たとえば、こんな夢を見る。
 夏の青空の下で、子供たちは、無邪気に遊んでいる。
 明日がいつまでも続いていくことを、疑うこともなく。
 そんな。
 悲しい、夢。

SummerDay'sDream

 はじまりは、国崎往人(居候。黒い)の叫びから。

「なにっ!」

 そんな風に叫びながら、往人は見ていたテレビを両手でつかみ、わなわなと震えている。

「まさか……そんな事実があろうとは」
「どうしたの? 往人さん」

 と、往人に声をかけるのは神尾観鈴(神尾家の、一人娘)。
 往人が奇妙な行動をとるのが毎度のことなら、観鈴がいちいちその相手をしてやるのも、毎度のこと。

「観鈴か。ちょっとこれを見てくれ」
「え? なにかな……」

 往人はそう言って、テレビ画面を指差す。
 観鈴は、言われたとおりテレビを見る。
 すると、ニュース内の小コーナーでカブト虫の話がされていた。

「わ、色んなカブト虫さんがいるね」
「いや、そんなことは問題じゃないぞ観鈴。問題はだな、このちょっと前にやっていたカブト虫の売値についてだ」

 往人は、興奮しながらそう言う。

「うりね? カブト虫さん売るの?」
「ああ。細かくは覚えていないが、かなり高く売れるようだった」
「へー、そうなんだ」
「おう。そうなんだ」

 感心している観鈴に、得意げな往人。

「でもカブト虫さんなら、このあたりにはいっぱいいるよね」
「そう、それだ。どうやら都会では数が少なく高値で売れるようだが、ここではたやすく手に入る。大量に捕まえて売りさばけば、もうウハウハだぞ」
「わ、なんだかすごいね。往人さんあたまいい」

 その作戦自体は悪くない。
 しかし往人は、そのカブト虫を売りに都会に行くまでの旅費すら自分にはないことには、おそらく気付いていない。

「よーし。というわけだから、俺はさっそくカブト虫を捕まえに行くぞ」
「でも往人さん。人形劇でお金を稼ぐのは、もうやめるの?」

 そう問われて、往人はぴた、と動きを止める。
 往人は自分の人形劇にそれなりに誇りを持っているので、この意見には多少思うところがあったようだ。
 動きが止まったまま、数秒が経過した。どうやら悩んでいるらしい。
 瞳を閉じ、眉間に皺をよせている。

「往人さん?」

 心配した観鈴が声をかける。
 その声に答えるように、往人はくわっ、と目を見開いて、

「観鈴っ!」
「わ、はいっ!」
「『それはそれ、これはこれ』だっ!」

 どうやら開き直ったらしい。

「うん。そうだね」
「そうだろ?」

 観鈴も納得したらしい。

「よし、話もまとまったところで、出かけるとするか」
「あ、わたしも一緒に行きたいな」

 出かけようとしている往人に、観鈴は、遠慮がちに声をかける。

「そらかまわんが、お前今日の分の宿題終わってんのか?」
「え? うん。それならへいき。ばっちり」
「それなら、まあいいけどな」

 そう言って、二人は出かけていく。
 夏の日差しの下へと。

「どうせ捕まえるなら楽に大量に捕まえたいところだな。観鈴、この辺りでなんかこう、穴場っぽいスポットはないのか?」
「うーん。よくわからないけど、神社の方の山の中なら、きっといっぱいいるよ」
「よし。それで行こう」

 と言うことで、二人は山へと歩いていた。
 すっかり気合の入っている往人は、頭に麦わら帽子をかぶり、首にタオルを引っ掛け、手にはどこからか調達した虫網とかごを持っている。
 その後ろには、往人のミニチュアのような格好をしている観鈴がついて歩いている。

「にはは」
「お、なんかやる気十分だな」
「うん。往人さんとおそろい。楽しい」
「よしその意気だ。今日は山中のカブト虫を狩り尽くす勢いで行くぞ」
「そ、そこまではちょっと……」

 そんな風に会話をしながら、二人はてこてこと歩いていく。
 その姿は、仲のいい兄妹のようで、まあ、少なくとも恋人同士と言った感じではないことは確か。

「往人さん、のどが乾いたら言ってね」
「麦茶でも持ってきたのか?」
「ううん。もっといいものだよ。往人さんの分もちゃんとあるから」
「……いや、止めとく」
「えっ、まだなにも言ってないよ?」
「言わんでもわかる」
「うー……がお」

 少し泣き顔の観鈴。知らん顔の往人。
 と、神社への道の途中にある小川にかかる橋の近くまで来た二人に、跳ね水の音とともに声がかかった。

「あー、往人くんだーっ」

 二人は、その声が聞こえてきた橋の下近くを見る。
 そこには、涼しげな格好をした元気そうな少女、霧島佳乃(霧島診療所の妹さん)がいた。彼女は着ている衣服を膝の辺りで縛り、足もとのポテト(謎の生き物)と一緒に小川の中に立っている。

「佳乃か。なにやってんだ?」
「えっとね。川の近くに来たら突然ポテトがはいかつりょーの限界に挑戦で川の中にダイブしてぶくぶくーってかんじでもぐってたら川の主のザリガニさんと男と男のステゴロタイマンで太陽が落ちるまで拳を握り殴り合って夕日のかせんじきでおまえなかなかやるなおまえもななんだよぉ」

 と、佳乃は拳を握り気合を入れ三戦の構えで一息で言いきった。
 固まる二人。

「……観鈴」
「なに?」
「今の意味、わかったか?」
「え? えーと、その、わかんない」

 小声でそんなことを呟きあう。

「あれ? 二人でないしょ話? なにを話してるのかなぁ?」
「……いや、なんでもない」
「ふーん。あ、それより、そんなものものしい格好で、一体どこへ行くのかなぁ?」

 先に述べたように気合の入った二人を見て、佳乃はそう尋ねる。

「おう。俺たちは、これからカブト虫の乱獲に乗り出すところなんだ。な、観鈴」
「え? う、うん」
「へー。あ、そういえば往人くん、神尾さんと一緒なんだねぇ」
「ああ、そうだが……って、お前ら知り合いか?」
「え、えと、その」

 往人に問われて、観鈴は口篭もる。
 そんな観鈴に変わり、佳乃が返事をした。

「そうだよぉ。あんまりお話とかはしないけど。観鈴さん、ときどきウチに来るし……あ、」

 と言ってから、佳乃は少し気まずそうな顔をする。
 佳乃の家は診療所であり、そこにときどき来るということはすなわち、なんらかの病気であるということ。
 少なくとも、あまり気軽に扱うような話題ではない。

「えと、その」

 佳乃がそんな風にしていると、それに気付いた観鈴は、

「あ、気にしなくてもいいよ。その、わたしがときどき診療所に行くのは本当だし」

 にはは、と笑いながらそう言う。
 しかし、周囲は若干気まずい雰囲気に包まれ、
 そうになったところに。

「そーかそーか。二人が知り合いならば話は早い」

 と、空気が読めていない往人の声が響き渡った。
 その目は微妙にきゅぴーんと光っていたり。

「よし、霧島佳乃君っ」
「え? あ、はいっ、なんですか隊長ぉっ」
「きみを、カブト虫捕獲隊隊員3号に任命するっ」

 往人は、佳乃をびしっ、と指差す。
 その往人の動作を見て、佳乃はむー、とした顔をしながら、

「往人くん、それはあたしのネタだよぉ」
「まあ気にするな。つーことで、手伝ってくれないか?」
「うん、いいよぉ。じゃあ、往人くん」

 と言って、佳乃は腕を伸ばす。

「川から上がるから、手、貸して」
「……いやだ」

 その佳乃の願いを、往人はつっぱねる。

「うー、どーして?」
「お前、俺が不用意に近づいたところで腕引っ張って引き釣り込むか水かけるかどっちかするつもりだろ」

 往人にそう言われて、佳乃はわかりやすいぎく、という顔をしつつ、

「や、やだなぁ。そんなことしないよぉ」
「……本当か?」
「本当だってば。あたしがそんなことする子に見える?」
「それ以外には見えない」
「うぬぬ。往人くんなかなか手強い……でも本当にそんなことしないから、ね。お願い」
「……まあいいだろう」

 往人はしぶしぶと佳乃のもとへと近づき、手を伸ばしてその手をとろうとして……引っ込めた。

「わわわっ!」

 その動きに意表をつかれたのか、佳乃はそんな声をあげながら、後に倒れる。
 ばしゃん、と大きな水音がし、水飛沫が跳ねた。

「うぬぬ……往人くん、ひどいよぉ」
「やかましい。倒れるのが後ろってことは、俺を引っ張ろうとしてたってことじゃないか」
「あ、バレた」
「『あ、バレた』じゃない。ったく、油断も隙もないヤツだ」
「で、でもでも、たとえそうと分かっていても、あえてワナにかかっちゃうのが漢の道とか、そう言うアレじゃないのかなぁ?」
「アレじゃねえ」
「うぅ……神尾さんもそう思うよねっ」

