18


 まだ胸元に、強い気配の塊が感じられた。時折、光を放っているようにも思えた。
 遊美はそれを、両手の指を拡げ、包み込むようにしていた。
「そのまま……せばめるのよ、手を」
 衿花の声に、遊美はゆっくりと両手の間をせばめてゆく。すると、気配は衣裳の襟飾りの中央についていた擬宝珠の近くに引き寄せられていった。
「手のひらを指先のほうからゆっくりと閉じていって」
 いわれたとおりにする。
 すると、擬宝珠が、一瞬きらりと輝きを見せた。
 そして、気配はふいに消えた。
「…………」
 遊美は、がっくりと膝をついた。
 すでに、篤は地面の上に昏倒している。
「遊美……」
 衿花は額に手をあてて深いため息をついた。
「あんたって子はもう……」
 頭の中がぼんやりとしていた。なのに、まだ自分が緊張しているようにも思える。
「……これで封じたことになったのかな」
「だいじょうぶよ。今の様子だと、その衣裳の飾りは、ちゃんと形代として役目は果たしたみたい。ただ、相手がよくいうことを聞いてくれたね。なにか約束でもしたの?」
 約束。そう、あの子とは約束をした。
「ここにお祭りして……毎年ここで踊ってあげるって言った」
「そう……考えてみればそういうので良かったのかもね。すこし難しく考え過ぎてたかもしれないな……」
 衿花は頭をがりがりと掻いた。
「今回、ちょっと追い込まれてたもんね、わたしも」
「ごめんね……」
 自分の言葉が口先だけのものになっている気がした。
 頭の中では、なにか別のことを必死に唱えている。
「あやまるのはこっちよ。遊美はいつもの通り、一生懸命やってくれた。ありがとうね」
 衿花が四角い地面に入ってくる。
「……篤くんは、だいじょうぶかな?」
「!」
 また、何かが胸に突き上げてくる。今度は痛みが混じっていた。
 そのとき、誰かの声が聞こえてくるのを感じた。
 視線を向けると、林の中から人影が走り出てきた。
「え……お母さん?」
 見る間に春花は近づいてくる。全力で走っているらしい。
 そして、そのまま一気に遊美の眼の前まで来た。視界が暗くなり、やわらかい感触が遊美の顔を包む。
 激しい息の音がしばらく聞こえたあと、小さなかすれ声がした。
「遊美……ごめん」
 心が、緩みそうになる。何もかも、はじけ飛びそうになる。
 それでも、こらえた。
 かわりに、母親の胸に顔を押し付けた。
  「……衿花、終わったの?」
「うん……なんとかね。今回はほとんどこの子がひとりで片付けたようなもんよ」
「そう……」
「その衣裳……ひょっとして、篤くんのお母さんのもの?」
 二人の会話は、耳には入ってくる。だが、ひどく遠くで話しているように感じられた。
「ええ。わたしが預かっていたの」
 ため息が聞こえる。
「彼……高校生の頃から、ここに来てたのよ。おじいさんの供養をしたいって……資料を持って。で、同世代のお前が相手をしろっていうんで、わたしが……そのときに、彼のパートナーも一緒に来てたの」
「その人が?」
「ええ……彼女のほうが、遠山さんとの付き合いは古いのよ」
「……結婚した後も続いてた? 」
「そう。ずっと毎年、例大祭の夜にここで……結局それが問題を生んだってことね。でも、悪事の片棒をかついでたわたしが言うことじゃないけど。奥さんは、篤くんをなにもかも承知の上で引き取ったの。後継者の母親、という地位を確保するためにね」
「じゃあ、あのとき遊美が見たっていう『神様』は……」
「ええ……そういうこと。ふたりとも、いつも母屋から本殿の裏経由でここに来る段取りになってたの。ただ、あの夜は予定より早く帰ってきたんで、あわてたの。わたしも事情がよく分からなかったけど、とりあえず、着替えをさせてふたりを送り出したら……」
「ひきつけを起こした子までかつぎこまれた……それが篤くんだったのね?」
「そう。あの晩に夜通しかけて、その日のことは忘れるように無理やりに暗示をかけたわ。もともと精気の強い子だから、力が暴走しそうになって、大変だったけど……でも、あくまでもフタをしただけだから、記憶そのものは消えてはいないのよ」
 記憶、という言葉を聞いて遊美は、また胸が締め付けられるような気がした。だが、奥歯をかみしめて、こらえた。
 遊美は顔を上げ、衿花のほうを見ないで言った。
「衿花さん……わたし、先に戻ってもいい?」
 すると、一瞬の間があってから、返事が聞こえた。
「そうね。その方がいいね」


