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2007/11/25以降のバレエイメージ研究所日記ははてなダイアリー版に移行しております。

研究所日誌(2007年11月)

この日誌も含めたご意見ご感想などはダイアリーの最新記事のコメント欄にどうぞ。記事内容とは関係なく随時受け付けます。

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2007/11/01(木)

23:42

 今年も残すところあと二ヶ月になりましたよ。本日は、立ち絵のアタリの続きをやってから、衣裳のデザインをやってました。主に刺繍の柄とかですけどね。クラシック系の衣裳はだいたい外形に関してはある程度パターンが決まってるので、あとは模様だの飾りだので差別化を図ることになるのです。ただ、あまり「大きな柄」はやめたほうがいい(作画がたいへん)ということを前二作で思い知らされたので、繰り返し模様を主に採用することになると思います。

 いちおう「装飾デザイン事典」(フランツ・S・マイヤー、東京美術)とかを参考にしてるんですけど、そのまんま流用するのは芸が無いのでなにかしら工夫しようとする……と、ドツボにはまります。あと、三次元のバレエの写真とかも見てますが、ぱっと見に「模様」は分かりにくいんだよね。ネットのJPEG画像は解像度低いし。ただ、男女ともに刺繍とかはめちゃくちゃ複雑です。上半身(胴)は柄模様やふち飾りでノイジーな感じにするというのはクラシック系のバレエの衣裳のひとつの方向性なんですよね(全部そうだとは限りませんが)。それで脚の線はタイツだけですっきりと無地の状態で見せる。一種のコントラストを出すための工夫だと思います。というか、もうさんざん語ってきた話ですけれども、要は露出感の強調ですよ。いかにも「人工的」なものに覆われているところから、有機的なカーブを描いたナマっぽい脚が出てくるところにインパクトがあるのです。

 女性の着けるチュチュの場合は、その形状自体に華やかさがありますから、ワンポイントでの飾りでも十分なところがあるんですが、男のほうは変化をつけるのがむつかしいので、やはり修飾も複雑になる傾向があります。ゴスロリ系衣裳に近い雰囲気と言ってもいいかもしれない。ただ、リボンとかフリルとかには頼りにくいところが難しい。でもまあ、いじりようによっちゃメイド服みたいな雰囲気の王子の衣裳というのもアリだとは思いますが。


2007/11/02(金)

23:47

 昨日の続きみたいな話ですが、考えようによっては、バレエの踊りも一種の幾何学的な模様だと思えばいいのかもしれません。まさに万華鏡のごとく変化する人間模様ですよ。わたし自身そもそも子供の時分でのバレエに対するとらえかたというのはやはり「美しい模様」の一種だったかもしれんです。固定した模様よりもダイナミックに変化する模様のほうがより心をひきつけます。直接的な意味を有しない模様というのは、子供にとっては奇妙な魅力をもつものです。ちなみに、わたしはシャボン玉の表面を彩る虹っぽい模様というのもかなり好きでした。いわゆるマーブル模様というやつですが、最初は赤と緑がメインでそれがだんだん黄色と青紫っぽい色に変化していくんですな。で、だんだんと色あせてきて末期には穴がぶつぶつ開いてきて、ご臨終。生成と消滅、まさに生と死の暗喩です……ということまではたぶん意識してはいませんけどね。でも、ああいう不定形の模様は心の奥深くが刺戟されるものです。

 しかし心の奥深くともなれば、やはり性的な要素はゼロではないのかもしれません。もはや遥か彼方のことなんで正直よく思い出せませんが。性的魅力というものを「形」として認識するひとつのきっかけになっていた可能性はありますね。幼稚園児ぐらいだと乳房を含めてナマの女性器というものに対する意識ってのはまだ希薄ですから、女の子という差異を認識するには髪型とか服飾的なものに頼ることになります。そこらへんで男子のフェチ的な嗜好というものが育つ余地があるのかもしれんですねえ。逆に女の子の側は服飾とかじゃなくて、行動パターンとかで性差を感じるのかもしれない。まあ、幼い少女になった経験はないので99パーセント妄想ですけどね。


2007/11/03(土)

18:49

 文化の日だというのに、いきなりアレな話でなんですが、最近ずっと朝立ちが来るようになりました。これって別に若さの証拠とかそういうこととは関係はないんだそうですが、体調悪いと絶対に来ないので、おそらく調子はいいんだろうと思います。あとは集中力の持続が課題ですなあ。でもまあ、とりあえず普通に日々を過ごせているのはめでたいことです。

 イマだからこそ笑顔で語れますが(カオなんて見えないでしょうけど)今年の前半はものすごい鬱状態が続いてました。たぶんこれまでの人生での最悪期だったような気がします。「死んだほうがマシかも」とちょっと思ったこともあったので、たぶん現代の評価基準からみると「病気」だったのは間違いないと思います。まあ要因はなんとなく分かってはいたんですけど。

 治ったと思うのはたぶん間違いでしょう。この先にまた似たような状態が来る可能性はあると思います。でも、すくなくともそれを通過したという経験はあるので、それに対する怖れは減るかもしれない。縁起でもないことをあえて言えば、親が死んだら再発する可能性はありますね。わたしは知人の死は経験してますが、肉親の死はまだ経験してないんです。これは幸せなことではあるのですが、それゆえにそのときを迎えたら衝撃は強かろうと覚悟しています。

 そういえば文化の日は明治天皇の誕生日、いわゆる明治節でもあります。直接に関係がないことになってますが、たぶん意図はありありだと思いますね。昭和天皇の誕生日だってみどりの日になってるんだし。でも二人とも在位が長かったのが、祝日にからむことになった要因じゃないかと思います。昭和天皇が死んだのはやっぱり当時かなりの衝撃があったと思いますよ。やっぱり「戦後」いう時代のシンボルであったのは確かだから。あのときわたしははじめてタマのところに黒い帽子をかぶせた国旗というものを見た。非常に不思議な感じでしたね。悲しい日なんだけれども「ハレの日」でもあるような。ちなみにわたしが勤めてた会社の社長は天皇家嫌いの人だったんで、会社を休みにはしなかったですけどね。あの大喪の礼からもう二十年近く経ってるのですなあ。「平成」という年号を当時官房長官だった小渕さんが記者会見で見せてたのもなんか異様な感じだった。なんだそれって感じでね。自分の人生に異物が入り込んできたような。ああいう衝撃を、昔の人はたぶんもっといろいろな形でわれわれよりも頻繁に受けていたんでしょうね。具体的にどうということではないですが、そんな気がします。