 と、佳乃は突然、その騒ぎを後で見ていた観鈴に話を振る。
 急に話しかけられ、観鈴は少し慌てながらも、

「えーと、その、でも、今のは霧島さんがわるいんじゃないのかな?」

 控えめにそう言いながら、往人の方をちらりと見る。
 往人はえらそうにふんぞり返って、

「ニ対一だ。俺たちの勝ちだな」
「うぬぬ。そーだ、ポテトっ。ポテトは、あたしの味方だよね?」

 佳乃はそう言いながら、先ほどまで足元で戯れていた白毛玉に話しかける。
 しかし、そこにその姿は無く。

「あれぇ? ポテトはどこへいったのかなぁ?」

 きょろきょろと辺りを見まわすと、いつのまにか往人サイドに移動しているポテトの姿があった。
 その瞳はいつもの通りぴこぴことしているが、かすかに「いや、今のは君が悪いよ」という風味も加わっている。

「あーっ、ポテトが裏切ったーっ」

 ポテトを指差し、糾弾するような口調でそう言う佳乃。
 ポテトはそんな佳乃を「いや、そんな風に言われるのは心外だな」という瞳で見る。

「うぬぬ。お、おのれー。こうなったら鏖(みなごろし)だよぉっ」
「って、うわっ、そんなに水をかけるなっ」
「一蓮托生ぉっ、一騎当千っ」

 ぶっそうな言葉を使いつつ(多分意味はよくわかってない)、誰彼かまわず水をかけまくる佳乃。

「わ、わわ、霧島さんが、大変なことにっ」
「くっ、こら、やめろってのっ」
「ぴこっ、ぴこっ」
「うぬぬはははぁっ、どうだぁっ、まいったかぁっ」

 などと言いながら、佳乃はうれしそうに水をかけつづける。
 とはいえ、少し離れれば届かなくなる程度の勢いだし、実際賢明な観鈴と妙に知恵のある毛玉はそうしている。
 だが。
 国崎往人は、どちらかというと単純バカの部類に入る。
 よって。

「このっ、いいかげんにしろってのっ」

 そう叫ぶやいなや、往人は荒れ狂う水飛沫をかきわけ、佳乃のいる小川のほうへと駆け寄る。

「わわっ、往人くん、やる気だねぇっ」
「ええい、やられっぱなしで黙ってられるかっ」

 そう叫びながら、往人は佳乃にばちゃばちゃと水をかけ始める。
 基本的な水かけ力では、体の大きい往人の方に軍杯があがるが、佳乃は機敏なフットワークを用い、上手く往人の死角へと入りこむ。だが、やや決定力にかけるところもあり、勝負は五分五分と言ってよい。
 まあ、他に言えることがあるとすれば、二人の精神年齢は似たようなもんだ、ということだろうか。

「くらえっ、人形使いの能力を応用した、空中で妙に変化する水飛沫をっ」
「うぬぬ、なんてトリッキィ。往人くんにしては頭脳派だよぉ……じゃなくて、そんなの使うなんて卑怯だよぉっ」
「うるさいっ、勝負に卑怯もくそもあるかっ。ていっ、裏技そのにっ」
「うわぁっ、往人くん、突然そんな網をかぶせるなんて邪道だよぉっ」
「ふっふっふ。世にも珍しい。佳乃ムシを捕まえたぞ。こいつは高く売れそうだ」
「ええっ、わたし売られちゃうの? ある晴れた昼下がりとかに市場へ向かう道の荷馬車に乗って悲しそうな瞳なの? もしも背中につばさがあればーっ」
「うむ。そのとおり。さあ、覚悟しろ」
「やだよぉっ。この国では奴隷制度は廃止されて久しいんだからねぇっ」
「そんなことを言ってももう遅い。すでに決まったことだからな」
「もぉー、お姉ちゃんに言いつけるからねぇっ」
「……すみません、ちょっと調子に乗りすぎました」

 そんな小学生のような口げんかをしながら、夏の小川の中で、水飛沫をたてながら、二人はけんかというか、じゃれているというか、まあそんなことをしていた。
 そんな二人を、少し離れた場所から見ながら、観鈴は、

「にはは……二人とも、楽しそう」

 と、呟いた。

「ぴこ」

 と、足元の毛玉が答えた。

 その勝負は、時間にしておよそ30分も続いた。
 秒になおすと1800秒だ。これはなかなかすごい。
 それはさておき、びしょ濡れになり、また疲れ果てた往人と佳乃の二人は、近くの原っぱで寝転がり、さんさんと輝く太陽の力を借りて服を乾かしている真っ最中だった。
 その近くでは、こっちはまったく濡れていない観鈴と毛玉が二人を見ている。

「うー。疲れたぁ」
「ったく、これからカブト虫捕りにいかなきゃならないってのに、なんでこんなに疲れなきゃならないんだ……」
「へへー。往人くん、わたしに負けたから悔しがってるね」
「誰の負けだ誰の。大体審判も何もいないのに勝ちも負けもあるか」
「負け惜しみぃー」
「……観鈴。こんなやつはほっといて、とっとと次行くぞ次」
「え? あ、わっ」

 往人はそう言いながら立ち上がり、観鈴とともに山の中へと向かおうとする。
 観鈴は慌ててそれに付いていき、佳乃はこっちも慌ててそれを呼びとめる。

「わわっ、ごめん、引き分けぐらいでいいよぉ」
「ええい。その話はもういい。俺たちはそもそもカブト虫を捕まえに行くのが目的なんだ。本来の目的に戻るだけだ」
「そーなのかぁ。じゃあ、あたしも一度おうちに帰って、準備してくるねぇ」
「……へんなもの持ってくるんじゃないぞ」
「だいじょーぶだよぉ。信用ないなぁ。じゃ、行ってくるよぉ」

 佳乃はへらへらと笑いつつ、ポテトとともに家のある方向へと歩いていった。

「信用つっても、するほうが無理だろ。なあ、観鈴」
「えっ、その、えーと……にはは」
「……お前、笑ってなんとなくごまかしてないか?」
「うー、そんなことないよっ」
「ま、いいか。おし、じゃ、行くぞ」
「うんっ」

 そして、二人は再び山へと歩き始めた。

 そこには、虹ができていた。

「見て見て美凪ぃ、虹だよーっ」
「……はい。とても、きれい……」
「にゃははっ。じゃあ、今度はもっと大きいの作るからねーっ」
「……がんばって……」

 そういいながら、みちる(正体不明)は、手にもつ水道のホースを振り回した。
 ホースから飛び出る水飛沫が、先ほどよりも大きな虹を作り出す。
 それをみながら、遠野美凪(たしか、観鈴のクラスメイト)は、拍手をしながらぱちぱちぱち、と口に出して言う。
 気をよくしたみちるは、ほとんど周りを見ることもなく水を撒きつづける。
 当然、そこに「カブト虫はどのあたりにいやがるんだろーなー」とか呟きながら現れた国崎往人に気づくこともなく。
 そして、みちるが水を撒く範囲は、美凪がいる場所を除けばほぼ神社全体に及んでいる。
 結果。

「ぐわっ!」
「わっ、往人さん、大丈夫?」
「にょけ? 何か手応えが……って、あ、国崎往人だ」
「『あ、国崎往人だ』じゃねえっ」

 往人は憎々しげにそう言うと、ホース片手に立っているみちるの近くへと歩いていき。
 その拳を、天高く構え。
 ぼかっと、みちるの頭にちょっぷをくらわした。

「にょわっ」

 みちるの頭に、情け容赦ない一撃が決まった。
 顔に涙を浮かべ、痛みに耐えながらみちるは、

「い、いきなりなにするだぁーっ。みちるになんか恨みでもあるのか国崎往人めっ」
「やかましいっ。人がようやっと乾かした服を速攻で濡らしやがって」
「みちるが虹作ってるところに入ってきたあんたが悪いんでしょっ」
「あ? この期に及んでまだ言い逃れするつもりかっ?」

 ぐるると互いに威嚇し合う往人とみちる。
 それを見て、観鈴と美凪は慌ててそこへ近づいていき、

「二人ともっ、けんかしちゃだめだよっ」
「……私のために、争わないでください……」

 と、二人をいさめる。美凪はなんか勘違いしている気もするが。

「止めるな観鈴及び遠野。男には、やらなきゃいけない時があるんだ」
「そうだよ美凪あーんどかみかみ。みちるは、国崎往人とはいつかしろくろはっきりさせないといけないと思ってたんだもん」
「ほう。お前もそう思っていたのか。これは奇遇だな。しかし、お前が俺に勝てると思っていたとはな」
「うるさいっ、国崎往人は、ずっとみちるの目の上のタンコブだったんだよっ」

