フリップフロップB+

 冷たいにおいを、覚えている。
 静かなノイズを、覚えている。
 砂時計の砂粒が、ひとつずつこぼれ落ちていくように、自分の命が消えていく感覚を、今でも覚えている。
 痛みは死を伴って訪れる。体が引き裂かれるように、擦り潰されるように、焼き焦されるように――どんな形容を用いても追いつかないそれは、ただ純粋に「痛み」として私と共にあった。
 世界が憎かった。
 みんな死んでしまえ、と思った。
 私にこんな痛みを与える世界など、無くなってしまえばいい、と思った。
 そんなことを思う自分が、嫌だった。
 いつしか、私は死を望んでいた。
 こんな日々が終わることを、望んでいた。
 カチコチという時計の針の音は、終わりの時までを刻むもので、それが鳴り終った時、私は死ねるのだと思った。
 けれど。
 それでも。
 私は、死にたくないと思った。
 それは、たぶん。
 あのひとたちが、いてくれたから。

 目覚めは、怖い。
 目が覚めたとき、自分がちゃんと、いつもの自分の部屋にいるかどうか。
 もしかして、今こうして家にいるのは全て夢で、自分はまだあの病院のベッドにいるのではないか。
 そんなことを、思ってしまうから。
 ふう、とため息を一つ吐く。まったく、私は進歩がない。
 あれからもう、十年近く経っているというのに。
「うっしゃっ!」
 陰鬱な気分を吹き飛ばすために、わざと大げさな口調でそんなことを言い、起き上がると、そこで目覚まし時計がぴぴぴ、と鳴った。なんとなく勝ったような気分になりつつ、手の平でばしん、とボタンを押して音を止める。ベッドから起きあがって服を脱ぎ、制服に着替え、昨日のうちに用意をしておいた鞄を手に取り、部屋から出る。
 まだちょっと眠い。あくびを噛み殺しながら廊下を歩き、その部屋の前で立ち止まる。ドアに耳をくっつけて音を聞いてみるけれど、中からは物音ひとつ聞こえてこない。
 こやつもこやつで進歩がない。
 やれやれ、と思いながら、私は一回深呼吸をし、そしてぐっと気合を入れ、勢いよく扉を開いて、
「こらーっっっ、こーへーっっっ、朝だぞ、起き、」
 と。
 そこまで、言って。
 私の目に、すっかり物が少なくなってしまった、その部屋が映った。
「ろぉー……って、あ、そっか」
 フェイドアウト気味にそう続け、私はやっと思い出す。
 浩平は、私の兄は、少し前から、通学のために叔母の家へと引っ越したのだった。
 それを忘れていたのは、私が寝ぼけていたからだと、思いたい。

 のだけれど。
「つーかみさぽんって基本的にブラコンだよね」
 などとのたまう不敬者がいる。
 それは学校の、休み時間の、何でも無い雑談をしていたとき。
 私こと折原みさおの友人たるこの女めは、唐突にそんなことを言い出したのだ。
 ああもうまったく、事実誤認も甚だしい。
 かようなデタラメを言うヤツは、放課後体育館裏に呼び出しても許されると思う。
「あんたねー、突然なに言いだすのよ。んなわけないでしょーが」
「あ、自覚なかったんだ。みさぽん自分のこと見えてないのね。じゃー世間一般におけるあんたの呼び名も知らないでしょ」
「なによ、それ」
 彼女はふふん、と指を振り、ちょっと間を置いてから、
「プチ折原浩平」と言った。
「発案者呼んできて。埋めるから」
「冗談冗談、じょーだんーっ。でもあんたの兄さん有名よ? 去年の話だけど、三年の折原と言ったら、もう、」
「もう?」
 なんだろう。ちょっと気になる。
「変人なることこの上なし」
「……そっち方面で有名なのね……」
 いやまあ、それは妹の私としても否定出来ないけれど。
「みさぽんと兄さんってば、いっつも遅刻ギリギリにやってきて、いっつも大声で兄妹漫才やってたから、去年一年間はこの学校の風物詩だったのよ。兄さんが卒業しちゃって、朝が物足りなくなったと思っている人は生徒教員近所の方々ひっくるめて相当な数にのぼるんだから」
「べっつに漫才なんかやってないっての。でもまあ、確かにそういうやりとりは、あったけど」
 でもあれは、実際の所ほとんど兄が悪いのだ。私は律儀にもその相手をしていたにすぎない。
「でしょ。で、なんか兄さんが卒業してからみさぽんも寂しそうだしさあ。んーと、兄さんしばらくは実家からガッコ行ってたけど、最近引越しちゃったんしょ? それ以降のみさぽんったら、もう見ているだけで母性本能が刺激されるというか胸がトキメクというか、」
「それ以上喋ったら二度と朝日を拝めないと思え」
「嘘嘘うーそーっ。もうみさぽんったらムキになっちゃってーっ」
「……はぁ」
 なんかもう、相手するのも疲れる。
 確かに、兄が別の所で暮らしているのだから、多少寂しくもある。
 でも、そんな大げさなことではない。
 ないと、思うんだけど。
「でも安心してみさぽん」
「なにを?」
「たとえ社会的には認められぬ恋であろーともー、それは間違い無く美しき愛なのよーっ。世界のすべてが敵になったとしても、私だけはみさぽんの味方だからっ。思う存分若さをギラつかせるがいいわーっ。あ、でもでもみさぽんはまだ汚れを知らぬ乙女サマ。その純潔を奪うのはわーたーしーっ。だからほどほどに抑えておいてねーっ」
「……」
 やっぱり。
 放課後、体育館裏に、こいつを連れていこう。

