黄泉に浮かぶ月

                   碓井央


   1

 改札口を抜けてから、優菜は旅行鞄を両手で持ち、苦労しつつ駅の出口近くに移動した。そして、とりあえず周囲の邪魔にならないような場所であることを確かめてから、鞄を下ろして駅舎の壁によりかかった。
 平日の昼下がりということもあってか、駅前は閑散としていた。客待ちをしているタクシーの運転手が大きなあくびをしているのが見える。
 観光シーズンの休日なら、きっとこのあたりも大勢の人でにぎわうのだろう、と優菜は思った。もっとも、彼女自身は避暑地として名高いこの街にきたのはこれが初めてだった。
 陽射しは強かったが、周りの空気は十月とは思えない冷たさだった。高地とはいえ、これほどの気温差は予想外のことだった。快晴で、風が吹いていないだけまだ幸いといえた。
 かすかなため息をついたとき、人影が近づいてくるのに気づいた。顔を上げると、柔和な顔をしたブレザー姿の男性が立っていた。五十、いや六十を過ぎているだろうか? 「人違いなら申し訳ないのですが……小野寺優菜さんですか?」
「は、はい……小野寺ですけど」
「ああ、そうですか。良かった。いや、ちょっと勘違いをしたというか……申し訳ありませんでした」
 男性の額と目じりには年相応のしわが刻まれていたが、背筋はまっすぐとしていて、全体の印象はまだ若々しい感じだった。
「栖鳳舞踊技術研究所の染野と申します。所長の指示でお迎えに来ました」
「あ……どうも」
「こちらに、沓掛陽子様からのお手紙を預かっています」
 彼は上着の内ポケットから封書を取り出して見せた。
「これは小野寺さんあてのものです。小野寺さんも沓掛様からのお手紙をもってらっしゃいますね?」
「は、はい……」
 優菜はバッグから封筒を取り出した。その表には「栖鳳舞踊技術研究所 御中」、裏には「安住野バレエ団 沓掛陽子」と肉筆で書かれていた。
「はい。では、この手紙はうちの所長と会っていただいたときに、その場で交換ということにさせてください。いちおう、これがお互いの身元確認ということですので」
「わかりました」
 優菜はうなずいた。
「よろしければ、荷物をお預かりしますが」
「ありがとうございます」
「ではこちらへ。車を停めてありますので」
 染野と名乗った男性は優菜から旅行鞄を受け取ると、先に立って歩き始めた。
 タクシー乗り場から少し離れた場所に、白いメルセデスのワゴンが停めてあった。
 染野は鍵を取り出してそのワゴンのハッチを開けると、優菜の鞄を丁寧に納め、それから後部座席のドアを開き、「どうぞ」と目で示した。
 優菜は会釈をして車内に乗り込んだ。それを確かめると、染野は静かにドアを閉め、反対側に回って運転席につき、エンジンを再始動した。
「二十分ぐらいで着くと思います。途中ですこし車が揺れるかもしれませんが辛抱してください」
「大丈夫です、お気遣いなく」
 優菜は自分の父親よりもさらに年配の男性が丁寧な口調で接してくれることに多少気恥ずかしさを覚えたが、染野自身に対しては好ましい印象を持った。
「恐縮です。では、車を出します」
 エンジン音がわずかに高まり、メルセデスはすべるように発進した。

 優菜がバレエ団の管理部に呼び出されたのは、おとといのことだった。
 受付に用件を告げると、担当者らしい女性がすぐにやってきて、優菜を管理部の事務室からはすこし離れた場所にある会議室へと案内した。
「あ、あのなにか私……まずいことをしてしまったんでしょうか?」
 優菜は廊下を彼女について歩きながら聞いてしまった。
「え?ああ、いえいえ、そんなことでは全然ありません」
 会議室の中にはいると、女性は優菜に椅子にかけるようにすすめてから言った。
「わたしは総務課の久川真弓といいます。はじめましてっていうのはおかしいけど、ふだんはダンサーのかたとはあまり接触がないから、覚えがないでしょ」
「はあ……」
 そうですね、とも言いにくかったので、優菜はあいまいにうなずいた。
「で、さっそく用件に入らせてもらいますけれど、実は理事長からのご指示で、あなたに研修を受けていただくことになりました」
「り、理事長……沓掛さんが?」
 優菜は驚いた。自分のような最下層の踊り手のことについて、バレエ団の代表が直に指示を出すなどということじたい信じられなかった。
「そうです。ちなみにこのことを知っているのは、沓掛理事長ご自身と、管理部長と私だけです。まあ、いってみれば秘密事項ってことですね」
 久川真弓は屈託のない口調で言った。
「で、さっそくうかがいたいんですが、小野寺さん、バレエ団以外のことで、なにか特別な予定とかありますか?」
「いえ……ただ、いまのところ来月の定期公演の練習が入ってますけど」
「そっちはとりあえずキャンセルってことにしてください。出番がなくなったっていう意味じゃなくて、練習のほうはちょっと中座してもらうっていうことで。はっきり言って、こっちの研修のほうがはるかに重要なんで。そしたらね……」
 手帳をめくる。
「明後日からってことで。研修の場所は、うちの施設じゃなくて、提携先のバレエ研究所です。それで、ここがちょっと特殊なんだけど、期間はとりあえず一週間ぐらいみててください。何月何日までっていう風に決まってないから」
「え……?」
「まあ、三日より短いってことはないと思うんだけど……で、長ければ二週間とかそれ以上になるかもしれないし」
「そ、その……具体的にはどういったことをする研修なんですか?」
「いや、それがねぇ……」
 久川真弓は苦笑して言った。
「わたしもよく知らないのよ。たぶん部長も同じ。いままで、みんなそうだったから」
 つまり、指示を出した沓掛陽子本人しか知らないということらしい。
 そのあとの話で、優菜は研修についてできる限りのことを聞き出そうとしたが、結局はっきりしたのは、管理部も研修の内容をほとんど把握していないということだった。
「何しろ、いままでこの研修を受けた連中って、全然その話をしないのよね。もちろん、研修があったこと自体は噂でみんな分かってるんだけど、中身についてはひたすら想像をたくましくしてるだけよ。ただ、言えるのは、この研修を受けるダンサーは主役級のひとが多いのよ。だから逆に根掘り葉掘り訊けないっていうのもあるんだけど。あなたは割と珍しいケースね」

 結局、研修については何も分からないままここに来ることになったのだ。
 主役級のダンサーが受ける研修なのだから、素直に解釈すれば、踊り手としての自分にチャンスが訪れたということなのだろうか。
 だが、優菜としてはまだ不安感が強かった。稽古着と靴を用意するように言われた以上、少なくとも踊りのレッスンがあることは間違いはないのだが……。
「……小野寺さん?」
「はっ、はい?」
 優菜はわれに返り、あわてて返事をした。
「申し訳ありません、少々うかがいたいことがありまして」
 染野がおだやかな口調で言う。
「なんでしょう?」
 優菜は少し緊張した。考えてみれば、出迎えとしてやってきたこの男性も、実は研究所のメンバーのひとりという可能性もあるのだ。
「何か苦手な食べ物とかはありますか?」
「は?」
 思わず間の抜けた声が出てしまう。
「実はわたしは料理のほうが本職でして……帰ったらさっそく晩の食事の支度をしなくてはならないんです」
「そうなんですか……」
 専属の料理人がいることも驚きだったが、またそれがこの男性だということもかなり意外な感じだった。
「ですから、あらかじめうかがっておいたほうがいいだろうと思いましてね」
「好き嫌いはありませんし、あと…アレルギーとかもないです」
「そうですか。実は所長が洋食一辺倒のひとなので……早い話、ヨーロッパあたりのホテルに泊まるようなものだと覚悟していただいた方がいいんですよ」
「ええと、あの……」
 あまり脂肪分が高そうな料理ばかりだと、ちょっと困るかもしれない。
 すると、染野は優菜の口調から察したのか、さらに付け加えた。
「ちなみにですね、ちゃんとダンサーのかた向けの献立という風に考えてはおりますので。カロリーがむやみに高いものは避けるようにしてますし、その点はご心配なく」
「そうですか」
 優菜はほっとした。
「そういうことなら、大丈夫です」
 やがて、車が舗装道路からはずれ、林道のような細い道へと入っていった。
「ここから先は、少々揺れますから」
「は、はい」
 速度を落としてはいたが、たしかに揺れた。道の凹凸が激しく、水溜りが残っているところもあった。だが、しばらく進んでゆくにつれて木々がまばらになり、ふいに大きな建物が目の前に現れた。
「……!」
 優菜はそれを見て思わず目を見張った。
 その古ぼけた洋館は、どう見ても「教会」
の建物だった。十字架こそなかったが、両開きの入り口の扉にはそれらしき彫刻が刻まれていたし、さほど高さはなかったが、いかにもという感じの鐘楼もあった。
 車はその礼拝堂のそばを通り過ぎて、L字型の配置で棟続きとなっている母屋らしき建物の玄関の前で停まった。
「お疲れ様でした。いま、荷物を下ろしますからね」
「あ、はい」
 優菜は車から降りた。
 染野はハッチをあけて旅行鞄を取り出すと、それを受け取ろうとする優菜に手を振って言った。
「ああ、玄関までお持ちします」
「すいません」
 ポーチの前の階段を昇ると、入り口の扉がかたん、と音をたてて少しだけ開いた。
 その開き方がなにか不気味な感じがして、優菜は思わずあとずさりそうになった。
 が、すぐに扉はさらに開いてゆき、女の子の姿が現れた。
 彼女は、真紅のちょうちん袖のワンピースに白いエプロンを着けていた。髪は両耳の後ろあたりで束ねられており、そこにレース飾りのついた白いリボンを結んでいる。派手ともアナクロともつかないその姿に、優菜はしばし見入ってしまった。
 すると、そばで染野が言った。
「家の中のことをやってもらっている輝久美です。家政婦というのもおかしいですが、まあ役どころとしてはそれと同じです。輝久美、こちらは今日からこちらで研修をされる小野寺優菜さんだ」
「いらっしゃいませ、小野寺様」
 輝久美と呼ばれた女の子は、深々と丁寧に頭を下げた。
「あ、はい。よろしくお願いします」
 優菜も頭を下げた。
「お部屋までご案内して。わたしは車を入れてくるから」
 輝久美は返事のかわりにこくりとうなずき、染野から旅行鞄を受け取ると、優菜に向かって「どうぞ」
というように軽く頭を下げた。優菜も会釈を返し、輝久美のあとに従った。

 内部は人の住まいとしてみた場合にはかなりの広さだった。玄関から入るとそこは2階の天井まで吹き抜けになっていて、さながら高級ホテルのロビーのような印象だった。その奥には1階、2階の部屋のドアが並んでいるのが見え、螺旋階段が2階の手すりつきの廊下につながっていた。
「こちらでございます」
 優菜にあてがわれたのは、1階のいちばん西側の部屋だった。中はこれまたホテルのような内装で、優菜自身の感覚だと、自宅の部屋の2倍以上の広さに思えた。天井が高いせいもあっただろう。
 すると、輝久美が旅行鞄を部屋の隅においてから、優菜のほうを振り向いていった。
「お召し替えになりますか?」
「え?……ええと」
 そんなことは考えていなかったので、優菜は一瞬とまどった。いま着ているワンピースは出かけるときの服としてはいちばんまともだと思っていたし、着替えると普段着のような格好になってしまう。最初に挨拶するときにそれはどうかとも思った。
 優菜は自分の服をそれとなく点検してみた。とくに汚れてはいなかったし、すくなくとも相手に不快感を与える状態ではなかろうと思った。
「あの…すいません、このままで」
 優菜はおずおずと言った。
「さようでございますか。それでは晴人さまの書斎のほうにご案内いたしますので、おいで下さい」
 ハルトさま?
 一瞬、それが誰のことかわからなかったが、すぐに、この研究所の代表者の名前なのだろうと気づいた。
「はい」
「それでは、こちらに」
「あ、ちょっと待ってください」
 優菜はバッグから久川真弓に渡された封書を取り出した。
「……よろしいですか」
「ええ」
 優菜は輝久美のあとにしたがって螺旋階段をのぼり、2階の廊下を経ていちばん端の部屋の前まで来た。
 輝久美がドアをノックする。
「晴人さま、小野寺優菜さまがいらっしゃいました」
『どうぞ』
 ドアの奥から男性の声がした。
 輝久美はドアを開き、優菜に眼でどうぞ、と告げた。
「……失礼します」
 優菜は部屋の中へと入った。
 広々とした部屋の半分ほどは板張りのままのがらんとした空間になっていて、その奥に置かれた大きめの書斎机に男性が向かっていた。  彼は立ち上がり、優菜のほうへ向かって歩み寄ってきた。
 スリムな体型のうえに無地の黒いセーターとズボンを着けているので、ひどく線の細い印象を受けた。が、目の前に近づいてみると、肩幅もしっかりとあり、無駄な筋肉がついていないだけであることが分かる。
 肌の色が同じ日本人とは思えないほどに白く、貴公子然とした端正な顔立ちをしていた。
 想像していたよりも、かなり若い。少なくとも三十代ではあり得ない、と思った。
 と、男性がすこし当惑したような顔を浮かべているのに気づいた。
「あの……?」
「あ、いえ、すいません。よくいらっしゃいました、小野寺さん」
 男性が手をさしだした。
「あ、はい……はじめまして、小野寺優菜です」
 優菜もぎこちなく手を出し、握手をする。
「芳村晴人です。よろしくお願いします」
 指が長いひとだな、と握り合った手を見ながら思う。
「こちらこそ……」
「ま、どうぞこちらに。おかけになってください」
 書斎机のわきにある応接用のセットのそばに移動し、ソファをすすめられる。
「なにか飲み物でもどうでしょうかね。紅茶とかはいかがです?」
「あ…はい。いただきます」
「輝久美」
「はい。かしこまりました」
 ドアのそばにひかえていた輝久美は一礼して部屋を出てゆく。
 晴人は自分もソファにすわりながら言った。
「いちおうここの所長ということになっていますけれども、バレエに関わる人間はぼく一人ですので、この肩書きは実はあまり意味がありません。あとですね…個人的なことで申し訳ないんですが、ぼくはあまり苗字で呼ばれるのが好きではないんです」
「はあ……」
「ですから、できれば下の名前のほうで呼んでいただけると助かります」
「でも、その……」
 優菜はすこし当惑しながら晴人の手元を見つめた。
「わたしは指導を受ける生徒という立場ですから」
「いや、それは少し違います。ああ、そういえば手紙があるんでしたね」
 晴人は立ち上がって書斎机に歩み寄り、引き出しから封筒を取り出した。
「もって回ったやりかたで申し訳ないんですが、いちおう習慣になってましてね。これがあなたあての沓掛さんからの手紙です」
「あ、それじゃこちらを……」
 優菜はふたたびソファに座りなおした晴人に封筒を交換した。 「たぶん、今この場でそれを読まれたほうが、あなたの立場がはっきりするでしょう」
「そうですか……」
 優菜はちょっとためらったが、封筒を端を破り、中身をとりだした。
 そこにはこう書かれていた。

 栖鳳舞踊技術研究所における研修に関する覚書

一、この書面は、貴方が、貴方と安住野バレエ団代表沓掛陽子の合意にもとずいて、栖鳳舞踊技術研究所代表芳村晴人氏のもとで研修を行う権利と義務を有することの証であり、あなたの身分と待遇を保証するものです。

一、研修の内容に関しては、芳村晴人氏の指示にしたがって下さい。ただし貴方には、研修の内容について明らかに不適切・不合理と思われる事態が発生した場合には、安住野バレエ団に対し管理部を通じてその内容を報告し、状況の改善を求める権利があります。

一、貴方はこの研修を、貴方の個人的な意思によっていつでも放棄する権利があります。また、体調その他のやむをえない理由によって一時的に研修を中断することが可能です。ただし、その場合には安住野バレエ団の管理部担当者に状況を説明し、許可を得る必要があります。中断する正当な理由が消滅した場合には直ちに研修に復帰、継続してください。

一、芳村晴人氏は一方的に貴方の研修を中止することはできせん。研修の中止にはつねに貴方との合意が必要です。

一、この研修には定められた期限はありません。研修の終了は貴方個人の意思と判断によって決定されるものとします。

小野寺優菜殿                                安住野バレエ団 代表理事 沓掛陽子

「…………」
 優菜は文章を一通り読み終えたものの、まだ自分の置かれた状況をはかりかねていた。
「だいたいお分かりいただけましたか?」
 晴人が微笑をたたえて問いかける。
「その……研修の目的が、これにははっきりと書いていないんですけれど」
「具体的なものは今の段階では何もないんですよ」
「何もない?」
 優菜は眼をしばたたかせた。
「ええ」
 晴人の何でもないことのようにうなずく。
「いつものことなんですけどね。沓掛さんはぼくに対しても明確な注文を出してくれないんです。あの人の言葉をそのまま借りると、『一皮剥けた状態にして返してちょうだい』と言われるだけで」
「はあ……」
「こちらに来られるダンサーの皆さんについては予備知識はほとんどいただけませんしね。せいぜい、名前と年齢とバレエ団での出演実績ぐらいで。つまり自分の目で確かめろということのようです」
「あの……研修の期限がない、とも書いてあるんですけど」
「ええ。そこにも書いてあると思いますが、あなた自身で決めるしかありません。自分の中から新しいなにかを発見したという確信を得た段階で研修を終えられるというのが理想だと思います」
「…………」
「実を言うとですね……失礼ですが、ちょっとびっくりしてしまいまして」
「え……?」
「いや、あなたのような若い方が来られるという風には全然聞いていなかったので……まあ、それはこちらの問題なんですが」
「はあ…」
 コンコン、とノックの音がした。
「どうぞ」
「失礼いたします」
 ドアが開いて、ふたたび輝久美が姿を見せた。陶製のポットとカップを乗せたトレイを手にしている。
「まあ、今日は夕食をとられたら、ゆっくり休んでください。もちろん、すこし身体を動かしたいということなら、練習室もありますから、自由に使ってください。1階の東端がそうですから」
「はい」
 輝久美がテーブルの上にカップを置き、ポットから琥珀色の液体を注ぐ。
「朝から晩までレッスンというわけにもいきませんから、大体の目安として朝に1時間、午前中に2時間、午後に2時間ぐらいと思ってください。まあ、はじめのうちは、普通にというか……オーソドックスにやりましょう。あと、資料室がこの部屋の隣にあってバレエに関する書籍やビデオがそろえてあります。パソコンもありますし、そこからネットワークで情報の検索もできます。空き時間にでも利用してください」
「分かりました」
 晴人が説明しているうちに輝久美は紅茶を入れ終わり、テーブルから離れるとお辞儀をして部屋から出て行った。
「……ところでひとつお断りしておきますが」
 晴人はその後姿を見送ると小声で言った。
「あの輝久美の服なんですけれどね」
「は?……はあ」
 唐突に話題が変わったので、優菜は思わず晴人の顔を見つめた。
「あれはぼくの趣味じゃありませんから」
「あ、そうですか……」
 わざわざそう言いたくなる気持ちは分からないでもなかった。真っ赤なメイド服というのは確かにすこし常軌を逸している気がした。
「受け答えも堅苦しくて、ちょっと変わった子に見えるでしょうが、あまり気にしないで下さい。仕事はきちんとしてますし、公私のけじめはつけられる子ですから。この家の中で分からないことがあれば、なんでも遠慮なくあの子に聞いてください」
「はい」
「あ……お茶をどうぞ。冷めないうちに」
「いただきます」
 優菜はカップに口をつけながら、さっきよりも緊張がほぐれているのを感じていた。分からないことだらけの研修ではあるが、まずはこの状況に慣れてゆかなければならない。