 そんなことを言い合いながら、二人はにらみ合う。
 往人はチョップを、みちるは水月狙いの前蹴りの構えを取る。
 ともに一撃必殺。間合いはすでにお互いの射程内。
 先に動いたほうが、負ける。
 緊張が二人の間に走……っていたのだが。

「……それはそれとして、こんにちは、神尾さん」
「あっ、はい。こんにちは、遠野さん」
「はい……本日はお日柄もよく……」
「えっと、そうですね。いい天気ですね。にはは」

 その横では、そんな風にのんびりとした会話がなされていた。
 そのなごやかムードに包まれてしまった往人は、

「みちる」
「なんだ、国崎往人」
「興がそがれた」
「闘争の空気じゃないね」

 そうみちるに停戦を持ちかけると、往人はくるりと振り返り、歩み去る。

「往人さんどこ行くの?」
「服乾かしてくる。ちょっと待っててくれ」
「あ、うん。わかった」

 そしてみちるは、観鈴に、

「そーいや、かみかみ今日はどうしたの?」

 と話し掛ける。

「えっとね、その、」

 と、観鈴がここに来るまでの顛末を説明する。
 みちるが歩み去る往人の背中に向けて「次は……必ず……」とかなんとかと呟いているのが微妙に気になるが、ともあれ観鈴は説明を終える。

「……カブト虫、ですか……」
「うん」
「へー。ところで、カブト虫って、どんなの?」
「あれ? みちるちゃん、カブト虫知らないの?」

 観鈴がそうたずねると、みちるは手のひらをぱたぱたと振り、

「うーんと、みちる、あんまり虫とか知らないから……」

 と、呟いた。
 その表情は、どこかさびしそうでもある。

「あ、そうなんだ……」
「うん……」
「……」

 と、三人は黙り込む。
 どこか気まずい沈黙が流れる。
 しばらく、そんな時間が流れたが、

「夏場は乾きはええなあ」

 などと言いながら、相変わらず場の空気が読めない男が戻ってきた。

「あ、往人さん早かったね」
「ああ。場の流れとはいえ、別に離れる必要も無かったかもしれん」
「にはは、そうだね」
「で、みちるはカブト虫知らないって?」
「うにゅ」

 どうも、それとなく話を聞いていたらしい。

「物を知らんガキだな」
「な、なんだとっ」

 だのなんだのと、またしても二人の決闘が始まらんとしていた。

「二人ともっ、またけんかしちゃだめだよっ」
「……わかりました。では、私は勝ったほうのモノということで……ぽ」

 観鈴は再び二人を止める。美凪は再び勘違いしている。
 今度こそ衝突は避けられないかと思われていた。しかし。

「……いや、なにやってんだ俺は……」

 と、往人が突然素に戻った。

「こんなことやってる場合じゃないだろ」
「うにゅ? なんだ、どうした国崎往人」

 不信に思いたずねるみちるに対し往人は、

「ふん。よく考えたらお前にかまっている暇などない事に気づいたんだ。こっちは、早くカブト虫を捕まえなければならないんだからな」
「うにゅにゅ、そんなこと言って、みちるからにげる気だなっ」
「あー、そーだそーだ。そういうことにしとけ」
「うー、なんだかばかにされてる気がするっ」

 急に冷めた態度をとる往人に対し、みちるは悔しそうにじだんだを踏む。
 そんなみちるを捨て置いて、往人は、

「よし観鈴。とりあえずこの神社を拠点にして探すぞ。居そうなところを見つけたら呼べ」
「うん。さがそー」

 そういって、往人は森の中へと入っていく。
 観鈴も、そのあとをついていく。
 てこてこ。
 てこてこてこ。

「……」
「どのあたりにいるのかな?」
「……」
「あのあたりかな?」
「おい観鈴」
「え? なに往人さん」
「なにじゃない。俺のあとをついてきてどうする」
「え? どうして?」
「別々に探したほうが効率がいいだろ……」

 往人は呆れ顔でそういうが、観鈴はすこし寂しそうな顔をして、

「でも、往人さんと一緒に探したいな」
「……お前なあ」

 などと往人たちが話していると、そこにみちるがやってきて、

「あー、国崎往人め、女の子泣かせてるなっ」
「……」

 往人はみちるにちょっぷ。

「にょぐぅっ、うう、みちるのあたまをきやすくなぐるなーっ」
「ええい、人聞きの悪いこと言う奴が悪いっ。忙しいって言ってんだろ、もうどっか行けっ」
「ぐぐ、みちるたちのほうが先住民なのにっ」
「住んでんのかっ」
「……まあまあ、お二人とも、落ち着いてくださいな」

 と、またしても往人たちがけんかしようとしているところに、美凪が割って入った。

「そんなにいさかいばかりしていると、話が進みません」
「む。それもそうだな」
「にょわ」

 二人はうなづく。

「それで、すべてを丸く治めるための提案なのですが」
「なんだ?」
「国崎さんたちのカブト虫探しを、私たちも手伝う、というのはどうでしょう」
「む」

 往人はしばし考える。
 そして、

「人手が増えるに越したことはない、か。よしいいだろう」
「はい。ではこれで同盟成立……ぱちぱちぱち」
「よくわかんないけど、美凪がそういうならみちるもそうする」
「おう。で、だ。二人とも、カブト虫がいそうな場所を知らないか?」

 素直なみちると利益優先の往人は美凪の意見に同意し、往人は珍しく建築的な意見を出した。

「あ、だから、みちるはカブト虫ってどんなのか、知らないってば」
「おう。そうだったな。まずそれを説明しなければ」

 そう言って、一同はカブト虫の特徴をみちるに説明する。

「えっと、まず虫さんだよね」
「そらそうだ」
「黒いです」
「青くはないぞ」
「足が六本で、ツノがあって」
「ただし、メスにはツノはありません」
「これは男女差別にならんのかな」
「木の樹液とかが好きなんだよね」
「甘いものに弱いようです」
「虫歯になったりすんのかな」
「あ、あと羽があって、ぶーんってとぶよね」
「羽は普段、硬い外皮の中にしまっています」
「力をいたずらに誇示しない、謙虚な奴だな」
「……国崎往人。あんた、余計」
「なんだと?」
「あ、まあまあ二人とも」

 などという綿密なディスカッションの結果、みちるは事細かなカブト虫像をイメージすることができたようだ。
 
「ふえー。ありがと美凪、かみかみ。おかげでみちる、カブト虫がどんなのかよくわかったよ」
「感謝しろ」
「あんたは関係ないっ……あ、それよりも」

 みちるは、誇らしげに言う。

「カブト虫がいっぱいいるところ、みちる知ってるよ」
「なに?」
「え? 本当?」
「うん」
「わ、すごい」
「みちる、大手柄」
「おう、そりゃいいな」

 一同からの賛辞を一身に受け、みちるもまんざらではない様子。

「で、そこはどこなんだ?」
「うーん。口で言うとわかりにくいから、持ってくるよ」
「ほう。穴場を教えることはできないってことだな。抜け目のない奴だ」
「……そーゆーこというやつには、あげないっ」
「まあまあ、みちるちゃん。私からもお願いするから、ね」
「みちるさん。世界の命運はあなたの両肩にゆだねられたのです」

 往人のいらぬ茶々で若干機嫌を損ねかけたみちるだが、観鈴と美凪の言葉により、再び調子を取り戻したようだ。

「にょ。そこまでいわれちゃあ、みちるもがんばるしかないよね。うん、わかった。行ってくるよっ」

 そう言うと、たたたっ、と駆け出していった。
 跳ねるようにして走っていき、その姿はあっという間に見えなくなる。

「大丈夫かな、あいつ」
「往人さん、人を疑うのはよくないよ」
「でもなあ」
「大丈夫……みちるならきっと、やってくれるはずです」

 不安げに見送る観鈴と往人に対し、美凪は信頼のまなざしで去った方向を見る。

「ふむ。まあ、遠野がそういうなら多少は信頼してやらんでもない」
「はい」
「じゃあ、あいつが帰ってくるまで俺たちは少し休んでるか」
「そうだね」

 そう言いながら、往人は空を見上げ、

「そう言えば、そろそろ昼か?」
「あ、そうかも」
「はいそうです。もうすぐ、お昼の12時です」

 と、美凪はやたらと自信たっぷりに言い放った。
 往人は思わずたずねる。

「なんか根拠でもあるのか?」
「はい、お腹の時計がなっています」
「わ、そうなんですか」

 お腹を押さえながら言う美凪に対し、観鈴は少し驚きながらそう言う。
 感心しているのか、それとも、見るからに大人しそうな美凪のキャラクターとは少し離れた発言だと思ったのか。
 それはともあれ。