 身体を揺さぶられるような衝撃に、篤は眼を覚ました。
「ごめんなさい。いまちょっと段差踏んじゃったから」
「…………」
 車の中だった。となりの運転席では髪の長い若い女性がステアリングを握っていた。
「あの……ええと」
「わたしは安藤衿花。あなたの治療をしていた者です」
「……治療?」
「遠山さん、いまが何月か分かります?」
「何月……ええと、八……いや、九月じゃないでしょうか」
「そう。時間の流れはなんとか把握してるのね」
「……?」
 そこで篤は、自分が舞台用の衣裳を着けていることに気づき、ぎょっとした。
「こ、これ……何なんですか」
「え? ああ、その服? それはまあ……自分で着たんでしょうね」
 ますますわけが分からない。
「たぶん、記憶に混乱があるでしょう? でも、あまり気にしないで下さい。無理に思い出そうとすると、気分が悪くなったりしますから」
「は……はい」
 記憶。そういえば、ついさっきまで夢を見ていた。いや、夢ではなくて……かつて実際にあったことだ。それを思い出していた。 「ぼくの両親は……眼の前でいなくなってしまったんです」
「え……?」
 なぜ、こんなことをいきなり他人に話そうとしているのだろう?
 だが、いまここで、きちんと口に出して言っておく必要があるような気がした。
「父は……正式には結婚していない、ぼくの実の母親と会っていたんです。それをぼくは見てしまった。そのために、父も母も、ぼくから逃げていった……」
「…………」
「ずっと忘れていたんです。でも、やっと思い出せた……思い出せて、良かった」
 篤は息を吐いた。
「たとえどんなに悲しい思い出でも……それはやっぱりぼくの一部ですから。忘れたままにしておいちゃ……いけなかったんですね」
 と、車が速度を落とし、停まった。
「……どうしたんですか?」
 篤は運転席の女性を見て、思わず目を見開いた。
 女性は、両手で顔をおおい、ステアリングに突っ伏していた。
「う……ううっ、う……う」
 泣いていた。唇を懸命に引き結び、肩を震わせてこらえていた。が、それでも泣き声が洩れてしまっている。
「ご……ごめんなさい。驚かせ……て」
 女性は、涙を頬からしたたらせ、篤に濡れた眼を向けた。
「だけど、すこしだけ……もうすこ……し」
 だが、そこから先はもう言葉にならず、彼女は声をあげて子供のように泣きじゃくり始めた。


     終章


 冬が過ぎ、新しい年が明けて、春を迎えた。
 そして卒業の三月から入園、入学の四月となった。春休みが終わって新年度になれば、篤は中学二年生になる。
「今回の販促、新しいひとと一緒にやるんだって?」
 初等科のクラスレッスンを終えて家に顔を出しにきた従弟の都志樹が言う。
「その販促っていう言い方はやめなよ」
 篤は紅茶をポットから注ぎながら苦笑した。
「ちょっとしたイベントに出る程度だし……そんなので生徒が来るかどうかなんて、分からないよ」
「でも、篤さんはこれまでの実績があるから。それに、えーと誰だっけ、鹿野さん? あの人もなかなか評判いいみたい」
「評判って、テクニックとか?」
「まあ、転科して半年足らずでプリマのメンバーに上がってきたんだから、そっちも相当だとは思うけどさ……ぼくが言ってるのは、低学年の子たちの評判。あの人、小さな子たちには優しくて、お母さんみたいだって。人気があるんだよ」
「へえ……そうなんだ」
 篤は湯気を立てているカップを都志樹の前に置く。
 すでにパ・ドゥ・ドゥーのレッスンでは何度も組んでいるし、話も多少することはあるが、どんな性格かまでは分からない。レッスンのときは、どちらかというとお互いにすこし緊張気味かもしれない。
「今回の人選はその辺がポイントだったんじゃない? 相手が幼稚園児だし」
「そういう考え方はどうかと思うけどね」
 ただ、研究所の廊下とかで彼女が初等科の生徒たちに囲まれている様子を目撃したことは何度かあった。それはまさに、子供たちが若い母親に甘えている、そんな情景のように見えた。
「たしか、あさっては有嶋幼稚園に行くんだよね? あそこ、踊ったあとの園児の相手が大変らしいけど……その鹿野さんと一緒だと、けっこう楽かも」
「どっちにしてもあそこは一日つぶれるんだよね、行くと」
「鹿野さんの人柄を知るチャンスじゃない?」
「なんだい、それは?」
「べつに、深い意味はないけど」
 都志樹はにこっと笑った。
「ただ、ああいう人が篤さんと一緒に踊るようになると、ここのムードもまたちょっと変わるかなって思って」
「意味がよく分からないな、それ」
 篤は肩をすくめた。
「でもまあ……彼女は他の連中とは毛色が違う気はするけどね」
 本当は毛色の問題ではないのかもしれない、とは思う。だが、とりあえずいまは他に言いようがなさそうだった。