 ところで小沢さんが福田さんから「大連立」の話を持ちかけられて、この話をその場で断らずに党の役員会に持ち帰ったということでいろいろ言われてます。これはたぶん福田さんが柔道でいえば「技あり」とまではいかなくとも軽く「有効」ポイントぐらいはとったという感じなんじゃないでしょうか。小沢さん自身は「大連立」を現実的な構想としてとらえてはいないでしょうが、その場で断らないということがどれだけの波紋を呼ぶかということについてはあまり深くは考えなかったのかもしれません。いわば、その場の流れでそうなったという感じでしょう。でも、それが結果として、「小沢という人物は結局は元自民党の人間である」という再確認をさせることになってしまったわけで、ちょっとミスった感じではありましょうね。

 それもこれも、結局はこの「衆参ねじれ」という状況において「まじめに議論して妥協点を探る」というごくあたりまえの発想を議員さんたちがもたないことにあるわけです。お前らもっとちゃんと議論しろ。というか論理的に話をする能力がないのか? ないんだろうな、たぶん。そっちのほうが大問題だね。議会の勢力が拮抗している以上は、双方が妥協した上で法案を通せばそれはアウトプットとしては一種の「大連立」なのですよ。いままでの55年体制みたいに野党が庶民の味方のふりをして反対をし、自民党がいわば悪役になった感じで結局は政府(官僚?)のやりたいようにやるというパターンができなくなったのね。それでみんなとまどってるんだよ。もっとラクをしたいのかい? だったら国会議員なんてやめてしまいなさいよ。誰も頼んだわけじゃないんだし。親がやってるから仕方なくやるんだなんていうの、勘弁してくれよ。とりあえず消費税を上げたくて仕方がないのは分かるけど(なにしろこの状況はすくなくとも向こう3年間は消費税は上げられない)、それだったら政府がこれまでどんなカネの使いかたかをしてきたのかをきちんとレポートしな。それをやるだけで無駄なことはカットできるんだから。その上でまだカネが足りないってのなら、税負担もやむをえないです。やたらと何年か後にはカネが足りなくなるってことばかり試算してみせて国民を脅かすような書類を作るより前に、現状把握のほうが大切だよ。言っちゃ悪いけど、お役所も脳梗塞寸前の人が増えてきてるんじゃないの? 常識的な意見も通らないようなダメ組織になってるのは食品会社ばかりじゃない、というのは間違いないね。


2007/11/04(日)

21:00

 世の中には「A:支配したい者」「B:支配されたい者」「C:支配したくも、されたくもない者」の三者がおり、たいていの場合はAとBが多数を占めている。そもそも群れをなして生きる動物にはたいてい統率者がいて、他の個体を支配する。ただ、この統率者の重要な役割は危機管理である。つまり群れに生きるか死ぬかという状況が迫ってきた場合の判断と対処(指示)をするのが主な役目なのである。大きな危機がない状況では、統率者の存在意義は低下する。平和な状態では、AとBは対立しやすい。だから、「A:支配したい者」はやたらと危機を叫ぶということに注意しなければならない。彼らは自身が意識するしないにかかわらず「危機を求める者」なのである。

 ただ、「A:支配したい者」には経営者としての資質があるのは確かだ。なぜなら、経営とは本質的にはギャンブルだからだ。危機的状況と背中合わせにいることに快感を覚えるぐらいでないと経営者は務まらない。ただ、「A:支配したい者」=支配体制の内側にいる者ではないことにも気をつけよう。お役所は社会秩序を形成するために人の生き方に口出しをするのが仕事である(いわゆる許認可・規制のたぐい)。つまり、ある種の「支配」を仕事にしている。だからといって、お役人がみな「A;支配したい者」の資質を持ち合わせているとは限らない。彼らの大半は民間組織と同様に「B:支配されたい者」に属しているのである。

 平和な状態では「A:支配したい者」は爪弾きにされやすい。とくに、富や力に恵まれない者は社会の縁にまで押しやられる。すると、彼らは「C:支配したくも、されたくもない者」に転向してしまう。結果として「富裕層」に属している「A:支配したい者」だけが残る。ただ、富裕層出身の彼らは、危機に対する経験値が低いので、前の世代に較べると身のこなしは鈍い。優れた統率者は相対的に数を減らす。したがって、たとえ「支配」そのものを仕事とするお役所といえども組織は硬直し、機能が低下する。

 つまり、二世・三世議員がはびこり、官僚たちの機能が低下し、「格差」が広がっている極東の島国のこの状態はある程度は必然なのだ。そして、どちらかというと「C:支配したくも、されたくもない者」がじわじわと増加する傾向にある。社会との関係性を絶つ「ひきこもり」という行動は、まさにCの典型である。そもそも社会秩序とは、支配したいという意志がシステマチックに人々を拘束する網の目を形成することで成立するものなのである。だから支配から逃れようとすれば、社会そのものとの交流を拒絶する方向になる。果たして、近い将来、彼らと「A:支配したい者」との対立はあり得るのだろうか。しかし、対立という行動自体がすでに社会的行為なので、おそらくこのAとCの対立は傍目には相当にわかりにくい形をとることになるだろう。

 ところで、小沢さんって大連立って通るとホントに思ってたのかね。なんか全然違うウラがあるんじゃないかしら。そんなに単細胞なのかねえ、福田さんも小沢さんも。でも、小沢さんって自分には「人望」はないということに気づいてなかったのかもしれませんねえ。国連への自衛隊の指揮権委譲ってのはたしかに画期的な方向転換だけど、自分が大事だと思ってることを他の人も大事だと思ってくれるとは限らないんだよな。それに、大連立ってやっぱり「密室政治」なんだよねえ。国会じゃなくて党と党の話し合いで決めるってことがあからさまになってるんだから。国民との意識の乖離を認識できてない可能性がありますよ。もう潮時ではありますな、ああいうタイプの政治家は。