「しくじったな。なんか食うもの持ってくりゃよかった」
「うん。そうだね」
「それならば、心配いりません」
「なに?」
「お弁当を持ってきました。私と、みちると、国崎さんと、神尾さん。4人で食べても十分なぐらいあります」
「マジか?」
「はい。マジです。えっへん」
「おう。そいつは助かった。やったぞ観鈴」
「うん、やったね。……あ、でも、私たちごちそうになっちゃっていいのかな?」
「はい。ぜんぜんへっちゃら、です」

 そう言いながら、美凪は力強く親指を立てる。
 微妙に不似合いな感じはしたが、その提案に二人は喜ぶ。

「やったな。これで食料確保だ」
「うん。遠野さん、ありがとうございます」
「おとっつぁん。それは言わない約束です」
「え?」
「……いえいえ。困ったときはお互い様です」

 往人は、これで食うに困らないだろうと、即物的に喜んでいるようだ。
 観鈴は、美凪独特のノリ(人はなぎーわーるどと言う、らしい)に少々面食らいつつも、やはり喜んでいるようである。

「よし、早速食うとしよう」
「往人さん、みちるちゃんが戻ってくるまで待たなきゃだめだよ」
「はい。それまで待っていただけると、ありがたいです」
「うう」

 自分の意見を二連続で否定され、往人は少しふてくされる。
 それから、往人はみちるが去っていたほうを見て、

「みちるのやつ、どこまで行ってやがるんだ」
「往人さん、まだそんなに経ってないよ」
「そもそも、あいつはちょっと前までカブト虫すら知らなかったカブト虫ビギナーだからな。考えてみると少し不安だ」
「往人さんまた疑ってる……」
「……あ」

 往人が再び疑い始めようとしたそのときに、美凪がそんな声を上げた。

「遠野、どうしたんだ?」
「帰ってきました」
「え?」

 二人はその美凪の声を聞き、美凪が見ている方向を見てみるが、そこには誰もいない。

「……誰もいな……」

 ゆきとは「いないぞ」とでも続けようとしたようだが、それが言い終わる前に「ただいまーっ」という声を上げたみちるが登場した。
 その手には、菓子かなにかが入っていたと思われる箱を持っている。

「……ほんとに来たな」
「うん。さすが遠野さん。みちるちゃんのことならなんでもわかるんですね」
「……えっへん」

 二人は感心し、美凪は小さく胸をそらせてやや自慢げ。
 みちるはその状況をややいぶかしく思いながらも、すぐ気を取り直し、自分の手にもつ箱を皆に見せる。

「カブト虫、つかまえてきたよーっ」
「ほう。本当に捕まえてきやがったか。やりやがるな」
「へっへー。国崎往人、これからはみちるを見なおすのだっ」
「みちるちゃん、すごいね」
「よくやりました……というわけで、進呈……」

 皆に認められ、みちるはまんざらでもない様子。
 そんなみちるをさておき、往人は箱のほうを注目する。見る限りでは、ずいぶんとみっしりと詰まっていそうな感じだ。

「そんじゃ、ちょっと見せてもらおうか」
「うん。あ、でも、メスしかいなかったんだ」
「ほう。まあ、それでもいいだろう」

 そういって、みちるは箱を地面に置く。
 全員でそれを取り囲み、往人がその箱に手をかける。
 ふたはゆっくりと開き、そして、その中には黒いものが多数蠢いている。
 それは、虫。

「おお、ずいぶんと、たくさん……」

 言いかけて、往人の動きが止まる。
 否。
 往人だけではない、そこにいる、みちる以外の三人の動きが、止まる。
 そこにいるのは黒い虫。
 しかし、それにはカブト虫のような硬い外殻などなく。
 微妙に動きが機敏な気もして。
 早い話が。

「ゴキブリじゃねえかっ」

 油虫とも書く。

「わ、わわわっ、ご、ごきごきがこんなにたくさん。わーっ、箱から出てきたーっ」
「うおっ、と、飛ぶなっ、こっち来るなっそこ、編隊組んでるんじゃねえっ」
「きゃあっ」
「んに?」

 観鈴も往人も遠野美凪ですら顔を青くし慌てふためいている。
 そんな中で、事情を理解できていないみちるのみがその場に立ち尽くしている。

「みんなぁ、どうしたの?」
「うお、馬鹿っ、下手に動いてそいつらを刺激すんなっ」
「わー、みちるちゃんのほうに大量のごきごきがーっ」
「みちるっ! 危ないから……そんなところにいたら危ないからっ……こっちにおいでっ」

 美凪は、みちるに必死に避難をうながず。
 よくわからないながらも、みちるはその美凪の声に従い、そちらに向かう。
 大量のゴキブリを付き従えて。

「お前っ、こっちにくんなっ」
「なんだ国崎往人。文句あんのかっ」
「文句とか、そういう問題じゃねえっ}
「んにゅうーっ」

 状況はよくわからないながらも、往人の態度が気に食わないことだけは判断したみちるは、箱を投げ捨て、往人に蹴りくれてやろうとそちらに向かおうとする。
 それが、刺激になった。
 黒い虫どもは、今まで大人しくしていたものも含めて、いっせいに飛び立つ。
 そして、神社の境内に、3人分の悲鳴が響き渡る。

 美凪はホースから水をだし、それでみちるの手を洗っている。

「……往人さん。もうごきごきいない?」
「ああ、なんとかな。まったく、ひどい目にあったぞ」
「んにゅう……」
「はい、綺麗になりました」

 場は、なんとか平静を取り戻すことに成功した。
 ゴキブリたちは、どうやら野へと帰っていったようだ。

「みちる。アレはカブト虫じゃないぞ。全然違う」
「そうなのかぁ。アレなら、裏路地のゴミ箱とかにたくさんいるんだけどなあ」
「あ、でも、あんなにたくさん捕まえてこられるのは結構すごいかも」
「すごくても嫌だぞ」

 ゴキブリを追い払うのを主に担当した往人は、その疲れからかぐったりとしている。

「ともあれ、なんとかなったことだし、メシでも食うか」
「往人さん、あんなたくさんのゴキブリ見た後でも元気だよね」
「食えるときに食っとくのが旅の鉄則だ。そう言えば遠野、食料は無事か?」
「……はい。問題ないようです」

 頼みの綱である美凪の食料がゴキブリショックの被害から守られたことにほっとする一同。適当な日陰を見つけ、そこで食事をとろうとする。
 そのとき、みちるが思い出したかのように、

「あ、そう言えばさ」
「なんだ。今度は便所コオロギでも捕まえてきたか?」
「つかまえてこないっ。そーじゃなくて、さっきココに来るとき武者を見かけたよ」
「……はあ?」
「え? 武者って、さむらいさん?」
「……モノノフ?」
「うん。なんか鎧着て、がっしゃんがっしゃん歩いてたよ」

 唐突なみちるの言葉に対し、往人はあからさまに怪訝な表情をして、

「お前、暑くて幻でも見たんじゃないのか? この暑い中、そんな格好をして歩き回っているような物好きはいないと思うぞ」
「そんなこといわれたって、ホントに見たんだもん。文句はそいつに言ってよ」
「そうか。まあどうだっていいけどな」

 往人はその話を打ち切り、ふと目線をそらす。
 すると、そこに武者がいた。

「……みちる」
「なに?」
「すまん。疑って悪かった。世の中にはいろんな奴がいるんだな」
「え?」

 往人の声を聞き、みちるも振りかえる。

「あ、うん。あれあれ。あれが武者。ね、ほんとでしょ」
「ああ、そうだ、が」

 往人がそう言う間にも、鎧武者はこちらへとがしゃんがしゃんと歩み寄る。

「……さむらいさん、こっちにくるよ?」
「……もしかして、辻斬り?」
「いや遠野、シャレにならんこというな。だが……」

 と、往人は武者をちらりと見て、

「このクソ暑い中あんな格好をしているような変人だ。どんなことをしてくるかわからん。みんな、下手に刺激しないようにしろよ」
「うん」「はい」「にょわー」

 皆はその指示に従い、声を立てないようにしてじっと鎧武者を見張る。
 鎧武者は、なにやらきょろきょろと首を動かしながら辺りを見まわしつつ、歩き回っている。

「おい、あいつ、なにうろうろしてるんだろうな?」
「なにかさがしてるみたいだよね」
「あ、もしかして、鎧をつけているから、周りが見えにくいのかもしれないよ」
「かもな……よし、今がチャンスだ」
「……どんなチャンスでしょう?」

 往人はびしっ、と鎧武者を指差し、

「俺たちに与えられた選択肢は3つ。
 1.やっちゃう
 2.やっちゃう
 3.やっちゃう
 だっ」
「わ、往人さん、選択の余地なしって感じだね」
「安心しろ観鈴。俺は、昔こんな目にあった気がする」
「みちるはそんな目にあわされた気がする」
「ともかくだな、急いては事を仕損じるという格言にもあるとおり、戦闘とは常に先手必勝だ」
「往人さん、物知り」
「へぇー、そうなのかぁ」
「……はい」