 都志樹を駅まで送ったあと、篤はなんとはなしに北口の駅前広場に出た。夕方の駅周辺は、会社勤めの人々が一定周期で吐き出される他はいたって静かだった。
 篤はベンチのひとつに腰を降ろし、赤みのかったオレンジ色に染まる西の空をながめた。
「…………」
 夕焼けは、嫌いだった。特に、ひとりで見る夕焼けは。
 なぜだっただろう……。
 篤は目を閉じてみた。
 青色とオレンジ色のグラデーション。
 その下に……小さな影。
 女の子。
 そう、女の子だ……。
 たったひとりで、見ていた。
 言わなければ。
 心の中で、何度も繰り返した、あの言葉を。
「…………」
 ふたたび目を開くと、ベンチのそばに人が立っていた。
「よう。邪魔したかい」
「木下さん……」
 知り合いの画家、木下だった。かなりの高齢なのだが、相変わらず、ジーンズにジャケットという若い恰好をしている。
「やだな、いつからいたんですか」
「たったいまさ。ただ、何か大切なことを考えてるんじゃないか思ってな……」
 そう言うと、木下は篤の隣に腰を降ろした。
「しばらく振りだったな。元気でやってたかい」
「はい。まあ、なんとか」
「研究所のほうはどうだい」
「前よりは、だいぶ気楽にやってます。もちろん、手を抜いているわけじゃありませんけど」
 去年の夏に身辺に起きた異変をきっかけに、篤は子供の頃の出来事を思い出した。それは、自分の実の母親にあたる女性がいて……隠れて彼女と会っている現場を篤に目撃されてしまったがために、父親が失踪してしまったという衝撃的な事実だった。
 だが篤は、結局それを周囲の人々には告げないことにした。いまさらそれを明らかにしたところで、誰の得にもなりはしない。
「秀子さんから聞いたよ。お前さん、将来このままバレエを続けるかどうかは分からない、他の道を選ぶこともあり得るって言ったんだそうだな」
「ええ。その方が、すっきりするかと思ったので」
 実際、それを言った時、秀子はほっとしたような顔をしていた。篤としてはすこし淋しくもあったが、反面、相手の本音を知って楽になったのも確かだった。
「本当は、お互いに負担だったんですよね」
「まあ、そう言っちまうと身も蓋もないが」
 木下は苦笑した。
「だが、何事も義務でやるってのは楽しくないからな」
「祖母も、すこし仕事を他の人に任せて、自分の休みを増やすようにしてくれるみたいです」
「そうか。なら、ときどきは婆ちゃん孝行するんだな」
「はい。そのつもりです」
 木下は目尻の皺を深めて笑みを浮かべたが、ふと真顔になって言った。
「なあ、篤。お前さん、いま幸せか?」
「え……」
「ははは、まあ藪から棒って感じだろうが……いまのお前さんは、俺から見ればそれなりに幸せに見える。だが、自分自身では正直なところ、どうだ?」
「うーん、そうですね……前に比べれば、いい感じなのかなって思いますけど。でも、まだまだこれからっていう気もします。これから、きちんと自分の欲しいものを見つけていかないといけないんじゃないかって……そう思います」
「……そうか」
「どうしてそんなことを?」
「いや、なに」
 木下は首を振った。
「思いつきで、訊いたまでさ」


