バレエ「白鳥の湖」の研究


バレエ「白鳥の湖」のヒロイン,白鳥姫オデットはなぜ悪魔ロットバルトに呪いをかけられたのか?王子を誘惑するためオディールを王宮へ送り込んだ真の人物はいったい誰か?「白鳥の湖」の真の物語を解き明かします。


「白鳥の湖」の二つの空間


 バレエ「白鳥の湖」は,脚本によって微妙に異なりますが,原則としては以下の四つの場面から構成されています。

第一場:王子の成人を祝う宴
第二場:王子と白鳥姫オデットの出会い
第三場:王子の花嫁を選ぶ舞踏会
第四場:王子と白鳥姫オデットの再会と二人の死

 この場面構成からすぐに分かるのは,物語の視点人物たるジークフリート王子が王宮と夜の湖という二つの舞台を往来するたびに場面が転換するしくみになっていることです。

 この対照的な二つの空間が時間軸に沿って交互に配置されているため,物語の流れがメリハリの効いたものになり,ドラマティックな印象を与える効果が生まれています。

 二つの空間の対照性は,場面転換のたびに明るさが大きく変化する舞台照明に象徴的に表現されていますが,この他にも空間の性質の違いを指し示す要素がいくつか存在します。

 たとえば,登場人物の衣装もそのひとつです。第一場と第三場の王宮に登場する人物たちは,いずれもある程度この物語の時代設定に即した「現実的」な衣装を着ています。そして,この場面には「クラシック・チュチュを着けた女性」が登場しません(ただしオディールは例外)。一方,第二場と第四場すなわち夜の湖の場面には,逆に女性の登場人物は白鳥姫オデットをはじめ全員が白いクラシック・チュチュを着けています。

 本来は,オデットをはじめとする白鳥の乙女たちが着けている純白のチュチュは,彼女たちが悪魔ロットバルトの呪いによって昼間は白鳥・夜は人間という姿をとる,という登場人物としての設定そのものを表現していると考えるのが自然な解釈ですが,「物語上の現実」には属し得ない衣装をしかも「おそろい」で着けることで,夜の湖のほとりの場面が「物語上の現実」とは距離を置いた異界,幻想の中に入れ子状に存在する超幻想空間であるということが表現されているとも考えられます。つまり,人物の性質としてではなく,人物をとりまく環境の性質を象徴していると感じられるのです。

 このような衣装と場面の関連性は他のバレエ作品においては必ずしも明確ではありません。例えば「眠りの森の美女」のヒロインであるオーロラ姫は,王宮で開かれた彼女の誕生日の祝いの場面にクラシック・チュチュ姿で登場します。他の宮廷の女性たちが物語上の現実に即した衣装を着けているのに対して,彼女だけがチュチュを着て登場すると,単に彼女が主役の「バレリーナ」であるがゆえにこの衣装を着けているに過ぎない,という印象を受けてしまいます。

 「空間の性質の違い」を示唆するものは衣装の他にもまだあります。それは,物語と個々の踊りの関連性です。

 「白鳥の湖」の第一場と第三場は祝いの宴ないしは舞踏会であり,そこで展開される踊りはいわば「物語上の現実」に沿った行為であす。言い換えれば,物語を構成する写実的な要素に過ぎません。  一方,第二場と第四場のオデットをはじめとする白鳥の乙女たちには物語上は「踊る理由」がありません。白鳥たちの踊りは,少なくとも物語の写実的描写ではあり得ないわけです。

 ところが,それゆえにこそ,私たちは彼女達の踊りに単なる「踊り」以上の意味を感じることになるのです。

 つまり,第一場・第三場の踊りと第二場・第四場の踊りは,表現行為としての性格づけが異なっているため,二つの場面の次元の違い,つまり「物語上の現実界」と「物語上の幻想界」としての空間のレベルの差をいっそう際立たせていると言えます。