 往人の言葉の使い方は間違っているわけだが、それに誰も指摘しない。
 美凪辺りは頭よさそうなんだから突っ込んでもらいたい。観鈴が間違って覚えたら大変だ。

「よし。あっちがこっちに気づいていない今がチャンスだ。観鈴は右、みちるは左から行け」
「らじゃっ」
「わかった。がんばる」
「遠野はここで弁当を守っていてくれ」
「……我が軍の、生命線ですね」
「そのとおりだ。頼んだぞ」
「はい」

 往人の指示を受けて、一同は散開していく。
 目標は前方に佇む鎧武者。その年季の入った鎧は防御力が高そうだ。
 往人は声を出さず、手信号で二人に指示を出す。
 いつの間に覚えたのかよくわからないが、ともあれ二人はその指示に従い足音を立てることもなく鎧武者との間合いを詰めていく。
 往人は相手に気づかれないよう、慎重に間合いを詰め、そして、

「……今だっ」

 と、鎧武者へと飛びかかった。
 よく見れば、鎧武者は鎧こそごっついものの、その体格自体はそれほど大きくない。むしろ小さい。
 そのことが幸いし、往人は鎧武者を押し倒すことに成功した。

「よっしゃ、うまくいったぞっ」
「わー、すごいよ往人さんっ」
「やるな国崎往人っ。でもなんかみちるたち、することがないぞ」
「そーだろ観鈴。平和なことはいいことだぞみちる。さて、うまいことマウント・ポジションをとったところで、こいつをどうしてくれようか」

 押し倒し馬乗りになった状態で、往人は考え込む。
 鎧武者はばたばたと暴れているが、往人が乗っている上に鎧が重いらしく、その動きは機敏さに欠けている。

「……でもさ、往人さん」
「なんだ観鈴」
「考えてみたら、その人そんな鎧着ているだけで、別に悪いコトしてる訳じゃないんだよね」
「……」

 言われて、往人の動きが止まる。

「言われてみればそうだが……まあ、疑わしきは罰すという言葉もあるしな」
「わ、なんだか今日の往人さん頭いいね」
「おうとも」
「……ぅー」
「ん?」

 観鈴の指摘に対し、自らを正当化することに成功した往人は、マウント・ポジションをとっている武者が何やらうめいていることに気づいた。

「なんだ? こいつ、なんか言ってるぞ?」
「国崎往人が重いから、上手くしゃべれないのかも」
「……カブトも邪魔なようですし」
「そうか。そうだな。おいお前、何か言いたいことがあるなら、冥土の土産に聞いてやるぞ」

 そう言って、往人は武者にかける体重を少し緩め、そのカブトに手をかける。
 外し方に少し手間取りつつも、往人はなんとかそれをはずすことに成功した。
 その下から出てきた顔は。

「うー、往人くん、ひどいよぉっ」
「……佳乃?」
「一生懸命、この鎧着てココまで来たのにぃっ」
「……はぁ?」

 往人は、状況を上手く飲み込めない。

「……お前、なんだってそんな格好してんだ?」
「えーとね。出かけようとしたら、お姉ちゃんに『どこ行くんだ』って聞かれて。だから、カブトとの闘いにおもむくんだよぉーっ、て言ったの」
「……まあ、間違ってはいないが」
「それでね。そしたらおねえちゃんが、『そうかならこれを着ていくが良い』って言って渡してくれたの」
「聖か……あいつ、カブトをなにか勘違いしてるんじゃないのか?」

 多分赤カブトあたり。

「あはは、かもねぇ。でもでも、この鎧は、お父さんが若いころ使ってた曰くありげなものらしいよぉ」
「……何者なんだお前の親父さん」

 などと、取り止めのない話をしていた二人だったが、ふと、佳乃が顔を赤らめ、

「あ、」
「ん? どうした?」
「あ、そのその、えっとぉ……往人くん」
「なんだ?」

 と、佳乃は往人から目をそらし、

「……そろそろ、降りてもらえないかなぁ?」
「……なに?」

 言われて往人は自分たちの状況に気づく。
 真夏の神社の境内。
 鎧姿の佳乃。
 それに、馬乗りになっている往人。

「……」
「…………」

 ちょっとどきどきモノである。

「……って、誤解だ佳乃っ。別に俺は他意があってこんな体勢をとっているわけじゃないし、そもそもお前だとは知らなかったんだぞっ」
「うん。わかってる」

 往人の弁解に対し、佳乃はそう答え、顔をさらに一段階赤くし、

「……でも、往人くんなら……いいよ」
「だから佳乃そういう問題じゃない顔を赤らめるな切なげに視線を泳がすな」

 往人は必死である。
 佳乃の姉の聖は妹煩悩で有名であり、妹を傷物にしたなどという風聞を流されては、おそらく往人に明日はない。それゆえであろう。
 と、佳乃に話しかけていた往人は、背後からの視線を感じた。
 ゆっくりと振り向く。
 そこには、少し距離を置いた場所にいる女三人がいて。

「……国崎往人、へんたいだー」(ジト目で)
「……若い方はお盛んです……」(しみじみと)
「……往人さん、その、そーゆーことは、人目につかないところでやったほうがいいと思うなっ」(赤くなりながら)
「……お前らな」(心底疲れきった顔で)

 なんだか馬鹿馬鹿しくなってきたらしい往人は、大人しく佳乃の上から降りて、立ち上がりやれやれといった表情で頭をかく。
 佳乃がなんだか名残惜しそうな表情で見ているのは、気にしない事にしておいたようだ。

「まったく……まあいい。ともあれ、これでメンツはそろったわけだ。カブト虫採取を再開するぞ。あと佳乃」
「え? なに?」
「んな鎧いつまでも着てんな。見てるこっちが暑い。さっさと脱げ」
「そんな往人くん。こんな所で脱げだなんてぇ」
「……やっぱり、国崎往人はへんたいだー」
「……ぽ」
「……往人さん、その、あの、」
「ええいっ。それはもういい。とにかくだ。このままじゃ埒が開かんから、本題に入るぞ」

 業を煮やした往人は、無理やり話をまとめようとする。
 女性陣はもうちょっとこのネタを引きづりたかったらしいが、仕方なく往人の意見に従う。

「さて。やっと一段落したことだし、さっさとメシを食ってとっととカブト虫を捕まえるぞ」
「あ、そーだ往人くん」
「なんだ佳乃まだなにかあるのか?」
「……そんな、嫌そうな顔しないでよぉ。いい話だよ」
「ほう。どんな?」
「うん。ここに来るまでにね、知り合いの子供たちに会ったの。で、カブト虫捕まえるぞぉーって、伝えたの。そしたら、みんなここに来るって」
「……田舎のガキどもは、どいつも暇人だな」
「あはは、往人くん、そんなこと言ったらダメだよぉ」
「まあ、確かに近所のガキどもなら、色々と戦力になるかもしれん」
「そうだよぉ。……あ、ほらっ、来たよぉっ」

 その佳乃の声を受けて、一同は境内へとあがる階段の方を見る。
 そこには佳乃の言うとおり、そこにはどやどやとこちらへと歩いてくる子供たちがいた。

「……どっかで見たような気がする連中だな」
「まあ、ちっちゃい町だからねぇ。みんなぁ、こっちこっちー」

 と、佳乃は腕をぶんぶんと振って子供たちに呼びかける。
 子供たちはそれをみて、佳乃のほうへと駆け寄ってくる。

「……子供受けいいな。お前」
「えへへ。そーでもないよぉ」

 往人に誉められ、佳乃は照れ照れ。

「佳乃ねーちゃん、ここらでカブト虫捕まえんの?」
「うん。誰か穴場知ってる人いるかなぁ?」
「そーゆーことならだいすけがくわしいよ。なぁ?」
「おー、まかせとけっ」
「あははっ、頼もしいねぇ」
「ああ、まったくだな」

 などと話をしていると、子供の1人が往人を見て、

「あれ? この人、人形劇のお兄ちゃんじゃない?」
「ん?」
「あ、ほんとだ。へー、佳乃ねーちゃんと知り合いだったんだ」
「わー、この人がうわさの人形遣いさんなんだあ。私見てみたいなあ」

 子供たちの興味は往人に移ったようだ。
 こんなに注目を集めたことが久方ぶりである往人は、どうやらまんざらでもない様子。

「ほお。そうか。俺の人形劇が見たいか」
「うん。なんかさ、すっごいつまんないっって話じゃない?」
「そそ、つまんなすぎて逆に味わい深いってゆーかさ」
「そこまでつまんないって言われると、かえってみたくなるよね」
「……」