 二日後、篤は鹿野遊美とともに有嶋幼稚園を訪問した。
 そのイベントは春と秋に定期的に行われるもので、古着の交換会やら、古本の販売やら、父兄による屋台やら、ちょっとしたゲームのコーナーやら、といった具合で、いわば学校の文化祭のノリに近いものだった。
 その中の催し物のひとつとして、篤とパートナーによるパ・ドゥ・ドゥーが遠山バレエ研究所のPRも兼ねて挿入されているのだ。
 机と椅子を片付けた教室の窓を暗幕でふさいだだけの場所で、簡単な照明と音楽による舞台演出だったが、合計で三回踊ったその踊りは、今回はそれなりに好評だったようだ。狭い空間であまり激しい動きはできないため、しっとりとしたアダージォ系の動きを主体にして振付けてある。
 パートナーの遊美の動きは練習のときよりもずっと安定して、なめらかだった。
 踊りが終わるたびに、子供たちが寄ってきてかわるがわる握手を求められたり、父兄も加わって記念撮影をさせられた。
 都志樹が言っていた通り、遊美の小さい子たちに対する態度はとても優しく、面倒見のよい母親のように子供たちに接していた。そのせいか、三回目の踊りを終え、着替えて出てきたあとにも子供たちに囲まれてしまい、あげく、庭に連れ出されてしまった。
 この分だと、しばらく遊び相手をさせられることになるのだろう。
 篤はしかたなく、他の父兄や園児たちの邪魔にならないように、園舎のそばでその様子を眺めていた。
「鹿野さん、大人気ね」
 振り向くと、篤がここの園児だったときのクラス担任で、いまは園長でもある女性が微笑みを浮かべて近づいてきていた。
「あ、どうも……今回はいろいろとお世話になりました」
「いいえ、こちらこそ。それにしても、鹿野さんが、遠山くんと一緒に来ることになるなんて思ってもいなかったわ」
「え……彼女のこと、ご存知なんですか? ひょっとして、ここを卒園してたとか?」
「あら、知らなかったの? まあ一年先輩だものね……わたしはあなたが入園する前に彼女のいる組を担当したんですよ。ちょっと内気で、友達作りが上手じゃなかった感じだったんだけどね」
 ブランコに乗った遊美を、まわりを囲んだ子供たちがまとわりつくようにして、かわるがわる押していた。園長はその様子を見つめながら目を細める。
「でも、久しぶりに会ったら、とても大人っぽくなっていてびっくりしたわ。でも今度は中学三年生ですものね、当然なのかもしれない。彼女との踊り、とても素敵でしたよ」
「はあ、ありがとうございます……」
「ひょっとして」
 いたずらっぽい笑顔で問いかけられる。
「お付き合いしてるの?」
「い……いいえ、そんなことは」
 あわてて手を横に振る。
「彼女はつい最近組むようになった人なんで……今回が本番としては初めてなんです」
「まあ、そうなの? とてもそうは見えなかったけど。特に鹿野さんのほうは、踊りの中にとても細やかな感情が出ていた気がしたわ」
 そのことは、たしかに篤自身も感じていた。
 一緒に踊っているときの遊美は、ときどき背筋がぞくっとするほどに愛らしかった。ほかのパートナーには感じられない、暖かな想いが踊りを介して伝わってくる気がした。厳格な踊りの枠組みの中で、そんなことが起きるということに驚きさえ感じた。
「ひょっとすると、あなたのことを覚えてるかもしれないわよ……あなたたち、ふたりとも帰りの時間によく残ってたから。親御さんの関係で」
「え……」
 眩暈のような感覚に襲われた。
 そして、子供たちに囲まれている遊美の後姿を見た。
 夕焼けの色が、視界に重なる。
 瞬間、
 篤の精神は時を一気に遡った。