2007/11/05(月)

22:19

 小沢さんの辞任会見をニコ動で見ました。小沢さんは残念ながらいま国民がもっとも望んでいることを分かっていなかったといえます。いまの国民の大半は実のところ政権政党が自民党だろうが民主党だろうがどうでもいい。望んでいるのは政治にも「競争」が発生することです。日本は戦後から現在に至るまでそのほとんどの期間を自民党という政党が政権を独占してきました。この状態は、いわば「ゆるやかな全体主義国家」であって、民主主義国家とは到底言えるものではなかったのです。ただ、戦後の荒廃から今日までの経済成長に至るためには、この「ゆるやかな全体主義」が効果的に作用した面もたしかにあったのでしょう。しかし、一方ではマイナス面も確実に増大し、それがあの田中角栄のロッキード疑獄に代表される「金権政治」を生み、「公費天国」とも称された行政の腐敗を招いたのです。おそらく日本がもっとも遅れているのが政治であり、いい加減にこの「ゆるやかな全体主義」の体制から脱却することがまず真の先進国への道だと言えます。必要に応じて政権交代が発生する政治体制こそが政治家の「競争」を生み、より優れた能力をもつ者が登用される機会を増やすのです。

 そんな「当たり前」のことが見えていなかった小沢一郎は単なる「政治の内側しか見ていない政治家」であると言われてもしかたがないでしょう。しかも代表辞任の会見で「いまの民主党には政権担当能力はない」などと言っている。たしかに、そんなことを言うような人間は代表の座にとどまる必要はないでしょう。記者に対して身内のゴタゴタを愚痴ってどうするよ。そこまで言うなら、むしろ民主党から出て行ったほうがいいかもしれませぬ。そもそも彼の本来の政治路線は「小さな政府」路線なんだから(民主党と合流する前の「自由党」はそういう政党だったはず)、考え方は小泉改革と同じはずなんだし。ただ、彼は自民党の中では小泉さんほど思い切ったことはできなかったでしょうけどね。いずれにせよ、社会民主主義政党である(はず)の民主党の中にいるのが無理があるのよ。すこし焦り過ぎたのか。個人的に余裕が無かったのかもしれませんね。

 ところで今日の作業はイベントCGの構図の続きです。ダンスシーンのほうはいくつか描いてみましたが、エロいからみのほうは話との関係もあるので、とりあえず汎用性の高い?正常位と後背位を練習代わりに描いてみたけど、ふつうに描くとエロくない。前もいろいろ語りましたがそこが接触してると肝心のポイントが見えないからねえ。あとあんまりスカートがめくれ上がったりすると着衣エロのありがたみが微妙にダウンするのですよ。ほどよく隠されているぐらいが味があるのですが。角度をつけて接触させるとか工夫が必要になるですね。

 もっとポイントそのものの接触以外にもいろいろと接触のバリエーションを増やすという方向がよろしいのですが、ただしょっぱなからいたいけな少年少女にマニアックなことをやらせるには物語上の必然性というものが……ね。あまりにフリーダムな構成にすると感情移入しにくいわけですよ。キャラの輪郭はそれなりに大切にしないといかんと思うので。いわばプレイヤーにとっての依代(よりしろ)ですから。あとキャラに関してはやはり表情をもっときちんと描かねばとも思ってます。アップとかコマ絵とかの演出もしてきたんですけれども、やはりそういうときのそういう表情は萌えの足がかりとしては重要ですからな。ただほっぺた赤くすればいいってもんじゃないし。いろいろといっぺんに上達するのは難しいですが努力はしないとね……。


2007/11/07(水)

15:20

 個人的に残念なお知らせ。コミックマーケット73、つまり今年の冬コミには落ちてしまいました。やっぱ三連続で当選というのは無理だったねえ。もっとも、その前は二連続で落ちてたんだが。とりあえず来年の二月のコミティアを新作発表の目標にします。うーん、ちょっと残念。でも、その分、新作の充実度を図りますので。

 キャラクターをすこし増やしたいなあと思ってたとこなんで、増やす方向で考えます、せっかくだから。メインが少年と少女のふたりだけじゃ話として構成が単純になっちゃうからね。立ち絵用キャラをとりあえずあと二人ぐらい。まあ、稽古着姿ぐらいだけど。分岐ありとかそういう方向にはまだとても行けそうもないです。作業効率上げないと。

 二月のコミティアって下旬なので二ヶ月近く延びたことになるわけだなあ。小説のほうもすこし時間を割くようにしようか。ホームページももうすこしなんかコンテンツを増やさないとね。デイリーが100割ってる感じだし。しかしそうなるとみなさんこの日記を読みにきてくれてるんですかね。ありがとうございます。なんかまた企画を考えますので。

17:08

 「白鳥の湖」のオデットとジークフリート王子は恋を実らせずに死ぬ。しかし、その物語は踊りという記号に置き換えられることで、さまざまな男女の肉体を借りて何度も繰り返される。つまり、物語の外、すなわちわれわれにとっての現実の空間で彼らは永遠に結ばれたのである。

 記号とは、死すべき存在である人間が、不死の世界を形成するための武器である。記号そのものは生命ではない。しかし、いったん定着された記号は何らかの形で「実体」を得ることで再生される。もっとも簡単な形ではその記号が人間によって「解読(decode)」されることでその人間の精神の中に実体を得る。

 バレエの場合は、その記号は肉体のパフォーマンスそのもので構築されているため、解読の必要すらない。踊り手の肉体によってその動きが複写されればよいのである。むろん、そこにはキャラクターや物語といった言語精神レベルにおける解読を要するものも含まれているケースもあろう。しかし、踊りが抽象の極限に至った記号、つまりその記号が具体的なものを何も指し示さないもの(動き)ばかりで構築されていた場合、その肉体のパフォーマンスをどのように理解すべきか。これはもはや個人の感性にゆだねられる世界だろう。