 どうやら、まっとうな興味のもたれ方ではなかったらしい。

「……俺の人形劇……母さんから受け継いだ……」

 往人はどーんと落ち込んでなにやらぶつぶつと呟いている。
 子供たちの純粋な、悪意のかけらもない意見を浴びせられ、往人は少し意識が遠くなってしまったようだ。

「わー、往人くん、大丈夫?」
「……ああ、大丈夫だ。この町に来てから、こんな扱いはもう慣れたもんだからな」
「大丈夫みたいだねぇ。じゃあ、さっそくカブト退治にゴーっ」
「退治してどうする。じゃなくてだな、俺たちは、腹が減ったからまずメシを食おうかという話になっていたんだ」
「へー。そうなんだ」
「そうなんだ。しかし、こんだけ人数が増えるとなあ……」

 と言いながら、往人は後ろにいる、弁当担当である美凪の方を見る。
 すると、そこには、すでに日陰にゴザをしいてスタンバイしている観鈴、美凪、みちるの三人と。

「……え?」

 山のような、大量の、おにぎりが。

「って、おい。遠野。そんな大量の米どっから調達した?」

 少なくとも、先ほどまではそんな気配はまったくしなかった。
 すると、往人が佳乃と子供たちに気をとられていたわずかな間にこれだけのおにぎりを調達したということだろうか。
 遠野美凪。なかなかあなどれない。
 それはさておき、往人の問いかけに対し、美凪は答える。

「……お米を作るためには、八十八の手間がかかるといいます……」
「いやそうかもしれんが、答えになってないぞ。……まあ、いいか。こんだけあれば、ここにいる全員が食っても大丈夫そうだしな」
「はい……みんなで食べた方が、ごはんはおいしいですから」

 そう言って、遠野は「かもーん」と皆に手招きをする。

「わぁ、ありがとぉございますっ、……えーと、」
「遠野美凪、です。……美凪とお呼び下さい」
「あ、はいっ。えと、私は霧島佳乃っていいます。かのりんとご用命下さいっ」
「……らじゃ」

 そんな風にどやどやと自己紹介やら雑談やらがなされつつ、大人数による食事は進んでいく。
 さすがに育ち盛りが集まっているだけあって、あれほどあったおにぎりの山はあれよという間に小さくなっていった。

 でも。
 そんな中。
 観鈴は、少し離れた場所で、1人で、静かに、少しずつおにぎりを食べていた。

「……ん?」

 それに気づいたのは、往人。

「おい、観鈴」
「え? あ、なに往人さん」
「『なに往人さん』じゃなくてな、んなところで食ってないで、こっちにこないのか?」
「えっ、その、にはは、わたしはここでいいよ」
「……」

 そう言って、観鈴は再び1人の食事をはじめる。
 そんな風に、いつも1人でいたのだろうか。
 ……この子は。

 そんな観鈴を見ながら、往人はゆっくりと立ち上がり、その横へと歩いていく。
 大人数で食事をとっているざわめきで、他の子供たちはそれに気づくこともない。

「横、座るぞ」
「え、あ、うん」

 そう言って、往人は観鈴のとなりに座りこむ。
 周囲の喧騒と裏腹に、二人の周りだけが静寂に包まれる。

「……ねえ、往人さん」
「なんだ?」
「わたしはここでいいから。往人さんは……みんなの、ところに」

 小さな声でそう呟く。
 それを聞いて、往人は、静かに考え込む。
 そして。

「あー、気の利いたことを言うのは苦手なんだが」
「え?」
「お前さ」
「うん」
「……いや、世の中には、1人の方がいいっていう奴もいるし、そういう奴には何も言わんが……お前は、違うだろ」
「……かな?」
「だから、な」

 そう言って、往人は、観鈴の頭をくしゃりとなでて、

「怖がらなくても、いい。お前はもう、泣くことはないんだから」
「……うん」

 言われて、観鈴は、少しうつむき、それから、顔を上げて。

「うんっ」
「よし。じゃあ行ってこい。俺はここで見てっから」
「うん。行ってくる。……にはは、往人さん、かっこいいね」
「そらそうだ。俺はクールな美形なんだ」
「わ、自分で言ってるよ」
「惚れるなよ」
「にはは」

 観鈴は、笑いながら立ち上がり、歩き出す。
 ふと、振りかえって、少し赤くなりながら小さく呟く。

「もう、惚れてるよ」

 往人のほうが赤くなった。

 観鈴はとことこと歩いてき、美凪や佳乃がいるあたりにちょこんと座り込んだ。
 とりあえず、積み上げられているおにぎりの1つを手に取る。
 胸に往人からもらった勇気を秘め、瞳は強い意思に満ち、いざ声をかけようとした、まさにそのとき。

「あれ? 神尾さん、どーしたのぉ? そんなにむずかしそーな顔しちゃってぇ」
「え? あの、えっと」

 突然、佳乃に話かけられた。想定外の出来事に会って面食らう観鈴。

「あ、もしかして、そのおにぎりウメボシで、神尾さんはウメボシ食べられない人で、それで困っちゃったのかなぁ? こっちのタラコと交換する?」
「え、いや、わたしウメボシ食べられますけど、えと、そうじゃなくて」
「?」
「……かのりん、どうかいたしましたか?」
「あ、美凪っち。えとね、神尾さんがなんだかおにぎり見つめてうぬぬって顔してたの」
「……なるほど」

 佳乃から状況を聞いた美凪はなにやら考え、

「……わかりました」

 と、なにやら納得したような顔をして、後ろを向いてなにやらごそごそと探っている。何をしているかは影になっていて見えない。
 やがて、探し終わったらしく振りかえる。
 その手には、どっから出したんだか、人の頭大の巨大なおにぎりを抱えていた。

「神尾さん、これをどうぞ」
「わわ、すごくおっきなおにぎりだよぉっ」
「……えーと、その」

 巨大おにぎりをつきつけられ戸惑う観鈴。
 美凪はそんな観鈴を見てクエッションマークを上げながら、

「……こんな小さなおにぎりをちまちまくってられっか」
「え?」
「……じゃない?」
「えと、いや、そーゆーことじゃないんですけど……あ、でもそのおにぎりはいただきます」

 そう言って、観鈴は手に持っていたおにぎりを一口に食べ、美凪の持つ巨大おにぎりを受け取った。
 間近で見ると、やはりでかい。
 観鈴もそのおにぎりの持つプレッシャーに押しつぶされているかと思いきや、この子はどこか懐かしげな顔をしている。

「あれぇ、神尾さん、どうしたの? なんか切なさ炸裂って感じだけど」
「うん……私が往人さんに話しかけたとき、往人さんこれぐらいおっきなおにぎり食べてたなあっ、って。そう思って」
「へええ。それって二人のなれ初めってやつなのかなぁ?」
「えっ? その、そんなんじゃないですけど」
「いーからいーから。やっぱり、二人の出会いはドラマチック・ラブだったのかなぁ?」
「……偶然の出会い、そしてそこから始まる二人の恋……お素敵です」

 なにやら盛り上がってしまった女子二人にせまられて観鈴はわたわたとする。
 後ろを振り向くと、往人がぐっ、と親指を立てて「がんばれ」の合図。どうやら何を話しているのかは聞こえていない様子。まあ、その方が彼の精神衛生的にもよいだろう。
 さて。
 そんな、どきどきわくわくしながら自分の顔を覗きこんでいる二人を見ているうち、観鈴は、くすくすと笑い出してしまった。

「うん? 神尾さん、どうしたのかなぁ?」
「笑いダケでも入っていたでしょうか?」
「あ、ううん。そうじゃないの。……誰かとこんな風な話をしたの、はじめてだったから」

 それは、彼女がずっと欲しがっていたもの。

「うぬぬ。それって、私たちが前代未聞なおもしろさんってことなのかなぁ?」
「……お笑いコンビ結成のチャンス?」
「あ、そうじゃないよ。うん。にはは」

 小さな涙を浮かべながら、観鈴は笑う。

「……それで、ステキな恋物語は、聞かせていただけるのでしょうか?」
「うん。いいよ。あ、だけど、そのかわりに、ね」

 小さな幸せのかけらは、いつも、こんなに近くにあったんだ。

「私のことも、名前で……観鈴って、呼んでほしい」

 そうして。
 観鈴に、友達ができた。

 強い太陽の光が作り出す日向と日陰のコントラストの中を、子供たちが駆け回る。
 たくさんの声を風に乗せながら。
 みんな、わらってる。

 往人は子供たちに人形劇をせがまれていた。
 ただ働きはしゃくにさわるものの、滅多にない事に少しは気をよくしたのか、ずいぶんと気合を入れて人形劇をおこなった。
 子供たちは、つまんないつまんないとおおはしゃぎ。
 往人としては、喜んでいいのかなげけばいいのか複雑な気分だった。

