特集 新芭蕉論 作品に見る芭蕉像
芭蕉の生涯「萩と月」 芭蕉の風狂「猿をきく人」 芭蕉と家族「魚の目は泪」
元録六年芭蕉は「閉閑の説」を書いた。その末尾に
…五十年の頑夫、自書、自禁戒となす…
と、自己の回想録と反省文を書いている。
…海女の子の浪の枕に袖しほれて、家をうり身をうしなふためしも多かれど…
注 海女の子の浪の枕に袖しほれて―遊女との契りに溺れて
「貝おほい」
芭蕉は遊女との契り、草庵の売却、家族との別居を告白している。「閉閑の説」は一般論ではなく、最後の旅へ出る前に残した芭蕉の「回想録」なのである。しかも冒頭の部分は、性の肯定、作品でいえば「貝おほひ」である。小唄やはやり言葉(俗語)をもちいて、自己の「青年期の性」を表現した作品であり「俗語」は表現方法であるところに「かるみ」と「不易流行」の原点をみることができる。
注 序文の中に・・・いひ捨られし句共をあつめ。・・・とある。これは流行語や俗語であり、この中に芭蕉のこころざしている「誠」を表現すること、即ち「かるみ」の原点をみることができる。又流行語や俗語の中に真実を含ませる「不易流行」の原点もみることができるのである。「かるみ」は心情の表現であり、「不易流行」は真実の表現である。
「貝おほひ」は芭蕉の「性」にたいする心情を、小唄やはやり言葉に託して表現したものである。その中の十番
鳴さハげにほんずつミの無常鳥 政定
ゆかしきや山の尾常ハなきゃるとの 和久
日本堤の無常の煙も。たちのぼる句のすがたハ。郭公の。とりなりもよくみえ侍るに。・・・空なきそうな。おつねの顔もずんどいやな気かれども。ひっぴけ。うんのめとうたふ小歌なれば。お常のしゃくも。捨がたくて。いずれのかちまけも。え定め侍らぬハ。こころぎたなき。判者なめり。・・・
注 日本堤ー吉原へ行く土手で嫖客の通路、近所に焼場がある。無常鳥ー吉原へ通う嫖客。
ここには俳聖芭蕉ではなく、風狂 将来に対する不安 刹那的無常感 放蕩 捨がたき情等、人間芭蕉の心情が表現されている。「貝おほひ」は芭蕉とその作品を理解するには無視して通過することのできない作品である。芭蕉が日本堤を通って吉原へ行ったとしても、俳聖芭蕉の名前に傷がつくわけではなし、作品も人間味がまして味わうことができる。二八才頃までに、実際に吉原へ行ったのか 他人から吉原の情報を得たのか 定かではない。少なくともこの選句と評語を書くには、吉原の経験か知識がなくては書けない。この句合の場合、遊女の空涙か、風狂人か、どちらをとるか、芭蕉はその答えをだしていない。自分の判定を頼りないと述べている。即ち「どちらか」ではなく「共存」なのである。これが芭蕉の人生であり、作品の根底に脈々と流れている。
注 「貝おほい」は芭蕉の作品の研究、鑑賞及び芭蕉自身の実像には、なくてはならぬ基本となる作品である。実際に「貝おほひ」を書くために、自分で情報や知識を集めたとすれば、寛文十二年より数年前から江戸へ通ってたことになる。芭蕉の健脚からすればそれも考えられる。七番の中に嫖客を吉原へ届ける馬子歌「小室節」や、十番の政定の句より日本堤から多くの寺や焼場から立ち上る煙が見えたことなど、実際に見たことが背景になっている。この数年間は俳諧で身を立てるため、江戸の俳人との交流、定住の準備が本来の目的であったであろう。又この期間には度々上京もして、俳人との交流、日本、中国の古典の研究等して、俳諧の基礎を築きあげていたのであろう。寒巌枯木俳聖芭蕉の虚像及び信者には「貝おほひ」、性、吉原は無用、タブーである。無視するか、避けて通るかどちらかである。その結果「貝おほひ」は他の作品ほど重要視されないのである。本来ならば処女作であるので、他の作品以上に重要視すべきであり、絶対に無視することはできない作品である。
延宝四年の江戸両吟集には当時を垣間見る次の連句がある。
君ここに紅の二布の下紅葉 信章
契りし秋は産妻なりけり 桃青(芭蕉)
延宝四年頃長男次郎兵衛が生れる。
霜を着て風を敷寝の捨子哉 (延宝五年)