 ただ、一対一の男女による踊りのパフォーマンスは、独特のイメージを背負うことが可能である。すなわち「恋」と呼ばれる概念だ。そして、恋もまた、実は具体的なものを指し示さない記号の一種でもある。それは生殖行為そのものよりも高次の位置にあるもの、もしくは生殖行為に至るまでの精神的なプロセスとして従来はイメージされているが、具体的にこの部分が恋だと特定できるものではない。強いて言うなら、それは無意識(自己)に対比される意識(自我)のように、生殖行為を支える己が衝動を思考と観察の対象としようとする意識そのものだろうか。

 踊りという記号と恋という記号がお互いを指差しあった場合……つまり意味の循環であるが、それは一種の自己完結したシステムでありつつも、その内側では男女の踊り手相互の肉体の運動と感覚のフィードバックを伴うため、その運動と感覚そのものが恋の「仮想的な実体」として踊り手はお互いに体感できることになる。それは、従来の恋愛とは明らかに次元が異なり、踊りという記号の再生作業そのものが終了するたびにいわば「リセット」される行為だ。が、しかし、それが恋愛の一種ではないと果たして言い切ることができるだろうか? たとえば固定したカップルがその踊りを反復している場合において、双方にとっての行為の性質・意味合いはいわば「深度」を増すことにはならないだろうか? そしてさらに踏み込みならば、双方の運動と感覚のフィードバックの輪の中に、性的な感覚が混淆されたらどうなるだろうか?

 わたしが追求しようとしている主題は、言い方を変えると実はこんな風にも表現できたりするのです。


2007/11/08(木)

13:31

 小沢さんは結局もとの鞘に収まったけど、彼が一度は大連立に前向きになったということは、民主党の内部での火種になり続けるだろう。某新聞のえらいさんはたぶんどっちに転んでもお徳用的な仕掛けをほどこしていたのかもしれない。お年寄りの策謀好きは仕方ないけどね。でも某新聞の編集委員さんとかもかわいそうですな。もしかすると心にもないこと(社説とか)を書かされていたのかもしれん。新聞記者だってサラーリマンですから、なんてセリフは言ってほしくはないけどねえ。でも安定志向(いまの小さな幸せを守りたい的な志向)を破棄しようとすると叩かれるもんね、いろんな方面から。男は辛いよ。

 「桃華月憚」というアニメのDVDを買ったんですが、最初なんでこんなアニメに惹きつけられるのかしらと思っていたのですよね。まあ逆再生(最終話から第一話に向かって時系列的に遡るかたちで話が構成される)とか声優が脚本書くとか、過去の作品とのコラボとか、実験的な演出(遊びも含む)とか、いろいろな要素はあるんですが、つまるところはやはり耽美的なムードと絵柄ですかね。あと主人公の設定とかね。原作のゲーム(販売・開発はROOT/オービット)に関しては某批評空間によると「地雷」という評価がかなり多いみたいですが、設定はアニメとかなり違うらしい。というか、原作の設定が詰め込みすぎなのかも。アニメ見ててもなんとなく分かる。でもあれなんだよね、気持ちは分かるよ。伝奇好きってのは、過去の因縁とかのディテールをいろいろ考え出しちゃうんだよ。ただ、やっぱり世界をまとめるにはどこかでバランスをとらないとね。そこらへんはアニメの監督・脚本の人のほうが割り切りとかの点で一枚上だったかな。

 ちなみにDVDの付録のキャストのインタビューを見てみたら、六条章子役の小林ゆうがなかなかはじけてました。っていうか、インタビューの中で役の声とか出すとそのギャップが凄すぎる。ネギまの桜咲刹那でブレイクした人ですが、二重人格的な役回りってこの人のアタリ役かもね。絶望先生の木村カエレでも同じようなこと(高圧的なカエレとおしとやかな楓の二重人格)やってるけど。こっちはさほど裏キャラの出番がないから、目立ちませんが。ただ、おとといのさよなら絶望放送(アニメイトTV内のインターネットラジオ、第十一回)でゲストに出てましたが、これも凄かったね、いろいろな意味で。聴いてない人はぜひ聴いてみよう。


2007/11/09(金)

23:53

 たとえば「白鳥の湖」の二幕・四幕の王子とオデットのグラン・アダージォのシーンとかを観ると、ああ、バレエっていう場では精子と卵子が逆転してますな、という印象を受けます。つまり、白鳥の乙女はたくさんいます。16〜24の群舞要員(コール・ド・バレエ)、あとは数名のソリスト(通常は「小さい白鳥」が四人、「大きな白鳥」が二人)がいます。そして彼女たちの頂点に立つ存在として王子と踊る白鳥の女王、オデット姫が存在するわけです。これって、つまり王子=卵子で、白鳥たち=精子、そして競争を勝ち抜いて王子にたどり着いた白鳥がオデット姫っていう感じじゃないですか。

 そもそも、この「白鳥の湖」において、「白鳥の乙女」たちの群舞なんてものは本質的にはなくても済むものじゃないかと思うんですよ。だって、人間って一箇所しか見れないから、主役に注目してると、群舞は背景になってしまう。もちろん、群舞だけのシーンもあるけど、つまりは「どれだけ動きが揃っているか」ということの見事さを鑑賞するだけのものになりがち。物語の担い手は王子とオデットと悪魔だけだから、ぶっちゃけ突っ立ってるだけでもいい。でも、バレエの公演をする側からするとそういうわけにはいかないのでしょう。バレエ団にはそれなりの数の踊り手がいるんだから、遊ばせておくわけにはいかない。だから背景に等しい存在であろうが、踊り手として舞台に上げなくちゃならない。プロではない「おけいこのバレエ」だったらなおさらですよね。出番はすこしでも多いほうがよろしい。

 むろん、本質には「集団」の規模が大きくないと優れた踊り手がそもそも確保できないというあたりまえの事実があるんだと思います。才能をピックアップするにはまず「人口」が必要なのです。ただ、バレエ人口ってものをアマチュアを含めた裾野の広い範囲で捉えた場合、明らかに女性のほうが多いでしょう。しかも、男性側つまり王子様も容貌や運動能力が相応の水準に達しているのが前提ですから、もともとの「人口」が少ない分、セレクトされればますます少人数になります。まさにバレリーナ=精子、王子=卵子の関係です。