 さて,こうした「二つの空間」の対照性がこのような形で示される意味はいったいどこにあるのでしょうか。

 ひとつの考え方は,これがバレエという表現形式によって構成される物語空間に表現上の階層構造を与える役割を果たしている,という解釈です。

 バレエのような,台詞が一切なく踊りによってのみ物語るという形式は,映画や小説に比べるとその物語世界には入り込みにくいといえます。

 しかし,これまでに述べてきたように「白鳥の湖」の場合は,踊りをそのまま踊りとして観ればよい空間(第一場・第三場)と,踊りに何らかの意味が込められていると解釈せざるを得ない空間(第二場・第四場)に切り分けれているために,バレエの踊りには写実的な「踊りのための踊り」と,「踊り以外の何かを指し示す踊り」という二つのレベルがあることを知らず知らずのうちに観る者に受け入れさせる仕組みを作品世界の内部に備えています。

 これは,バレエの表現にそうした階層構造を与えることによって,私達が日常している「ことば」に近い機能をも与える(あるいは意識させる)という効果を生み出します。

 言い換えるなら,「バレエも比喩が可能だ」ということを間接的にアピールしているのです。

 むろん,バレエに比喩が可能であることは,バレエが成立するための大前提ではあるのですが,作品の構成の中にこうしたバレエの記号性をアピールする要素をもっているという意義はけして軽視できません。特に,論理的な思考能力が発達途上にある少年少女たちに対する効果は大きいと考えられます。


白鳥姫オデットの真実


バレエ「白鳥の湖」の物語の流れを形成する主要登場人物は,オデット・オディール・ジークフリート王子,そして悪魔ロットバルトです。

白鳥姫オデットと黒鳥オディールは主演バレリーナによる一人二役で演じられることもあって,きわめて対照的なキャラクターとしてとらえられる傾向にあります。

しかし,私はオデット=善,オディール=悪,という対立的なとらえかたは必ずしも当を得た見方ではない,と考えています。

そもそも対立という概念は「同じ要素を共有する」ことが前提です。したがって踊りの上で主演バレリーナという「肉体」を共有し,王子というパートナーを共有している二人が対立的な存在としてとらえられることはそう不自然ではありません。

しかし,オディールはオデットにとっては必ずしも「恋のライバル」ではない,という見方も成立し得ます。

悪魔とは本来は人間の魂の「悪魔的な部分」を抽出して擬似人格化したもので,「魂」つまり人間的な心をもつ存在ではありません。したがって,ロットバルトの分身たるオディールも,オデットから王子を奪おうとする一種の人間的な意思ないしは感情をもって行動しているわけではないはずです。

この解釈からすれば,オディールはオデットから「魂」を抜いた存在であり,バレリーナという形式のボディをもった「からくり人形」に過ぎません。そうなると,オディールはオデットに似た外見を持っているとはいっても,「対立する存在」とはいいにくいのではないでしょうか。要は「+」と「−」の関係ではなく,「+」と「ゼロ」の関係なのです。

オディールと王子のグラン・パ・ド・ドゥが第三場の舞踏会,つまり踊りが踊りとしての意味しか持たない空間に配されていることはきわめて象徴的です。華やかなディベルティスマンの後に置かれたこの場面の棹尾を飾る踊りは,オディールがオデットを装って王子を誘惑するという物語上の流れにかかわる踊りであるにもかかわらず,表面的には舞踏会に飛び入りで参加した姫君と王子の踊りでしかないのです。それはオデットの外見をもつ「踊り手」に過ぎないオディールの役割を示唆しているのかもしれません。

黒鳥オディールがオデットの「善」に対する「悪」ではなく,「魂の空虚」を意味する存在であるとするならば,オディールとオデットの関係は対立ではなく,むしろ包含であると考えることができます。この場合,それは言うまでもなくオデットがオディールを含む関係です。

オデットとオディールの対立が成立せず,オディールのもつ性質はもともとオデットにも備わっている性質でもあるということになれば,善と悪という対立は,本来オデット自身の内部に存在したものだという見方も可能になってきます。つまり,オデットが人間である以上,彼女の中にも悪魔的な要素は潜んでいるのです。

そこで思い当たるのが,「悪魔ロットバルトがなぜオデットを白鳥にしたのか」という謎です。 悪魔ロットバルトの目的が単にオデットをはじめとする乙女たちを苦しめることならば,白鳥のような美しい鳥ではなく,もっと醜い生き物にしてもよかったはずです。にもかかわらず,昼は白鳥・夜は人間という存在にした理由はなんなのでしょうか?

