでもらえれば、 誰だって「死刑はもうやめて!」と叫びたくなります。
その死刑を執行した刑務官は、その後の人生さえをも破壊してしまう、それくらいの恐怖があるようです。
いくら極悪非道の死刑囚と言え人ひとり自分の手で「殺す」のですから、それで平気な訳ありません。
精神的なダメージは、何も分からないわたし達の想像をはるかに越えると思います。
「その後の人生さえをも破壊してしまう」とは、ひとつの具体的例では「夜眠るとうなされる」と言ったもの。
真実はこれだけではなく、もっと残酷でもっと悲惨で、もっと重苦しい、 もっと悲しく辛い、どうにもやりきれない刑務官の人生がそこにあります。
ここで詳しく書くのはさしひかえましょう。なぜなら、経験もない者が、執行人である人たちの壮絶な苦しみを書けるとは思えないからです。

「結局、死刑制度に対する見解はどうなのか」と聞かれると、正直言って分からなくなります。
でも、無条件で死刑廃止を支持する訳には行かないと思います。
もし死刑に値する罪(*)を犯した人間が数年のちに自分の近くに住んでいると考えると、やはり怖くなるのが人間ですよね。
なぜなら、本当に心の奥底から改心したのかどうか分からないからかもしれません。

(*印:一応、死刑とされた、あるいは死刑を宣告されるであろう極悪事件の事)

ある国で死刑を廃止した結果、「犯罪は決して増えていない」との結論が出たとあります。
「死刑を廃止した国では犯罪は確実に減少している」と言うのではないし、増して、その国の社会的背景をもっと確実に調べる必要があると思います。
たとえばかつての日本で言えば、死刑制度が廃止されていても、戦後の悲惨な状況で犯罪が減少したとは言い難いとも思いますし、その逆に、 国民総体が経済的に安定し家庭的な情愛も豊かなら、死刑が存置していても犯罪は増加しないと思います。


死刑廃止論者がわでは、「死刑とは、正義の名のもと国家で行われる殺人」と言います。
本来なら命の尊さを説くべき国が死刑を存置していれば、「殺人を認めている事になる」と言います。
だから、命の尊さを説くなら、死刑を廃止にしなければならないって事です。なるほどこれは正論です。
でも、一般的に考えて、日常生活で「死刑」を意識して生活しているでしょうか?。
日本では死刑制度があるから、「自分も我慢できなくなったら、その相手を殺そう」と考えますか?。
もし死刑がなくなれば、「殺そう」としても、その瞬間に思いとどまる自信がありますか?。
これって、何か変な理屈じゃないですか?。
多くの実例を見ると「死刑制度があるから」犯罪を犯した者などひとりもいないと思います。
そんな理由より、短絡的に「相手に言動に腹がたった」とか「お金が欲しいから」とか、「ただなんとなく」 とか訳の分からない犯罪が起きているように思います。

この先、もし何かあって、我慢できない程の恨みが蓄積していったら、“その相手”を殺すかもしれません。
死刑が廃止されても、殺したいほどの恨みがあれば「絶対に人を殺さない」自信はなく、罪を犯す可能性を否定できません。
しかしその逆に死刑制度がどうであれ死刑が存置のままでも、何があっても誰かを傷つけたり命を奪う行為だけはしたくないと強く思っています。


死刑制度をどうすれば良いのか、やはり条件付きの死刑廃止ですが、その条件と言うのも難しい問題です。
再犯を防止する制度が今更通用するなら、とうの昔に死刑が事実上廃止となっているでしょうから、今の段階ではアメリカの一部の州式に、 懲役120年とか、300年とかなら最終的な再審請求が却下されたとしても徹底的な絶望だけは避けられます。

しかし何度も書くようですが、社会的な根本的な問題は死刑制度をどうするかではなく、犯罪のない社会を築き上げる事が大切です。
とかく犯罪を犯す人間は、やはり心の病を抱えてると思います。一番身近 ( ではないかもしれないが ) で分かりやすい問題で言えば、最近可成り問題とされている「万引き」があります。
ある書店ではこの「万引き」が原因で閉店に追い込まれるとニュースで聞きました。
少年達は「万引き」をした高値の本を他で売りさばき、お小遣いを稼いでいるらしいです。
たまにスーパーでの「万引き」現場をテレビで放映するけど、「万引き」する青少年たちの多くは家庭での問題を抱えていると聞きます。
たとえば愛情飢餓。親からの愛情を満足に感じられず、気を引くために<「万引き」をすると言った事です。

ただし、親の愛情に飢えている青少年が必ずしも犯罪を犯すかと言えば、決してそうではないのです。
ある芸能人の生い立ちを知った時、ある死刑囚(すでに刑は執行済)の生い立ちとほとんど同じなのには驚きました。
その芸能人の方は弟や妹の生活を支えるために歌手になったと聞きましたが、その方は犯罪とは無縁の人生を送っています。 ほとんど親の愛情を受けられない同じような境遇におかれながらもかたや死刑囚、かたや立派な歌手という正反対の路を歩いています。
ここで、犯罪を犯すかどうかの分岐点に関わる要因は、先天性なDNAだと言ってしまえば実も蓋もない。
それに、何があっても犯罪に手を汚さない人は、幼児期にそれなりの何かを授かっているのか・・・とかね。
たとえば本人の記憶にも残ってない愛情とか・・・。わずかな愛情を身体が記憶していて、犯罪に手を汚すのを防いでいるのかも・・・。
無論、犯罪は愛情飢餓だけが要因ではないけど、心の病である事には変わらないと思います。

家出などのぐ犯に始まり「万引き」や窃盗も、そして殺人などの犯罪も、刑を科せるだけでは罪人は減らないと思います。
いくら死刑を続行しても、残念ながらこの世の中から犯罪はなくならいでしょうし、死刑を廃止してもこの世の中から犯罪はなくならいでしょう。
死刑制度をとやかく言う前に、犯罪の起こらない社会を築き上げるのが一番大切なのかもしれません。