 そして放課後。私は休み時間に思ったことを実行に移すべく、両の拳に怒りを込め、にっくき奴めを体育館裏に連れて行こうと思ったのだけれど、時既に遅く、奴は逃げた後だった。
 おのれ。口と逃げ足だけは立ちやがる。
 とはいえ、私とて別段本気でシメようなどとは思っていなかった――まあ、せいぜい五分シメ程度だ――ので、それは明日の楽しみとして、大人しく帰ることとした。ふと見上げた空は曇り、どうにも機嫌が悪いようだ。
「なんだか、なぁ」
 呟く。そして、後ろに振り向いてみる。そこは見慣れた通学路で、別段、変わった所は無い。
 ただ一つ。
 あの人が、いないことを除けば。
「むー」
 一人唸り、とぼとぼ歩く。いや「とぼとぼ」という擬音はふさわしくない。私はそんなに落ち込んでなんかいない。
 別に誰も何も言っていないのに、私はそんないいわけを考えながら、その場所へと辿りついた。
 道自体は特に変わったところも無い、普通の交差点だ。ここを右に曲がると私に行くと私の家に着き、まっすぐ行くと、駅に着く。
 そう言えば、と思い出す。
 兄は、進学し学校が変わってからもしばらくは自宅から通学していて、途中までは私と同じ道を使っていた。兄の学校へはここから駅へと向かい、電車で数駅行ったところにあったはず。前に彼が間違えて私と同じ道を行こうとして、あわてて追っ払ったことがあった。
 それは、大して昔のことではないはずなのに。
 なぜだかひどく、懐かしいことのように見えた。
「……行って、みようかな」
 呟いて、少し考える。行って、会えるとは限らない。兄はよく寄り道をするタイプであるし、もしかしたら部活等で遅くなっているかもしれないし、会って何をすると言う訳でもない。意味も無く会いに行ったりなどしたら、要らない心配をかけてしまうのでは、とも思う。
 だけど。
 深呼吸一回分だけ、目を瞑って考えこみ、そして、決める。
 よし。
 行ってみよう。
 考えてみたら理由なんて要らないのだ。別段私の行動は誰かに制約されているわけではないし。仮に、仮に兄に会いに行くのだとしても、家族なのだから不自然なことなど一つも無い。ないんだってば。
 うむ、よし。
 心の中の誰かを説得し終え、私は駅へと向かう。駅に着いたらまずお母さんに電話して、ちょっと遅くなるかもとか言って、それから電車に乗って叔母さんの家に向かおう。大丈夫、去年くらいに一回行ったから道は覚えてる。一人で行ったことはないけれど、たぶん平気だろう。
 よしよしよし!
 頭の中でプランを立て、近づく駅をきっ、と強く睨みつけ、戦場に赴く戦士の心持ちでそこへと連なる道を行く。全身がよく判らない高揚感に包まれる。駅に着いたらプランを決行、電話して切符買って電車に乗り込んで、窓際に立ち外を見ながら目的の駅に到着するのを待つ。はやく着け、と心の中で呟く。足踏みしたい気持ちを我慢する。
 ――そんな風に盛り上がる私とは逆に、空を覆う雲は、その厚さを増しているように見えた。