 小さな影。
 それは、ブランコに乗った女の子。
 みんな帰ってしまって、ほかには誰もいない。
 そっと近づいてゆく。
 いつ、声をかけようか、迷っていた。

「あら……篤くん?」
 びっくりしたような顔をしている園長をそのままに、篤はゆっくりと後ろからブランコに近づいて行った。

 女の子は、まだ気づかない。
 篤はさらに近づき、背中に手を伸ばす。
 そして、手のひらでそっと押した。
「……!」
 女の子の肩が、一瞬びくっと、震えた。

 周りにいた子供たちは動きを止め、ぽかんとした表情で篤を見上げている。

 言わなければ。
 そう……何度も、何度も心の中で言った、あの言葉を。
 今日こそ、言わなければ。
 篤は勇気を振り絞る。
「……なまえは、なんていうんですか?」
「え……」
 言えた。
 やっと、言えた。
「ぼくは、あつし。すみれぐみの、とおやまあつしです」
「わ……」
 女の子は、声をつまらせた。
「わたしは……」
 心臓の音。
「わたしは……ゆみ」
 心臓の音。
「ばらぐみの、しかのゆみ……です」
「ゆみ……ちゃん?」
「はい」
 ゆみ。
『きっと神様が来て、押してくれたんだって』
 篤はもう一度、女の子の背中を押した。
 ブランコが、揺れる。
『押してくれる? 篤くん』
 戻ってきた背中を、もう一度。
「ゆみ……」
 視界が、ぐらりと揺れる。

 駆け戻る記憶。
 それは、眠っていたもうひとつの時空。
 そして、女の子の上に、重なる、名前。
 神様……は。
 閃光が、かけめぐった。
「遊美さん……」
 涙があふれ、こぼれ落ちた。
「遊美さん、神様はぼくだったんです!」
 叫んでいた。
 周囲の子供たち、そして父兄もあっけにとられている。だが、そんなことはもう目に入らない。
 篤は遊美の前に立ち、両肩をつかんで叫んだ。ぽたぽたと頬に涙が伝い、落ちる。
「誰もいない、ここで、あなたの背中を押したのは、このぼくなんです!」
 いま、やっと言えた。
「戻ったんです。ぼくは遠山篤……あの夜、あなたと一緒に踊った、遠山篤です!」

 月の光る夜。
 泣きながら、一緒に踊った女の子。

 どん、と胸に衝撃があった。
「わああああん!」
 それは、泣き声というより、叫びだった。
「あああ……ああああん、あああん、ああん、あああああん!」
 細い腕が篤の背中に巻きつき、締め上げた。
「あああ、あはああ、ああああああ、ああああああん、わああああああん!」
 篤も、遊美の細い両肩に腕を回して抱き寄せた。
「やっと……」
 それ以上は、もう言えなかった。  だから、髪を優しく撫でた。何度も、何度も撫でた。
「あはあああん、ああん……ああああん、ああん」
 呆然と見つめる人々の輪の中で、遊美の泣き声は、なおしばらくの間、止まることがなかった。