 佳乃はみんなの人気者だった。
 明るく元気な彼女は、子供たちと一緒にはしゃぎまわっている。
 精神年齢が子供と同程度なのではという指摘は彼女の名誉のために伏せておく。
 とはいえ、やっぱり少しお姉さんでもあった。
 転んでしまって、怪我の治療はしたけれど、まだ泣いている子供には、魔法のバンダナを巻きつけて、ちちんぷいぷい、で痛みはどこかにいってしまう。
 佳乃のバンダナを巻きつけたどこかの子供は、泣くのをやめて走り出す。
 何もまかれていない自分の腕を見て、少し寂しく思いながらも、彼女もまた、歩き出す。
 それが多分、彼女の魔法。

 美凪はみんなのお母さん。
 西にお腹の空いた子がいれば、行ってお米券を進呈し、東にケンカする子がいれば、おやめくださいと仲裁する。
 言葉遣いが若干ユニークではあるものの、そのやわらかな物腰とやさしげな態度は、皆の心をひきつけた。

 で、そんな美凪を見ながら、みちるはちょっとだけ面白くなさそうな顔をしていた。
 「みちるの美凪」が他の子にとられて面白くないのだろう。
 が、そんな風にしている時間は長くは続かない。
 みちるの周りに、みちるよりもさらに小さい子供たちが集まってきて、一緒に遊ぼうと誘ってくる。「みちるお姉ちゃん」と呼ばれるのは少し戸惑いがあるようだが、しかし、嫌ではなさそうだった。
 そんな中で美凪の方を振り向くと目の動きだけで「いってらっしゃい」のコンタクト。伊達に付き合いは長くないようだ。
 みちるは、そんな美凪をちらちらと振りかえりつつも、やがて子供たちに連れられ走っていった。
 そうして、二人は、同じ顔で笑っている。

 世界が新しく見える。
 どきどきする。
 すこし、まだぎこちない。
 でも。
 観鈴は、楽しそうに、友達と遊んでいる。
 願わくば、少しでも長く、この時を。

 本来の目的を思い出した往人は、人形劇を一時中断してカブト虫探しを再開した。
 そのとき、彼はカブト虫とは似て非なる虫を発見する。
 「なんだこりゃ」「わ、すげえ、オオクワだ」「ふん。カブト虫じゃない奴に用はないな」「じゃあオレにくれよっ」「ああ、いいだろう」
 こうして、往人は80ミリ級のオオクワガタを子供に譲った。
 無知とは言えある意味いいやつである。

 炎天下の中駆け回った結果、皆喉が乾いたようだった。
 それを見た観鈴は、ここぞとばかりに秘蔵のブツをとりだし、皆に配った。
 それに気づいた往人の制止も間に合わず。
 場が、なんというかどろりとした空気に包まれた。

 子供の1人が、往人に恋の相談を持ちかけた。
 明らかに人選ミスだった。

 夕方頃になると、大量のカブト虫が捕まった。
 これも数の勝利といえよう。
 往人には金の山に見えていたようだが、しかしこれらは皆で捕まえたもの。平等にわけるのがよいでしょう、という美凪の意見により、そこにいる全員で分けることした。
 結果、あれよと言う間にカブト虫は減っていき、終いにはいなくなってしまった。
 往人の背中が、泣いていた。

 そして。
 一番星をさよならの合図に、子供たちの時間は、終わりを告げた。

 またねぇ、と佳乃が言っていた。
 ごきげんよう、と美凪が言っていた。
 またいっしょにあそぼーね、とみちるが言っていた。
 夜空に少しずつ星が瞬き始め、消えかけた街灯がじりりと音を立てている。
 辺りに響くのは、夏を惜しむかのような虫の声。
 そんな夏の終わりの中に、観鈴と往人がいる。
 二人は海沿いにあるテトラポッドに腰掛け、そこらに打ち捨てられていた釣り竿とそこらの岩の裏にいた虫を使って釣りをしている。
 夜釣りでもするか、と往人がそう言ったから。
 しばらくたつうち、これまたそこらで拾ったバケツの中には、数匹の魚が捕まっていた。

「往人さん、これ、なんてお魚さん?」
「これはハゼだな」
「へえ。おいしいのかな」
「食えたもんじゃないぞ」
「そうなんだ。往人さん物知り。じゃあ、こっちの魚は?」
「それは、ハゼ以外の何かだな」
「へえ。おいしいのかな」
「食ってみないとわからないな」
「ふーん」

 そんな会話をしながら、二人は釣りを続ける。
 静かな時間が流れる。

「あ、ねえ、往人さん。あそこ、覚えてる?」

 ふと、観鈴が堤防の一角を指差す。

「なに? ただの堤防じゃないのか?」
「堤防なのはそうだけど、それだけじゃないよ」
「……なんだっけか」
「覚えてない?」

 観鈴は、少し寂しそうにする。
 それを見て、往人は、

「なんてな。俺がメシ食ってるときに、ヘンな奴に話しかけられた場所だ」
「ヘンな奴……わたし、ヘン?」
「ヘンだな」
「うー……でも、覚えてくれてうれしい。あそこは、わたしと往人さんが、はじめてあった場所。このなつやすみの、はじまりの場所」
「そうだな……」

 しばらく、ふたりでじっとそこを見る。

「なんか、ずいぶん遠くに来た気がするな」
「そうかな……そうだね」
「あそこから、はじまったんだよな」
「うん……」
「……やっと、二人で海に来れたな」
「うん。こんなに、近くにあったのにね」

 そしてまた、二人とも黙り込む。
 と、観鈴は海の中からひもを手繰り寄せる。その先には、なにやらビニール袋に入ったものがついていた。

「なんだそりゃ」
「どろり濃厚ジュース。海の中で冷やしてたの」
「しょっぱくならないか?」
「ビニール袋でくるんでおいたから、平気だよ」
「そうか」
「うん」

 そう言って、観鈴はパックにストローを差し、中の粘体を吸い取る。

「うん。冷えてておいしい」
「それ、ガキどもに不評だったな」
「うん。どうしてかなあ」
「どうしてかなって言っても、まともな人間の飲むもんじゃないからなあ」
「そんなことないのにね」
「同意を求めるな。しかし、それにしてもお前、それ好きだよな」
「うん。好き」
「なんだってこんなヘンなもの飲むようになったんだ。いくらお前とて、最初からこれに耐性があったわけじゃないだろ」
「そんな、危ないモノみたいに言わないで欲しいけど……うーん。たいした理由じゃないんだけど」
「なんかあるのか」
「うん」

 観鈴は、手に持つ飲み物を一口飲んでから、言葉を続ける。

「このジュースね。誰にも買われてなかったの。もちろん、わたしが見ているときだけの話だけどね。そしたら、なんだか、この子がさびしそうにしてるように見えちゃって。にはは、わたし、やっぱヘンなこと言ってるかな」
「……そうだな」

 またしばらくの、間。
 そして、往人が口を開く。

「……そういや、喉乾いたな」
「え?」
「それ、冷えてるって?」
「あ、うん。飲む? 飲める?」
「……ああ。人生はチャレンジだ」
「そんなに気負わなくてもいいけど……はい」

 観鈴は往人にパックを渡す。
 しばらくそれを見つめた後、思いきってストローに口をつけ、吸い取る。

「……往人さん、どう?」
「……」
「往人さん?」
「……いや、平気だ。うん。なんだ、やはり個性的であるが、馴れてしまえばどうということはないな」
「ほんと?」
「嘘ついてどうする。まあなんつーか珍味のたぐいというかなんというか」
「……無理してない?」
「してないっての。でもなあ」
「え?」
「お前冷えてるっつったけど、なんかそんなでもないぞ。少し生暖かいというか」
「あ、それは、さっきまでわたしが飲んでたからじゃないかな?」

 何気なく観鈴はそう言い。
 そして、それの意味するところに気づく。
 またしても、黙り込む二人。
 しかし、今回の沈黙は、先ほどまでと違う。
 なんだか、ややピンク色の空気が流れているような気さえする。
 それぐらいのことでこうなるとは、二人とも実に純情なものだ。

「……返す」
「……うん」

 そう言って往人はほったらかしておいた釣り竿を手に取り、釣りを再開する。
 観鈴は、手にもつパックを少しの間見つめたあと、ゆっくりとくちづけして、中に少し残った分を飲み干した。
 それは、いつもとは少し違う味がしたのかも、しれない。

 周囲は星空に包まれる。
 ゆっくりと、夜風が吹く。
 
「涼しいね」
「そうだな」

 結局食べられなさそうな魚しか釣れなかったので、それらはすべて海にかえし、二人は海を離れて道を歩いていた。

「ったく、結局カブト虫は捕まらないし、ガキどもの相手をして疲れたし、今日は散々だな」
「でも、わたしは楽しかったよ。往人さんは、楽しくなかった?」
「……ま、そうだな。なんだかんだで、楽しかったからよしとするか」