衣服も夜具も少なく、冬の寒さに晒された捨て子同然の子供、敢えて捨て子と詠んだのは、世間並みの家庭を作ることが出来ないで、狂句三昧に浮かれ歩く自己を省みたのであろう。この句から一年前次郎兵衛の誕生を推定できる。
寿貞は翁の若き時の妾にて、とくに尼になりしなり。其子次郎兵衛もつかひ申被し由。浅談。
芭蕉の弟子野坡の談話を風律が「小ばなし」として記事にしたものである。
この記事と炭俵の連句
隣へも知らせず嫁をつれて来て 野坡
屏風の陰に見ゆる菓子盆 芭蕉
の野坡の句の関連性は多いに有り得る。恐らく内縁の嫁であろう。一家に・・・の句に繋がってゆく。
一家に遊女も寝たり萩と月
この句は、江戸で遊女との同居が背景となっている。芭蕉はこの経験を素材にして、俳文を作り、それを「奥の細道」の市振の紀行文として挿入したのである。月の如く遠い俳諧の道と萩の如く美しい遊女の面影が、一家即ち芭蕉の心の中に共存しているのである。
数ならぬ身となおもひそ玉祭
玉祭で詠んだ句に偽りの心情の入る余地はない。芭蕉は生涯の心の妻寿貞の魂に向い、・・・数ならぬ身と、世間の片隅で、人知れず小さくなって暮らさなくても・・・と心底から語りかけている。「…なおもひそ…」は「数ならぬ身」を否定している。生前寿貞は自身を「数ならぬ身」と思い、芭蕉は「遊女」の句を詠み、野坡は小ばなしの中で「妾」と語った。皆同一人物であろう.
延宝四年芭蕉は伊賀上野へ行き、甥の桃印(十六才)を連れて江戸に帰り養子とする。寿貞と次郎兵衛親子とは、形式上内縁関係の生活を続けてゆくことになる。
注 芭蕉の「光と陰」、即ち俳聖と実生活、双方を見なければ、芭蕉の実像及び作品の本質に触れることはできない。
一時雨礫や降りて小石川
刹那的享楽、恋物語、同居、出産、家庭の経済的負担等、除々に現実の重圧感が狂句師芭蕉の身に降りかかる。芭蕉は延宝五年より同八年まで小石川の水道工事関係の仕事に携わる。この頃までに長女まさ、次女おふうが生れる。
起きあがる菊ほのか也水のあと
痩せながらわりなき菊のつぼみ哉
の二句もこの頃が背景になっている。痩せて病気の女性がみごもって、懸命に生活する姿を詠んでいる。
以上が「芭蕉と女性」「芭蕉とその家族」の根拠である。
蜘何と音をなにと鳴秋の風
鳴くことができない蜘蛛、それは句を創作できない狂句師芭蕉の自画像である。恐らく水道工事の仕事が創作活動の時間を奪ってしまったのであろう。
かれ朶に烏のとまりけり秋の暮
枯枝に一羽の烏が止っている。身動ぎもしない。秋の暮、烏達が寝ぐらへ帰る頃である。これは創作意欲のエネルギーを内に含んだ狂句師芭蕉の自画像である。飛び立つ機会を静かに窺っている。この句は「かるみ」の原点であろう。即ち世俗の言葉を用いて、その中に詩や意味が含まれているる。やがて古池や蛙飛こむ水の音に繋がってゆくのである。
ばせを植てますにくむ荻の二ば哉
風が吹けば芭蕉の葉は破れやすい。荻は葉すれ音を好まれる。正に価値観の異なる者が同居しているのである。風狂と家庭生活の狭間で芭蕉の心は動揺する。両者が近ずけば互いに反発したり、傷つけ合うだろう。成長すれば更に激しくなる。両立するには距離を置くことが必要である、それは別居という形で始まる。芭蕉は深川の辺にある草庵へ移るのである。芭蕉の風狂はここから本性を現しはじめた。宗匠の地位も捨て、家族ために僅かの生活資金を残し、縁者、弟子、近所の人々に母子の生活の世話を依頼し、寿貞は尼になり子育てをしながら世間の片隅で、ひっそりと暮らしてゆくことになる。
髭風ヲ吹て暮秋歎ズルハ誰ガ子ゾ
櫓の声波ヲうつて腸氷ル夜やなみだ
前句の上五は「狂」の世界である。俳諧の世界を狂い歩く自画像であろう。冷たい秋風が吹く中、残してきた家族は途方にくれているだろう。自分自身への叫びと泪であろう。
古池や蛙飛こむ水の音