 数日後。
   新年度の始業式からの帰り道、神社の石段の昇り口に向かおうとしたとき、遊美は鳥居の陰に人が立っていることに気付いた。
「……篤くん」
「こんにちは」
 篤は学校の制服を着ていた。そのしゃれた感じのデザインから想像するに、私立中学なのだろう。そういえば、彼の制服姿というのは一度も見たことがなかった。
 もっとも、それはお互い様だったらしい。
「制服、初めて見ましたけど新鮮ですね。お似合いですよ」
 ちなみに、遊美が着ているのは藍色を基調としたセーラー服だ。
「ありがとう……って、それはいいんだけど」
 遊美は篤の顔を見て、ちょっと口ごもった。
 何をしに来た、という言い方もどうかと思うし、さりとてこのあいだの幼稚園での一件を口にするのもはばかられる。
 あの事件は、ふたりを一躍有名人にしてしまったからだ。
 だが、篤はこちらの胸中を察してくれたようだった。
「実は……今日は、お礼参りに来たんです」
「お礼参り?」
「前に、一緒に氏神様にお参りしたでしょう。今回の件が解決しますようにって……願いがかなった以上は必ずお礼参りをするものだと聞いたものですから。それに、ぼくは例のもうひとりの神様にもお礼を言いたいんです」
「そっか……」
 まあ、筋は通っている。
「ぼくみたいな外部の人間が、むやみに禁足地に出入りするのは良くないんでしょうが、今回だけはお願いできないですか」
「ああ、まあ……だいじょうぶだよ。べつにそこまで厳しくしてるわけじゃないから」
「それじゃ、行きましょうか」
 篤が手をさし出す。
「え……」
「転ぶといけませんから」
「あ……うん」
 すこしためらったが、遊美は手をつないだ。
 ふたり並んで石段を昇る。
「ごめんね。なんか、その……いろいろ大変だったでしょ」
「いや、まあ……べつにそうでもないですよ」
 篤は照れくさそうに笑う。
 話をしながら道を通って本殿の裏へと進む。
 立て札を横目に、注連縄をくぐり、林の中の細い道を歩く。
「ほんとは草とか刈ったほうがいいんだろうけど、下手に道らしくすると、この先になにかあるって言ってるようなもんだからね」
「聖地という感じで、いいんじゃないですか」
 やがて木々が開け、下り斜面の野原とその上に青い空が広がる。
 軽く風が吹いていて、背の低い草が揺れているのが見える。
 篤がふたたび手をそっと差し出す。遊美はまた一瞬ためらったが、その手を握った。
 そして、ふたりでゆっくりと斜面を下りてゆく。
 岩の裏側の神楽殿跡に回る。四角い地面がむき出しになっていたはずのそこは、今はすっかり緑の草におおわれている。そして、その中央には小さな木製の社があった。
「たしか、遊美さんが自分で……?」
「うん。お父さんに教えてもらいながら作ったの。ご神体は、あのとき着てた服。たぶん、神様は胸のとこの飾り石で眠ってるはずなんだけど、服をこわしちゃうのもなんだから、そのまま箱に納めて入れてあるの」
 ふたりは社の前にしゃがみこみ、参拝をした。
 やがて立ち上がると、篤が言った。
「父がいなくなって、七年以上経ちます。法律上は、失踪宣告というものをしてもらうこともできるそうです。つまり、死んだ人と同じ扱いになるわけです。でも……ぼくは、それはしないでくれって祖母に言いました。それをしたら、本当に父が戻って来れなくなりますしね」
「…………」
「いつかきっと会える日が来ると信じてます。父も母も、いまどこでどうしているのか分かりませんけど……元気で暮らしていて欲しいと願っています。きっと、ぼく以上に苦しい思いをしたと思いますから」
「篤くん……」
 以前に比べると、篤の横顔はひどく大人びて見えた。あの例大祭の夜、遊美の前で泣き叫んでいた男の子と同じ人物だとは思えない。
 すると、篤はすこし恥ずかしそうな表情で遊美を見た。
「恰好、つけ過ぎですか?」
「そんなことないよ。なんていうか……本当に、王子様みたい」
 すると、篤はたちまち頬を染めた。
「そ……そういう言い方はやめてください」
「ほんと、夢みたいだよ」
 遊美は額を篤の肩の上にとん、と落とした。
「篤くんと……こうしていられるなんて」
 すると、篤は遊美の背中に腕を回して、そっと抱き寄せてくれた。
「あ……」
 細く長い指が、遊美の後ろ髪に触れる。
「……安藤先生は、ぼくが記憶を失くしたあとに、できるだけ周りの人に遊美さんとのことを伏せておくようにお願いして回ったんだそうですね。ぼくの中に、他人の記憶によるべつの遊美さんのイメージができてしまうと、それがぼくの欠けた心の中を埋めてしまうから、と……でも、きっと遊美さんの抜けた『穴』はそう簡単には埋まらなかったと思いますよ。たとえ、いまの遊美さん自身でも」
「それって……なんか複雑な気分」
 遊美はくすっと笑った。
「でも、まあいいか」
「……遊美さん」
「うん?」
「今年の例大祭の夜、遊美さんと一緒に踊るのは……もちろんぼくですよね?」
「え?」
 遊美は顔を上げる。
「べつに、カップルの踊りとまではあの子に言わなかったけど」
「そんな。絶対、神様は二人で踊るって期待してますよ」
「そうかな……ま、そうだね」
 ふたたび遊美は、篤の胸に頬をうずめた。
「そのときは、きっと……神様もわたしたちと一緒に踊ってくれるよ」

 おわり


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