 日が沈む頃、一階の食堂に案内され、大きなテーブルに晴人と向かい合わせで夕食をとった。
 染野の予告通り、レストランのような本格的な洋食だった。贅沢なメニューというわけではなかったが、ふだんの食事にくらべると数段高級な料理を食べている気がした。染野の料理人としての腕は相当なものではないか、と優菜は思った。
 ただ、輝久美の給仕を受けながら、晴人とふたりきりで食事をとるというのはさすがに緊張した。
「まあ、街にある家庭的な洋食屋で食事してるぐらいに思って下さい。ぼくもテーブルマナーなんてまともに習ったことはありませんし」
 しかしそう言う割には晴人の食べ方は無駄な動きがなく、いかにも食べなれているという感じだった。
「でも、料理の内容はそう悪くはないでしょう?」
「ええ、とてもおいしいです」
「このあいだ沓掛さんがここに来たときも、けっこう好評でしたからねえ。あのひとはそれなりに舌が肥えてるはずだから、そういう意味ではかなりいい線行ってるんでしょう」
 優菜はすこし驚いた。 「……理事長がここにいらっしゃることがあるんですか?」
「ああ……まあ、契約更新のときとかね。8月が契約更新の月なんですよ。ですから避暑もかねてというわけでしょうね」
「そうですか……」
 すると晴人が意味ありげに微笑んだ。
「ぼくと沓掛さんの関係……気になるでしょう」
「あ、いえ、べつにそういう意味では……」
 優菜は口ごもった。しかし、たしかにこの青年が沓掛陽子にとってどれだけの意味をもつ人物なのか、気にならないといえば嘘になる。
「簡単にいいますとね、ぼくらはある人物によってほとんど強引に引き合わされたんですよ。で、この研究所の設立の話がそこから始まって……ここ、いちおうは会社なんですよ。染野さんと輝久美はれっきとした従業員で、給料を払っています」
 つまり、ふたりを引き合わせた人物は、すくなくとも沓掛陽子に対して相当の影響力をもっているということなのだろう。この世界ではかなりのやり手の人物として通っている彼女に、それだけの話をもちかけ、まとめあげるだけの力を持った人物……。
「ふふ……まだなんとなく納得されていないかな」
「いえ、そんな……」
「ぼくはかなり若く見られますしね……このあいだなんか、街中で高校生に間違えられたました。さすがにショックでしたよ」
 たしかに高校の制服を着せてしまえば、それでも通らなくはないと思えた。若々しいというよりは、少年のような稚なさを残した面立ちなのだ。
「どうです、いくつぐらいに見えますか?」
「え……そうですね」
 こういう質問はけっこう厄介だ。女性の場合は若く言っておけば間違いがないが、男性の場合は必ずしもそうとは限らない。現に、若く見られてショックだったと彼自身が言ったばかりだ。
 どう考えても、三十過ぎということはあり得ないと思った。ただ、容貌は瑞々しいほどの若さを持っているのに、その表情や話し方にはすこし奇妙とも思えるほどに老成した雰囲気がある。それがなければ二十二、三と言いたいところだった。
「二十六か七……」
「……なるほど」
 晴人はうなずいた。
「じゃあ、そういうことにしましょう」
「え……そういうことって」
「優菜さんの眼から二十六ぐらいに見えたんですから、そう思っていただければいいですよ」
「そんな、正解は教えてもらえないんですか」
 優菜はすこし不満を込めて言った。
「年齢というものは案外と無意識の偏見を生みますからね。その数字でもって、相手の中身を測ってしまうという」
「でも、晴人さんはわたしの齢をご存知なんでしょう」
「二十二でしたよね?」
「はい……」
「こんなことを言うと失礼かもしれませんが……ぼくははじめてあなたを見たとき、未成年のひとをよこすとは沓掛さんもずいぶん大胆だな、と思いましたよ」
「わ、わたし……そんなに子供っぽいですか」
 優菜は思わず頬に手をあてた。丸顔気味で、バレリーナの理想と言われる卵形の顔ではないことが、以前から気になっていた。
「いや、決して子供っぽいというわけでは……可愛らしいお顔ですよ」
「…………」
「たとえばオーロラ姫やマリーは十代の女の子ですから、少女っぽいムードというのは決してマイナスじゃありません。オデットだって、設定的には年齢不詳だけれど、十代の女の子でもかまわないわけでしょう」
「それは……まあ」
「容姿についてはもっと自信を持ったほうがいい……うん、そういう面での工夫は必要ですね」
「工夫?」
「いえ、これはぼくのほうの問題です。まあ、そのあたりはまた明日にでもね。あ、そうだ……明日は早朝にすこし練習をします。さっきも言いましたが、1階に練習室がありますから、そこに6時半に来てください。いちおう、ここではそういう習慣になってるので……朝は弱いとか、そういうのはありますか?」
「いえ、大丈夫です」
 早朝の練習は、優菜自身いつもやっていることだった。
「そうですか。それなら良かった。楽しみにしてますよ」
 ダンサーとしての能力を見るのを楽しみにしている、という意味なのだろうか。いずれにしても気を引き締めていかなければ、と優菜は思った。
   2

 翌朝、まだ日が昇る前に優菜は眼を覚ました。
 部屋の中の状況が自宅のそれとはまったく違うことに一瞬違和感を覚える。が、すぐに昨日から研修に来ていることを思い出す。
「…………」
 枕元をつい見てしまうが、そこにはいつもの目覚まし時計はない。うろうろと視線を部屋の中にさまよわせてから、ようやくベッドのそばのテーブルに自分の腕時計が置いてあるのを見つける。
 5時半を少し回っていた。
 もう一度毛布の中にもぐりこみたくなる誘惑を振り切って、ベッドから降りる。そこで、6時半から朝の練習があるということを思い出す。
 だんだんと頭の中がはっきりとしてくる。
 まず、顔を洗わないと。
 優菜はタオルを手にとったが、ふと、このまま部屋の外に出て行っていいものだろうか、と気づく。ドアの近くにある姿見を見る。パジャマ姿の自分が映っている。しかも髪が多少乱れている。
 洗面所はすぐ近くにあったはずだが、万が一、輝久美あたりとばったり出会ってしまったら……。
 結局、いったん着替え、髪を少しとかしてから部屋を出る。
 案の定、1階のフロアを掃除している輝久美の姿が見えた。
 こちらに気づいてお辞儀をする。
「おはようございます、優菜さま」
「おはようございます」
 会釈を返し、そそくさと洗面所に移動する。
 顔を洗い終えてから部屋に戻り、肌の手入れをしてから髪を両側に三つ編みにして後ろでまとめる。
 時計を見るとまだ六時を少し回ったところだったが、稽古着に着替えて練習室に行くことにした。早めに行っておくに越したことはない。
 が……。
 練習室のドアに近づいてみると、すでにその隙間から明かりが洩れていた。どうやら先を越されてしまったらしい。
 念のためにノックをしてみると、『どうぞ』という声がした。
 優菜はしかたなくドアを開ける。中には昨日と同様に黒のシャツとズボンを着けた晴人がいた。
「おはようございます」
「おはよう……おや、どうかしましたか?」
 晴人はすこし首をかしげ、微笑みを見せながら言った。
「え……?」
「いや、なにかしょんぼりした顔をしているから」
「あの、本当ならわたしが先に用意をしているべきでした……申しわけありません」
 すると晴人は、なんだそんなことか、というような表情で軽く手をふる。
「いや、今日はたまたま少し早く目がさめてしまったんですよ。6時半って言ったわけだし、なにも問題はないでしょう」
 とはいえ、先に部屋に来て暖房を入れておくぐらいのことはすべきだった、と優菜は思った。
「その稽古着、いつも使っているんですか?」
「え?……ええ、そうです」
 一瞬、なにか問題があっただろうかと思い、着けているレオタードを見回す。
「ストイックな感じですね。たしか稽古着は自由だって聞いていたけど」
 レオタード自体は黒いシンプルなデザインのもので、たしかに地味といえなくはない。
「あなたの、ちょっと張り詰めた雰囲気には似合っている気もするけど……たまには気分を変えてみるのもいいかもしれませんよ。あとでちょっと選んでもらいましょうか」
「選ぶ?」
「ええ。必要上、いろいろと衣装が置いてあるんですが、稽古着として使えるものもありますから。あなたに似合うのがありますよ、きっと」
「あの……でも」
「明るい気分で練習するためにも、もう少し可愛い稽古着にしたほうがいいですよ」
「は、はい……」
 笑顔で言われてしまうと、優菜としてはそれ以上逆らうことはできなかった。
「それはそれとして……それじゃあまずウォームアップをしましょうか」
「はい」
 優菜は晴人の指示にしたがって、身体の各部のストレッチを行った。硬かった筋肉が少しづつほぐれてくる。
 引き続いて、バー・レッスンがはじまった。ただ、それはふだんのように音楽に乗って順に反復されてゆくものではなく、むしろ晴人が優菜の動きをひとつひとつチェックしながら、その身体能力を調べ上げる作業とでも言ったほうが実態に近かった。
「脚、もう少し開くかな……?」
「は、はい…」
「もっと甲を伸ばして……そう。うん、いいですよ」
 晴人は、優菜の腰や足首に手を添え、限界ぎりぎりのところまでを身体の各部の動きを試してゆく。肉体的にもきつかったが、異性である晴人がほとんど密着するような体勢で自分の身体に触れているということもあり、優菜の神経はずっと張り詰め続けていた。
 柱時計が7時を告げ、晴人が「とりあえずここまでにしておきましょうか」と言ったときには、首筋と背中はすでに汗だらけになっていた。
「ゆっくりシャワーを浴びてから、食堂にいらしてください」
「は、はい……ありがとうございました」
 優菜は自分の息がすこし上がり気味であることを意識しながらお辞儀をすると、練習室を出た。

「ここが衣装室になっているんですよ」
 午前中の練習の前に、優菜は2階の端にある部屋に案内された。
 ドアを開けると、衣装箪笥とおぼしき棚類が図書館の本棚のように並んでいた。
「たくさんあるんですね……」
「けっこうかさばるものが多いですからね……まあ稽古着に使えそうなのは、このあたりかな」
 晴人は棚のひとつに近づき、引き戸を開けた。中には色とりどりの衣装が下がっていた。
「これは主に創作系の作品で使った衣装ですね。かなり古いのもあるけど、保存はしっかりしているから」
「あの……でも汚れると大変じゃないですか?」
 練習中は本番の舞台と違って汗をかく量が違う。優菜はどちらかといえばそれほど汗をかかないほうだったが、それでもこの衣装が汗で濡れてしまうのは間違いなさそうだった。
「大丈夫ですよ。どちらにして手洗いするものだし、輝久美がそのあたりはフォローしてくれます。彼女はこういう服に関する洗濯については専門家と言ってもいいから……これなんかどうですか。サイズの調整もしやすそうです」
 取り出されたのは、衣装としてはシンプルなデザインの白いチュチュだった。スカートの部分が一般的なクラシックチュチュのように広がっておらず、普通のミニスカートのようになっている。ただ、やはり稽古着というよりは舞台衣装という感じではあった。
「……ちょっと恥ずかしい気がします」
「まあ、朝も言いましたが、すこし気分を高めるぐらいの服を着けてみるのもいいものですよ。だまされたと思って着てみてください。支障が出るようなら考えますから」
「はい……」
 結局、言われるままにその衣装を着けることになった。

 寝室で着替えをした優菜は、姿見で入念に自分の全身を見直してみた。
 胸元が予想していたよりもかなりあらわになっているのが気になった。乳房のほぼ上半分のラインが見えてしまっている。両肩がゆったりとした袖でおおわれているだけに、余計にその部分が強調されているように思えた。その一方で、半透明の生地を数枚重ねた短いスカートは妙に幼い感じに見えた。
 やっぱりこの衣装はやめさせて欲しい、と申し出るべきだろうか……。
「…………」
 だが、迷っているうちに、練習の時間が近づいてきてしまった。
 しかたがない。優菜は軽くため息をつくと、寝室を出た。
 練習室に向かう途中で、玄関のそばでスーツ姿の年輩の男性と談笑している晴人が見えた。
「あ、ちょうど良かったですね」
 晴人が気づいて言った。
「優菜さん。こちらはイゴール大瀧さんです。レッスンのときのピアノ伴奏をしていただいてます」
「はじめまして、大瀧です」
 腰が曲がり気味のその老紳士は、豊かなあごひげたくわえた顔を崩し、手を差し出した。彫りの深い顔立ちをしており、明らかに西洋の血が混じっているようだった。
「……小野寺優菜です。よろしくお願いいたします」
 優菜も手を差し出して、握手を交わす。
 事前になにも聞いていなかったこともあって、優菜はすこしとまどっていた。が、考えてみれば、伴奏者は本格的な練習には不可欠ではある。 「かつてプロのピアニストとしてご活躍になっていたこともあるんですが、今はもう引退なさって、この近くに悠々自適の生活をなさってるんです。それを無理をしてぼくがお願いをしてましてね」
「いやいや、こんな年寄りでも少しは役に立てるようで嬉しいですよ」
 大瀧は目を細めて笑った。
「それじゃ、さっそく練習室のほうへ」
「ええ」
 晴人と大瀧は肩を並べて練習室に向かい、優菜もそのあとにしたがった。 「それにしても晴人さん、今度のかたはかなりお若いようですな。うちの孫ぐらいかな?」
「いや……もうすこし上ですよ」
「ほう、そうですか」
 優菜はそれを聞きながら、やはりもう少し大人びた感じの衣装にさせてもらうべきだった、と後悔していた。

 練習が始まってから、優菜は朝にくらべて、自分の身体が軽く動くようになっているのを感じていた。大瀧という第三者がいたこともあって、晴人に対するいわば個人的な緊張がやわらいだのも理由のひとつだっただろう。だが、それとは別に、なにか言いようのない奇妙な興奮を身体の中に感じていた。
 舞台衣装を流用した稽古着のせいもあったのかもしれなかった。ただ、晴人の言うところの『明るい気分』とは少し違っていた。それは心地よさと恥ずかしさが背中合わせになっているような感覚だった。
 途中の休憩のときに、大瀧が優菜に向かって感じ入ったように言った。
「これまでの何人かの踊り手のかたとご一緒させていただきましたが……あなたはなんというか、独特の魅力をお持ちですな」
「……そ、そうですか」
 面と向かってそんなことを言われたことがなかったので、優菜はすこし照れくさかった。
「花のつぼみが開く直前のせつなさと言いますか……早く開くのを見たい、でもこのままでもいいのかもしれない、そう思わせるような美しさを感じます」
「大瀧さん、それじゃまるで口説き文句ですよ」
 晴人が笑って言った。
「時間が40年逆戻りしてくれたら、わたしも勝負に出たでしょうな」
 大瀧も笑う。
「玉砕する確率のほうが高かったでしょうが」

 練習が終わると大瀧は染野が運転するメルセデスのワゴンに乗り込み、帰宅した。優菜はシャワーを浴びた後、着替えをして晴人と昼食をとった。
「どうですか、ふだんの調子で身体を動かせましたか」
 昼食の席で、晴人は優菜に問いかけた。
「そ、そうですね」
 優菜はためらいがちにうなずいた。正直に言えば、ふだんと同じというわけではなかった。ただ、身体そのものはある程度自分の思い通りに動いていたはずだった。
「まだ、あなたの踊り手としての力をすべて見せてもらっているわけではありませんから、はっきりと言えませんが……沓掛さんはなにかあなたに可能性を感じられてこちらに研修、ということになったんだろうと思います。その直感は間違ってはいないと思いますね」
「…………」
 本当にそうなのだろうか、と優菜は思った。すくなくともこれまでのバレエ団での実績は、数多くいる同世代のダンサーたちとそう変わるところはない。というより、むしろ評価は低いはずだった。群舞にもソロにも向かない、中途半端な踊り手……。
「あなたの力を解き放つための鍵が、どこかにありますよ」
 晴人は穏やかに、だが自信に満ちた口調で言った。
「もちろん、あなた自身で見つけなければなりませんけどね」

 午後の練習がはじまるまでのあいだ、優菜は2階の資料室にいた。
 そこには晴人の言っていた通り、各種の書籍・文献、そして映像資料が数多くおさめられていた。これだけのものをそろえるには、かなりの時間と費用が必要だったことだろう。
 順に眺めているうちに、ビデオテープが収められている棚に、各地のバレエ教室の発表会や公演を撮ったものが並んでいる一角があることに気づいた。
 系列のバレエ教室のものを集めたのだろう、と思ってなにげなくテープのラベルを眺めていると、その中に「堀内バレエスタジオ」と書かれているものがあった。
 優菜は驚いた。堀内バレエスタジオには、一度だけだがゲストとして出演したことがあった。ゲストとは言っても、そのときはまだ小学6年生だったのだが……。
 が、さらにその下に小さく書かれている年月日を見て驚きはさらに大きくなった。それはまさに、優菜がゲスト出演した発表会の日付だったからだ。ちょうど10年前のクリスマス・イブ。
 優菜は胸が高鳴るのを感じた。まさか、ここでこんなものに再会することになるとは……。
 手がすこし震えるのを感じながら、テープを棚から引き出した。
 そのとき、ドアがノックされる音がした。
「!」
 ほとんど反射的に優菜はテープを棚に戻した。
「優菜さん、いらっしゃいますか?」
 晴人の声だった。
「は、はい」
 ドアが開き、晴人の顔がのぞく。
「すいません。午後の練習に使う衣装を選んでおいてもらいたいんですが。さっき使ったのはもう輝久美が洗ってしまったんでしょう」
「ええ、そうです」
 優菜は思わずごまかすような笑いを浮かべてしまった。
 が、それがかえって疑問を呼んでしまったらしい。
「……どうかしましたか?」
 晴人はいぶかしげな視線で見つめる。
「いえ、なにも。いま行きますので」
「まあ、まだ時間がありますから。なにか見たいものがありましたか?」
「大丈夫です。ただ、すごい量だと思って感心して見ていただけですから」
「そうですか……今朝も言いましたが、空いている時間にはいつでも使ってもらってかまいませんからね」
「はい」

 衣装棚から衣装を取り出して見比べながら、自分がいつのまにか晴人のペースに乗せられてしまっているのではないか、と優菜は思った。
 本来ならば、ふだん使っているレオタードで、何も問題はないはずなのだ。考えようによっては、着せ替え人形にされているような感じもしなくはない。
 だが、晴人にそうした趣味があると考えるのもすこしひねくれ過ぎかもしれない。すくなくとも、午前中の練習のときには今までとは違った気分の高揚のようなものがあったのは確かなのだ。そしてそれは必ずしもマイナスには作用していない、かもしれない。
「…………」
 とはいえ、ここに並んでいるのは、やはり舞台衣装以外のなにもでもない。できるだけ地味なものを選びたかったが、どうしてもデザイン的には普通の稽古着よりは派手に見えるものしかなかった。
 結局、短い袖のついた薄い水色の衣装を使うことにした。形状は午前中のものと似たようなものだったが、少なくとも胸元はきっちりと隠れている。ただ、襟やスカートの裾に可憐なレースがあしらわれていて、やはり全体的には幼い感じに見えてしまいそうではあったが、そこは妥協するしかなかった。

 指定されていた時刻の少し前に練習室のドアをノックしたが、返事はなかった。
 そっと中をのぞいてみると、暖房は入っていたが暗いままだった。優菜はドアのそばのスイッチを押して明かりをつけた。
 トゥ・シューズにはきかえ、リボンを結ぶ。
 やがて練習室のドアが開き、晴人がはいってきた。見た瞬間はさきほどと同じ服装に思えたが、よく見ると下半身には黒のタイツを着けていた。
「午後は大瀧さんはいらっしゃらないので、音楽が必要なときはテープとかディスクを使いますが……まず今日は少しパ・ドゥ・ドゥーの練習をさせてもらいたいと思っています」
「は、はい……」
 こういう状況は予想していなかったので、優菜はやや緊張した。
「優菜さんは、そちらの練習もされてるんでしょう?」
「週に一度ぐらいはレッスンはありますけれど……」
 その他大勢の一人ではあっても、パ・ドゥ・ドゥーのテクニックはつねに維持していなければならないので、定期的な練習枠がある。もっとも、その内容はいつもあまり芳しくはないのだが……。
「そうですか。ぼくはここのところ相手がいませんでね。すこし勘を取り戻さなければならない感じなんです。ですから、最初は基本的な動きからはじめさせてください。まずはホールドからですね」
「はい」
 晴人は優菜のそばに立ち、腰に両手を添えた。
「五番からトゥを立ててみて」
 言われたとおりつま先を立てる。
「うん……ぼくら身長のバランスはいいみたいですね。ちなみに深海さんとぼくの身長、同じですから」
「そ、そうなんですか……」
 思わぬ人物の名前を聞いて優菜はすこしどきりとする。深海鷹彦。安住野バレエ団の看板ダンサーのひとりであり、男性ダンサーのトップに位置する存在だ。そして、沓掛陽子の実弟でもある。
「ちなみに体重も同じぐらいのはずですね……アラベスクの一番」
「はい」
 ポーズをとった優菜の身体を晴人は両手でささえる。
「そのままでね…ちょっと回ります」
 バランスを保ったまま、晴人はゆっくりと円を描くように移動して、優菜の身体を回転させる。
「アラベスク・パンシェ」
 優菜は上体を倒し、水平に伸ばしていた脚をさらに高く差し上げる。
「もう少し腰の力を抜いて……はい、いいですよ。元に戻して」
 鏡の前で、優菜は晴人の指示にしたがいながらさまざまなポーズをとる。重心の移動が大きい動きをしても、思ったより身体の軸がぶれない。晴人の反応がしっかりとしているからだ、と優菜は思う。
 ふたりはさらにさまざまな形のホールドを鏡の前で行った。手をとりあって支えるもの、身体全体で支えるもの……。回転や倒れ込みをともなうもの……。
 指示を出すのが相手の男性ダンサーなので、ふだんの練習とは勝手が違う感じだったが、晴人の動きそのものは正確で安定しており、ポーズがくずれたりバランスを失うことはなかった。
「うん……まあ、いい感じですね」
 一通りの動きをこなしたあと、晴人はうなずいて言った。
「どうですか、優菜さんの方としては?」
「あ、はい。とても動きが楽でした」
 女性側から言えば、男性の身体全体の動きを意識せずに済むのが理想的な状態だが、晴人のサポートはまさにそれに近い感じがした。
「ぼくも楽でしたよ。こちらのイメージ通りの動きをしてもらえるので。タイミングがぎくしゃくすると、どうしようもないですからね」
 晴人は笑顔で言った。
「それじゃ、もう少しステップアップしてきましょうか」