貞享元年秋、芭蕉は「野ざらしの旅」へ飛び込んでゆく。人生五十年と見れば、創作のために残された歳月は十年弱、しかも持病があったので、これより短く人生を考えたとすれば「水の音」の如く瞬間なのである。正に限り無い「俳諧の道程」と限り有る「人生」の狭間に、無常迅速の世界が展開してゆく。芭蕉が俳諧の旅へ飛び込んだことにより多くの名作が生れたのである。この句は「かるみ」の原点であり、簡単な言葉で構成されているが、その中に深い意味を含んでいる。
「野ざらし紀行」
千里に旅立て、路粮をつつまず、三更月下無何に入と云けむ、むかしの人の杖にすがりて、貞享甲子秋八月江上の破屋をいづる程、風の声そぞろ寒気也。
遠方への旅立ちであるが、食料も用意せず夜中、月の下で無心の境地に入る.。と言った古人の言葉を頼りに、隅田川の辺の草庵を後にしたが、古人と反対に風の声に寒気を聞くのである。
野ざらしを心に風のしむ身哉
秋十とせ却て江戸を指古郷
この二句を並べて置いたのは、非常に重要な意味がある。前句は死を覚悟の風狂の旅立ちの句、後句は家族に後髪を引かれるような心情の句である。江戸へ来て定住してから凡そ十年、実の故郷より江戸へ心が向くのは、残してきた家族の存在を否定することはできない。この二句を取合わせて、前方指向と後方指向の狭間で葛藤する芭蕉の心情を表現したものである。
注 風狂に関しては「幻住庵記」の中に、・・・いかにぞや、法をも修せず、俗をもつとめず、仁にもつかず、義にもよらず、唯若き時より横ざまにすける事ありて、暫く生涯のはかりごととさえなれば、萬のことに心をいれず、終に無能無才にして此一筋につながる。・・・と述べている。寛文年簡の回想であろう。
関越る日は雨降て、山みな雲にかくれけり。
霧しぐれ富士を見ぬ日ぞおもしろき
芭蕉の紀行文の特徴をこの句で、語り尽くしている。即ち虚構の表現方法を意図的に用い、その「虚」の中に「実」を含ませているのである。虚構は次の俳文へ繋がってゆく。
注 「常盤屋の句合」の十八番の評語の中に・・・作のうちに作ありて、虚の中に実をふくめり。・・・とある。「芭蕉の虚と実と」
富士川の辺を行に、三ツばかりなる捨子の哀げに泣あり。・・・
これは「作のうちに作有て」であり、この虚構の中に、「実をふくめり」として、江戸に残してきた子供がいる。その子供と、三ツばかりなる捨子が重なるのである。恐らく三年前生れた次女のおふうであろう。
あすやしほれんと、袂より喰物なげてとをるに
芭蕉は江戸に残してきた家族のために、少しばかりの金銭を用意したのであろうが、これを「袂より喰物をなげてとをるに」と書いたのは、家族を残してゆく愚行を強調する表現であろう。
猿をきく人捨子に秋の風いかに
猿の声を聞いて風流事に遊ぶ旅人、これは芭蕉の自画像である。旅を続けるか、或いは秋風の中で泣く子を助けるか。如何に、と自問する。芭蕉の心中は筆舌に尽し難いのであるが、
唯是天にして、汝が性のつたなきをなけ
と「此一筋」をゆく狂句師芭蕉の本心を晒け出すのである。
注 心を鬼にして、創作の旅を続ける。その心境を「栖去之弁」の中で、「風雅の魔心」なるべし。と述べている。
眼前
道のべの木槿は馬にくわれけり
後髪を引かれるような芭蕉の心。それを槿に喩える。その槿を突然馬が食べてしまった。これは決断の狂句である。一刀両断でもって、それを表現している。「野ざらし紀行」の中で最も重要な意味を持つ句である。芭蕉は家族を残して行く罪を背負い、創作の旅を続けるのである。家族と別居はできても、心の絆までも断ち切れない情念を詠んでいる。これは「かるみ」の句である。通常の言葉の中に、深い詩情をふくんでいる。それを汲取ることができれば、この句の真髄を体得できるのである。「貝おほい」の中に、予がこゝろざすところの誠はこの詩情のことであろう。
「心の奥の細道」
月日は百代の過客にして、行かふ年も又旅人也。舟の上に生涯を浮かべ馬の口とらえて老をむかふる物は、日日旅にして旅を栖とす。古人も多く旅に死せるあり。予もいずれの年よりか片雲の風にさそはれて、漂白の思ひやまず、・・・