 夜が深まる。
 夏が終わる。

「それじゃあ、帰るか」
「うん。そうだね」

 二人は歩き出す。
 この子達の、帰るべき場所に。
 そしてそれは、もう、ここではない。
 最後に。
 観鈴は振りかえって、こちらを向いた。
 悲しそうに笑い。
 嬉しそうに、泣いて。

「さようなら。お母さん」

 セミの鳴き声で目を覚ます。
 窓から差しこむ太陽の光が目にまぶしい。
 私は、体を起こし、まどろみながら周囲を見まわした。
 夢を、見ていた気がする。
 どんな夢だっただろう。
 そう、たしか。
 そんな風に思い出そうとしている私に、家の外から声がかかった。

「はるこせんせーっ」「せんせいー」

 その声には、聞き覚えがある。
 私が勤めている保育所にいる、近所の悪ガキだ。
 男の子と女の子の二人組で、二人ともなかなかのいたずらものだ。
 もっとも、そのぶん可愛いのだけど。

「なんやーっ?」

 私は返事をして、二人の所に行こうと立ちあがる。
 あの二人が来たからには、とっとと行ってやらないと、何をしでかすかわからない。
 そう思って、立ちあがったとき。
 ひらりと、白いものが落ちていった。
 なんだろうと思い、反射的に掴むと、それは白い小さな、羽。
 どこからか迷い込んだのだろうか。
 なんとなくそれを捨てることが出来ず、私はそれを持ったまま、家の外へと歩いていった。

「なんや大声出して。何の騒ぎかと思うやないか」
「あ、せんせい、こんちわー」
「こんにちは」
「おう、こんにちは、っと。で、どないしたんや? またわからんことでも聞きにきたんか?」
「ううん。違うよ。えっとね、僕ら、道を案内してきたの」
「きました」
「はぁ? なんや、誰に道案内なんぞしたっちゅー……」

 そのとき、家の門のところに、よく見知った人物が顔を出した。

「……敬介。あんたなにしてんねん」
「なにしてんだは、ひどいな。わざわざ来っていうのに」

 それは、橘敬介(私の姉の夫)だった。
 見ると、敬介はずいぶんと息が荒い。

「敬介、あんた何寝起きの晴子さん見てはぁはぁしてんねん。変態かいな」
「そんなんじゃないよ。ただ、そこの子供たちが走るもんだから」

 その言葉に、私は子供たちを見る。
 子供たちは、少しバツの悪そうな表情をした。
 どうやら、敬介は案内してもらったはいいが、走って先導する子供たちについていくために疲れてしまったらしい。

「体力ないなぁ。もっと体鍛えんかい」
「はは、それは、そうだね」

 敬介はようやく落ち着いてきたようで、話す声にも余裕が見え始めている。

「んじゃ、ぼくたちもう行くねー」
「さようなら」
「おー、怪我せんようにせーやー」

 子供たちは、そう言うなりぱたぱたと駆け出していった。
 その姿は、すぐに見えなくなる。

「元気やなー」
「そうだね。うらやましいよ」
「あんたはまだ元気ないなー」
「そうかもね」
「って、そーいや、なんで来たん?」
「なんだか、来たらいけないみたいだね」
「いや、そんなこともあらへんけどな」

 1年前の「あのころ」ならいざしらず、最近はこちらに来ることも少なくなっていたのに。

「仕事の都合でこの近くに来てね。少し時間が空いたから、君に顔を出しておこうと思って。それから……あの子にも」
「ああ、そか」

 あの子。
 神尾、そして橘、観鈴。
 今はもう、ここにはいない子。

「あれから、もう1年にもなるんやな……」
「そう、だね……」

 かけがいのないたくさんのものをのこして、そしていってしまったあの子。
 あれから、1年。
 せわしなく流れていく時間の中で、私は生きている。

「そんなら、あの子んとこ行こかー?」
「うん。そうだね」

 そうして、私たちは歩き出す。
 その場所は、私の家から少し歩いた場所にある。
 あの子の、墓。

「観鈴ちん、パパが来てくれたで」
「……」

 敬介は黙り込んでいる。
 私も、少しの間、喋らずにいる。
 セミの鳴き声と風の音だけが、にぎやかに響き渡る。

「そういや、」
「え?」
「あんた、今日は迷わずに家までこれたんやな」
「……なんだか、それだと僕が道に迷ってばかりみたいだな」
「実際そうやん。あんたは昔から道に迷ってばっかや」
「だけど、今日は迷わなかったよ」
「道案内付きやんか」
「そうだけど、ちゃんと、これた」
「……そやな」

 時間は流れていく。
 少しずつ、色々な事が変わっていく。

「な、あんた今日はどれくらいここにいられるん?」
「いや、本当言うともう時間がない」
「かぁっ、まったく、相変わらず忙しいお方やな」
「まあね。これでも職場じゃ、結構真面目で通ってるから」
「あー、あんたはそんな感じやなー。そないな真面目さんは、とっとと仕事に戻った方がええんちゃうかー?」
「また、そう言うことを言う」

 そう言って、私たちは微笑みあう。
 こんな、他愛もない会話の中にある幸せを、私はあの子から教わった。
 それだけじゃない。
 あの子からは、本当に、たくさんのことを教えてもらった。
 どれだけ時間が流れていっても、それらは変わらず、私の宝物だ。
 それがあるから、私は胸を張って言える。
 今、幸せであると。

「そんじゃ、うちも行こかー」
「これから、何か用事でもあるの?」
「んー。知り合いの医者さんがな、最近妹が反抗期やなんやゆうて落ち込みがちやから、酒でも飲みながらグチ聞いたろかと思ってな」
「……まだ、お酒は好きなんだね」

 敬介はあきれたようにそう言う。
 確かに、何かから逃げ出すために酒を飲んでいた時期もある。
 だけど。

「いいんや。これは、楽しい酒やからな」
「そう言うものかな……そう言うものかも知れないね」
「そや。あんたも今度飲むの付き合い」
「……いや、遠慮しておくよ」
「なんやー、酔った勢いで、どんな過ちが起こるかわからんでー」
「……だから、だよ。そういうことは、勢いでやるものじゃないと思う」
「……あんた、今むっちゃ恥ずかしいこと言わんかったか?」
「かもね」

 敬介は平然と答える。
 普段はぽーっとしているくせに、時々こういうカウンターをしてくるからあなどれない。

「……ま、ええや。ほな、今日はさよならやな」
「うん。また、今度」
「今度は、もっとゆっくりしていきや」
「うん。そうするよ」

 そう言って、敬介は振りかえり、歩み去る。
 その後姿は、どこか毅然としていた。

「……まったく、あの泣き虫坊主がなあ」

 それを見ながら、私はそう呟く。
 彼は確実に、前へと歩いている。

「じゃ、うちも行こか」

 最後に、墓に向かって小さく呟く。

「ほな、お母さん行ってくるで。観鈴」

 そして私は歩き出す。
 涼しげな風が吹いていた。
 終わりの無いような青空の下を、雲が過ぎ去っていく。
 目を地上に移す。
 どこかの子供たちが、楽しそうに歩いている。
 それを見ながら、さっき見ていた夢のことを思い出した。
 夏の青空の下で、子供たちは、無邪気に遊んでいる。
 明日がいつまでも続いていくことを、疑うこともなく。
 そんな。
 そんな、幸せな、夢を。
 ふと。
 手に、まだあの羽を持っていることに気づいた。
 例えば。
 この羽が、あの夢を私の元へと運んできてくれた、というのは。

「なんて、ウチにはちょっと乙女チックすぎるがな」

 頭に浮かんだ考えを、冗談交じりの呟きで打ち消す。
 だけど、もし、本当にそうならば。

 「ありがとう」と、そう言いたい。

 羽を握る手を目の高さまで上げて、ゆっくりと指を開く。
 吹きすさぶ風に舞い上げられ、羽は空へと消えていく。
 白い羽は空の青にとけていき、もう見えない。
 願わくば。
 そらのかなたにいるだろう、あのこの元へ届きますように。

 思う。
 やがて、この夏も終わり。
 秋に木の葉の彩りを見て。
 冬に降り積もる雪を思い。
 春に若草のいぶきを感じ。
 少しずつなにかを重ねて。
 そして。
 また、夏が来る。

「来年は、うちも三十路かぁ。早いもんやなあ」

 呟く声が風に乗る。
 もう一度、空を見る。
 涙が出そうなほど、青。

「……さて、」

 一歩一歩を踏みしめながら、私は前へと進む。
 この空の下、それはどこまでも続いていく。

「ほな、いってみよかっ」

 そして、私は、今も風の中を歩いていく。

 Air AfterStory”夏の日のゆめ” end.