 午後の練習を終えたあと、優菜はシャワーを浴びてから着替えをして部屋に戻った。
 やがて輝久美が練習で使った衣装を受け取りにやってきた。
「ほかに洗い物がありましたら、いただきたいのですが」
 たしかに時間が経っていないほうが洗う側としては楽だろう。多少抵抗があったが、下着とタイツを渡した。一週間分の下着の替えはもってきたが、この調子だと練習のたびにはき替えることになりそうだったし、早晩洗ってもらわなければならない。
 輝久美が部屋を出て行ってから、優菜はすこし間を置いてからまわりの様子をうかがい、2階に向かった。
 晴人は街に用事があるとのことで、染野とともに車で出かけていた。したがって、いまこの屋敷には輝久美と優菜しかいない。
 優菜は周りの様子をうかがいつつ、ふたたび資料室に入った。
 さきほど手に取りかけたビデオテープをもう一度取り出してみる。
「…………」
 優菜は資料室の隅に置かれているAV機器類のそばに歩み寄った。
 いくつかの再生装置があったが、どうやら一番上のセレクタのボタンで信号の切り替えをする仕組みらしかった。セレクタの電源をいれて、『V−TP』というボタンを押すと自動的にビデオとモニターの電源が入った。
 テープを入れ、再生ボタンを押す。
 しばらくして、薄暗い舞台が画面に浮かび上がった。
 やがて、音楽とともに数人の女の子たちが舞台に出て、踊りだした。
 その姿には見覚えがあった。もう彼女たちの名前も思い出せないが、やはりあのときの発表会だ、と優菜は確信した。
 発表会の、最後から2番目……。優菜はテープを早送りして、目的の演目を探した。
 そして、ついにそれが見つかった。
 舞台の照明が青白く変わる。
 哀調を帯びたオーボエの音。そして、ハープがなめらかにかき鳴らされる。もちろん、発表会にオーケストラがいたわけではない。CDかなにかを使ったのだ。
 そして舞台の中央に、藍色の上着をまとい、白いタイツをはいた王子が登場した。彼はなにかを捜し求めるように周囲に視線を投げかける。
 やがて、純白のチュチュに身を包み、頭に金の冠と白い髪飾りをつけた少女が走り出て、ポーズをとった。
「……!」
 10年前の、自分の姿だった。
 やがてその少女、白鳥の女王オデットは、舞台の中央で身体を折り、うずくまる。
 王子はオデットに近づきその手をとって引き上げ、踊りが始まった。
『白鳥の湖』のグラン・アダージォ。それを、子供用に改作したものだった。当時、優菜は小学6年生、王子役の少年は中学1年生だった。当然、成人のダンサーのようなテクニックもないし、リフトもまともにはできない。原作のムードを維持するようにして作り直してあるのだ。
 とはいえ、ふたりの動きはやはりぎこちない。優菜はこのときバレエを始めて3年を過ぎたところだった。かつてプロダンサーだった母親に個人的に指導を受けていたので、他の生徒たちに比べるとテクニックは安定していたはずだが、子供の身体でできることに限界がある。それでも優菜としては精一杯の踊りだった。
 脳裏にさまざまな思い出が駆けめぐる中、モニター上の画像では踊りが続いていた。
 だが、ついに耐えられなくなり、優菜は途中でテープの再生を停めた。
「…………」
 頬が火照っていた。見ているのは自分だけなのに、たまらなく恥ずかしかった。
 優菜はため息をつき、テープを巻き戻して、デッキから取り出した。
 見なかったほうが良かったのかもしれない。そう思いながら、テープを棚の元の位置に戻す。ほとんど自分の心の中から消え去りかけていたあの強烈な思い出を、また刻み直してしまった。
 それにしても、なぜこのテープがこんな場所にあったのか……。堀内バレエスタジオが安住野バレエ団となにか関係があるということだろうか。すくなくとも当時そんな話は聞いたことがなかった。だが、いずれにしても、ゲスト出演でしかも小学生だった自分にはそのあたりの話はたとえ聞いていたとしても記憶に残っていなかっただろう。
 優菜は資料室を出た。頬をさわってみると、火照りはまだ残っているようだった。

   3

 優菜がこの研究所で練習を始めてから三日が過ぎた。
 毎日の早朝、午前、午後の三回の練習は何事もなく進んでいた。明確な目標があるわけではないので、進むという言い方は語弊があるのだが、すくなくとも優菜がこの環境に慣れ、練習の内容が充実したものになってきているのは確かだった。とくに、午後の晴人とのパ・ドゥ・ドゥーの練習では、実際の舞台の内容に近い踊りができるほどになってきた。いままでパ・ドゥ・ドゥーを苦手としていた優菜にとってはそれは意外とも思えることだった。最初のうちこそ緊張があったが、次第にそれは安心感に変わってきていた。ここまで自分の身体をゆだねることができる相手はいなかった。
 その間、優菜はときどき資料室に行っては、例のビデオを見ていた。ほとんど『盗み見て』いるという感覚だった。ビデオを見ることじたいは悪いことではないはずだが、妙に罪の意識があった。しかも、いつも最後まで見ていられずに、途中でテープを停めてしまう。そのたびに、いったい自分は何をしているんだろうと思い、得体の知れない自己嫌悪に陥るのだった。
 だから、朝食の席で晴人が何気なく口にした言葉は衝撃だった。
「優菜さん、もし気に入った公演の記録ビデオとかがあれば、ダビングしましょうか」
「えっ……!」
 優菜は心臓がつぶれるかと思った。まさか、あのビデオを見ていることを知られてしまった……?
「いや、ときどき資料室に行かれているようだったから」
 晴人は紅茶をすすりながら言った。 「本なら部屋で読まれるでしょうから、たぶんビデオを見られているのかなと思いましてね」
「あの、ええと」
 優菜はどう答えていいものか迷った。ビデオなんか見ていない、と嘘をつくのもひとつの手だったが、かえって自分の首を絞めることになりそうな予感がした。
「版権があるものはコピーを出すわけにはいきませんが、安住野バレエ団の公演とか、系列のバレエ教室の発表会の記録とかならとくに問題ありませんから」
「そ……そうですか」
 優菜はすこしほっとした。つまり公演の記録ビデオと言ったのは、著作権がからまないという意味だったのだ。
 そこで、思い切って訊ねてみることにした。
「あの……堀内バレエスタジオというのは、安住野バレエ団の系列なんでしょうか?」
「え?」
 今度は晴人のほうがすこし驚いた表情で優菜を見つめた。
「……そんなものがありましたか?」
「ええ。だいぶ古いものでしたけれど」
「そうですか……まあ、ぼくも細かいことは知らないけれど、たぶん何らかの関係があるところのビデオしかないはずです」
 晴人はすこし考え込むような顔で言った。
「ひょっとして、そこに優菜さんのお知り合いでも?」
「わたしがゲストで出演してたんです、その発表会に」
「ゲスト?」
「ええ。堀内さんというそこの代表のかたは、わたしの母の古い知り合いで……出演を頼まれたんです」
「それはまた……奇遇ですね。それ、見られたんですか?」
「は、はい」
「そうですか……」
 晴人はゆっくりとティーカップを皿の上に置き、ふぅっと軽く息を吐いた。
「とりあえず、空きテープがありませんから、街まで買いに行きましょうか」
「え?でもそんなためにわざわざ……」
「いや、今日はどっちにしても練習は休みですから」
「お休み……ですか?」
「日曜日ですからね」
 優菜は、あっと思った。ここに来てから曜日の感覚がなくなっていたが、指を折ってみると、たしかに今日が日曜日にあたる。 「ぼくらはともかく、染野さんや輝久美には日曜日にはお休みをあげないと、いくらなんでも問題がありますからね。ですから、ぼくらも今日はフリーということです。昼食と夕食は外でとりましょう」
「はあ……」
 たしかに、染野たちが休みということになれば、自動的にそうなる。
「あの二人は出不精ですから、休みでもここにいることが多いんです。でも、ぼくらがいるとやっぱり気を使うでしょう。ですから」
 晴人は微笑んで言った。
「ぼくらは出かけざるを得ないんです」

 玄関の前にやってきたのは、メルセデスのワゴンではなく、黒い小型の車だった。軽自動車ではないようだったが、メルセデスに比べればふた周りほども小さい。
「どうぞ」
 運転席の晴人が身体を伸ばしてドアを開けてくれた。
「すいません」
 優菜は助手席のシートに乗り込んだ。
「それじゃ染野さん、あとは頼みます」
 玄関に見送りに来た染野と輝久美に晴人が声をかけると、染野はうなずいて言った。
「はい、お気をつけて」
「いってらっしゃいませ」
 車が動き出すと、二人はこちらに向かってお辞儀をした。優菜も会釈を返した。
 でこぼこの道を進む車を運転しながら晴人が言う。
「変な話ですが、夕方まで時間をつぶすのはけっこう大変ですね。優菜さんはどこかこのあたりで観光したいところとかはありますか?案内しますよ」
「いえ、そんなことをしていただくのも……」
「お互い、気晴らしは必要ですよ。ぼくもここのところ、遠出をしてなかったんでね。たしか、優菜さんは軽井沢に来るのは初めてでしたよね」
「はい……」
「ま、ぼくもすこし買い物があるので、最初は旧軽の方にでも行ってみますか」

 駅前の通りからすこし入った道は、かなりの人出だった。
 細い通りの左右にはびっしりとアクセサリーショップやファッション関係の店、各種のみやげ物店が並んでいる。 「このあたりが、いわゆる軽井沢銀座です。夏あたりは人が動けないぐらいですが、いまの季節だとわりと落ち着いてますね……人ごみは苦手ですか?」
「いえ、そんなことはありません」
 とは言ったものの、晴人と並んで歩きながら、優菜はすこし落ち着かない気分だった。人ごみがどうこうということよりも、こうした街の中で肩を寄せ合うようにしているというのが、ちょっと恥ずかしかった。
「妙な言い草かもしれませんが、このあたりに来ると、なにか自分がファンタジーの世界に入ってしまったような感覚になるんですよ。これだけの店があって、たくさんの人々がそこで活動していて……当たり前の話なんですけどね。ふだんのぼくの生活のほうがむしろ人から見ればファンタジックかもしれないのに」
「……わたしも似たようなものです。東京にいるときも」
「そうですか?」
「踊りにかかわること以外のことにあまり気を向けてませんから……世の中でなにが流行っているのか、今話題になってることはどんなことなのか、全然わかりません。うちの団員がみんなそうだということじゃないとは思いますけど」
「なるほど。そういうことなら、まさに似た者ですね、ぼくらは」
 晴人は苦笑した。
「程度の問題だとは思いますが……自分の中に想いを溜め込む時間と、適当にそれを抜く時間のバランスをとることが本当は必要なんでしょうね。言うほどうまくはいかないんですが」
「…………」
 自分はたぶん溜め込む時間のほうが多いかもしれない、と優菜は思った。
「ところで、適当なところで食事を取りましょうか。歩き回ってばかりだと疲れるでしょう」
「あ、はい……」
「このあたりだと、高級というか……ぼくなんかの感覚だとすこし敷居が高い店が多いから、もう少し落ち着いた場所に行きましょう」

 街の中心部からすこし離れた場所にあった小ぶりの料理店で食事をとったあと、晴人が「すこしゆっくりと散歩でもしましょう」
と言い、広い公園に入った。中にはさほど人はいなかった。
 広い池の周りの遊歩道を並んで歩きながら、晴人が言った。
「ぼくの教師にあたる人が、ダンサーは歩いているときも踊っているものだってよく言ってましたけどね」
「歩いているときも踊る……?」
「つまりね、日常生活の中でも踊り手としての意識を持ち続けろという意味らしいんですが……ぼくに言わせると、逆のこともあるんですよ」
「…………」
「バレエの動きは日常生活にはないもので構成されてます。だから、踊り手としての意識にどっぷりと浸かってると、今度は身体がそういう動きに向かおうとするんです。今も、なんとなく意識の底に、軽く疼くような感じがありますよ」
 そう言われてみると、優菜自身にも、何かを押さえつけているような感覚がないでもなかった。
「身体が踊り出そうとするような感じでしょうか……」
「優菜さんにもありますか?」
「たぶん」
 とくに、こんな風にただ歩くだけというような行為を続けていると、そういう衝動はすこし強くなっている気がした。
「おたがい病気ですよね、こうなると」
 晴人は多少自嘲をこめた調子で言う。
「まあ、踊り手として生きている以上、病気であること自体はいいんですが……自分がそういう病気だということを忘れてしまうとまずいと思うんです。だからこそ、こういう『お休み』も必要だと思うわけです」
「自分が異常だということを確かめるために……ですか?」
「踊りはある意味ではドラッグにも似ています。ですから、中断したときの症状で、どれだけ自分の精神がそれに依存しているかが分かるわけです」
「依存し過ぎてはいけないということでしょうか」
「まあ、自分を見失わない程度にはね」
「…………」
「ところで、優菜さんは例の発表会で何を踊ったんですか?」
 唐突に話題が変わったので、優菜は一瞬何のことかわからなかったが、ビデオの件を思い出し、うなずいた。
「はい……『白鳥の湖』のグラン・アダージォを。子供向けに振付を変えたものですけれど」
「……そうですか。きっと可愛いオデット姫だったでしょうね」
「いえ、そんな……」
「あなたと一緒に踊ることができた幸運な王子様はどんな人だったんでしょうね」
「幸運だったかどうかはわかりませんけど」
 優菜は相手役の少年の面影を思い出そうとしてみた。 「色が白くて……まつげが長い人だったと思います。とても優しい感じの顔立ちでした」
「そう……」
 晴人はすこし考え込むような顔をしてから言った。
「名前とか、覚えてますか」
「サクヤという名前でした。むずかしい字を書くので、説明してもらったんです。新月のことを朔といって、その朔に也という字を書くと。ただ、名前でいつも呼んでいたので、苗字はいまちょっと思い出せませんけど」
「ほう、すると名前で呼び合っていたんですか」
「あ、いえ、彼は倉田さんって……倉田というのはわたしの前の苗字ですけど。母が再婚したので今の小野寺に変わったんですが」
「なるほど……でも、どうでしたか?ビデオを見て、美しい思い出が壊れてしまったとかそういうのはない?」
「……わたしの踊りがかなり下手だったってことは思い知りました。朔也くんがそれをカバーしてくれていたんだと思います」
「ふうん、そうなのか……ま、せっかくですから、あとでじっくり見させもらいましょう」
「じ、じっくりだなんて……!」
 優菜は思わず晴人のコートの袖を引っ張った。
「やめてください、恥ずかしいです」
「でも、どっちにしても、ダビングするときにはチェックしますよ」
「あ……そうですね」
「ははは、優菜さん、なんだか顔が赤いですよ」
 晴人は笑って言った。
「そ、そんな……からかわないでください」
 だが、頬が熱くなってくるのはどうしようもなかった。 「……好きだったんですか、その子のこと?」
「え……」
 優菜は、どう答えたものか迷った。そのときのことは、好き、嫌いという言葉では言い表せない気がした。
 すると、晴人は手を左右に振って苦笑した。
「いや、すいませんね。立ち入ったことを聞きました。忘れてください」
「……幸せでした」
「え?」
「幸せなことを、彼と一緒にしました」
「…………」
「わたしにとっては、そういう思い出です」
「……そうですか」
 晴人はそれ以上はなにも言わず、黙り込んだ。
 優菜もそのまま黙って、しばらくならんで歩いた。
 こんな話題のあとでお互いに黙ってしまうというのは、普通は気まずいはずだが、なぜかそういう風には感じなかった。
 隣を歩く晴人の横顔が、とても穏やかだったせいかもしれない。
 やがて、晴人がぽつりと言った。
「幸せという言葉を、ずいぶん久しぶりに聞いた気がします」
「…………」
 優菜は晴人の顔を見た。
 そこには暖かい微笑があった。
「たぶん、そういう風に使われるべき言葉なんですね」