文語体の文章はリズム感があり、一篇の詩を思はせる。正に文による芸術である。文語体のまま何回も読むことにより、詩を味わうことができる。口訳した文では、その味は消えてしまう。「野ざらし紀行」の冒頭の文に比べると、文芸的に完成度の高い文章である。
注 「蓑虫説跋」の中で「むかしより筆をもてあそぶ人の、おほくは花にふけりて実をそこなひ、みを好て風流を忘る。」と文芸論を述べている。
草の戸も住替る代ぞひなの家
前文に・・・住る方は人に譲り杉風の別墅に移るに、とある。句の内容から見れば,寿貞と子供のことではないか。元禄七年最後の旅の際、旅立った後寿貞母子が芭蕉庵に移り住んでいることと共通点がある。
行く春や鳥啼き魚の目は泪
水中の魚の目の泪は、外見上解らない。これは内面の心情を詠んだ句である。旅立ちの別れには、人それぞれの心情がある。芭蕉は家族との別れに、人知れず泪を流したのである。それが理解できなければ、この句の真髄に触れることはできない。
もし生きて帰らばと、定めなき頼みの末をかけ、その日やうやう草加といふ宿にたどり着きにけり。
実際に宿泊したのは、春日部であるが、家族に一歩でも近い宿に泊まりたい心情を表現するために、意図的な虚構を使ったのであろう。
心もとなき日数重なるままに、白河の関にかかりて旅心定まりぬ。
心の動揺が続き、白河の関にさしかかって、創作の意欲と構想が定まった。
西か東か先早苗にも風の音
上五は自由な発想である。早苗の上を吹く風の音に、風流を聞く。古人が歌に詠んだ風の音か、田園風景の彼方から聞こえてくる早乙女達の田植歌か、詠む自由、聞く自由がここにある。
象潟は憾むがごとし。寂しさに悲しみを加えて、地勢魂を悩ますに似たり。
象潟や雨に西施がねぶの花
雨の象潟の風景の中で、濡れた合歓の花を見ると、寂しさに悲しむ西施の面影が浮かぶ。その面影に寿貞が重なる。憾んでいるかも知れないと、芭蕉は悩むのである。
文月や六日も常の夜には似ず
荒海や佐渡に横たふ天の川
二句は互いに関連している。七夕の前日、創作の日々と異なり湧き上がる郷愁を、どうしても押さえることはできない。徘徊に身をまかせ、家族を省みない罪の意識、それを七夕に家族と遭うことの出来ない佐渡の流人の意識と重ね合わせる。後句は詠んだ日時、場所共に虚構である。これは心象風景である。家族と会うことの出来ない心情を、広大な自然と佐渡の歴史的回想を背景にして、詠んだのである。出雲崎の七夕の句としては日時異なり、「奥の細道」の場合は場所が異なっている。芭蕉の虚構による表現は家族との関係において、多くもちいられている。富士川の捨子、遊女との別れ、佐渡における望郷等、虚構の表現方法を用いて、実の心情を詠み込むのである。虚と実を混同すれば、芭蕉研究や作品鑑賞の際に、誤解される大きな要因になってしまう。
注 前句は江戸にいる寿貞を思う心情であろう。後句は年に一度も合うことのできない心情を佐渡の流人に重ね合わせて詠んだ句である。これは二句(正反対なる物事)の取合せである。即ち家族と風狂のはざまで苦悩する芭蕉の自画像を表現している。この二つの句は切り離すことはできない。芭蕉の風狂は次の遊女との別離に繋がってゆく。
一家に遊女も寝たり萩と月
市振の俳文は虚構である。「虚の中に実をふくめり」と述べた如く、江戸で遊女と同居、そして別居が背景となっている。芭蕉の創作の旅は、親知らず・子知らずの難所と同じである。・・・・・矢立取出て、燈の下にめをとじ、頭たゝきてうめき伏せば・・・・・(更科紀行)の如く創作の苦悩を書いている。遊女に慈悲深い僧と見られるが。「風雅の魔心」を持つ狂句師の本性故、その場を立ち去るのである。越後・市振の紀行文は意図的に省略され、芭蕉の [心の奥の細道] を表現したのである。 越後路の記述が非常に少ないのは・・・・・越後の国新潟と云所の遊女成し。この一節を強調するためか・・・推論であるが、寿貞の故郷は越後路近辺であろうか・・・・・
深川の芭蕉庵へ甥の桃印を移し,看病、没後 「奥の細道」の執筆、回想録「閉閑之説」を書き上げた.。一つの旅が終わり一つの旅が始まる。
