KENNY ROBORTS ALL RESULT WGP500

ケニー・ロバーツのWGP500全成績

私がWGPに興味を持ち始めた1983年にケニー・ロバーツはWGPから
引退してしまった。もう、彼の子供のケニー・ロバーツ(Jr)がWGPで活躍
している時代だ。(お父さんをシニアと呼ばせてもらうが)シニアの速かった
頃を何とかこのHPで、伝えたいと思い、このページを作成しました。
シニアがWGP500を戦った6年間の全成績を記録します。
是非御覧下さい。

ケニー・ロバーツ KENNY ROBORTS
1951年12月31日生まれ、アメリカ、カリフォルニア生まれ、オクラホマ出身

1965年;13歳でアマチュアのレースに参加し始め、
1969年;17歳の時にはオレゴン州のダートトラックレースで選手権を獲得
1970年;18歳でAMAのノービスチャンピオン
1971年;19歳でジュニアチャンピオン
1972年;AMAグランドナショナルエキスパートで4位
      この年グッドイヤーの試作した「スリックタイヤ」を
      初めてテストした。世界で初めてスリックタイヤを
      履いたライダーはケニー・ロバーツでした。
      また、この頃からケニー・ロバーツは乗り方を変え始めた。
      今やロードレースの主流である「ハングオン」「ハングオフ」等と
      呼ばれるこの乗り方も、ケニーが考案者であり、
      世界で初めてやって見せたのであった。
      腰をぐっと落とし、路面に膝を擦り付けながら走る。
      ケニー・ロバーツのコーナリングフォームは
      息子のジュニアが引き継いでいます。
1973年;AMAグランドナショナルチャンピオンを史上最年少21歳で獲得
1974年;オランダGPへ250でデビュー。結果3位。
      2年連続AMAグランドナショナルチャンピオン
      もはやアメリカにケニーの敵はいなかった。
1975年;マイル、ハーフマイル、ショートトラック、TT、ロードレース
      1年の内に全ての種目で優勝を果たすという前人未踏の
      記録を打ち立てる。
1978年;デイトナ200マイルで出場した全員をラップして優勝し
      WGPへ挑戦し始めた。
      26歳、遅すぎたWGPフル参戦だった。

月日 GP サーキット 成績

優勝者

1978 3/19 ベネズエラ サンカルロス リタイヤ(エンジントラブル) B・シーン
1978 4/16 スペイン ハラマ 2位(スロットルスティック) P・ヘネン
1978 4/30 オーストリア ザルツブルクリンク 優勝  
1978 5/7 フランス ノガロ 優勝  
1978 5/14 イタリア ムジェロ 優勝  
1978 6/24 オランダ アッセン 2位(オーバーラン) J・チェコット
1978 7/2 ベルギー スパフランコルシャン 2位(タイヤ選択ミス) W・ハルトッフ
1978 7/23 スウェーデン カールスコーガ 7位 B・シーン
1978 7/30 フィンランド イマトラ リタイヤ(イグニッショントラブル) W・ハルトッフ
1978 8/6 イギリス シルバーストーン 優勝  
1978 8/20 西ドイツ ニュルブルクリンク 3位(安全走行) V・フェラーリ

この年ケニーが乗ったのは77年型YZRをケル・ギャラザースがモデファイしたもの。
スペアマシン無しで5勝を挙げ、500ccワールドチャンピオンに輝いた。
ゼッケンbS0

また、250cc、750ccにも走り、この年GPで合計10勝を挙げた。

月日 GP サーキット 成績

優勝者

1979 3/18 ベネズエラ サンカルロス 欠場(テスト中の事故の為) B・シーン
1979 4/29 オーストリア ザルツブルクリンク 優勝  
1979 5/6 西ドイツ ホッケンハイムリンク 2位(ハンドリング不良?) W・ハルトッフ
1979 5/13 イタリア イモラ 優勝  
1979 5/20 スペイン ハラマ 優勝  
1979 6/17 ユーゴスラビア リエカ 優勝  
1979 6/23 オランダ アッセン 8位(サス・トラブル) V・フェラーリ
1979 7/1 ベルギー スパフランコルシャン ボイコット(路面改修不備の為)  
1979 7/20 スウェーデン カールスコーガ 4位(安全走行) B・シーン
1979 7/28 フィンランド イマトラ 6位(安全走行) B・V・ドルメン
1979 8/12 イギリス シルバーストーン 優勝  
1979 9/2 フランス ルマン 3位(クラッシュ) B・シーン

1979年のマシンはYPVSが付いたYZR。このYZRが初期型TZ500のベースとなった。
まだ、パラレル4だ。言わずと知れた2年連続チャンピオン獲得。

月日 GP サーキット 成績

優勝者

1980 5/11 イタリア ミサノ 優勝  
1980 5/18 スペイン ハラマ 優勝  
1980 5/25 フランス ポールリカール 優勝  
1980 6/28 オランダ アッセン リタイヤ(フロントタイヤパンク) J・ミドルブルグ
1980 7/6 ベルギー ゾルダー 3位(サスペンショントラブル) R・マモラ
1980 7/27 フィンランド イマトラ 2位(安全走行) W・ハルトッフ
1980 8/10 イギリス シルバーストーン 2位(R・マモラに競り負け) R・マモラ
1980 8/24 西ドイツ ニュルブルクリンク 4位(タイヤトラブル) M・ルッキネリ