 その日の夜、研究所に帰り着いたときにはすでに八時を回っていた。
 輝久美は例のメイド服ではなく、グレーのワンピースにエプロンという姿で玄関に出てきた。
「おかえりなさいませ」
「うん。なにか変わったことはあったかい?」
「いえ、とくにはございません」
「そう。じゃあ、今日はもう部屋で休んでいいよ」
「はい」
 晴人と優菜が屋敷の中に入ると、輝久美は玄関の鍵を閉め、一礼して自分の部屋のある厨房の奥へと去って行った。
「あの晴人さん……」
「うん、なんですか?」
「あの、今日はいろいろとありがとうございました。本当はこんなことをしていただく立場では……」
 優菜はすこし申し訳ない気分で言った。
 午後からいくつかの観光スポットをまわり、その途中で夕食をとって帰ってきたのだが、そのときの費用はすべて晴人が支払ったのだ。
「いや、こちらの都合でひっぱり回したようなものですからね。気にしないでください」
 晴人は手を軽く振ってから、ちょっといたずらっぽい表情でつけくわえた。
「ところで、これから例のテープのダビングをしますが……どうします?」
「……ええと」
 どういう意味だろう。優菜はすこしとまどいながら晴人の顔を見た。
「じっくりとあなたの幸せな踊りを拝見させてもらおうと思ってますが……立ち会われますか?」
「あ……あの」
 つまり一緒に見るか、と言っているのだ。
 晴人にあの映像をじっくりと見られるというのも恥ずかしかったが、二人で見るというのも同じぐらい恥ずかしい。
 だが、この誘いには、いくぶん好意が含まれているように感じられた。
「……晴人さんがよろしければ」
「そうですか。じゃあ、資料室に行きましょう」
 晴人は楽しそうに言った。
 2階に上り、資料室のドアを開けて、明かりをつける。
 考えてみれば、夜に男女がふたりきりでひとつ部屋にこもるという行為なのだが、優菜としてはさほど抵抗感はなかった。一日中ずっと彼と行動をしたことも影響していたかもしれない。
「これですね」
 晴人がテープを戸棚から取り出して、優菜に示した。背のラベルに「堀内バレエスタジオ」
と書かれている。
「はい、そうです」
「全部録りますか、それともあなたの踊りだけにしますか」
「あの……わたしのだけでいいです」
 自分の思い出のためだけに使っているようで気が引けたが、実際その通りなのでいまさら格好をつけても仕方がないと思った。
「分かりました」
 晴人はテープを早送りする。
「だいたいこの辺かな」
 再生ボタンを押して、さらに表示しながら早送りすると、まもなく舞台の照明が青白くなるシーンが現れた。
「あ、それです……」
「はい」
 録画開始するポイントをセットすると、ディスクレコーダにディスクを入れて録画のセットをし、さらにいくつかの操作をした。
「それじゃ、ここからですね……」
 画面の再生が始まった。
 実は優菜としては、この『立会い』にもうひとつ動機付けがあった。いままでいつも途中で再生を停めていて、最後まで見ていられなかったが、晴人と一緒だといやでも最後まで見ることになるだろうと思ったのだ。
 音楽が流れ始め、舞台に王子とオデット姫が登場する。
「…………」
「…………」
 優菜はちらりと隣に立っている晴人の様子をうかがった。彼は表情を動かさずに画面を見つめていた。
 モニターの中では、王子とオデット姫の身体がからみあいつつ踊りが進んでいる。カメラは二人の動きを正確に追って、画面の中心にその姿をとらえつづける。
 早くも、優菜は自分の考えが愚かだったことに気がついた。10年前とはいえ、映し出されているのはまぎれもなく優菜自身の姿なのだ。そして、いまそれを自分の目の前で、異性である晴人に見られている。
 そのことを意識しはじめると、画面の中の自分がひどくあられもない姿に見えてきた。子供用のチュチュとはいえ、デザインは成人用のそれと基本的には変わりがない。それゆえのアンバランスが、なまめかしさというよりもむしろアブノーマルな印象を生み出していた。わずかな乳房のふくらみを無理矢理に強調している胸元の切れ込みや、股間をぎりぎりの位置で隠しているスカート、そしてその下から伸びる両脚を包む真っ白なタイツさえも、観客の視線に媚びているかのように思えた。
 オデット姫が脚を大きく開くとその瞬間に、チュチュの奥の股間がくっきりと浮かび上がる。そこをおおっているトゥンの幅は狭く、しかもきつめだ。そのために、舟底に似た恥部の輪郭がその両脇からはみ出し、どうかすると真ん中にうっすらと縦に食い込む線が見えた。
 ひとりで見ていたときにはちっとも気づかなかった自分の身体のディテールが、いまは震えがくるほどに恥ずかしかった。
 王子はオデット姫に身体を密着させんばかりに近づけ、その腰を抱きかかえるようにして支えている。体重差がさほどない上に、優菜のバランスが不安定なのでそうせざるを得ないのだ。それが、肉体のからみ合いという印象をいっそう強めている。
 背筋にむず痒さに似た感覚が走りはじめる。恥ずかしいという次元ではもはやなかった。責めさいなまれている、というほうが近かった。それでいて、その感情の奥には実はある種の誇らしさに似た高揚があることにも気づいていた。それがますますどうにもならない恥じらいを生み出すのだった。
 画面を見つめる晴人は、一言も発しない。
 何か言って欲しい、と優菜は思った。このままだと、胸がつぶれてしまいそうだった。
 踊りは後半になり、さらに妖艶なムードを高めていった。優菜がいつも再生を停めてしまうあたりだった。オデットがひとつの動きを終えてポーズをとるたびに王子は優しく彼女の腰を抱き、いまにも唇を奪って愛撫をはじめるのではないかと思えるような、いとおしげな眼差しを投げかけて身体を寄せ合う。
「……」
「!」
 一瞬、晴人が何か低くつぶやいたように感じ、優菜はぎくりとして視線を向けた。が、晴人の表情は変わっていなかった。
 そこではじめて、優菜は自分の呼吸がいつのまにか荒くなっていることに気づいた。
 落ち着いて……落ち着いて……そう心の中で自分に言い聞かせ続けたが、なかなかうまくいかなかった。
 やがて踊りは終息に向かい、最後のポーズへと至り、音楽がやんだ。
 画面から割れるような拍手が聞こえる。
 ほう、と優菜は思わずため息をついた。が、晴人はなぜかそのまま画面を見ている。
「……?」
 どうしたのか、と訊ねようとしたとき、ふたたび音楽が始まった。
「え……」
 それは『白鳥の湖』の有名な『情景』のメロディーだった。画面の中の二人が踊り始める。そして舞台の中央で手をとりあい、王子が天上を指差す。永遠の愛の誓いを示すポーズだ。そして、いったん離れたふたりは……。
 そこで、優菜の中に封じ込められていた記憶が新たによみがえった。このときの踊りはグラン・アダージォだけではなく、最後の別れのシーンが付け加えられていたのだ。
「あ……」
 片膝をついて求めるように両腕を差し出す王子のもとへオデット姫は近づき、そして身体を傾けると王子と口付けを交わした。さらに盛り上がる音楽の中、ふたりは離れ、オデットは羽ばたくように手を動かし、苦しみもがくようにくるくると身体を回転させながら舞台の袖へと去ってゆく。そして、苦悩の表情を浮かべた王子が、舞台の中央に取り残される……。
 そして、舞台の照明が落ちた。
 ふたたび拍手が起きる。
「……なかなか、凝った演出ですね」
 晴人はそう言いながら、再生を停めた。
「そ、そうですね……」
 直前までこのことを思い出せずにいた優菜は、すこしうろたえながら相槌をうった。
「それにしても……王子様は、あなたのファーストキスまで奪ってしまったわけですか?」
「そ、そんなつもりは……いえ、あの、奪ってしまったのはわたしのほうで、いえ、そうじゃなくて……」
 優菜はあわてて説明しようとしたが、説明しようにも当時の状況を良く覚えていない。
「ああ、あの流れだとオデットのほうからキスしたように見えましたね。まあ、普通は寸止めするものなんでしょうけど、勢いというものがありますからね」
 晴人はビデオとレコーダの操作をしながら言った。
「勢いというか……何も考えていなかったんですけど」
「それじゃ王子様はびっくりしたでしょうね」
「たぶん……」
「それにしても、すばらしかったですよ、あなたの踊りは。小学6年生としては立派なものです」
「いえ、そんなたいしたものじゃ……」
「もちろん年齢相応の限界というものがあります。でも、なにか見ているこちらが後ろめたくなるような、そんな踊りでした」
「……後ろめたくなる?」
「ええ。本来なら他人がのぞき見すべきではない、愛の深い交歓の現場を見ているような……ね」
「…………」
 すでに赤面していることは自覚していたが、今の一言はさらに強烈だった。首筋に血がかけ上り、耳が熱くなった。
「それじゃ、これがいま録画したディスクです」
 晴人はケースに入れたディスクを優菜に手渡した。
「ど、どうも……」
「……大丈夫?なんだか悪いことをしてしまったみたいだね」
「いえ、そんなことは……」
「でも、ぼくとしては良かった。あなたの才能を示唆してくれるすばらしい参考資料を見ることができましたから」
 晴人は微笑んで言った。
「それじゃ、今日はこのへんにしておきましょうか」
「はい……」
 優菜と晴人は資料室を出た。
「ちゃんと眠れる?」
 晴人はすこし心配そうな顔で優菜を見た。
「ええ、大丈夫だと思います」
 とはいえ、まだどきどきしている胸の鼓動を感じていると、あまり自信はなかった。
「……ちょっと待ってて」
 晴人は隣の書斎のドアを開け、明かりをつけて中に入ると、すぐにまた戻ってきた。
「これはね、市販されている軽い睡眠薬です。副作用もほとんどない、安全なものですから。万が一、寝付けなかったら飲んでみてください。ふだんこういうものを飲んだことはある?」
「あ……いえ、全然」
「じゃあ、1錠でいいから。すぐに効きますよ」
 封入された錠剤を手渡される。
「すいません、お気遣いいただいて……」
「いや、ちょっと責任を感じてしまったからね……」
 晴人は苦笑した。
「ひょっとすると、ぼくも今夜はこれのお世話になるかもしれないな」
「え……」
「冗談ですよ……それじゃ、おやすみなさい」
「はい……おやすみなさい」
 優菜は階段を下りて、部屋に戻った。
 ふと、手にしているディスクを見つめる。すると、またもやさっきのどうしようもない恥ずかしさがこみ上げてきそうになった。あわててそれをバッグの中にしまい、ベッドに腰を降ろしてほうっとため息をついた。
 身体の中がまだ熱かった。まるで……。
 優菜はそこで、自分のその部分に違和感があることに気づいた。そっとスカートの中に手をいれ、触れてみた。
 自分でも信じられないほどに、濡れていた。

   4

 翌日の午後、晴人が優菜の部屋にやってきて言った。
「午後の練習なんですが……」
「はい」
「例のグラン・アダージォを踊ってみませんか。パ・ドゥ・ドゥーの稽古の一環として」
「あの……『白鳥の湖』ですか」
「そうです。基本的な振りは知っているでしょう。安住野バレエ団の場合は原作をほとんどいじってないはずです」
「それは……ええ」
 優菜自身、何度も安住野バレエ団の公演を見ているし、群舞の一人として出演したこともあるので、一連の振付は頭の中に入っていた。
「どちらにしても、技術的にはさほど難しい踊りじゃありませんよ。むしろぼくは、この踊りの表現を掘り下げてみたいんです」
「表現……ですか」
「そうです」
 晴人はうなずいた。
「…………」
「衣装は用意してあります」
「着替え……るんですか……でも、練習なんでしょう?」
「問題は表現なんです。衣装も当然それに含まれていますから」

 数十分後、優菜は純白のクラシック・チュチュを身にまとい、頭には白い羽毛の髪飾りと金色に輝く冠を着け、白鳥の女王オデットの姿へと変身していた。
 降ってわいたようなこの状況に、優菜はまだ実感を持てないでいた。
 いま優菜が立っているのは、礼拝堂だった。祭壇や椅子などはすべて取り除かれていて、高い天井と四方の壁、そして広い空間だけが残っている。ただ、広さに関しては、大都市の劇場の舞台にも負けない規模ではあった。舞台と同じ規模の踊りはここで練習するということらしい。
 周囲はやや薄暗かった。午後の太陽の光が明り取りの窓から柔らかに差し込んでいるだけで、照明は点けていない。
 優菜はすっと両脚のつま先を立て、つつっと脚を震わせるように動かしてすべるように身体を移動させた。床の具合はそう悪くはないようだった。よくあるリノリウム張りではなく、板張りの床だった。
 踊れるだろうか、と優菜は思った。もちろん振付はきちんと頭の中にあるし、実はひとりだけで振りを練習したこともある。優菜自身、『白鳥の湖』はいつか踊りたいと思っていたのだ。だが、こういうことは案外と口に出すのが恥ずかしい。
 それにしても、なぜこんな練習、しかも舞台衣装を着けての練習などということを晴人が言い出したか気にはなった。やはり、昨日のビデオがなにか関係があるのだろうか……。
「……お待たせしました」
 優菜はわれに返り、声のしたほうに顔を向けた。瞬間、胸が締め付けらるような感覚に襲われた。たったいま思い出していた少年の面影に重なり合うように、おとぎ話の絵本の中から抜け出てきたような王子の姿がそこにあった。
 晴人は、銀糸の華麗な刺繍が胸元にほどこされた藍色のチュニックを着けていた。その腰には銀色のベルトが締められ、ふとももの付け根ちかくまで裾が垂れている。両脚には雪のように白いタイツをはき、すらりと伸びたその先にはサテン地の布靴が鈍い銀の輝きを放っていた。バレエに登場する王子の扮装としてはごくありふれたスタイルだったが、それまでモノトーンの地味な感じの服を着けた晴人の姿しか見ていなかったので、その落差は大きかった。
 晴人が並の美男子ではないことは意識してはいたが、『おとぎ話の美しい王子』という役どころがここまでぴったりとはまり込む男性だとは想像していなかった。舞台映えする容姿をもつダンサーとしても評判の高い安住野バレエ団の看板スター、深海鷹彦でさえもこの美しさにはかなわないのではないかと思えた。大人としても均整のとれた体つきでありながら、貴公子に変身したその姿からは、まだ穢れを知らない少年のような瑞々しい香気がただよっていた。
 だが、それ以上に優菜を強く惹きつけたのは、白いタイツに包まれたその優美な脚線だった。女性のミニドレスに似た印象をもつチュニックの裾の広がりが、その下から伸びる純白の脚のラインを言いようのないほどになまめかしかく見せていた。男性の荒々しい稜線と女性の優しい丸みを融け合せたような微妙な陰影が生む、妙なるエロティシズム。もはやそれ自体が精巧な芸術品と言ってよかった。
「どうかしましたか?」
 晴人が静かに歩み寄ってくる。
「いえ……すこしびっくりしてしまって」
 優菜がそう答えると、晴人が少し照れくさそうに言った。
「実はこの衣装は、深海さんが二年前に『白鳥の湖』の公演で使ったものなんですよ。いわばお下がりですね」
 そう言われてみると、首周りと袖口の特徴的なデザインになんとなく見覚えがあった。
「彼とは体型がほぼ同じなので、こういうことも可能なわけです」
「でも……お似合いです。とても綺麗です」
「でも、優菜さん、あなたも綺麗ですよ。それに、姫君としての優雅さも感じられます。想像以上だ」
「そんな……」
「いや、ほんとうに。こればかりは努力でどうにかなるものじゃない」
 晴人は微笑んだ。
「あと二、三分で音楽が流れ始めますので、用意をしてください。ぶっつけ本番ですが、それでどれぐらい踊れるものか試してみたいというのもありますので」
「はい……」
 やがて音楽が流れ始めた。その響きは本物のオーケストラが間近で演奏しているかのように澄んでいた。哀調を帯びたオーボエの響きにハープの流れるような音がからみあう。
 王子は舞台の中央に先に出てゆく。彼は誰かを捜し求めるかのように動き回る。そこへオデット姫が小走りにすすみ、手をはばたくように動かしながら舞台を横切り、片脚でポーズをとる。そして、王子を見つめてから、舞台の中央へと戻り、腰を折ってうずくまるように身体を伏せる。
 王子は身体をかがめてオデットの腕をとり、オデットはその手に引き上げられるようにして立ち上がり、踊りが始まる。
 片膝を曲げながら引き上げ、回転して、アラベスク。そして上体を倒し、脚をさらに高く上げる。ふたたび上体を上げて反対側に数歩移動してふたたび片脚を上げてポーズをとり、身体を倒すとそのままゆっくりと王子が移動してオデットの身体を回転させる。
 三日間練習しただけだったが、晴人とのコンビネーションは思っていたよりスムーズになっているようだった。優菜自身、信じられないくらいに、身体がなめらかに動いた。
 王子に手をつないで向き合い、片脚を上げ、手を離して後方に倒れる。その身体を王子が前進して抱きとめる。誤って床に叩きつけられるという恐怖感は微塵もなかった。ただ、甘美な陶酔だけがあった。目の前の晴人の表情は、オデットを心から愛している清純な王子そのものだった。その優しげな顔が近づくたびに、身体の芯に熱いものが溜まってくるように思えた。
 王子と手をとり、寄り添いあいながら、ゆっくりと舞台の中央を円を描くように歩く。
 やがて曲は明るくテンポアップしてゆき、動きはいくぶん激しくなる。
 両脚を広げて、真上に向かってジャンプし、そして王子がリフトアップする。それを二度繰り返して着地し、直後にオデット姫の身体はくるくると回転し、脚を蹴り上げて鮮やかにポーズを決め、そしてふたたびリフト。飛翔と回転をいくたびも繰り返すうちに、肉体とともに躍動する非言語的な意識の中に、わずかに残っていた思考のかけらさえも溶け込んでゆく。
 王子に支えられながら片脚を上げたままの姿勢で小刻みに移動し、ふたたび大きなリフト。白いチュチュのスカートがふわりと波打ち、脚を開いたオデット姫の身体が反り返りながら軽々と空中へ舞い上がる。瞬間、いままで経験したことのない心地よい浮遊感が優菜の身体を包む。もちろん、このアクロバティックな動きにともなう特有の緊張感はある。だが、それは積み重ねられた甘美な幻想をこわしはしない。
 やがて奏でられるメロディーは明るさの中にもかすかな哀しみを帯びた調べに戻ってゆく。王子とオデット姫の身体はいよいよからみ合うように交錯する。優菜は王子の胸に抱かれ、彼の息遣いを間近に感じながら、自分の人格が王子との恋に溺れるオデット姫に次第に塗り替えられてゆくのを感じる。踊る肉体にしか宿らない、畸形的な、それゆえにピュアな人格。だが、そこに自分のすべてが落とし込まれてゆくような感覚が、あまりにも心地よかった。
 ふと、熱い塊が優菜の身体の奥で疼く。
 思い出の断片がコマ送りの映像のように駆けめぐる。
 舞台裏の暗がりで、ふたたび王子が与えてくれた口付け。
 不器用で、それでいて激しかった抱擁。
 そして、あまりにも稚ない交わり。
 理由さえも分からずに重ねた身体。
 ふわふわと揺れるチュチュ。
 桃色に染まった王子の頬。
 いまにも泣き出しそうな表情。
 じわりとふくれる、熱い感覚。
 一瞬の混沌の中から、オデットは、眼の前の王子との踊りに引き戻される。重なり合うイメージ。
 踊りはつづき、やがて終息に向かう。
 差し上げた指先を王子の手で支えられながらゆっくりと回転をくりかえす。そして、最後のポーズをとると同時に音楽が終わった。
 優菜は脚を下ろすと、茫然とした表情で王子と向き合い、見つめ合った。
 編み上げられた幻想の網目はまだ破れていなかった。彼はまだ「王子」だった。
 王子が、優菜に顔を近づけてきた。優菜は眼を閉じた。なぜなら、彼女もいまだにオデット姫のままだったからだ。
 唇が重なった。
 王子はオデット姫を抱き寄せ、さらに唇を吸い続けた。優菜には、自分の身体の芯がとろけてゆくように感じられた。
 気がついたときには、優菜の口の中でお互いの舌先がからみ、のたうち回っていた。くちゅ、くちゅという音とともに混じり合った唾液があふれ、さらにそれを吸い合う。
 どれぐらい間、キスが続いただろう。ようやく、王子は唇を離した。彼の頬は薄ピンクに染まっていた。
 ふたたび、彼の顔が近づく。今度は、唇はオデットの首筋に触れた。
「あっ…!」
 優菜は短く小さな悲鳴を上げる。瞬間、腰がぴくんと震え、暖かな液体がひとしずく、身体の芯からじわりと洩れ出てゆくのを感じる。
 王子の唇は細い首筋を這いのぼってゆき、白い羽の髪飾りに隠された耳元へと達する。
「あ…」
 オデットの眉が寄せられ、その間にかすかに縦じわが走る。
 王子の唇が、オデットの耳たぶをとらえ、ゆっくりと動く。
「あ…は、ああっ」
 オデットの唇がかすかに震え、またひとしずく、とろみのある液体が彼女の下着の内側を濡らした。
「んっ…!」
 乳房の先に、かすかな痛みが走った。硬くなってしまった乳首の先にチュチュの生地がこすれたのだ。その痛みが、優菜の心を甘美な幻想から引きもどす。
「だめ…だめです!」
 優菜は小さく叫びながら、肩をよじり両ひじを張って晴人の抱擁から逃れようとした。すると、思いがけなく身体が抜け、後ろによろけた。
「あっ…」
 晴人がその身体を支えようとするが間に合わず、優菜は尻餅をつくかっこうになった。
 優菜は起き上がると、そのまま走って出口に向かった。今はとにかくこの場を離れたかった。
 ドアをあけて母屋のホールに出ると、輝久美の姿があった。彼女が振り返り、視線が合った。
「……!」
 優菜は首筋がかっと熱くなるのを感じた。かといって、輝久美に状況を説明をするということはできそうもなかった。彼女の前を駆け抜けるようにして、そのまままっすぐに自分の寝室に飛び込み、ドアを閉めた。
 息が上がっていた。しばらくドアに寄りかかったままじっとしていたが、ふと自分がまだチュチュを着けたままであることに気づいた。着替えなくてはと思った。
 いずれにしても、このままレッスンを続ける気にはなれない。おそらく晴人も同じだろう。
 優菜はため息をつき、髪飾りと冠をはずして、チュチュを脱ぎ始めた。
 下着の濡れた部分が冷たかった。が、幸いなことにチュチュを汚してはいないようだった。下着を引き降ろして、肉の襞にまだ残っていた湿り気をティッシュで拭い取った。
 新しい下着をはき、ワンピースに着替えると、ようやく落ち着いてきた。
 すると、まるでタイミングを計っていたかのように、トントン、とドアがノックされた。
「は、はいっ…」
 あわてて返事をしてドアを開ける。
 輝久美がトレイを手にして立っていた。
「お茶をお持ちいたしました」
「あ……はい」
「失礼いたします」
 輝久美はベッドのそばのテーブルにトレイを置くと、腰をかがめてポットからカップに琥珀色の液体を注いだ。
 この子は何が起きたかを知っているのだろうか、と優菜は思った。だが、彼女の無表情な横顔からは何も読み取ることはできなかった。
 紅茶を注ぎ終えると、輝久美は優菜に向かって言った。
「お稽古のほうはお済みだとうかがっております」
 輝久美はベッドの上に放り出されたままのチュチュに視線を向けた。
「よろしければ、衣装を片付けさせていただきますが」
「あ、すいません……」
「失礼します」
 輝久美はチュチュを慎重な手つきで取り上げると、部屋の隅にある金属製のスタンドに吊り下げ、クローゼットから薄いビニールの覆いらしきものを取り出して、チュチュ全体を包むようにかぶせた。そして、髪飾りと冠を化粧台の引き出しの中にしまった。
「またお使いになるとのことですので」
「……そうですか」
「タイツは洗濯いたしますが……よろしければ下着も」
「あ……」
 胸の奥がどくん、と鳴る。
「あ、あの大丈夫です、まだ替えてませんから」
「そうですか」
 輝久美はうなずいた。
「汗をかかれたかと思いましたので。失礼いたしました」
「いえ…」
 だが、輝久美が丸めてあったタイツをとりあげて、伸ばしているのを見て、しまった、と思った。
 ひょっとすると、タイツにも沁みができているかもしれない。だが、いまさら確かめるわけにもいかなかった。
「それでは失礼いたします」
 輝久美が出て行った後、優菜は化粧台の鏡で自分の顔を見た。電灯の光の下でも分かるほどにその頬は赤く染まっていた。
「馬鹿…」
 鏡の中の自分に向かって、優菜は低くつぶやいた。