 今日見た「誰でもピカソ」にゲストで出てきた熊川哲也に、番組宛の小学生からの質問で「男性なのになぜバレエダンサーを目指したのか?」というのがいちばん多かったということに対して、「この質問はキツイっすね」と言っていたが、つまりいまだに「バレエは女子がやるもの」というイメージは払拭されていないということです。ちなみに、番組のしょっぱなでは日本にはバレエ教室が15,000もあるという話があって、これにはすこし驚きました。多くても1万はいかないだろうと思ってたので。しかしまあ、内容的にはピンキリのキリのほうが多いんだろうな。バレエ教室には資格免許なんてないからね。

 バレエという場においては性的役割が逆転しているのではないかという根拠はほかにもあります。女性はトゥを立てて踊るという表現上の特権をもっていますが、それは自然な身体の運動に対する究極の反逆であり、不安定さを志向しています。しかし、不安定であるからこそ、より敏捷・活発な動作も可能になっています。制御工学の視点でみれば、安定性を犠牲にしている分、応答性能がすぐれているのです。これは、バレリーナのほうが男性的な、活動的なポジションであることを示しています。活発なバレリーナの不安定性を王子が支えて安定させるという関係は従来型のヒトのオスとメスの関係のありようからするとむしろ逆かなと思います。

 また、性的なアピールということに関してもバレエにおいては女性のほうが強力であると言えます。性的なシンボルをチュチュという特殊な衣裳で拡張・強調し、なおかつ活発な下半身の運動によって呈示するという行動は、鳥類のオスなどの「求愛行動」の仕組みを連想させます。ただし、このアピールは本質的には観客という外部の存在へ向けてのものですが、あくまでもバレリーナ自身は記号としての存在なのですからこれは当然です。一方、王子のほうは性的なアピールということに関しては、跳躍を多用するソロ・ダンス以外においてはダイナミックに表現する手段が乏しいといえます。そもそもバレエの踊りの動きとして、女性はけっしてやらないような男性的な動きが明確に存在するわけではないため、動きによる差別化は困難なのです。そして、本来の性的シンボルである男性器は、呈示されているのか躰の一部として取り込まれているのかよく分からない形になっており、アピール性は相対的には弱いでしょう。

 だからといってバレエが女性優位社会だと言いたいのではありません。ただ、構成要素においてその役割の逆転が発生しているということが、バレエの中で演じられる内容を評価するにあたっての手がかりになるのではないか、と思った……というところです。今のところは。


2007/11/10(土)

23:38

 ヒトの身体の特徴について、覚書風に書いておく。とりあえず今日は腕。

   腕は、肘を境にして15度ほど外側に折れ曲がっている。これは腕を下ろして手のひらを前に向けた状態(回外位という)ではっきりわかる。手のひらを外に回してゆくほどに、この「折れ曲がり」具合は減ってくる。回外位だと手首から肘は「平ら」だ。つまりその断面は横に扁平な楕円という感じになる。一方、肘から肩にかけては太くなってきて円に近くなる。

 回外位から90度内側に手のひらを回すと、手首から肘は「タテに平ら」になる。ただ、手首90度に対して肘は45度くらいしかまわっていないので、その「面」はねじれた感じになる(このイメージはけっこう大切だと思う)。

 さらに手首を内側に回して180度返した形(回内位という)になると、肘はほぼ90度回って真横(外側)に位置する形になる。だからこの状態で肘を曲げると、内側に向かってほぼ水平に曲がる。また、この回内位では尺骨と橈骨がクロスする形になるため手首から肘にかけては回外位にくらべると厚みが増す。とくに、肘近くでは筋肉(長回外筋など)がもりあがって、タテの楕円に近い断面(やや外に傾いた感じ)になる。

 さらに内側に手のひらを90度回すと、肘はさらにプラス45度ぐらい回る形になり、斜めになる。手首から肘にかけては、手のひらに沿って「平ら」になっている感じになる。内側に回すのはここらへんで限界。

 その他、腕に関するちょっとした特記事項。
・回外位のまま肘を曲げると、肘の外側から手の背、小指側の付け根にかけて斜めのくぼみが出る。
・回内位だと手首の骨、とくに外側の「尺骨の端」がコブのように出っ張る。
・手は尺骨・橈骨の端よりすこし先で曲がる。


2007/11/12(月)

20:02

 米国のサブプライムローン危機がいよいよ本格的に深刻化してきた模様です。要は住宅バブルに乗じて低収入の人(ヒスパニック系移民などを中心とした人々)に金を貸し付けて金利をふんだくろうとしたらしっぺ返しが来たわけですが、その背景には、低収入の人ほど消費意欲があるということ単純な事実があります。日本はなんだかんだいって消費者物価が上がりません。年初に$60程度だった原油価格が$90を超え、5割増以上の高騰となっているにもかかわらず、メーカー各社は商品にこれを転嫁することができずにいます。なぜか。答えは簡単、この日誌でも再三主張しているように、日本経済が必需品だけではなく、付加価値を上げた商品の取引によって支配されている状況が続いている「水ぶくれ」の状態にあるからです。かつて、1970年代の第一次石油ショックのときには、モノ不足への恐怖心が嵩じてトイレットペーパーの買占め騒ぎなんてのが起きていましたが、そんなことはいまの日本では起き得ません。だいたい、コンビニエンスストアという「便利なお店」の収益が大規模小売店(いわゆるスーパー)である親会社を上回ってしまうという時代なのです。モノよりも利便性に付加価値が移行しているこの状況下では、世の中のモノの消費に関してはもはや圧倒的な「買い手市場」になってしまっているのです。モノやサービスが高ければ買わない・利用しない、ただそれだけのことです。だから、企業の商品コストを示すが上昇しても、消費価格への転嫁は困難なのです。