1980年からヘルメットをBELLからAGVへ変更。カラーリングは相変わらず
白頭鷲の黄黒だが、星条旗は消えた。
アッセンからマシンは両側シリンダを後方排気にしたYZRが登場。
フロントサスにアンチダイブが付いた。
この年のマシンが田宮のプラモデルになっている。
3年連続チャンピオン。そして「キング」の称号がついた。

月日 GP サーキット 成績

優勝者

1981 4/26 オーストリア ザルツブルクリンク リタイヤ(OW54の初期トラブル) R・マモラ
1981 5/3 西ドイツ ホッケンハイムリンク 優勝  
1981 5/10 イタリア モンツァ 優勝  
1981 5/17 フランス ポールリカール 5位(タイヤトラブル) M・ルッキネリ
1981 5/31 ユーゴスラビア リエカ 3位(タイヤトラブル) R・マモラ
1981 6/27 オランダ アッセン リタイヤ(ブレーキトラブル) M・ルッキネリ
1981 7/5 ベルギー スパフランコルシャン 2位(最終ラップに抜かれる) M・ルッキネリ
1981 7/12 サンマリノ イモラ 欠場(食中毒) M・ルッキネリ
1981 8/2 イギリス シルバーストーン 2位(最終ラップに抜かれる) J・ミドルブルグ
1981 8/9 フィンランド イマトラ 7位 M・ルッキネリ
1981 8/16 スウェーデン アンダーストープ リタイヤ(タイヤ交換の判断ミス) B・シーン

OW54スクエアエンジンのYZRが登場。
マシンカラーもインターカラー(黄色地に黒のストロボライン)から
ヤマハ本社カラー(白地に赤のストロボライン)に変わり、
ヘルメットも赤、PJ1オイルの「PJ1」が印象的だった。
つなぎは赤と紺になり、依然としてダイネーゼだ。
成績は不運続きでランキング3位に終わり、
M・ルッキネリに王座を譲った。
「やっぱりケニーは黄色と黒じゃなきゃダメ」なんて声もあがった。
この年のTBCビッグロードレースにはミシュランを履いた。

月日 GP サーキット 成績

優勝者

1982 3/28 アルゼンチン ブエノスアイレス 優勝(OW60)  
1982 5/2 オーストリア ザルツブルクリンク 3位(OW61、ずるずると後退) F・ウンチーニ
1982 5/9 フランス ノガロ ボイコット(路面状態の不備)  
1982 5/23 スペイン ハラマ 優勝  
1982 5/30 イタリア ミサノ 4位(ずるずると後退) F・ウンチーニ
1982 6/26 オランダ アッセン 2位(2ヒート目のタイヤミス) F・ウンチーニ
1982 7/4 ベルギー スパフランコルシャン 4位(タイヤトラブル) F・スペンサー
1982 7/18 ユーゴスラビア リエカ リタイヤ(エンジントラブル) F・ウンチーニ
1982 8/1 イギリス シルバーストーン リタイヤ(スタートミス、転倒) F・ウンチーニ
1982 8/8 スウェーデン アンダーストープ 欠場(イギリスでの骨折の為) 片山敬済
1982 9/26 西ドイツ ホッケンハイムリンク 欠場 R・マモラ

第1戦アルゼンチンのみOW54の発展型OW60で優勝、
第2戦からはV型4気筒のOW61で戦った。
長年ケニーと良い関係を持ってきた「GOOD YEAR」から「DUNLOP」へ
タイヤを変更した。
ヘルメットは赤色と黄色を使い分けていた。
成績は散々、2勝しか挙げられず、ノーポイントレースが5つもあった。

そして1983年・・・

月日 GP サーキット 成績

優勝者

1983 3/19 南アフリカ キャラミ 2位(スタート出遅れ) F・スペンサー
1983 4/3 フランス ルマン 4位(チャンバートラブル) F・スペンサー
1983 4/24 イタリア モンツァ リタイヤ(ガス欠) F・スペンサー
1983 5/8 西ドイツ ホッケンハイムリンク 優勝  
1983 5/22 スペイン ハラマ 2位(最終ラップ、周遅れの処理) F・スペンサー
1983 5/29 オーストリア ザルツブルクリンク 優勝  
1983 6/12 ユーゴスラビア リエカ 4位(スタート出遅れ) F・スペンサー
1983 6/25 オランダ アッセン 優勝  
1983 7/3 ベルギー スパフランコルシャン 優勝  
1983 7/31 イギリス シルバーストーン 優勝  
1983 8/7 スウェーデン アンダーストープ 2位(最終ラップ、オーバーラン) F・スペンサー
1983 9/4 サンマリノ イモラ 優勝  

OW61の発展型のOW70は絶好調だった。
アルミセミモノコックフレーム、リンク式サス。
ケニーはフロントタイヤを17インチと18インチを使い分けしていた。
チームにメインスポンサー「Marlbolo」が付き、
一転して真っ赤なマシンに真っ赤なつなぎに変身した。
結果、僅差でスペンサーにタイトルを持っていかれたが、
ケニー・ロバーツ31歳、まだまだ現役を去るには若すぎた。