 夕食は、優菜ひとりでとった。
 輝久美によれば、晴人は出かける用事ができたということらしかった。
 それが本当かどうかは分からなかったが、優菜としても気が楽ではあった。あんなことがあったあとに、夕食をふたりでとるというのはいかにも気まずい。
 だが、食事のあとに輝久美が部屋にやってきて言った。
「晴人さまから連絡がありまして、もうまもなくお帰りになられるということです」
「あ……そうですか」
「八時になりましたら、優菜さまに応接室においでいただきたいそうです」
「わかりました」
 輝久美が出て行ったあと、優菜はベッドに腰を降ろし、考え込んだ。
 話があるということなのだろう。当然、午後の練習に関することに違いない。
 客観的に見れば……優菜は晴人と踊りの稽古をし、そのあと……キスをした。
 その状況を思い出すだけで、頬が火照った。
 が、なんとか思考を先にすすめる。
 あのキスは……状況がどうであれ、双方の合意にもとずいたもの、と言えた。すくなくとも、晴人が無理強いしたものではない。優菜はそれを自分から受け入れたのだ。
 しかも……かなり濃厚なものだったにもかかわらず、拒否せずに続けていた……。
 彼がそのあとの行為に移ろうとしたのも、ある意味では当然だったかもしれない。が、それを優菜はかろうじて拒絶した。
 つまり、そういうことだが……。
 どうすればいいのだろう。
 この件をきっかけに、研修を終えてしまうというのもひとつの考え方ではある。
 考え方ではあったが……自分にはそんな気はまったくないということに改めて気づいた。
 なかったことにする、というのがいちばん簡単ではあった。お互いに、その場の勢いでしてしまった行為に過ぎない。
 だが、本当にそうなのだろうか……。
 悶々と考えているうちに、時間は過ぎていった。

 応接室の前に立って、ドアをノックしようとしたが、腕が固まったようになってなかなか動かなかった。それでも勇気をふりしぼって、ようやくドアをたたくことができた。
「どうぞ」
「……失礼します」
 中に入ると、黒いセーターの上に濃いグレーのコートと羽織った晴人がソファのそばに立っていた。
「わざわざここに来てもらうこともなかったんですけどね」
 彼はそういうと、そのまま優菜のそばに歩み寄ってきた。
「え…?」
「ちょっと外に出かけませんか?少し遅い時間だけど」
「外に…ですか?」
「ええ。今日はね、旧暦の九月十三日。つまり十三夜というやつです。十五夜に比べるとあまり一般的とはいえませんが……月を見るのにいい場所があるので、そこにご案内しようかと。いかがですか?」
「は…はい」
 どちらにしても、何か話をしようということなのだろう。
「では、行きましょう」
「あの…近くなんですか?」
「いや、多少離れていますから、車で行きます」
 晴人は車のキーを取り出して見せた。

 エンジンが始動して、車が動き出した。
 がたがたと音をたてながら、林の中の細い道を通り抜けてゆく。やがて舗装道に出ると、ようやく車内には静けさが戻ってきた。
「ときどき、ひとりで夜中にドライブに出ることはあるんですよ」
 沈黙を破ったのは晴人だった。
「頭の中を空っぽにするにはちょうどいいんです。考え事をしていたら危ないですしね。運転に専念していれば、自然に頭の中から余計なものがなくなっていく。……もちろん、いまは別ですよ。隣に人がいて、しかもそれがあなたなんですからね」
 その落ち着いた口調は、数時間前に起きたことを忘れてしまっているかのようだった。あり得ないけれど、もし本当にそうだとしたら許せない、優菜は思った。
「……どうして、あの練習をしようと思ったんですか?」
 優菜はあえて、ずらした質問をした。
「なぜ『白鳥の湖』を選んだかということですか」
 ハンドルをにぎる晴人が、まっすぐに前を見つめながら問い返す。
「ええ」
「昨夜、夢を見たからです。あなたと一緒に、グラン・アダージォを踊る夢を」
「…………」
「……と言ったら、納得してもらえますかね?」
 優菜はすこしむっとした。
「本当は違うんですか?」
「正しく言うと、ある女の子と一緒に踊る夢を見ました。これは本当です。ただ、あなただったかどうか、それは確信は持てない。なにしろ夢ですからね」
 どう返すべきか優菜が考え込んでいると、晴人がぽつりと言った。
「……相性が良すぎたんですね」
「え?」
「あなたとぼくの……踊りの相性がね」
「…………」
「踊っているうちに、本物のオデット姫と愛し合っているような錯覚に陥ってしまった。本物なんて、そもそもはじめから存在しないのにね」
「晴人さんのオデットのイメージにぴったり重なり合った、ということですか」
「そう……かもしれないね」
 晴人は表情を変えずにうなずいた。
「……『白鳥の湖』、お好きなんですか?」
「うん?」
 一瞬、彼の視線が優菜に向けられた。
「好きですよ。クラシックの中ではいちばん好きかもしれない」
 そう答えると、すこし間をおいてつけ加えた。
「こういうことを言うのは、たとえば音楽でベートーベンの九番が大好きだって言うのと似たような気恥ずかしさはありますけどね」
「わたしも……いつか踊りたいと思っていました」
「安住野バレエ団にいれば、十分にチャンスはあるでしょう。沓掛さんはクラシックのレパートリーを大切にしてるからね。『白鳥の湖』は何回も公演してるし」
「晴人さんは、踊りたくないですか」
「もしこの調子であなたと舞台で踊ったら、ぼくは踊り手であることを忘れてしまうかもしれませんね」
 晴人が静かな声で言った。
「そして、オデット姫を愛すること自体に心を奪われてしまう」
「……いけませんか?」
 言いながら、優菜は自分がまたすこしおかしくなっているかもしれない、と感じた。
「昨日も言いましたが、あなたもぼくも、身体そのものは、踊るための身体になっています。だから舞台の上で踊っているかぎり、お互いに踊り手としての境界は踏み超えないでしょう。心が求めていても、身体が許さない。でも……観客は気づいてしまうでしょうね」
「気づく?」
「ええ。踊っているふたりが肉体そのものも求め合っていることに……ね」
 優菜はかすかに自分の肩が震えるのを感じる。
「わたしたち……踊りながら、求め合っていたんでしょうか」
「たぶんね」
 晴人の横顔には表情の変化はない。
「踊りの枠の中であんなことができるのは、踊り手としてはある意味理想的な関係なのかもしれませんが……はたしてそれが表現として許されるものなのか、それはなんともいえません」
 優菜はため息をつき、それから言った。
「でもひょっとすると、それは晴人さんが思っていることとは少し違うかもしれません」
「どういうことですか」
「わたしの……勝手な思い込みが入っているような気がしますから」
「思い込み?」
「昔の思い出を重ねてしまっているんです、たぶん」
「例の……あなたの王子様のことですか?」
「……わたしにとっては特別なひとなんです」
「ほう」
「……笑わないで聞いてくださいますか?」
「もちろん」
 本当にいいのだろうか。優菜はもう一度自問した。しかし、こんな関係をもってしまった以上、やはり告げておくべきことだ、と思った。
「あの舞台が終わったあと、あの男の子……朔也くんはわたしを舞台の裏に連れて行きました。わたしたちの出番はそこで終わりで、あとは最後の演目を他の生徒たちが踊るだけだったんです。たぶん、先生たちもそっちに気をとられていたんでしょう、誰もわたしたちの行動に気づきませんでした」
「…………」
「朔也くんは、ぼくの方からもう一度キスしてもいいか、とわたしに聞きました。すこしびっくりしましたけど、そのときはもうお互いの気持ちは通じ合っていると思っていましたから、いいって答えました。そうしたら、お互いになんだか興奮してしまって……歯止めが利かなくなりました。気がついてみたら、抱き合っていた彼の腰がわたしのスカートの奥に……」
 優菜は、頬を真っ赤に染めて腰を動かしていた少年が、かすかなうめき声とともに動きを止めた瞬間を思い出した。そのとき、触れ合っていた彼の熱いものが、何度か震えるのを感じ、同時に優菜にも快感の極みが押し寄せたのだ。
「……衣装を着たままですし、結ばれたわけじゃありません。でも、一緒に大切なことをしたという気持ちはありました」
「…………」
 しばらくの間、車内が沈黙に支配された。
 あきれているのかもしれない、と優菜は思った。
 やがて、晴人が口を開いた。
「……で、その男の子とは?」
「それっきりです。彼の家が、発表会が終わったあとすぐに遠くに引っ越してしまったんです。ショックが大きくて、彼がどこに行ったのかろくに確かめなかったわたしも馬鹿なんですけど」
「でも、もし彼がバレエを続けていれば、また会える可能性はありますね」
「どうでしょう……すくなくともわたしの知っている限りでは彼と同じ名前のプロダンサーはいないです」
「……そうですか」
 それからまたしばらく、お互いに沈黙した。

 車はやがて上りのカーブが連続する道へさしかかった。カーブに進入するたびにタイヤがかすかに鳴り、エンジンがうわーんと唸りを上げる。
 やがて道の片側が開けて、広い空が広がった。
「……着きました」
 晴人は車を停止させ、外に出た。
 優菜も助手席のドアを開けてあとに続いた。
 そこは峠に張り出した展望台のような場所だった。ただ、とくに舗装がされているわけでもなく、びっしりと丈の低い草が自生していた。崖の部分には申し訳程度に柵が植えられていた。
 上空には煌々と光る月があった。満月にあとすこしまで達した、すこしいびつな形の月。
「豆名月、栗名月という呼び方もあるそうです」
 晴人が空を仰ぎ見ながら言う。
「月見は本来、旧暦八月の十五夜とこの旧暦九月の十三夜があって、この両方を見るのが正しいんだそうです。もっともぼくは十五夜のほうは見てませんけどね、今年は」
 遠くの山々の峰がつらなり、周りを取り囲んでいるのがかすかに見えた。
「ここはサンセットスポットとして有名なところなんです。でも、平日のこの時間だとわざわざここまで来る人はいないみたいですね」
 風が吹き、まわりの草がなびく。
 優菜は思わず「さむい……」とつぶやいていた。
「あなたもコートを着てきたほうが良かったかな」
 晴人がそばに歩み寄ってきて言った。
「たしかにそれじゃ寒いでしょう」
 そして、彼は背後から優菜の身体をコートで包み込むようにして抱いた。
「晴人さん……」
「なんでしょう?」
「まさか、こういうことがしたくて、ここに来たとか……」
「そうですね」
 かすかな笑い声。
「ま……半分ぐらいは、当たりかな」
「……ひどい」
 だが、優菜はくすっと笑い、抱かれたままじっとしていることにした。
 不思議と気分は落ち着いていた。
「子供の頃から、月を見るのは好きなんですよ」
 背後から晴人の声が静かな聞こえた。
「ぼくの母が、月が好きな人でね。さっき言った月見は二つあるなんて話を教えてくれたのも、母でした。ぼくが中学生のときに死んでしまいましたが」
「…………」
「身寄りがなくなってしまったぼくを引き取ってくれたのが、ある有名なバレエ団を主宰する女性だったんです。正確に言うと、彼女の知人の夫婦に養子縁組をして、そこの子供という形になったんですが……実質的な親代わりだったのはその女性でした。高校に入学してからは、養父母の家を出て、そのバレエ団の近くにあるアパートに下宿して、研究生として練習に参加していました……その後、いろいろあって、ぼくはこうした仕事をするようになったわけです」
「……晴人さん」
 優菜は、思い切って、いままで抱いていた疑問について訊いてみることにした。
「あなたのお仕事って、本当は何なんですか?」
「…………」
 やや間があって、それから晴人のかすかな笑い声がした。
「……それは答えにくい質問ですね。でも、あなたの言っている意味は分かりますよ。たしかに、ぼくの仕事はバレエ教師ではない。だいたい、指導者になれるほどのきちんとした経験をつんでいません。単なるひとりの踊り手に過ぎない、と言ってもいい」
「舞台には立たれないんですか?」
「そうですね……なにか、突拍子もないことが起きない限りは。たとえば……深海さんが突然亡くなるとかね」
「……!」
 優菜はびっくりして振り返った。
「だから、あくまでもたとえばの話です」
 晴人は苦笑していた。
「おそらく深海さんがいなくなってしまったら、彼の代役を務められるのはぼくぐらいしかいないでしょう」
 その口調はまるで他人事のようで、気負いのようなものはまったく感じられなかった。
「しかし、実際にはまずそんなことは考えられない。王子様はひとつの国にひとりいればそれで十分なんですよ」
「そんな……」
 これだけの技量の持ち主が舞台に立てない、ということがあっていいものだろうか?
「さしずめ、ぼくは冥府の王子というところです」
「メイフ?」
「死者の魂がさまよう闇の世界です……でも、その魂が生まれ変わる場所でもあります。そういう場所がどこかになければならない。だからぼくはここにいる……」
 すこし間をおいて、晴人は言葉を継いだ。
「人の心の中にはつねに陰があります。まぶしい光の中にいる人ほど、その陰の部分にどろどろとしたものが溜まってゆく。でも、それは闇の中でしか見えないものなんです。ぼくはそれを見つけ出して、抜き取る。あるいは生まれ変わらせる。そういう役回りです」
「わたしはべつに光の中にいたわけじゃありません」
「確かに、あなたの場合は少し違う。あなたははじめから深い闇を抱えている。生まれ変わって解き放たれるべきものを持っているんです」
「…………」
「生まれ変わりの前提は、死です。あなたは自分の一部を壊して、それに死を宣告する必要がある。ただ、そのために何をすべきかはあなた自身で答えを見つけてください。ぼくはそのお手伝いをするだけです」
「晴人さん自身は、生まれ変わるつもりはないんですか?」
「ぼくは、闇に居座ることを選んだ人間なんです。ですから、今のところそういう予定はありません」
「……勝手な人」
 では、こうして彼の身体の温もりを感じながら一緒に月を見ているこの状況はいったいなんなのだろう。
「もちろん、ぼくたちはすでに何かを共有してしまっている関係です。ふつうの男女のありようとは違うかもしれませんが」
「……!」
 優菜はどきりとした。
「でも、そこから先のことは何も言えません。ぼくには未来というものがない。あなたもその気になれば、闇に居座ることは可能です。でも、そこに待っているのは闇の世界に浮かぶ幻だけです……分かりますよね」
「…………」
「……優菜さん」
「はい」
「あなたの髪……触ってもいいでしょうか」
 一瞬、ためらいを覚えたが、返事は自然に出た。
「……ええ」
 すると、手ではなく、もっとやわらかいものが優菜の頭に触れた。晴人の頬だった。
「あなたの言うとおりですよ……」
 彼は低くつぶやいた。
「え?」
「ぼくは勝手な男です」
「…………」
 それに対してどう返事をすればいいのか、優菜には分からなかった。
 優菜は空を見上げてた。
 相変わらず、いびつな月が闇の中で独り輝いていた。
「綺麗ですね……月」
「そうですね」
 晴人も静かに言った。

   5

 さらに三日が過ぎた。
 早朝と午前の練習はさほどでもなかったが、午後の練習は、優菜にとって次第にある種の苦痛を伴うものに変化していた。
 その内容は、引き続いて『白鳥の湖』を題材にしたもので、衣装を着けての練習だった。
 場所は礼拝堂ではなく母屋の1階の練習室を使い、雨戸を閉め切って青白い蛍光灯を数本だけ点ける。
 踊りそのものは、グラン・アダージォの変形、もしくは改作だった。それは明らかにあの発表会で優菜が踊った「子供向け」の改作を意識した振付だった。
 こうした特殊といってもいい練習に、どのような意図が込められているのか、優菜はおぼろげながらではあったが理解していた。手がかりになるのは、一緒に月を見たあの晩に、晴人が言った言葉だった。
『あなたは自分の一部を壊して、それに死を宣告する必要がある』
 その自分の一部というのが、十年前のあの思い出を指しているということは分かっていた。
 ただ、あのときと似たような踊りを晴人と一緒に踊ることに、どのような意味があるのか、それが何らかの解決に向かう方法なのかどうか、そのあたりはまったく分からなかった。晴人自身もそれについては説明はしなかった。
 いずれにしても、思い出を壊すことなどできるはずもない。
 ただ、その思い出は確かに自分自身を縛っている面はあるかもしれない、と優菜は思う。いまだに処女のままでいるのはそのせいかもしれなかった。
 これまでに何人かつきあった男性がいないわけではない。が、結局は優菜が相手を拒絶するかたちで終わりを迎えるのが常だった。相手の意識の中に、肉体への欲望が透けて見えると、そのとたんに優菜の気持ちは冷えてしまうのだ。
 要するにまともな恋愛ができていない、ということだろう。それがダンサーとしての自分にマイナスだというのなら、それでもかまわない、と思っていた。
 だが、今現在はどうなのだろう、と自問する。
 晴人に対して自分は恋をしているわけではない、と優菜は思っていた。それは間違いないはずだった。二人の関係は、踊りの枠の中だけで成立している特殊な幻想なのだ。
 ただ、練習を重ねているうちに、その幻想の中で沸き起こる感情は、いよいよ甘く切ないものになってきているのも確かだった。もはや、それは恋の相手に対する感情以外の何者でもない。
 踊り終えたときにいつも恥部が濡れているのは、その感情が肉体そのものへの欲望と重なりはじめている証だった。
 それは、要するにあの少年、朔也との思い出のせいだと思う一方で、そんな考え方をすること自体、それが『壊すべきもの』と言われる所以かもしれないと思う。
 考えてみれば、男性との性的な交渉といえば、あの朔也との行為しかない。それも衣装を着けたままでお互いの局部をこすりあっただけ。  たぶん、それが問題なのだ、と優菜は思う。
 思い出の中で少年との行為は極限まで美化されてしまっている。あの瞬間、彼は間違いなく射精しただろう。だが、優菜にとってそれは性的な経験というには遠かった。限りなく甘美で、せつない思い出でしかない。
 本当の性の交わりはおそらく、もっと野卑で、ヒトがけものの一種であることを思い知らされるような生臭さに満ちた行為に違いない。だが、それは優菜の感覚の中では拒絶されるべきものになってしまっている。その感覚こそ、本当に人を好きになったことがないという証拠かもしれない。  相手が晴人だったら、果たして自分は彼の肉欲を受け入れることができるだろうか?
 優菜はため息をつき、時計を見た。そろそろ午前の練習が始まる時刻だった。

 その午前中の練習のとき、ちょっとした「事故」が起きた。
 ピアノ伴奏をしていた大瀧が、突然ふらふらとピアノの鍵盤の上に倒れこんだのだ。
「大瀧さん!?」
 優菜はあわてて大瀧のそばに駆け寄った。
「ああ……すいません。ちょっと目まいがしましてな。大丈夫です」
「いや、大瀧さん、無理をしないほうがいいですよ」
 晴人が大瀧の肩を支えるようにして言う。
「なんとなくお顔の色が冴えないとは思っていましたが……体調がすぐれないようでしたら、今日はお帰りになったほうがいい。何なら医者を呼びましょうか?」
「いや、それほどのことではないと思いますが……まあ、大事をとったほうがいいでしょうかな。またご迷惑をかけることになってもなんでしょうから」
「優菜さん、すいませんが、染野さんを呼んできてもらえますか。厨房にいなかったら、その奥のほうに染野さんの部屋がありますから。通路の左側のドアです」
「はい」
 優菜は急いで厨房へと向かった。