 いま、世界中で「カネ余り」の状態が続いていると言われています。それは、過剰流動性などという面倒な言い方で表現されることもありますが、本来ならばインフレの前段階なのです。モノやサービスに対してお金が多くなっているのならば、それはインフレです。ところが、現状においては多すぎるお金はけして消費に向かわず、投資にばかり向かおうとするのです。しかし、そもそも投資対象となり得るような、高収益の産業はその背景に旺盛な需要というものがなければ成立しません。つまり誰かが「消費」をしてくれなくてはならないのです。では、なぜ消費が起きず、投資ばかりに向かうのか。これまた簡単。お金持ちにお金が集中しているからです。現代の先進国のお金持ちたちは、金を稼ぐ割には消費者としては強力ではないのです。現実問題として、お金を「湯水のよう」に使うなどということは、どんなことをしたって限界がありますし、いまのような情報化社会においては、むしろ多数の「良識ある人々」からの非難の対象になるだけです。むしろ、収入の低い層こそが重要かつ確実な費の担い手であり、彼らにお金を回さない限りは消費は拡大しません。要するに、資本主義の勝ち組たちが自分の手元にお金を集めすぎてしまったからこそカネ余りが生じ、利回りのよさそうな投資対象(今回の場合は証券化されたサブプライムローン債権)にお金がワーッと群がるような状態になってしまったのです。挙句の果てに住宅バブルがはじけたとたんに不良債権化してしまい、日本の土地バブル破裂と似たような状況に陥ったというわけです。

 とりあえず余っているお金、特にドルに関してはまだまだ下振れする可能性が強いでしょう。そうなると、円安下における外需の伸びに頼っていた日本企業は低迷する国内需要だけでは容易には利益を出せなくなってゆき、またまた合理化の嵐が吹き荒れることになるのかもしれません。たとえば代表的な耐久消費財だった自動車も、生産体制を縮小し、価格を大幅に下げなければならない状況に至る可能性もあります。各産業でそのようなことが連鎖的に発生した結果、名目成長率が大幅にマイナスとなる状態が続くかもしれません。しかし経済、あるいは暮らしの豊かさは実は見かけ上の指標(金額)だけで計れるものではありません。経済が縮小均衡に向かっていったとしても、案外日本人は精神的な意味での豊かさを取り戻していく方向に行く可能性もあります。そのあたりは悲観ばかりする必要はないのではないかともわたしは個人的に思っています。


2007/11/13(火)

23:21

 今日は昼間はいろいろと外に用事があって出歩いていましたが、そのついでに足利市立美術館に寄って成田亨の造形美術に関する展示「怪獣と美術」を見てきました。ウルトラQ、初代ウルトラマン、ウルトラセブンなどに登場した怪獣たちの決定稿、また怪獣や戦闘メカをモチーフにした油絵、さらに鬼などをモチーフにした巨大レリーフ、銅像など。さらに彼の後に続いた、高山良策、池谷仙克、原口智生の作品も合わせて展示されていました。印象に残ったのは、ウルトラマンの初稿とか。かなり決定稿とは違った感じで、ヒーローというよりむしろ怪人に近い感じ。マイティジャックをモチーフにした油絵、怪傑ライオン丸の顔の原型マスクなんてのもありました。世代を問わずウルトラシリーズに親しく接したことがある人ならば一見の価値アリです。


2007/11/14(水)

23:30

 アニメ「桃華月憚」でコラボしていた「ヤミと帽子と本の旅人」を全話見てみました。世界観はなかなか悪くないんですが、物語全体としての完成度はもう一つでしょうか。主人公の東葉月は結局、自分よりも高次元の存在(初美)に振り回されていただけという感じという気がしないでもないです。キャラのポジションがある意味不公平というか……それゆえ主題らしきものが見えにくい形になってしまっているようです。ただ、葉月のCVを担当した能登さんはいろいろと頑張ってました。

 ここのところ、夜になると眠いです。気温がさがると体温が下がり、代謝も低下するからでしょうか。おかげさまで、なんとなくこの日記のネタも浮かびにくい状態。明日は昼間のうちに書くことにしようか。


2007/11/15(木)

23:20

 世の中には進歩を望む者と、望まない者がいる。その共存を図ることが、たぶん大事なのだ。

 人生をどのように生きるかはその人の勝手だ。文明がここまで発達したいま現在、必要最低限の労力で人生を過ごすことは一見、怠惰な生活のように見えるかもしれない。けれども、それを非難するのは間違っている。進歩が善なのかどうかだって、本当は分かったものではないのだから。

 進歩を望まない者どうしが集まって共同体を形成するのだってそう悪くはないような気がする。いままで国家は人種・民族によって区切られている場合が多かったが、ライフスタイルによってカテゴライズされたってよさそうなものだ。ま、旧ソ連や中華人民共和国のようにイデオロギーで束ねられるというケースもあるが、あれはちょっと無理やりなところがあって、いろいろなひずみを生み出してしまった。それにあれは国民の総意というわけでは必ずしもなかった。

 共存とは、つねに混合している状態を指しているわけではなく、またカテゴリーごとに完全に分離している状態を指しているわけでもない。適度に距離をおき、状況に応じてその距離をコントロールできるというのが実際に望ましい。だから共同体が形成されても、単に境界を区切るだけではなく、共同体どうしの交流をもつこともあり得る。進歩を望む、望まないということに関わらず、ヒトとして共有するものはあるはずだからだ。具体的にどのようなシステムとその運営があり得るのかは分からない。でも、需要と供給、価値の交換が行われる領域の区分けをその価値のレベルに線引きをすることで形成することは不可能ではないはずだ。ただ、付加価値の低いモノ・サービスが低効率の労働力と循環する領域においては、相応のリスクを引き受ける覚悟は必要だろうが。


2007/11/16(金)

23:30

 今週はなんとなく体調がいまひとつ。体調というよりも生理的なサイクルの一種なのかもしれない。ここらへん、きちんと記録でもとっておいたほうがいいのだろうか? だいたい、気温が低いと眠くなる。もしかして変温動物っぽい? 冬眠とかできてしまうのだろうか。ちなみに小型の哺乳類だと冬眠するケースもあるんだそうです。リスなんかはそのパターンだそうで。

 ボジョレー・ヌーボーが解禁だそうな。ワインが好きな人って多いんですな。あれって瓶を開けると早めに飲みきらなきゃならないって気がするから、結果として飲みすぎになったりする危険性があるのがね……。とりあえず自分で買うことは全然ないな。


2007/11/17(土)

