芭蕉俳句私見

草の戸に茶を木葉かくあらし哉

 寒々とした草庵の中、火鉢の傍らで、茶を沸かすため、灰の上の木の葉を掻き集めていると、戸に吹き荒ぶ嵐の音が聞こえてくる。その音一人寒を侘びる狂句師芭蕉の自画像である。

狂句こがらしの身は竹斎に似たる哉

草枕犬も時雨るかよるのくゑ

 この二句を並べて置いたのは、重要な意味がある。芭蕉の風狂は、木枯しの如く徘徊するのであるが、外見上は竹斎に似ているが、心の中は旅寝の夜、犬の遠吠えが時雨の如く降り注ぐ、侘びの世界なのである。

海くれて鴨の声ほのかに白し

 ローソクの火が消えてゆくように、海が暗くなってゆく。暗黒の世界、それは死の世界の喩えである。黒が死を表すとすれば、白は生を暗示する。暗黒の海で仄かに聞こえるのは、生き物の息吹即ち「鴨の声ほのかに白し」と表現される。これは感覚的表現ではなく、詩的表現とみることができる。

水とりや氷の僧の沓の音

 「氷の僧」は感覚的表現ではなく、内面描写である。僧の心、それは世俗の欲望をたち切り、厳寒の中で修行する僧である。芭蕉も亦、何物にも妥協しない「此一筋」を行く厳しさに、それを重ね合わせている。沓の音は芭蕉の足音と共鳴している。

五月雨や色紙へぎたる壁の跡

 鬱陶しい五月雨の降る中,昔富豪であった館は荒寥としている。壁には色紙を剥がした跡が残っている.。栄枯盛衰の跡か、諸行無常の軌跡か・・・、現代絵画を彷彿させる。

閑さや岩にしみ入る蝉の声

 「閑さ」は心を静かにすること即ち「私意」を捨て、岩の如く頑固な固定観念を消すことである。それが可能であれば、蝉の声は自ずから心の中へ浸透する。人は自然を前にして、無言であれば、自然の方から語りかけてくる。透明な視線であれば、自然が見えてくる。無心であれば、物皆自得することができるのである。芭蕉の自然とは、無の感性で自然を体得することであり、季語の如く自然を形式的に定義ずけることではない。

波の間や小貝にまじる萩の塵

 実の小貝の美しさと、その小貝を塵のように積もった萩の花びらの美しさに見立てて、波の間に、両者が交叉する美の世界を詠んだのである。実の美と虚の美が共演して展開する美の世界である。

何に此師走の市にゆくからす

 世を捨てられない世捨人芭蕉は、雑踏の中を行く。、雑踏には自由があり、俗世間には束縛がある。「行きて帰る心」であろうか。

花と実と一度に瓜のさかりかな

 真桑瓜は同時に花と実をつける。「むかしより筆をもてあそぶ人の、おほくは花にふけりて実をそこなひ、みを好て風流を忘る」蓑虫説跋 これは芭蕉の花実論の根拠になっている。

あかあかと日は難面も秋の風

 真っ赤に燃えている太陽、落日寸前であろう。人生においても身の盛りなることは、一夜夢の如しである。無常迅速は芭蕉作品の根底に脈々と流れている。

石山の石より白し秋の風

 「秋の風」は透明で、白いのは、石山の石であるが、秋の風を透して見ると、白い石の美しさが強調される。秋の風と他の季節の風の微妙な透明感の差を、この句は詠んだのである。

粽結ふかた手にはさむ額髪

 粽を結びながら額に垂れ下がった髪の毛を、片手でかき上げる女性の仕草、それは強烈なエロティシズムを漂わせている。

闇の夜や巣をまどはしてなく衡

 芭蕉の創作の旅は、一寸先も見えない。旅に生き、旅を住家にしている。故郷伊賀上野にも、江戸にも、定住せず、故郷を心に想い、それを句に詠む。帰る所もなければ、行き着く所もない。命の続く限り果てしない旅を模索しているのである。闇夜の千鳥の鳴く声に、自分の詠む句を重ね合わせている。

青くても有べきものを唐辛子

 本来青い唐辛子は、青いままでいた方が良いのであるが、なぜ赤くなろうとするのか。実力のない者が実力者の仮面を被っている。その危険性を指摘した句か。

年々や猿に着せたる猿の面

 毎年々々同じ事を繰り返している。創作に於いて、猿真似は「百害あって一利なし」のことであろう。マンネリに落ち込んだ創作者の表情か・・・

塩鯛の歯ぐきも寒し魚の店

 冬の魚屋の棚、塩鯛の歯ぐきがむき出しになっている。これを「歯ぐきも寒し」と表現している。写実ではなく詩の世界である。現代詩の世界にもつうじている。

我に似な二ッにわれし真桑瓜

 限りなく俳諧世界へのめり込んでゆく我と、家族を犠牲にして罪の意識に悩む我、芭蕉の自画像には、この二つの我が同居している。一般の人は自分のように、家族を犠牲にしてまで、俳諧の世界に入ってはならない。と助言しているのであろうか。

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