 厨房には染野の姿がなかったため、優菜は晴人の言っていた奥の部屋へと足を運んだ。
 そして、ドアをノックしようとしたとき、部屋の中から悲鳴のような声が聞こえた。
『あ……んあっ、ああ』
「!」
 優菜は手をぴたりとドアの前で止めた。
 激しい息遣いの中、切れ切れにむせび泣くような声が続く。
『あ…あ……う…ううん…あ、はあっ』
 首筋の辺りに汗が吹き出てくるのを感じた。
 よがり声はさらに激しくなり、その間隔が短くなってゆく。
 優菜は身体を硬直させたまま、ドアの前から一歩も動けない状態になった。
『あ、は、ああ、は、はあ、はあっ、あ、あ。……ああああ…はぁあーーーー!』
 絶叫がドアの奥で響き、そして突然静かになった。
 どうすればいいのか。
 だが、ぐずぐずしていると晴人がこの場に来るかもしれない。
 優菜は思い切って、ドアをノックした。
 そしてできるだけ静かな声で言った。
「染野さん……」
 すると、ドアの向こうからも静かな返事が返ってきた。
『はい。優菜さんですか?』 「ええ……あの、大瀧さんのお加減がちょっと悪くなってしまって……今日は早めにお帰りいただくことになったので、車のほうを」
『分かりました。すぐ行きますので、玄関のほうでお待ちになっていてください』
「はい」
 優菜は深く息を吐き出すと、のろのろと通路を戻った。
 あの声は……たぶん輝久美。ということは……。

 大瀧が車に乗り込んで帰るのを見送ったあと、晴人と優菜は練習室に戻った。
「優菜さん、どうかしましたか。なんだかぼんやりとした感じですよ。それに顔が赤い」
「え、いえ……」
「まさかあなたまで病気になったなんてことはありませんよね」
 晴人はそっと優菜の額に手をあてた。
「あ……」
「うん、べつに熱があるってわけじゃなさそうだ」
 晴人は微笑んだ。
「あ、あの、すいません。下着を換えてきてもいいでしょうか……汗が冷えてしまって、ちょっと」
「ああ、そうですか……いや、それじゃあ、ここまでにしておきましょう。こういうことがあると集中力が途切れるからね。午後に仕切り直しをしたほうがいい」
「は……はい」
 部屋に戻って着替えを終えた頃に、ドアがノックされた。
 優菜はびくりとしてドアを見た。
『優菜様?よろしいですか』
「……どうぞ」
 ドアが開く。
「洗いものをいただきに参りました」
「はい……」
 輝久美はいつもと変わらない表情で、練習で使った衣装を受け取る。
 さっきのあの声は、間違いなくこの輝久美のものだった。とすれば、彼女は染野とそうした関係を持っていることになる。それは優菜には直接かかわりのないことではあったが、自分よりも明らかに年下のこの少女が、そうした行為をしているということが、ひどく現実離れしていることのように思えた。
「……なにかほかに御用がございますか?」
 優菜はわれに返った。
「いえ、大丈夫です」
「では、失礼いたします」
 ドアが閉まると、優菜はほうっと息を吐き、ベッドに腰を降ろした。
 それにしても、このもやもやとした気持ちはどこから来るのだろう、と優菜は思った。
 が、考えるまでもなかった。明らかにそれは、あの秘め事を聞いてしまったことによるものだった。ただ、染野や輝久美に対する悪感情、というものとは違っていた。むしろ、焦りに近い気分だった。

 昼食の後、少したってから、優菜は研究所の庭に出てみることにした。じっとしているよりも歩き回ったほうが、考えがまとまりやすいかもしれない、と思いついたのだ。
 主題は言うまでもなく、この研修に優菜自身がどう決着を与えるかということだった。自分の一部を殺せ、と言われても、それが思い出として頭の中に刻まれている以上、手の施しようがない。だが、それをどうにかしなければならないという気持ちも確かにあった。
 思い出を殺す。忘れるのではなく、殺す……。
 ふと、幻滅という言葉が浮かぶ。幻想を滅ぼす。つまり、あの思い出を美化している自分の思い込みを壊せばいいこということなのだろうか……。
 そんなことを考えながら、草ぼうぼうの庭を歩き回っているうちに、車庫のそばで車を洗っている染野に出会った。
「あ……」
「おや、珍しいですね。外に出られているのは」
「ちょっと、考え事をしていたので……」
「そうですか」
 染野はホースでメルセデスに水をかけながらうなずいた。
「いらっしゃってから一週間ぐらいになりますしね……考え事をしたくなることもあるでしょう」
 ついさっき、彼は輝久美と激しく交わっていたのだ、と思うと、なんとなくそこに立っている染野が形だけの虚ろな存在に感じられなくもなかった。  つまり、ある意味では染野に対する幻想が壊れたのだ。しかし、その幻想はいまここにふたたび現実として存在している。彼はどうみても穏やかな気品のある男性で、とても若い女の子を手ごめにするような人物には思えない。もっとも、あの輝久美の様子から想像すれば、行為自体はお互いの合意にもとずいたものとしか思えなかったが……。
「……どうされました?」
「えっ?いえ……」
 黙って突っ立っていれば、おかしいと思われるのは当然だろう。優菜は頭の中であたふたと話題を探した。
「……染野さんは、この研究所が設立されてから、ずっとこちらにいらっしゃるんですか」
「ええ。まあまだ2年と少ししか経っていないわけですが」
「その間、どのくらいのかたがここにいらしたんでしょう」
「……はっきりと数えているわけではありませんが、十二、三人というところでしょうか。二ヶ月にひとりぐらいの割合ですね。ちなみに、優菜さんは設立3年目に入って最初のお客様です」
「そうですか……」
「ただあなたは、ちょっと特別な感じですね」
「特別?」
「あなたに対する扱いがね……所長がちょっと迷っていらっしゃるような感じがしないでもない」
「迷っている……」
「そう」
 染野はホースの水を止めた。
「ここに来る方は、ほとんどの場合、踊り手として壁に当たっていたり、なにか精神的な問題を抱え込んでいらっしゃるんですよ。ですからひどく簡単な言い方をしますと、ここは気分転換のための場所なんです。ちょっと日常とは違う生活を送ることで、見えないことが見えるようになるとか、問題だと思い込んでいたことが、さほど問題ではないと気がつくとか、そんな効果があるんだと思います。もちろん、これは外から見てそうわたしが感じるだけで、もっと実態は複雑なんでしょうけれどね……」
「…………」
「でも、あなたの場合はそれだけじゃないような気がします。あなたはむしろ所長自身に対しても影響を与え得るひとのようです」
「自分ではとてもそうは思えませんけど……」
「問題に立ち向かっていれば、自然に答えは出てきますよ。流れはもうできています」
 その確信に満ちた口ぶりに、優菜は思わず言った。
「……染野さん、本当はもっと別のお立場なんじゃありませんか。ただお食事を担当されているだけの方とは思えません」
「え?」
 染野はすこし驚いたような顔をした。
「いえ、そんなことは……ありませんよ。わたしはただの料理人です」
 染野はくっくっと笑った。
「しかし、そんなことを言われたのは初めてですね」

   午後の練習の時刻になった。
 衣装を着けて1階の練習室に入ると、例のごとく王子の扮装を着けた晴人が中にいた。
 いつものように雨戸は締め切れており、部屋の中は薄暗い。数本だけ点いている青みがかった蛍光灯がふたりを照らしていた。
「今日は、即興で踊る練習をしましょう」
「即興……ですか?」
「ええ。おなじようなシークエンスを繰り返してゆくうちに、お互いの感覚にマッチした踊りに収束させてゆくというわけです。曲は『情景』を使います」
「あれを繰り返すんですか?」
「そうです。これはある意味精神的なトレーニングにもなりますよ。同じ曲を、しかも馴染みのあるメロディーを繰り返し聴いているとだんだん思考力が麻痺してきますから。その中で踊りを創りあげるのはなかなか難しい作業です」
 それはそうだろう。そんな練習をしたことは優菜自身まったくなかった。
「音楽を何回繰り返すかという限度はいちおう決めてありますが、途中でぼくの判断でやめることもあります。あなたも、ちょっと体調がおかしいとか、そういうようなことがあれば遠慮なく言ってください。すぐ中止します」
「はい……」
 これは練習という名前の我慢比べの一種なのかもしれない、と優菜は思った。持久力にはある程度の自信はあったが、こういった設定は初めてなだけに、なにが起きるか見当がつかなかった。
 今日の晴人はゆったりとした袖の白いシャツの上に袖なしの黒のチュニックを着け、白いタイツをはいていた。「ジゼル」
などのロマンティック・バレエではよく見かけるタイプの王子だった。ただ、ベルトつきの上着で裾がふとももの付け根近くまである点はこれまでの衣装と似ていた。
 優菜は何気なく聞いてみた。
「それも、深海さんの衣装ですか?」
「ええ……そうですよ」
 そう答えると、晴人は薄く口元に笑みを浮かべた。
「なにかそういう感じがしました?」
「あの…ベルトつきの衣装ってわりと珍しいので。でもよく考えてみると、深海さんはそういう衣装が多かったかも知れないと思って」
「これは一種の演出なんですよ」
「演出?」
「ええ。ひとつには他の男性ダンサーとの差別化です。他のダンサーは王子役でもこういう衣装を着けないでしょう」
「そういえば……」
 そんな意図があるとは思っていなかったが、たしかに彼以外のダンサーは裾の短い上着で、腰のラインがむき出しになる衣装を着ていたようだ。
「もうひとつは、王子もふだんは隠しているというのが魅力につながるという考え方ですね」
 隠している?
 すぐにその意味は分かった。つまり股間を隠しているということだ。
 優菜は女性ダンサーのあいだでささやかれている有名な噂を思い出した。
 それは、深海鷹彦の男性器は平均よりもかなり大きい、というものだった。しかもいざというときのサイズがすさまじいために、日本の女性を相手にすることができず、恋人もできない。したがって、海外に客演したときに現地の女性と交わるしかないのだ、というオチまでついていた。
「それは結果として成功してるでしょう。隠すことによって、見かけ上は、男であるという主張を消す。でも、それは実は男であることを観客に意識させるための演出なんですよ。しかも」
 晴人は、チュニックの裾を持ち上げて見せた。ボタンがベルトのすぐ下までしかないので、前が開いて簡単に持ち上がる。
「実際には隠しているとはいえない状態ですから」
「…………」
 つまり、その部分が踊っている最中にちらちらと見えるという蟲惑的な演出をも担っているということのようだった。
 すると、晴人がくすっと笑った。 「幻滅したっていう顔をしてますね」
「い、いえ……べつに」
「ただ、これは深海さんが自分で考えたことじゃなくて、沓掛さんが自分の見たいものを作るためにそうした演出をしてるんでしょう。あえて自分の弟を犠牲にしているというところがあのひとらしいけど」
「犠牲……なんですか?」
「そうですよ。これは男性にしかわからない感覚かもしませんがね、こういう衣装はかなり恥ずかしいものですよ。見ようによっては女装に近いですし、それでいて男である部分を意識させられるし。性的に引き裂かれた感覚とでもいいますかね」
「晴人さんも……?」
「まあ、多少はね。でも、ぼくはこういう感覚は割りと好きです」
「…………」
 そういうことを涼しい顔で言われると、返しようがない。
「さて……それじゃそろそろ始めましょうか」
「あ、はい」
 優菜はほっとしてうなずいた。これ以上この話を続けるのも気詰まりだった。
「最初は…そうですね、いちおう第二幕の最後の王子とオデットの別れのシーンにもこの曲が使われてますから、その振りを参考にしましょうか」
「はい」
「最初から優菜さんが自由に振りをつけてもかまいませんよ。ぼくはあなたの動きについていきながら適当に自分の振りをつけます」
 果たして、自分にそんなことができるものだろうか。
 おそらく無理だろう、と優菜は思った。少しづつ変えてゆくしかない……。

 ふたりで、部屋の中央に立つ。
 哀愁を帯びたメロディーが流れ始める。
 からだがかすかに震えた。グラン・アダージォの曲以上にこのメロディーには心が揺すぶられる。それはなぜなのか……。
 その理由はもちろん、あのビデオを見て思い出した「別れの踊り」だ。  頭の中で思い出が再構成されつつもも、晴人との踊りは進む。それは少年と踊ったときの別れのシーンと同じ動きだった。
 オデットは王子の腕から逃れるように脚を軽く開きながら横に進み、ふたたび王子の腕の中でポーズをとる。
 ふたりは手をとりあい、見つめながら中央に向かってゆっくりと歩く。
 そして王子は手をはなすと、天を指差してオデットへの永遠の愛を誓う。そして片膝をついて求めるようにオデットに向かって両腕を伸ばす。そこへオデットは脚を小刻みに動かしながら、すい寄せられるられるように近づいてゆく。
 そして王子に顔を近づけて……。
「!」
 しまった、と思ったときには、もう唇を重ねてしまっていた。
 優菜の身体はふたたび王子のそばを離れ、トゥ・シューズの先を震わせるように動かしながら回転し、舞台袖の方向、つまり部屋の片側の隅へと移動してゆく。
「…………」
 音楽がいったん終わったので、優菜が後ろを振り向くと、晴人が呆然とした表情で優菜を見つめていた。
「……?」
 が、ふたたびメロディーが流れ始めたために、ふたりはほとんど同時にお互いの身体を近づけ、踊り始めた。  さっきとは多少違う動きになっている。
「……驚きましたよ」
 踊りながら晴人がささやくように言う。
「え?」
 一瞬、動きが止まりかけたが、踊り手としての本能が優菜のからだを支配している。踊りはそのまま進んでゆく。
「展開部からは当然、振りを変えてくると思ったんですよ……」
 晴人は優菜のからだを両腕で抱えるようにしながら支え、ささやき続ける。
 優菜はそこで、彼がなぜ最初に自由に振りをつけてかまわないと言ったのか、その意味が分かった。この別れの踊りにはキスシーンがあるからそれを回避しろ、ということだったのだ。
 いや、もちろん優菜自身そんなことは分かっていたはずなのだ。だが、身体が勝手にあの少年との思い出をそのままなぞってしまった。
 そして……。
 優菜のほうから、キスしてしまった。
「あっ…」
 優菜は小さく叫びを洩らしてしまう。一瞬、腰がぐらついてしまったのだ。
「ごめんなさい、もう黙ります」
 と晴人。
 優菜は小さくうなずきかえす。
 なんということだろう。踊りの流れに乗ってしまったということは言い訳にはならない。振りを変える主導権はこちら側に与えられていたのだ。
 もちろん、晴人にはキスを避ける選択肢もあったはずだ。
 これは仕返しのようなものだろうか、とさえ優菜は思った。数日前にはじめてアダージォを踊り終えたあとのキスと同様に、この行為はお互いの合意の上で成立したことをあらためて確認させたというような……。ただ、そこまで悪意に解釈したくはなかった。
 とりあえず意識的に、はじめの動きのステップを繰り返しながら、上半身のバリエーションをつけることで、誓いのシーンの部分を消すことにした。だが、それだけだと今度は全体の動きが単調になってしまう。そこで、三度目の繰り返しのときに、四小節ごとのポーズに変化をつけた。すると、それに応じて、晴人もサポートの姿勢を変化させてくれた。
 踊り続けるうちに、ようやく気分が落ち着いてきた。そう、これはあくまでも稽古なのだ……。
 派手な動きは抑え、できるだけゆるやかな、しっとりとした踊りに組み替えるようにしていった。結果的に、最初から最後まで王子に支えられながら踊るかたちになってゆく。
 ゆるやかな動きの中で、次第に王子は身体を密着させてくるようになった。腰を抱きしめ、ほほを寄せ、唇が、肌に触れるまであとわずかの位置にまで寄ってきては、熱い息を吐きかける。
 それが挑発なのかどうか、そこまでは分からなかった。だがすくなくとも、優菜の意識が甘美な幻想の中に引きずり込まれつつあるのは確かだった。
 踊りを支配する哀しみに満ちたメロディーとリズムとともに、せつない感覚の波が、首筋から、手の指先から、あるいはシューズに包まれたつま先から、ゆっくりとうねるようにやってきては打ち寄せ、引いてゆき、また打ち寄せる。
 自分はまたしても罠にはまってしまったのではないか、と優菜は鈍くしびれるような快感で覆われはじめている頭の片隅でぼんやりと思った。愛撫されているわけでもないのに、乳首はすっかり硬くなってしまっていた。それは、胸の先にときどき走るかすかな痛みが証明している。
 音楽がふたたび最初のフレーズに戻る。
 優菜の四肢は、意志を離れて勝手に動いていた。すくなくとも彼女自身にはそう感じられた。繰り返しの中で身体に完全に刷り込まれてしまったのだろうか。かすかに広がりつつ疲労感も、そのなめらかな動きをさまたげはしなかった。まるで操り人形のようにされてしまったような感覚だった。
 その中で、王子はサポートに変化をつけてきた。抱き寄せるように、ときにはすがりつくようにしてオデットにみずからの身体を絡み合わせる。するとどうしたことか、オデットの身体もその動きに合わせるようにしてバランスをとりながら微妙にステップを変化させてゆく。
 支配されている。自分の身体は、この美しい王子に完全に制御されてしまっている。だが、ネガティブな感情はなかった。ただ、ひたすらに甘い陶酔があるだけだった。
 身体がさらに密着した。王子の美しい脚がオデットの軸脚をはさみつけていた。その柔らかな肉の感触が、快感の波に変わり、背筋を駆け上がる。
 そのまま王子は腰を下げて、脚をすべらせた。曲げられた片膝がオデットの太ももの間にさしこまれる形になる。ほとんど反射的に優菜は背を反らし、片足をはねあげていた。それでも、二人の身体は密着して、離れなかった。
 限界までにじんでいた蜜が、洩れ出てきているのを優菜は感じ取った。
 王子はこのまま自分を犯すのだろうか。
 あり得ない、と優菜は思った。
 いま、この肉体はオデット姫になっている。踊りの位相の中でそのすべてを王子に支配されている白鳥の女王。彼は、この特殊な空間の中に、限界近くまで想いを吐き出し、あくまで踊りの中で融け合おうとしているのだ。
 だが、王子よりも先に、オデットの身体が内側から溶け始めていることを彼は知っているのだろうか……。
 ふたたび王子がオデットの身体を引き寄せ、抱きしめる。優菜はふたたび背筋をそらした。
 その瞬間、激しい快感とともに、熱い塊が身体の芯ではじけた。
 白い光が眼の前に満ち、そして闇へと暗転した。