23:02

 今日はキャラの顔の調整をしてました。アングルとかいろいろ変えて描いて、三次元的に把握するとか。あと衣裳デザインもすこし。学校の制服とかって、あんまり凝ったものをデザインしようとすると変なモノになるんで、無難な感じにする予定。結局、外形と色の組み合わせなわけですが。明度や色相が離れた色を組み合わせると派手になります……たとえばくじアンの制服みたいに、ベースが青で襟や袖口が白、なんてのがあるけど。あれは汚れが目立って大変だろうな。実用的ではない。

 むしろ普段着がむずかしいかも。いまどきの若い子が着るものってどんなんだかって。やっぱファッション誌とか買ってみたほうがいいのかね。でもそんなにとんがった服装してる子ってそんなにはいないだろうとは思うんですがね。

 ポータブルDVDドライブの落下試験を3回もやってしまった。でもけなげに動いている、えらい。ただ、USB接続ケーブルがちょっと短いのですよ。もうすこし長めのほうが良かったな。そういえば、次世代DVD(BD vs HD-DVD)はどうなってしまうんでしょうかね。普及する前に終わりのない消耗戦に突入してる感じもいたしますが。むしろハイレゾで見れるかどうかより、もっと安い映像コンテンツの流通手段を考えてくれ。できればアニメは低画質版をiTuneとかで売ってくれると嬉しかったりしますが、どうですかね。どうせDVD買うのはコアなファンに限られるわけだしさ。ニコ動やYouTubeで削除しまくっても本質的な解決にはならんと思うんですよ。

 ちなみにわたしが「桃華月憚」のDVDを買ったのは、このアニメは高画質で見たいなと思ったことと、たぶん何年か経つと、マニアはずっと覚えていても、大多数のアニメ視聴者の間ではあまり話題にならなくなるようなタイプの作品かなと感じたのが大きい。そして、個人的にはいつまでも見たいと思える作品でもあったので。これぐらいの条件が重なれば、わたしでもDVDを買うことがあります。でも逆に言えば、それぐらいじゃないと買えない商品なのですね。製作側ももう少し利益を広い範囲から得る工夫をしていただきたいです。


2007/11/19(月)

20:49

 コミティアに行ってきました。ゲーム関係のサークルはやっぱり少ないですね。ないことはないんですけど、数えるほどしかない。少ないということはお客もあまりあてにしてないという可能性が大きいわけで。うーん、どうしたものでしょうか。ちなみに二月にはサンシャインクリエイションもあるんだけど、これはすでに申し込みが締め切り済み。早めにチェックしとかないといかんかったね。次は四月ですか。即売会としてはコミケに次ぐ規模になりつつあるらしい。まず二月にどんな感じなのか見てくるというのがいいのかもしれないですね。

 今日は朝から暖房を入れました。やはり室温が低いと躰の機能が低下するような気がするので。そのせいか、今日はわりと眠くはならなかったみたいです。ちょっと気分転換に一枚絵など描いてました。体重が増えてるので、すこし動いたほうがいいのですが、今日は結局コンビニに一回行ったきりです。


2007/11/20(火)

23:35

 なんか、だらけた生活を送ってます。こんなことでいいのでしょうか。ちょっとした刺戟というか、脳のリフレッシュみたいなものが必要なのかもしれんです。とりあえず部屋の掃除をすべきかもしれん。エントロピーが高めだからな。

 いろいろな意味で欲望が減退してるということなのかもしれません。食欲はちゃんとあったりするのがせつない。とりあえず性欲は確実に低下してます。エロゲーとかで脳下垂体あたりに刺戟を与えるべきでしょうか。でも長いのは面倒なんですよ。コンパクトサイズの作品をダウンロードで安く売るとかそういう発想はないんですね。そもそもエロゲーは購入層の数が限られてるから単価が高い商品を作らなきゃならない、すると、絵もお話もその値段に見合ったボリュームを確保しなきゃならない、という縛りがあるんでしょうな。一話完結みたいなのをシリーズで、とかいうのも面白いと思うのですが。そういえば、「処女はお姉様に恋してる」というゲームは「話数」の設定みたいなのがあって、次回予告らしきものもはさんであったりしてTVシリーズアニメ風のノリを入れてましたね。あれはなかなか新鮮な感じがした。ま、あのゲームは主人公の女装男子に人気が集中するというところに特徴があったわけだけども。「瑞穂は俺の嫁」とニコ動でコメントなさる人もいらっしゃいますし。

 執事マンガの主人公とかもなぜか女装姿で人気を集めてますし、わが日本の萌え環境もいよいよカオスというかエントロピーの極限というか。「エヴァンゲリオンのキャラの性別を反転させてみた」というムービーがニコ動で受けてたけど、シンジの♀ヴァージョンって全然違和感がないのが恐ろしい。司令や副司令、ゼーレの皆さんまで反転してたのはマジ勘弁してって感じでしたが。ちなみにリツコさんの男性版はりりしくて素敵でした。

 女装ネタというのは日本ではごく当たり前に使われますが、一神教文明圏あたりではたぶん忌避されるネタなんでしょうね。でもジェンダーの境界があいまいになってるのはどの先進国でも一緒だから、そういう意味では日本はむしろ状況をリードしてるのかもしれない。「なんでもアリ」に関しては日本は緩いですからな。ネコミミとかだって、つまりは動物系のアレのイメージから来てるわけですし。この手のエロスは遡ると結局は手塚治虫あたりに行き着くのかもしれんです。まあネコミミの元祖と言い出すと、SF系のひとならコードウェイナー・スミスの人類補完機構シリーズに登場するク・メルを持ち出したりすると思いますが……あれが原点というのも乱暴かもね。化け猫とか、猫娘とかも昔からあったし。いまでは擬人化の一部みたいな感じになりつつありますが。とりあえずこの手のネタについて頭の中で転がしてるとすこしは脳下垂体が刺戟されるかもしれませぬ。


2007/11/21(水)

23:55

 今日はちょっと部屋の中の整理。本が増殖してる。どうすっかね。とりあえず下絵とかの類を廃棄。こういうのが残ってるといざというときに恥をさらすことになりそうだからね。順に処分していかなくては。もう下描きもタブレットで直に描く方針なので、今後は紙ではその手のモノを残らないようになるとは思うのですがね。

