遠い庭
         
                                    タイトル:向日葵/文:碓井央

 そこはいちおう館の敷地の中ではあったが、ふだんは誰もそこに入ろうはしない場所だった。つまり、オロール家の代々の当主をはじめとする人々が地中に眠っている墓地だったからだ。
 リヒトは幼少の頃から死について考えることが多かった。そのために、いつのまにかときどき独りで墓地を訪れる習慣がついていた。はじめは先祖に敬意を表するために、来るたびに手ずから摘んだ花などを持ってきたが、そのうちめんどうになってきたので手ぶらで来ることが多くなった。「墓参り」という意識はほとんどなかった。
 晴れた日の午後に、背の低い木々に囲まれた小さな庭のようなこの場所を歩き回っていると、リヒトはなんとはなしに落ち着いた気分になれるのだった。いつかはここで先祖たちと一緒に永遠の眠りにつく時がくる、と思っても、ちっとも恐怖を感じなかった。幼い頃は、自分が土に還るということに対する圧倒的なおびえがあったものだったが。
 ただ、墓碑の周辺をゆっくりと行ったり来たりしていると、ときどきふっと誰かに自分の名前を呼ばれているような「気配」を感じ取ることがあった。それは館の中にいるときには決してないものだった。もちろん、あたりを見回しても誰も居ない。だが、忘れていた頃にまた突然その「気配」がほんの一瞬だけやってくるのだ。

 だが、ある日を境にリヒトは墓地に行かなくなった。
 彼の祖父が亡くなったのだ。
 リヒトは祖父が大好きだった。先代の当主でもあったこの威厳ある老人は、孫のリヒトにだけは他の人間にはけして見せない優しさをもって接してくれた。リヒトは祖父が話してくれるさまざまな体験談を驚きと尊敬とともに聞き入った。そして彼のような人間になりたいと心から願った。老人はオロール家にとっては実質的には不要な存在だったが、リヒトはすくなくとも彼を必要としていた。
 その祖父は、ある風の強い日の朝に息を引き取った。彼の衰えていた肉体にどうにかこうにか力を吹き込んでいた心臓が突如停止したのだ。
 先代当主ということもあり、葬儀は盛大だった。多くの人々が館にやってきて、沈痛な面持ちを作っていた。  だが、リヒトはその祭りにも似た騒がしい行事をひどく醒めた気分で見ていた。すでにこの地上でなにが起きようと、永遠の眠りについた祖父自身にとっては何も関係のないことなのだ。いうなれば、皆が一緒になって祖父がいなくなったことを儀礼的に確認しているに過ぎない。

 祖父が例の墓地の一角に埋葬された次の日の朝、リヒトはひとりで墓地に行ってみようと思った。葬儀のときには、静かな気持ちで祖父のことを想うこともろくにできなかったからだ。
 だが、館の裏口から出ようとした瞬間、いままでに感じたことのない恐怖が彼を襲った。
 もし、あの墓地で、祖父に会ってしまったらどうしよう。
 自分は、祖父に会いたいと思っているはず……それなのに、この、心の底にうずくまっているどうしようもない冷たい塊はいったいなんなのだろう?
 リヒトはしばらくそのまま立ち尽くしていたが、やがて足をがくがくとさせながら自分の部屋にもどり、震えながらベッドの中へともぐりこんだ。

「リヒトさま……?」
 ある日、王立修学院の玄関で、級友のユウナが声をかけてきた。もうすでに下校時刻は過ぎていて、出てくる制服姿の生徒たちもまばらだった。
「え?」
 リヒトは突然見知らぬ女の子に声をかけらたような、当惑した気分でユウナの顔を見つめた。
「ずいぶん前から顔色がよろしくありませんわ」
「…………」
「まだ、お祖父さまのことを?」
「うん……いや、もうつらいとか悲しいとかそういうのではないんだけどね」
 リヒトはため息をついた。
「分からないんだ」
「分からない?」
「うん。自分が……自分の心がよく分からない」
「…………」
 ユウナは痛ましそうにリヒトを見つめていたが、やがてにこっと笑って言った。
「よろしければ、帰り道、ご一緒しません?」