 その夜。
 優菜は意を決して、2階にある晴人の寝室を訪ねた。
 ノックをすると、すこし驚いたような声が『誰?』と返ってきた。
「優菜です」
『……どうぞ』
 優菜は部屋の中に入り、ドアを閉めた。
「……どうしたんですか?」
 静かな口調でベッドの中の晴人が問いかける。
「眠れないんです」
 優菜は正直に言った。
「だからここに来る、というのはおかしいんでしょうけれど」
「…………」
「わたし、ひどかったんでしょうね」
「ひどい?何が」
「気絶したときです」
 優菜はかすかな怒りを感じながら言った。
「下着…輝久美さんが替えてくださったんでしょうけど」
「そんなことを気にしてたんですか?」
「そんなこと、じゃありません!」
「まあまあ…叫ばないでください」
 晴人はベッドから身体を起こした。
「…………」
 優菜はぐっと両手をにぎりしめた。
「あの練習に……どんな意味があったんですか?わたしを追いつめるためですか」
「追いつめる?何のために」
 何のため……。そう聞き返されると答えようがなかった。
「トレーニングとして、身体にきつ過ぎたというのならそれは確かにぼくの不手際とも言えますが……気を失ってしまうとは正直思っていませんでしたしね」
 たしかに、気を失ったのはむしろ優菜自身の問題である可能性のほうが高い。踊りそのものは苛酷というほどの運動量ではなかったのだ。
 だが、たとえ理屈はそうだとしても、優菜としては引き下がれなかった。
「責任をとって下さい」
「え?」
「わたしを……」
 一瞬、反射的に言葉を飲み込みそうになったが、無理やりに吐き出した。
「わたしを抱いてください」
「…………」
 晴人は表情を動かさなかった。
「あのとき、踊りながらわたしはあなたに犯されていました。すべてを支配されていました。でも、それはあくまで踊りの枠の中でのことです。わたしの心と身体はそれに耐えられませんでした。それは、わたしのせいなんでしょうか?単なる訓練不足ということなんでしょうか?」
「……そうとも言えるし、そうではないとも言えます」
 晴人はゆっくりと答えた。
「ぼくはあなたが抱えている傷をわざわざえぐっている。それは確かです。ですから、それに耐えられなかったのはあなたの問題でもありますが、この練習をしようと言い出したぼく自身の問題でもあります」
「明日も……あの練習をするんでしょうか」
「さあ…それはどうでしょう」
「もしそうなら、また同じことの繰り返しのような気が……っくしゅ」
 くしゃみが出てしまった。
「そんなところに立っていたら、風邪を引きますよ」
「……どうしたらいいんですか」
「ここに来たらどうです」
 晴人は言う。
「それが目的なんでしょう?」
「……!」
 優菜は思わず唇をぐっと引き結んだ。が、言われてみればその通りなのだ。抱いてくれと言ったのは優菜なのだから。
 ベッドのそばに歩み寄り、毛布を持ち上げて中にもぐりこむ。
「優菜さん……あなた、意外と強気な性格ですね」
「…………」
 優菜はそれには答えず、晴人の胸に顔をうずめた。
「お願いです。わたしを……抱いてください」
「それが正解だと考えたんですか?」
「わたしはおかしくなってしまいます。あなたは、わたしがこの状況に耐えられなくなって、ここを出てゆくことを望まれているんでしょう?」
「そんなことはないですよ」
「わたしはそう思います。だって、あなたは帰れとはおっしゃらない。むしろ望むだけここにいていいという態度をとっている」
「その通り。あなたは好きなだけここにいていい。あなたが何かを得たと思うまで」
「ということは、わたしが決めるしかないじゃありませんか」
「……ぼくがあなたを抱くと、あなたは決めることができるんですか?それで何かが得られるんですか?」
「すくなくとも、あなたを嫌いになることはできます」
「嫌いになりたいから、抱かれたいと言うの?」
 晴人はかすかに笑い、優菜の髪をなでた。
「ひどいね……」
 だが、それ以上はなにもしなかった。
「……抱いてはくださらないんですか」
「前に言ったでしょう。ぼくは闇の世界の人間なんです。まっとうに女性と愛し合ってしまったら、ぼく自身が生まれ変わってしまいますよ」
「それでなぜ駄目なんですか?」
「生まれ変わったぼくには、何も残らない。光の世界でぼくが得られるものはないんです。ある人と約束をしているんですよ……ぼくはここで、自分の役割を果たさなければならない」
 その約束を破ってしまったら、踊り手としては抹殺されるということなのだろうか。
「じゃあ、もしわたしがこのまま居座り続けたら……どうするんですか?」
「べつにどうもしませんよ。闇の世界のお姫様になるという選択肢もある。でも王子と踊ることはできても、愛し合うことはできません」
「…………」
「ベッドの中で議論をするというのはあまり建設的ではないような気がします……とりあえず、今日は一緒に眠るというのはどう?」
 それでもいいのかもしれない。すくなくとも、さっきまでのような焦燥は消えうせていた。そう思うと、急激に眠気が押し寄せてきた。
「おやすみ、お姫様」
 やわらかいものが頬に触れるのを感じながら、優菜は眠りの中へ落ちていった。

 まぶしさを感じて、優菜は目をさました。
 誰かが窓のカーテンを開いたのだ。
「…………」
 自分のいる場所がいつもと違うことに気づき、きのうの記憶をぼんやりとたどる。
 晴人の部屋に行き、そして……。
「!」
 優菜は、がばっと跳ね起きた。空気が冷たかった。
 無意識に時計を探し、視線をさまよわせる。
「まだ5時半ですよ」
 晴人がもうひとつのカーテンを開きながら言った。彼はすでに黒いシャツとズボンに着替えていた。
「おはようございます、優菜さん」
「は……はい、おはよ……ございます」
 うまく舌がまわらない。
「よく眠れましたか?」
「……はい。す、すいません、失礼します」
 優菜はベッドから降り、そそくさと部屋から廊下へと出た。
 そこで、ばったりと輝久美に会ってしまった。
「あっ…!」
「……おはようございます」
 相変わらず彼女は無表情だった。この程度ではべつに驚きませんよ、というような目つきだった。
「お、おはようございます」
 そのまま逃げるように階段へと向かう。
 すると背後から声がした。
「……優菜さま」
「は、はい?」
 体が硬直し、思わず声が裏がえる。
「階段はゆっくりと降りられたほうがよろしいかと思います。怪我をなさるといけませんので」
「はい……」
 忠告された通りゆっくりと階段を下りながら、心臓に悪すぎる、と優菜は思った。いや、そもそも自分自身の行動に問題があったのだが……。
 寝室で稽古着に着替えてから練習室に入ると、晴人は特になにも変わらない調子でふるまい、朝の練習が始まった。いつものようにバーレッスンをしている間は、決まりきった流れの中に身を置いているということもあって、あまり晴人個人のことを意識することはなかった。
 だが、レッスンが終わり、朝食の席についたところで、ふたたび緊張感が高まってきた。
 テーブルの向かい側に座っている晴人の顔を見るのがこれほどつらいのは初めてだった。
 昨日、自分は彼の部屋に夜這いをかけてしまった……。朝の光の中でそのことを思い返すと、それだけで頬が火照った。いったい自分はなにをやっているのか。
 だが、晴人も、そして給仕をする輝久美の態度もふだんとまったく変化はない。そのことが、かえって緊張を増した。
「優菜さん、どうされました」
 晴人が沈黙を破って言う。
「えっ……」
「あまり食事が進んでいないようなので」
「あ、いえ…すいません、ちょっとぼんやりとしてしまって……」
「輝久美」
「はい」
「戻って自分の食事を取りなさい。ここはもういいから」
「はい。それでは失礼いたします」
 輝久美はお辞儀をして食堂を出て行った。
 晴人はその姿を見送ってから、優菜に視線を戻した。
「ぼくが言うのもなんですが、あまり気にしないほうがいいですよ。あなたはただ眠れないので、ぼくの部屋に来て一緒に眠った。それだけのことでしょう」
「…………」
「いま、あなたとぼくは、世間の言葉では説明できないような関係なんだと思えばいいんじゃないですか?」
「そうなんでしょうか……」
 だが、たしかにそうとしか言いようがなかった。だが、問題はそれがいつまで続くのか、だ。
 いま優菜がここでひとこと、東京に帰る、と言えばそれですべては終わる。それは久川真弓も保障していたことだ。この研修の行方は、優菜自身の意思に任されている。
 だが、ここにいる限りは晴人との練習が続く。
 生殺し、という言葉が頭の中に浮かんだ。
 いっそ、本気でここに居座ってしまうということを考えてみるべきなのだろうか。だが、それは現実にはなにを意味するのだろう……。
 そこで優菜はふと思いついたことを、口にしてしまっていた。
「輝久美さんも、冥府のお姫様なんでしょうか……」
「えっ…!」
 晴人は一瞬、なんのことか、というような表情をしたが、やがて昨夜の会話を思い出したらしく、苦笑をもらした。
「とんでもないことを考えるんですね……彼女は単なるお手伝いさんですよ。バレエとはまったく縁がないし」
「そうですか」
「冥界のお姫様のすることは、王子様と踊ることだけですよ」
「でも、いつまでもというわけにもいきません」
「それはそうですね……正直、ぼくは何年も先の自分のことなんか考えていないんですよ」
 やっぱり、と優菜は思った。つまり、結婚や家庭生活という現実的な概念はそこには存在しないのだ。
「冥府のお姫様として一緒に踊るだけの存在であれば、受け入れてもらえる、ということですか?」
「……まさか、本気でそんなことを考えているわけじゃないでしょうね?」
「そういう選択肢もある、とおっしゃったのは晴人さんです」
 晴人は当惑したような表情をしたが、やがてきっぱりと言った。
「あなたには帰るべき場所があるんです。そのことは忘れないほうがいいですよ」

 その日の午後、晴人は知人と面会の約束をしているということで出かけ、午後の練習は休みになった。
 夕方近くになって、部屋のドアをノックする音がした。
「はい」
「輝久美でございます。衣装をお持ちしました。申し訳ありませんがドアを開けていただけますか?」
「あ…すいません」
 優菜はいそいでドアを開けた。 「失礼いたします」
 輝久美は衣装を抱えるようして持ってやってきた。
 その純白のチュチュを見てしまうと、きのうの失態が思い出されてしまう。もちろん、自分自身では何も覚えてはいないが、その後始末をすべてしたのはきっとこの輝久美に違いないのだ。現にこうして衣装を持ってきていることがその証拠である。おそらく手洗いで洗濯をしてくれたのだろう。
「こちらはタイツです」
 たたまれたタイツを手渡される。
「…いろいろとお手数をかけました」
「いいえ」
 輝久美は例によって無表情に首を振る。余計なことは一切言わない、というのはときに相手に圧迫感を与える。いまの優菜にとっては、気を失ったあとになにが起きたのかを知る手がかりがない。だから、彼女が何か愚痴めいたことでも言ってくれたほうがまだ気が楽になったのだが。
 すると、輝久美がめずらしく自分から優菜に向かって言った。
「あの……優菜さま、余計なこととは存じますが」
「え?」
「お稽古の前には、すこし水分を控えられたほうがよろしいかもしれません」
 その言葉の意味を理解するのに、数秒かかった。
 が、すぐに首筋が熱くなってくるのを感じた。
「ご…ごめんなさい」
 恥ずかしさのあまり、涙が出そうになるのを優菜は懸命にこらえた。
「優菜さまのせいではありません」
 輝久美はほんのすこしだけ気の毒そうな表情を見せた。
「ごめんなさい、本当に」
「いいえ……悪いのは、晴人さまです」
 ぽつりとつぶやくように言う。
「え……?」
「それでは、失礼します」
 輝久美は、なにごともなかったかのようにお辞儀をして、出て行った。
「…………」
 すこしの間、優菜は閉められたドアを見つめていた。この屋敷に来てから初めて輝久美の人間らしい感じの言葉を聞いたような気がした。ただ、それが晴人に対する非難だったというのが意外だったが。
 だが。
 優菜は深いため息をもらしていた。どちらにしても、自分が粗相をしてしまったという事実は曲げようがない。
 おそるおそる、チュチュのその部分に触れてみた。色は真っ白だったし、匂いもとくにしない。よほど念入りに洗ったのだろうかと思い、ふたたび恥ずかしさがこみあげてくる。
 が、そこで優菜は奇妙なものに気づいた。
「……?」
 その中央部に縦に切れ目のような筋が入っており、それが細い紐のようなものでまるで編み上げ靴のようにして閉じられていたのである。
 こんなものが最初からあっただろうか?
 修理の跡かもしれない、とも思った。実際、生地の真ん中が裂けやすいということはあり得る。だが、それならこんな紐ではなくて、糸で閉じておくだろう。しかも紐を解きやすいように蝶結びにしてある。それはこの切れ目を「開く」ことを前提にした構造だった。
 まさか、練習の途中でもこれで用足しができるという意味なのだろうか?
 そこで、ふと手渡されたタイツを見てみると、タイツの内側に薄手の下着が縫いつけられていた。
 そこには男性用の下着に似た小さな開口部が、きちんと縫い取りされてつけてあった。
「うそ……」
 だが、そこで優菜の思考はいったん中断された。ドアがふたたびノックされたのだ。
「はい…?」
 ドアの外から、輝久美の声が聞こえた。
『優菜さま、お電話が入っております』
「あ、はい」
 ドアを開けると、輝久美が無線式の子機を差し出した。
「保留ボタンを押してくだされば、つながります」
「はい」
 誰からだろう、と思った。ここに直接連絡をとれる人間はあまりいないはずなのだ。
 優菜は言われたとおり点滅しているボタンを押して、子機を耳に当てた。
「もしもし」
 すると、女性の声が受話器から響いた。 『あ、小野寺さんですか。わたし、沓掛陽子です』
「は、はい……!」
 驚きのあまり、子機を取り落としそうになる。
『さっきまで晴人さんに会って話をしていたの。今回の研修についてちょっと相談を受けたわ』
「そ、そうですか……」
『まあその内容はともかくとして、わたしはあなたに少し確認しておきたいことがあるの。いいかしら?』
「は、はい」
『あなたはウチに帰ってくる意志はあるわよね?』 「え?」
『つまり、そこでの研修を終えて、バレエ団に復帰するつもりはあるんでしょう?』
「…はい」
 一瞬ためらったが、優菜は答えた。
 居座ってしまったらどうなるのか、という問いかけを晴人にはしたが、それが非現実的なことだということは最初から分かっている。ただ、晴人との関係が中途半端に終わることは避けたいという気持ちもあったが……。
『もちろん、理屈ではあなたはそこにずっといたってかまわないのよ。ただ、あたりまえだけどこっちの舞台には出ることはできないわ。それは分かるわよね』
「はい」
『あと、研修の内容については晴人さんに任せてはいるけど、もし今の段階で内容に問題があれば、それを言ってくれる?あの手紙には管理部経由って書いてあるけど、別にこうして話す機会があったんだから、いいわよ。どう?』
 優菜はすこし迷った。しかし問題と感じることがあるとしても、それを具体的に説明するのは不可能に思えた。
「とくに…ありません」
『そう。それならいいわ。あなたが踊り手として生まれ変わった姿をきっとわたしに見せてくれる、と思っています。期待してるから』
「は、はい。ありがとうございます」
『それじゃあね』
「はい…失礼します」
 優菜は子機のスイッチを切った。
 晴人が沓掛陽子と会っているとは予想もしていなかった。なにか彼自身がこの研修に問題を感じたということだろうか?
 だが、いくらここで想像をしてみてもはじまらない。
 優菜は部屋の外に出て、玄関の近くにいた輝久美に子機を返した。

 晴人は、夜の八時を過ぎた頃に帰ってきた。
 そのことを輝久美に伝えられて部屋を出ると、晴人がすでに近くまで来ていた。
「優菜さん、すこしお話があります。書斎まで来ていただけますか?」
「…はい」
 優菜は晴人のあとに従い、2階に上がって書斎に入った。
「どうぞ、ソファに」
 短くそう言うと、晴人も向かい側のソファに腰を降ろした。すこし疲れた表情をしていた。
「沓掛さんに会って、話をしてきました。電話があったでしょう?」
「は、はい」
「あなたのために、ぼくは何をするべきか……それがすこし見えなくなってきてしまったので、無理を言って相談をしたんです。情けない話ですけれどね。でも、泣き言を言うな、と説教されてしまいました」
 晴人は苦笑を浮かべ、それからすこしうつむいて言った。
「十三夜の月を見た晩、あなたはぼくの本当の仕事は何か、とおっしゃいましたよね。ぼくはそのとき、はっきりとした言い方はしませんでした。というより、言えませんでした……あなたに軽蔑されるのが恐ろしかったからです」
「…………」
「でも、事ここにいたった以上、本当のことを言うのがベストだとぼくは……」
「待ってください!」
 優菜は晴人の言葉をさえぎった。
「それは、わたしがここに居座るかもしれない、と言ったことと関係がありますか?」
「……ないとは言えません。でも、もっと正直に言うとね、もうぼくにはもう限界なんですよ。このままでは……」
 ほんの一瞬、晴人は躊躇したが、その先を続けた。
「……あなたを本気で抱いてしまう」
「わたしは……かまいません」
 優菜は、かすかに唇が震えるのを感じながら言った。
「でも、それはできないんです」
「どうして!」
「ぼくはね」
 晴人は寂しげに微笑んだ。
「ここに来る女性たちに、身体を提供するだけの男なんですよ」
「……!」
「もっと分かりやすく言うとね……深海さんの身代わり役なんです。どんなに美しい踊り手であろうと決して相手にしようとしない、あの王子様のね」
「そ、そんな……どういうことなんです!」
「深海さんは、悪魔のような魅力を持ったひとなんですよ。彼と一緒に踊って、その魅力の虜にならない人はいない。でも、彼は絶対にパートナーに手出しはしません。あなたも、噂は聞いたことがあるでしょう、彼には国内の女性を相手にできない身体的な理由があるんだと。それは、彼の潔癖とも思える女性への態度が生んだ伝説です」
  「…………」
 例の巨根説は、たしかにバレエ団の内部では有名だった。
「なまじ彼が踊り手として完璧で、表現者としてまったく隙がないがゆえに、彼と踊るプリマたちにとって、その魅力は耐え難いストレスを与えるんです。ときに踊り手としての自信を失わせるほどに。そこで、ぼくがそのアフターケアをしているんですよ」
「じゃあ、わたしは何でここに……?」
 晴人はソファから立ち上がり、反対側にある窓のほうへと歩いていった。
「ぼくは今日、沓掛さんから直接あなたの評価に関することも聞いてみました。あなたは、これまでにパ・ドゥ・ドゥーを踊る役のオーディションに何回か参加しているけれど、そのたびにはねられている。パートナーとのコンビがうまくいかなったからでしょう。その一方で、コール・ドとしてもうまく実績を残せないでいる。あなたは群舞の中ではなぜか目立ってしまって、全体のバランスを崩すもとになる、という評価を受けているようです」
「……その通りです」
 そのあたりはすでに十分に自覚している。
「でも、踊りのテクニックや感情表現に関してはどの指導者もきわめて優秀だと言っている。だから、何かあなたが力を出せない理由があるに違いない、そう考えて沓掛さんはあなたをここによこしたんです。彼女の予想は、ごく単純なものでした。おそらく、あなたには男性との経験がない。それが大きな要因になっているはずだ、と」
「……それで、わたしに経験をさせようとしたということですか」
「そう。しかし、実際にはそれだけの問題だけではなかった」
「…………」
「ぼくは、あなたの例の少年との思い出が、踊りの中で想いをふくらませる強い力になっていることを知っています。でも、それはたぶん万能ではない。ある限られた状況でしか発揮されない……」
「状況というのは……『白鳥の湖』という作品で、ということですか?」
「いいえ」
 晴人は振り返って言った。
「パートナーです。あなたは、あなたが心から信頼できるパートナーがそばにいてくれないと、実力を発揮できない。そして、今回たまたまぼくは、そういうポジションに立つことができたらしい。でも、それはなぜでしょう?」
「…………」
「経験がないからといって、それが男性ダンサーとのパートナーシップを作り上げる上で致命的な障害にはなるとは限りません。ただ、あなたの体験は少し特殊だった。それが、現実の男性と踊り手が演じる幻想との区別をつけにくくしている可能性がある。あなたは幻想そのものにしか自分の身体を預けられなくなってしまっているんです」
「でも、それならどうして晴人さんなら、それができるんですか!?パートナーとして、一緒に踊れるんですか?」
「……分かりませんか?」
 晴人は静かな声で言った。
「ぼくの10年前の名前は、星沼朔也です。あのときあなたと一緒に踊ったのは、このぼくなんですよ」