もっとも合理的な説明は,「オデットをはじめとする乙女たちが,そうなることを望んだ」というものです。

既に述べたように,悪魔は人間の悪魔的部分の擬似人格化であり,多くの物語では悪魔自身が悪業を行うのではなく,人間の悪魔的な望みを魂とひきかえにかなえてやる,という行動スタイルをとっています。したがって,オデットが心の奥底に秘めていた悪魔的な願いをロットバルトがかなえた結果が「白鳥の乙女」の誕生であったと考えてもおかしくありません。

では,オデットの悪魔的な願いとは何だったのでしょうか?それをさぐるには,オデットがかけられていた「呪い」をやぶる条件が強力な手がかりになります。

「呪い」をやぶる条件は,周知の通り,「まだ女性を愛したことのない男性が真実の愛を永遠に誓う」というものです。これは男性の愛を得たいと願う女性すべてにとって理想的な愛の形であるといえます。

オデットはこの真実の愛を得ない限り永遠に「白鳥の乙女」のままなのですが,同時にそれは,真実の愛を得るまでは,年を取らず若く美しい乙女であり続けることができるということでもあるのです。

つまり,「理想の愛を得るまではいつまでも乙女のまま待ち続けていたい」というのがオデットの「悪魔的」な願いだったわけです。

そして,この解釈をさらに拡張してゆくと,「花嫁選びの舞踏会に黒鳥オディールを送りこんだのも実はオデット自身の願いがかなえられたためだった」と考えることさえできます。

オデットとジークフリート王子は最初の出会いを果たした夜の湖のほとりの場面の最後で愛を誓い口づけを交わします。それにもかかわらず,オデットの呪いは解けませんでした。これは,オデット自身がジークフリート王子との愛が真実の愛であるかどうかに確信が持てなかったからです。

それゆえ,オデットは王子の愛の証拠を手に入れたいと願います。その結果,悪魔ロットバルトはその願いを汲み取ってオディールを王宮に送り込んだ,と解釈すればすべてのつじつまがあってきます。

したがって,オデットが終幕の場面で湖に身を投じるのは,王子の愛を試した自分の罪を悔い,「真実の愛」を追い求め続ける自分自身の存在の矛盾を解消するためであったと考えるのが妥当です。つまり,オデットにとって,死こそがおのれの真実性,人間としての存在意義を立証するための唯一残された手段であったわけです。そして,これはオデットの後を追って命を断つジークフリート王子にもあてはまります。

こうした解釈を行うならば,王子が悪魔と戦い,愛の力によって勝利し,オデットと結ばれるというハッピーエンドは物語の結構を根本的に崩壊させる,作品のもつメッセージを損ねるものであると言えるでしょう。


真実の愛の「かたち」


「白鳥の湖」の作品の構成からバレエのもつ表現形式としての重層構造が,そして登場人物の配置からオデットの愛と死の相克が明らかになったわけですが,両者から共通して浮かび上がってくるのは,人間とはおのれの肉体にしろ精神にしろ,とことん記号化せずにはいられない存在だということです。記号化とは自分をとりまく事物に意味を与えようとする行為であると同時に,一種の批判ないしは拒否の行動でもあるのです。ものごとをあるがままに受け入れるならば,「意味」は本来必要のないものです。

オデットの悲劇は,種の保存という自然界の生命体全般にあてはまる本質的な存在意義を拒否し,真実の愛という彼女が作り上げた幻想=記号に存在意義を見出そうとしたことにあります。それはバレエの表現の思想,つまり本来の自然な運動能力をあえて制限し,精神を表現するための「肉体ではない肉体」へと高めようとする考え方にも通じる点があるのではないかと私は思います。

男女の愛が性的な結合,そして新たなる生命の誕生を最終的な到達点とするものであることを,素直に受け入れることができるか否かは,人それぞれ個人差があることだろうと思います。結婚という一種の社会的な契約を結んだカップルたちは,それを現実的な行為として受け入れた人々だということになるでしょう。しかし,その一方で,愛の「かたち」は性的な行為以外にも存在するはずだ,と心のどこかで想い続けている人々もいるだろうと思います。

バレエ「白鳥の湖」はそんな人々の想う真実の愛の「かたち」を,あまりにも見事に表現しています。そして同時に,何事にも「かたち」を与えずにはいられない人間の深い悲しみをも物語っているのです。

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