 ローゼンメイデンの最終巻を買いました。あのページ数であの値段というのがどうも引っ掛かって買ってなかったんだけど、どっちにしても買わないわけにはいかないので。それにしても、どうするのかね。続きはどうにかしたいという意志はおありのようですが(完とかエンドとかいう表示はなかった)、具体的にどうするかは決まってないのでしょうな。でもあんまり放っておくとネタが作り手の中で崩れてくる可能性がありますから、早めの処置をお願いしたいです。終わりまでのプロットとかはもう出来てるのかもしれませんけどね。


2007/11/23(金)

23:54

 今日は勤労感謝の日か。勤労……してませんけどね。むしろ冬眠したい。絶望先生にそういうネタあったな。でも、人間も冬眠できるといろいろと省エネなっていいかもね。夏は夏眠、冬は冬眠。すごしやすい春と秋だけ活動する。そうするとすごく地球環境にも優しかったりして。冷房も暖房もあんまり使わずに済むし、なにより食糧事情がよろしくなりますぞ。ただ、全員が眠るというわけにもいかないけどね。でもワークシェアリングということでちょうどいいんじゃないの? リソースの奪い合いにならずに済むしさ。いっぺんに数十億人も活動するより時分割で活動したほうがもしかすると人類も進歩するかもよ。うむ、そういうSFが書けるかもね。雪山で遭難した人が冬眠に近い状態になっていたという話を聞いたことがありますなあ。うまく体温を微調整してやるとほんとに不可能ではないのかもしれない。ただ、脳があれかな、長く休んでると記憶とかがところどころ壊れちゃうかな。でも、神経細胞がぶち壊れない限りはだいたい大丈夫でしょう。

 夏とか冬に精力的に活動することはある種の贅沢だということなんだろうね。別の言い方をすると、気候がきびしいところに住むというのはコストのかかかることなんだよ。もちろん、各地には気候に適合した暮らし方があって、それにのっとった生活をしてればコストはかからんのでしょうが、ある水準を越えた生活を送ろうとすると、かなり無理がくるんじゃないかな。たとえば、暑い地域で長時間頭脳労働をしようなんてのは難しいのではないですかね。わたしはソフトウェア開発とかって、北国の人向けじゃないのかって気がするんだよな。暑い国でクーラーがんがんかけてやる仕事じゃないと思う。その意味では中国やインドあたりでソフト開発ってほんとに大丈夫?って気がしたり。人的資源が多いからって安易に開発地域をシフトするのはどうかと思いますがね。

 話は脱線しますが、すぐれたソフトってのは結局頭がいい人が時間をかけて作ったものが一番なんだと思うんだよね。とくに基盤となるシステムのソフトに関してはね。アプリケーションなんてのは、分かりやすい開発環境で、現場に近い人間が作るのがベストだけどね。それにしても、そろそろWindowsとかもっと根本的に作り直したほうが良くないか。世の中で使われてるPCサーバーってハードウェアがもってるスペックの割には性能が低いんじゃないかって気がするんだよな。そこらへん改善していかないとまたメインフレームが復活してきちゃうぞ。IBMがパソコン事業をうっぱらったのも高性能サーバーの名を借りてメインフレームの復活に期待してるからじゃないのですか。いや、べつにメインフレームが悪いってわけじゃないんだけどさ、どうもアレは閉鎖的な文化をもってるからね……あの業界の雰囲気が復活するのはあんまり好ましいことではないような気がするんですよ。ただ、電卓用チップにごてごて性能を積み上げた某MPUのアーキテクチャにもいいかげんくたばって欲しい気がするんだよな。ヴァーチャルマシンなんかで動かすより、もっとすっきりしたシステム環境が欲しいと思いませんか? まあ、現状それで動いてんだからっていう意見もあるでしょうけど。


2007/11/25(日)

22:10

 なんの脈略もありませんけど、デジタル一眼レフというのを買うことに決めました。とりあえず入門用?つーことでニコンのD40xあたりを買おうかと。それでもって背景用の写真を撮りましょう。そしてそれを口実にもう少し外に出ましょう。出た先で原稿書いてもいいし。もっとこう、活発な行動をしなくては? せっかくフリーなんですからね。ほとんどなんの拘束もないのです。この状況をもうすこし有効活用しなくてはいけませんよ。

 日本がこの先どうなるかは分からんけど、とにかくいきなり経済破綻とかはないような気がします。アメリカの経済が傾いたってどうってこたあないよ。要は輸出が減るだけでしょ? 大企業がまたここぞとばかりにリストラするかもしれないけどね。そうすると消費税も上げづらくなると。民間ばっかりクビになって、お役所はいいご身分ですことよ、みたいな雰囲気が蔓延しますからね。景気が悪くなったところで高収入の方々の懐具合に響くだけなんですよ。衣食住のベースメントが根本的に違う、簡素な暮らしをする者にはほとんどなんの影響もないよ。

 そんなわけで、世の中が安全で、なおかつ自分の躰が動くうちにいろいろしておいたほうがいいと思うのです。ヒトなんていつ死ぬか分からんし。そういえば「あーるひとつぜん、ふたりだまーるのー」とか言って、男女のカッポーが同時にあの世行きみたいな感じですね。トア・エ・モアなんてもはや誰も知らんのでしょうな、たぶん。せめて「虹と雪のバラード」ぐらいは後世に残って欲しいものだ。

 あとジーンズも買っておいたほうがいいかな。もうね、わたしの場合、着用する衣服は耐久性がないと駄目なんですよ。普通のズボンだとすぐ膝が白くなってくるし、色落ちするし。ジーンズは色落ちしてもそれがフツーみたいなところがありますからな。要するに雑な生活をしてると言われればもうそれまでなんですが。とにかくラクな服装を追求していけばそうなるってことさ。そういえばセーターも管理が面倒なんですよ。セーターに代わるものってなんかあるのかしら。そういうのを今度まじめに探そう。自分のライフスタイルに合ったものを着るのが一番ですからな。

 今日はこれからもう少し部屋の整理をしてから風呂入って寝ます。ではでは。

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