   7

「うそ……!」
 優菜はソファから立ち上がった。 「うそ…うそです!だって、そんな……」
「芳村という姓は、ぼくの形式上の養父母の姓です。晴人というのはぼくが適当につくった、いわゆる通称名です。ぼくの本当の年は23です。あなたのひとつ上ですよ」
「…………」
「追い詰められていたのは、ぼくの方なんですよ、優菜さん。ぼくにはあなたを抱く資格なんてどこにもない。しかも、こんな状況であなたを抱いてしまったら、ぼくは……10年前のあなたと今のあなたを同時に失ってしまう!」
 晴人の顔は苦悩に歪んでいた。
「そんなこと……そんなことありません!」
 優菜は晴人のそばに駆け寄り、その胸に抱きついた。
「わたしを抱いてください。わたし…わたし、あなたならいいんです。あなたの手でわたしを汚してください。気の済むまで、めちゃくちゃにして下さい!」
「優菜さん……」
 晴人の指が、優菜の後ろ髪をさするように撫でた。
「あの頃……ぼくはあの堀内さんの教室では変わり者として通っていました。人との付き合い方を知らない、冷たい性格だと思われていて……でも、ゲストとして呼ばれた来たあなたは、そんなぼくに優しく接してくれた。一緒に練習をしているうちに、ぼくはいつのまにかあなたのことを……」
「…………」
「だけど、自分の気持ちを打ち明けることはできなかった。年明け早々には引越しをすることが決まっていたからです。母が大きな病院に移らなければならなかったので……。だから、せめてあの舞台では、あなたへの気持ちを込めて踊りたかった。でも、踊っているうちに切なくて、あなたがたまらなくいとおしくて……そして最後には、あなたにあんな酷いことを……」
「それは違います。言ったでしょう、晴人さん」
 優菜は、顔を上げて言った。
「わたしは幸せでした。自分でもなにが起きてるのか、よく分からなかったけど……でも幸せだったんです。何も言わなくても、あなたの気持ちが伝わってきて……」
「でも、ぼくは結果として罰を受けることになりました」
 晴人は、優菜から身体を離すと言った。
「……ぼくは奇妙なコンプレックスを持ってしまったんです。あのときと同じような状況にならないと……男として機能できない」
「え……?」
 優菜は、その言葉の意味がよく分からなかった。
「バレエの衣装を着けた女性にしか欲情できないんです。それは長い間、ぼくの最大の秘密でした。でも、その秘密をある人物に暴かれて……そのとき慰み者としてのぼくの役回りが決まったんです。そしてぼくは……」
 晴人はかすれた笑い声を出した。
「ぼくは、その役回りにいまや依存しているんです、ここを訪れるプリマたちとの、変態的な行為に。ぼくらはパ・ドゥ・ドゥーを踊りながら、愛し合うんです。実際には、愛なんて言葉とは、はるかに遠く離れた醜態そのものですが」
「……!」
 そのとき、優菜はあの奇妙なチュチュの『縫い目』のことを思い出し、その意味するところを理解して愕然とした。
「分かったでしょう。愛する女性として、あなたをまっとうに抱くことなんか、もうぼくにはできないんですよ。あのときと同じ事をもう一度繰り返すことになるだけです。それも、今度はあなたにとっては苦痛が伴うかたちで……」
「……分かりました」
 優菜は覚悟を決めて言った。
「それなら、わたしにも責任を取らせて下さい」
「えっ……!?」
「輝久美さんが、服を用意してくれたんです。わたし、着替えてきます」
「……どういうことです」
 優菜は晴人の眼をまっすぐに見つめた。
「まともであろうがなかろうが、そんなことはわたしの知ったことじゃありません。あなたができる方法で、わたしを抱いてください。あなたのコンプレックスのもとはわたしなんでしょう?それなら、わたしにもきっと似たようなコンプレックスがあると思います。だって、あのときあなたと一緒に体験したんですから」
「優菜さん……」
「わたし、逃げたくありません。ですから、あなたも逃げないで下さい」

「本当に、後悔しませんか……?」
 王子の扮装に身を包んだ晴人が言った。
「しません」
 優菜は短く答えた。
 練習室の中には、昨日と同じように『白鳥の湖』の『情景』のメロディーが流れている。
 どうせなら、オデットを抱いているつもりでわたしを抱いてくれ、と言って昨日と同じ練習から入ることを提案したのは優菜だった。
 優菜自身、いきなりの性的な行為に耐えられるか、自信がなかったということもある。
 踊りという『ドラッグ』が必要だった。
 二人は手を取り合い、踊り始めた。
 優菜は何も考えず、ただひたすら感情と肉体の連繋に身をゆだねて踊った。だが、いったん踊り始めれば、やはり身体そのものはこれまでに刻み込まれたバレエの座標空間に沿ってなめらかに動く。どんなに脚を上げても、背を反らしても、噴き出る想いを吐き出すには足りなかった。
 晴人はそんな優菜をなだめるように、背後から優しく柔らかに身体を抱きしめ続けている。パ・ドゥ・ドゥーのホールドというよりは、抱擁そのものだった。もしも彼が愛撫を始めてしまったら、自分はそれに耐えられるだろうか?分からなかった。それでも、いまは優菜の身体は彼の抱擁を受け入れていた。
 だが、昨日までのように自分の意識がオデットという役柄の人格に溶け込むような感覚はなかった。いや、溶けかけてはいるのだが、それが途中で停まっているように思えた。二つの人格が重なり合い、ふらふらとうつろい続ける、不快感。
 わたしはオデット、わたしを愛しているのはジークフリート王子。そう強く思っても、かえって意識はそこから離れてしまう。
 優菜は晴人に向かって小さくつぶやいた。
「愛してください……わたしを、愛してください」
「……」
 晴人はそれに答えるかのように、優菜の首筋に唇を触れた。
「……!」
 優菜は一瞬、身体が震えるのを感じ、バランスが狂いそうになる。だが、踊りはまだ続いてゆく。
 王子は、踊るオデットの首筋に頬をすりよせるようにしながら、身体を愛撫し始めた。腰の辺りで交差しているた腕が少しづつ上にスライドし、手のひらがオデットの胸に触れる。
 優菜は身体の中からけいれんにもにた拒絶の衝動が噴き出そうになるのを必死でこらえた。
「あぅ……くっ」
「……だいじょうぶ?」
 晴人の声が優しくささやきかける。
「はい…」
 ゆっくりと王子の指が動き、オデットの乳房を下からしごき上げるように揉み始めた。
 オデットはまだ踊り続けている。それを優菜は鏡の中に映る姿としてとらえていた。ぴったりと寄り添う王子の愛撫を受けながらも、それに耐えて四肢を伸ばし、ポーズをとっている。
 リズミカルな刺激を受け、胸から鈍い快感が拡がり始めていた。乳房を包み込んでいる細く白い指が、ゆっくりと動いているのが見える。
 乳首の先がはさみこまれる感触。かすかな痛みとともにパルスのような甘い感覚が一瞬、走る。
「は…!」
 身体が後ろに一瞬崩れそうになるが、王子が腰で受け止めて支える。
 王子が身体を移動して、オデットと向かい合う形でふたたび抱擁する。そこから逃れようとするかのように背をそらすオデットにおおいかぶさり、王子はオデットの頬から首筋へと唇を這わせる。
 王子はオデットの腰を抱いたまま片膝を曲げ、姿勢を低くしてチュチュの上から乳首を口に含む。
「あっ…ああ」
 オデットは両脚を震わせるように動かしながら後ろへと移動し、王子も一緒に進んでゆく。
 だが、鏡が壁となり、ふたりの動きは止まる。
 それでも鏡に押し付けられたまま、それでもオデットの四肢はもがくように動く。踊り手としての動きを停めようとしない自分が、悪あがきをしているように感じられる。
 ひんやりとしたガラスの感触を背中に受けながら、身体の芯が燃えるように熱くなっていることを優菜は自覚する。王子はなおも乳首を吸い続けている。
 オデットの片脚が前に上がり、膝の裏側が王子の肩に乗せられる。チュチュの裾がはねあがって、王子の前に股間がさらされるようなポーズになる。優菜は自分がなぜそんな挑発的な行動をとるのか、よく分からなかった。
 もう自分はオデット姫ではない。もちろん。というより、もともとただの女。男の身体を求め、渇いていた女。
 違う、と優菜は王子の愛撫を受けながら必死に否定する。
 わたしが恋していたのは、あの少年、あの美しい穢れのない王子。そして、いまその当の本人がわたしを愛している、わたしは王子様に愛されているお姫様。
 そうじゃない。あなたもその王子様とやらも同じ穴のムジナ。妙なことを経験したばかりに、おかしな癖がついてしまっただけ。あなたはひたすら過去の幻を思い出してはオナニーにふけり、現実の男を蹴り飛ばしていた。王子様は、闇の世界で好きでもない女たちと醜い行為にふけっていた、それだけのことでしょう。
 違う。違う、違う、違う!
「もっと……!」
 『情景』のメロディーががんがんと響く中、自分の声がまるで他人のそれのように聞こえてくる。
「もっと、めちゃくちゃにしてください!」
 濡れた自分のそこに、冷たいものが触れる。王子の指先。開いた花びらをそっとさすり、鋭敏な突起に触れる。
「ふぅあ…!」
 背筋にふたたびパルスが走り、呻きとも叫びともつかない音がのどの奥から洩れる。
 いま交わっているのは、幻の存在。
『あなたは幻想そのものにしか自分の身体を預けられなくなってしまっているんです』
 それが、なぜいけないっていうの。
 濡れた指先が、さらに突起をはさみつけるように刺激する。
「あ、はぁ、はぁ……」
 幻想。王子に愛されているという幻想。呪いが解けるという幻想。呪いがあったという幻想。
 ふわりと一瞬、重力がなくなる感覚とともに、自分の身体が沈み込んでゆくのを感じる。天井と、窓が見える。
 自分の脚が、ゆらりと他人のもののように浮き上がったかと思うと、ひざが胸に押し付けられる。
「んあ……あっ」
 王子の頬が、太ももの付け根に触れるのが感じられる。ざらざらとした弾力性のあるものが、花弁の上を這い回る。 「ふぅ…あ…ふぅ…あ……ああっ」
 優菜は自ら両脚を左右いっぱいに広げた。いっそ、奥の奥まで犯して欲しかった。
 その想いに答えるかのように、王子の唇がさらに強く押し当てられて、舌がその中に差し込まれ、動き回る。
 熱い蜜が、あとからあとからあふれ出ているのがはっきりと感じられた。
 大切な人だから、気持ちがいいの?
 恋焦がれていた王子様が愛してくれているから、気持ちがいいの?
 分からなかった。
 あまりにも気持ちが良すぎて、分からなかった。
 どうでもいい。
「そんなこと、もうどうでもいいのよ」
 いま、わたしはこのひとが好き。
「えっ?」
 幻想でもかまわない。
 いま信じられる幻想が、ただひとつあればいい。
 王子様かどうか、そんなことは関係ない。
「はあ…はあ……晴人さん」
 自分でも信じられないようなはっきりした声で優菜は言った。
「え……?」
「わたしにも、させて」
 優菜は身体を起こして、晴人の腰にしがみついた。はずみで、晴人の身体が仰向けになる。
 白いタイツに包まれた晴人のものに、しゃぶりつく。
「ちょ……ちょっと……」
「んーん」
 いいの、と言ったつもりだったが、くわえたままなので言葉にならない。
 唇を下に這わせ、タイツに引っ張られ丸いふくらみになっている柔らかな部分を舐めまわす。舌を動かすと、中のものがころころと動くのが分かる。
「あ…う……」
 晴人がかすかなうめき声を上げた。
 さらに優菜はゆっくりと首を移動させながら、いきりたっているものを付け根から丹念に舐め上げた。
「だめ、だめだよ……」
「んーんん」
 頭の部分をほおばり、ちゅうちゅうと吸う。
「うあ……うっ」
 ひくっとそれが動き、苦味のある液体がにじみ出てきた。さらに、ひくっ、ひくっと動き、さらに染みが拡がる。優菜はそれを味わうように舐めとり、それから晴人の顔を見上げた。
 頬が赤く染まっていた。
 いまにも泣き出しそうな顔。
 そこで、優菜は心の奥底にうずもれていた記憶がよみがえるのを感じた。
「思い出した……」
「え?」
「晴人さん、いえ、いまだけ朔也くんと呼ばせてね。あのとき、あなた泣きそうになってたのよね」
「……あのとき?」
「舞台裏で……したとき」
「…………」
「終わったあと、変なものが出ちゃったって言いだして。すごくあわてて……わたし、それでとっさにあなたのものを口で綺麗にしてあげた……ぜんぜん、汚いなんて思わなかった。たぶん、本当に朔也くんのことを好きだって感じたのはあのときからだと思う」
「ば……どうして、そんなこと」
 晴人の耳が、薄明かりの中でも分かるぐらいに赤くなっていた。 「なんでなのかな、いまのいままで忘れてた。たぶん、思い出の中で美化し過ぎちゃったのね。あなたのことを、理想の王子様だっていうことに決め付けていたから。あの頃のあなたってふだんはすごくはりつめてる子だった。わたしでさえ、気軽に声をかけられない感じのひとだった。でも、ほんとは内気なだけで、すごく優しい人なんだってあのとき分かった」
「そんなことであわてて…どうして優しい人だってことになるのさ……」
 いつのまにか、晴人も昔のしゃべり方になっていた。
「あなたがあわててたのは、自分が何か病気で、それがわたしに移るじゃないかって心配だったからでしょ?あのあと、あなたはわたしのところに何度も来て、具合が悪くないかってこと聞きにきたもの。わたしもあのときさすがに、あれは精液なんだから大丈夫、なんて言えなかったから」
「……ひどいな」
 晴人が苦笑した。
「はじめてだったのね、ほんとの意味で」
「だから、こんな変態になっちゃったんだよ……」
「いいじゃない、それはそれで。そのうち直らないものでもないでしょう」
「そんな……」
「なんだか急に気が楽になっちゃた……ね、朔也くん。あなたは闇の世界のひとなんかじゃない。ただ、自分の行き場所がないと思いこんでいただけよ。場所なんか自分で作ればいいの。その足がかりにわたしがなってあげる」
   優菜は晴人の頭を抱きしめた。
「そう簡単にはいかないよ……」
「あなたは全然変わってない。あの頃の朔也くんと同じ。生真面目すぎて、考えすぎて、それで損をしてる。でも、わたしはあなたを知ってる。あなたのすべてを知っているわけじゃないけど、変わることのなかったあなたを知ってる。この一週間、どうしてあなたが朔也くんだって気がつかなかったのか、不思議なくらい。でも、なんで気がつかなかったのか、いま分かった。わたしが、幻想に縛られすぎていたから。それも、あなたが行ってしまったあと、一人で勝手に作った幻想に。あなたはずっと変わってなかった。わたしが思い出をゆがめていたのよ」
「優菜さん……」
 晴人の声が、震えていた。
「だから、わたしがそばにいてあげる」
 優菜はさらに強く抱きしめた。
「世界は闇と光の二つだけじゃない。生まれ変われば、新しい世界がそこにはあるはずよ。だから、わたしと一緒に生まれ変わりましょう」
 優菜は晴人の唇に自分の唇を軽く重ねた。
「さあ、わたしをちゃんと、大人のお姫様にしてくださいね、王子様」
 月の光に照らされたふたりの影が、ふたたびひとつに重なり合った。

   8

「辞める?」
「はい」
 久川真弓は、沓掛陽子がここまで仰天した顔を見るのは久しぶりだと思った。
「……辞めて、どうするわけ?」
「適当に仕事を探すといっていました」
「あんなお嬢様に、仕事なんてできるもんですか。しかし……そう来るとはねえ。久川さんあなた、ちゃんと慰留したんでしょうね?」
「もちろんです。あわてて結論を出さないように、とは言いました」
「で、理由はなんだって?」
「理事長とのお約束を守れそうもないから、と。つまり、事実上あそこに居座るということではないでしょうか。ただ、この間のお電話の件もありますから、研修生として居座ることはさすがにできないと考えたんでしょう」
「ふーん」
 沓掛陽子はとんとん、と机を指先でたたいた。
「処女を破られりゃどうにかなると思ったのは甘かったわねぇ……駄目押ししといたのが返って裏目ったわね」
「どう転んでもお徳用、というお話でしたし、これはこれで対処の仕方もあるのではないでしょうか」
「それがそうでもなくなってきたわよ。わたしはね、まさかあの子の初恋の子だったなんて話は知らなかったわよ」
「理事長がご存じないことをわたしたちが知っているわけはありません」
「分かってるわよ。でもねえ、そもそもすべてのきっかけになった彼女があの子とくっついたってことは、要するにあの子のすべてを受け入れたってことでしょう。そうしたら、彼女は事実上の『正妻』になっちゃうわよ。新婚さんみたいに毎晩励まれた日にゃ、あの子にとってはおばちゃんみたいな連中を送り込んだって、立つものも立たないぐらいになってるのがオチじゃない?」
「理事長、もう少しその……」
 上品な表現を、と言いたかったが、真弓はそこをぐっと飲み込んだ。
「そりゃあ、いつまでもあの子に万能ツバメみたいなことをさせておくつもりはなかったけど、例のクセのことを考えたら一石二鳥だったのよねぇ……ここのところ濃厚な連中の面倒を見させちゃったから、ちょっと口直しも兼ねて小野寺さんを行かせたわけだけど。それにしても、うまくいけば彼女は大化けしたかもしれないのにね……残念だわ」
 陽子はふー、と息を吐いた。
「でもまあ、今後はもう少し扱い方を考えないとね……あの子はいざというときの切り札でもあるし」
 それはそうだろう、と真弓は思った。単に、深海鷹彦に万が一のことが起きたときのための保険というだけではない。彼に対して一定のプレッシャーを与える存在でもあるのだ。陽子と鷹彦の間がそれなりにバランスがとれた関係を保っているのも、晴人の存在があってこその話だ。そうでなければ鷹彦はもっと陽子に対してはもっと強気の態度をとっているに違いない。
「なんとか、小野寺さんをもう少しこっち側に取り込めるような方法を考えてよ。でも予算はあんまりかかんないようにしてよ」
「はあ……分かりました」
 真弓はため息をつきたくなるような気分でうなずいた。

 その夜、優菜は久しぶりに晴人と例のサンセットスポットに出かけて一緒に月を見ていた。
 真南の空に輝く月は、ちょうど半分。いわゆる下弦の月だった。
「そういえば、例の件、特別研究員ということで手を打たないか、って言ってきたよ」
 晴人はあのときのように優菜をコートで包み込むようにして抱いていた。
「特別研究員……?」
「つまり安住野バレエ団から派遣された研究員ってことらしいよ。まあ、きみには給料なんて言えるほどの金額は出ないらしいけど、代わりにきみがここにいられるぐらいの経費は追加してくれるみたいだ」
「わたしにも利用価値があるってこと……?」
「専属のパートナーを置いておけば、いざというときの保険としても役に立ちやすいということみたいだね……」
「そう……良かった。またあなたと一緒に踊れるのね」
「でも、きみがむこうの舞台に出るチャンスはほとんどなくなるよ。いいのかい、それでも」
「ええ。これが自分のためにもいちばんいいと思ったことだから。わたし、ずっと後悔してたから……あの発表会の日、あなたに何も言えなかったことを。もう同じことは繰り返したくないの。未来のことなんていま考えなくてもいい。いまを失ってしまったら、未来だって無いも同然だもの」
「このあとだって、ぼくの身体目当てにプリマたちが来るんだよ」
「いいのよ」
 優菜はその点だけはちょっと胸が痛かったが、あえて強気に答えることにした。
「あとで何十倍も返してもらうから、あなたから」
「きみって……猫かぶってたんだね、最初は」
「そんなことない」
 優菜はぐるりと身体を反転させて、晴人と向き合った。
「だいたい、あなたがあんなに大人っぽい感じで、ですます調でしゃべったりするから、こっちだって上品に受け答えしなきゃ、って思ったのよ。おまけに輝久美さんはあんな風だし、初日なんかすごい緊張したのよ」
「ははは、そうなんだ。そういえばさ……きみ、輝久美のこと何か知ってるのかい?」
「え?」
「いや、このあいだ、輝久美が妙なことを言ってたからさ。優菜様から何か聞きましたか……とかさ」
「…………」
「染野さんのことならぼくはとっくの昔に知ってるよ。狭い家だからね。やってることなんかすぐ分かるよ」
「なーんだ」
「あの日、輝久美がきみにお膳立てしたのは、口止め料みたいなもんだったのかな」
「ああ、例のチュチュ……」
 果たしてそこまで考えただろうか?個人的な同情も含まれていた行為だったかもしれない。
「でも、あのときはきみもけっこう興奮してたね。ぼくだけの病気じゃなかったんだと思って、ちょっと気が楽になったよ」
「馬鹿…」
 あの晩、処女を失ったとき、かなりの痴態を演じてしまったのは確かだった。
「幻滅したかい?」
「どうでもいいような幻想はなくなった方がいいのよ」
 優菜は晴人の胸に頭をうずめた。
「でもね、ここにいるあなたはわたしにとって確かな幻想。何が起きたって絶対に消えない幻想よ。わたしが消さない限りは」
「絶対に消えない幻想か……」
 晴人は下弦の月を見上げながら優菜の髪を撫でた。 「それでも、きみにとってもう少し格好のいい王子様でいたかったのは確かだな」
「だったら、またせっせとわたしのために幻想をつくってください、晴人さん」
「はは、そうだね……」
 優菜も顔を上げて、もう一度空を見た。
「今のわたしたちみたいね、あの月。光と闇が半分ずつ」
「また闇が増えるかもしれない」
「でもそのうち光が満ちてくるわ。そしてまた闇に帰っていく。その繰り返しよ」
 そして、いつかすべてが闇に沈んだとしても、絶対に後悔はしない。
 自分が選んだ闇ならば、怖くはない。
 半分の闇を抱いて輝く月を見ながら、優菜はそう思った。

---END---

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