「そうでしたの」
 並木が続く細い道をリヒトとならんで歩きながらユウナは視線を落とした。
「なんだか、お墓がとても遠くにあるように思えるんだ」
 リヒトは独り言のようにつぶやいた。
 やがて、ユウナの館のほうへと向かう分かれ道にさしかかった。
「それじゃ……これで」
 リヒトはユウナにむかって手を差し出した。
「うれしかったよ。ぼくみたいな奴のこと、心配してくれて」
 ユウナは恥ずかしそうに微笑んで、それでもリヒトの手を両手でつつみこむように握ったが、そのままじっと考え込むような表情になった。
「……ユウナ?」
「わたしがご一緒してはいけませんかしら」
「ど……どういうこと?」
「お祖父様のお墓に。おひとりでは行きにくくても、誰かと一緒なら行けるかもしれませんわ」
「で、でも……」
「余計なお節介ですかしら」
「そ、そんなことはないけど……」
 リヒトはあわてて言った。
「本当はお行きになりたいんでしょう?」
 そうだ、とリヒトは思った。たまらない恐怖を感じてはいるが、同時に行かなきゃならないという想いもある。だからこそ、そのことが頭から離れないのだ。
 これがひとつのきっかけになるかもしれない。
 リヒトはユウナの提案を受け入れることにした。

 陽はだいぶ西にかたむきかけていたが、それでもまだ墓地の周辺は明るかった。明るい緑色の芝草が、午後の光に照らされて輝き、ところどころに自生した野花がそよ風に揺れていた。
 ふたりは、真新しい黒々とした墓碑のそばに歩み寄った。
 墓碑には祖父の名と、生れた日、そして亡くなった日が刻まれていた。
 ユウナは途中道すがら野の花を自分で摘んで作った花束を、墓の前にささげた。
 何事もなく墓地に来れたことに、リヒトはすこしとまどっていた。どうしてもここまでやって来ることができなかったのに。自分は単なる臆病者なのだろうか?
「さあ……リヒトさま」
「う、うん」
 二人はならんで膝まづき、目を閉じて両手を組み祈った。
 やがてリヒトは目を開け、墓碑をあらためて見つめた。
 この土の下に、祖父が眠っている。
 いや、それは祖父ではない。もう、ただのモノになってしまっている。本当は、ここには祖父はいないのだ。
 すると、横にいたユウナが小さな声で言った。
「リヒトさま、お別れをしなくてはいけませんわ」
「え?」
 一瞬、リヒトにはその言葉の意味が分からなかった。
「あなたは、もうどんなことをしても、お祖父さまにはお会いできないのです」
 その口調には、めんくらってしまうほどに冷たい響きがあった。
「どんなことをしても……?」
「そう」
 ユウナはすっと立ち上がり、リヒトを見つめて宣告するように言った。
「どんなことをしても」
 風がふいて、ユウナの長く伸ばされた髪と、制服のスカートが横になびいた。
 突然、リヒトは祖父の手のことを思い出した。
 ごつごつとした、節くれだった指。ざらざらとした掌の感触。
『リヒト、お前の顔は父親似だな……きっと女泣かせになるだろう』
 祖父は、その手でリヒトの頬をよく撫でて言ったものだ。
『将来が楽しみだ』
「うっ」
 リヒトは思わず胸をおさえた。
 だが、次の瞬間、両眼から涙があふれてきた。
「う……うっ、ううっ、うっ」
 分かっていた。分かっていたのだ。
 ここに来るのが怖かったわけではない。
 もうあの優しい祖父には二度と会えない、ということを確かめてしまうのが怖かったのだ。
 芝草の上に水滴が、したたり落ちつづけた。まるで永遠に止まらないかのようだった。

「今日は……ありがとう、ユウナ」
 ユウナを彼女の館の前まで送っていったリヒトは言った。
 リヒトは、ユウナもまたあのとき後ろで涙を流していたことを知っていた。彼女はそれを隠そうとしていたようだが、まぶたが赤くはれていたので、分かったのだ。
「いいえ」
 ユウナは微笑んでから、ふと言った。
「リヒトさま……」
「え?」
「お墓には、またいらっしゃる?」
「うん……あそこにはお祖父様やご先祖さまはいらっしゃらないかもしれないけど、どこかへつながる場所のような気がするんだ」
「またご一緒していいでしょうか、そのときは」
「そうだね」
 リヒトは微笑んだ。
 と、そのとき、彼はあの「気配」が訪れたのを感じた。
 リヒトは思わず、その「気配」がした方向を振り向いた。
 すると、驚いたことに、ほとんど同時にユウナもまたそちらを見ていた。
「ひょっとして、君も……感じたのかい」
「え……ええ」
 ユウナはすこしとまどった顔つきで言った。
 リヒトは赤く染まりつつある西の空を見上げた。
 たぶん、ご先祖様たちが歓迎してくれているのかな、とリヒトは思った。
 彼らの庭に、ユウナと一緒に行くことを。

END




作者あとがき

 以前、祐宇志音氏のサイト夢見る星の現在位置にあった「創作文遊戯」のコーナーに投稿した作品です。お題をふって、それに対して別の人が小説を書くという「遊び」でした。今とはちょっと作風も違うような気がするのですが、割と自分でも気に入っていいます。

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