麦の穂を便につかむ別かな
何時死ぬか解らない身を麦の茎に託した別れの句を詠み、芭蕉次郎兵衛の主従水いらずの、最初にして最後の旅立ちである。
注 表向きは主従であるが、親子水いらずの旅である。
人声や此道かへる秋のくれ
秋の暮、芭蕉は人声にふと振返る。それは寿貞の声か、或いは子供達の声か、時には悲しく、時には哀れみの声であったかも知れない。
秋ちかき心の寄るや四畳半
寿貞の訃報を受け、悲しみの中にあった芭蕉が詠んだ句。秋が近づいてくる如く、芭蕉の心も深い悲しみの中へ沈んで行く。同情を語らずして、静かに進行する座の雰囲気が、四畳半に漂っている.。
寿貞無仕合もの、まさ・おふう同じく不仕合せ、とかく申し尽くし難く候。・・・・・何事も何事も夢まぼろしの世界、一言理屈はこれなく候。・・・・・
芭蕉は家族を残して、ここかしこ浮かれ歩いて、俳諧の世界を徘徊した。寿貞は子供を育てあげた。「芭蕉の夢」の世界とは「狂句の世界」である。そのために寿貞に不仕合わせな生活をさせ、まさ・おふうにも同じ思いをさせている。そのことについて、一言も弁解の余地は無いのである。
数ならぬ身となおもひそ玉祭
と芭蕉は心の妻に向かって涙ながらに詠んだ。「もののあわれ」が滲みでている句である。
秋深き隣は何をする人ぞ
芭蕉は旅に病んで静かに身を横たえている。隣りの人は、今何をしているのだろう、どんな思いで暮しているのだろう。隣りの人に、まさ・おふうの面影を重ねあわせているのである。この句は「かるみ」である。通俗な言葉の中に、死に直面した芭蕉の心情が、走馬灯のように表現されている。
旅に病んで夢は枯野をかけ廻る
「何事も何事も夢まぼろしの世界」、と述べた如く、夢は狂句の世界である。それは全て、病気も、命さえもその中へとり込んでしまう。その夢は無限のエネルギーとなって、枯野でも、人の世 人の心の中までもかけ廻るのれある。それは数多くの作品なって後世まで読み継がれる。更に海も越えて行く。芭蕉の旅にはピリオドは無いのである。
家族は俳聖芭蕉の陰で、俳諧の表舞台から抹消されてしまったのであろうか・・・家族の存在をクローズアップさせなければ芭蕉作品の真髄を体験することはできない。遺言と伝えられているが、俳聖芭蕉の墓は、大津の義仲寺に忽然と立っている。俳聖芭蕉の虚像は、時代をかけ廻り、人の心の中をかけ廻る。俳聖に祭上げるのは、何時の何処の何方であろうか・・・住果ぬよの中、行処帰処、何につながれ何にもつれむ(元禄二年書簡)・・・・・の如く芭蕉は死後も枯野をかけ廻っているのである。
芭蕉の周囲には、数多くのもの書きがいたにもかゝわらず、芭蕉とその家族に関する正確な記録がないのは、俳聖芭蕉の虚像を作り上げるために都合が良いのである。そればかりでなく、書簡や資料も抹消されてしまったのであろう。特に延宝九年以前の書簡がないのは、抹消されたと考えられる。世のどこかに埋もれた芭蕉の資料があるならば、再考の視点でもって真偽にかかわらず発掘保存の必要性がある。 芭蕉の作品は「虚」の中に「実」を見ることにより、芭蕉の心の資料として生きてくるのである。
生前芭蕉は述べた。「作のうちに作有て、虚の中に実をふくめり」 と。芭蕉は痩せても枯れても一言の「虚」を云っていない。作品上で家族を表現する場合は「時と場所」は、虚構であるが、その中に家族にたいする「実の心情」をふくましている。虚構をみるのではなく、実をみることが、芭蕉の実像の決め手になるのである。
からびたるも、艶なるも、たくましきも、はかなげなるも・・・・・
「おくのほそ道」の跋に、柏木素龍が書いた冒頭の部分である。「芭蕉とその家族」に関する実の資料として、唯一の一節である。同時に「芭蕉とその作品」を理解するためにも同様である。からびたるも芭蕉であり、艶なるも芭蕉であり、たくましきも芭蕉であり、はかなげなるも「芭蕉とその家族」なのである。これは芭蕉の実像を正確に証明している唯一の資料である。どれか一つ欠けても真の芭蕉を語ることはできない。