 着いた。
 歩いた。
 ……迷った。
 駅から出てからの私の行動は、その僅か三行で表現出来てしまうものだった。どうやら私は自分の方向感覚と記憶能力を過大評価していたらしい。最初のうちは、多少なりともどこかで見たことがあるような気がしたのだが、勘に任せてぐるぐると歩き回っているうちに、どっちがどっちなのかさっぱり判らなくなってしまった。先ほどまでは商店街のような場所に居たのに、今では住宅地に迷いこんでしまったようだった。街が少し旧いのか、道路はかなり入り組んでおり、誰かに聞かなければ駅まで戻ることさえ難しそうだった。
「……くそう」
 そんな悪態を吐いてみたところで、無論事態は進展しない。あてずっぽうに歩いてみても、見えるのは知らない風景のみ。知らない制服の学生らしき二人組が通り過ぎる。その人たちが話している声が遠く聞こえる。なぜだか急に、知らない異国にでも迷いこんだような気分になる。そんなわけは無いのは判っている。いつもの通学路から、電車で少しの場所に過ぎないことは、頭では十分判っている。
 なのに、私は、なんだかとても遠くに来てしまったかのような気持ちになってしまった。
 無性に、寂しくなってきた。
 どこかの空から雷鳴すら聞こえてくる。大きな音が苦手な私としては、雷は出来れば遭遇したくない自然現象だ。なんとも踏んだり蹴ったり、だ。胸の奥に染み込むように、良くない気持ちが広がっていく。空を見上げればすでに暗いとすら言える有り様で、そして、それを見上げる私の顔に、追い討ちをかけるかのような雨がひとしずく、ぽつ、と落ちてきた。それは二つ三つと連続し、終いには本降りになってしまう。知らない街の知らない道で、ざあざあと言う雨に打たれながら、私は一人、立ち尽くす。
 なにをやっているのだろう、私は。
 こんなのは、なんて言うか……バカみたいだ。
 目の奥が熱くなる。口の中が苦くなる。その衝動に、飲み込まれそうになる。帰ろう。そう思う。道は判らないが、駅までなら、人に聞きながらなんとか辿りつけるだろう。早く帰ろう。さもないと、たぶん。
 私は、泣いてしまう。
 それは、いやだ。私はもう、泣かないと決めたのだ。
 あの人に、心配をかけないために。
 ――みさお。
 私を呼ぶあの人の声を思いだす。じくり、とお腹の古い傷が痛む。あの頃の、私のことを心配そうに泣き出しそうに見ているあの人の――お兄ちゃんの顔を、思い出す。
 決めたのだ、私は。
 もう、泣かないって。
 ――みさお。
 そうだ。だから笑っていた。お兄ちゃんが卒業した時も、別々の通学路を歩いたときも、お兄ちゃんに好きな人ができたことに気付いたときも、叔母さんの所に引っ越すことが決まったときも。
 私は、笑っていた。笑えて、いたのだ。
「……って、やっぱりみさおか。なにやってるんだお前こんな所で」
 背後から、そんな声が聞こえた。
 ああ、私はやはり気が滅入っている。遂には幻聴まで聞こえてきたようだ。ちきしょー、我が脳まで私を欺こうというのか。そんなに世界は私のことが嫌いか。ああもう帰る、帰るんだってば。
「いやどこ行くんだみさお。お前このお兄様の顔を忘れたとでも言うのか? つーかお前そんなずぶぬれでなにやってるんだ。お前体弱いんだから無茶すんな」
 幻聴がしつこい。なんだか腹が立ってきた。こうなったら振り向き際にワンパンくれて黙らせよう。そしてさっさと帰るのだ。そうと決めた私はくるりと振りかえるときのモーメントをそのまま保持しそれを右手に乗せ足の指、足首、膝、腰、肩、肘、手首にかけて加速を行い全体重を乗せた正拳突きをその幻聴の発生源に向けて放ち、
 それが幻聴でないことにやっと気付いた。
 問題は、すでに加速度を得た拳は簡単には止まらないことだった。
 モーションが完璧であったためかインパクトの瞬間に拳に痛みは無く、むしろ心地よいくらいだった。ぱーん、と小気味良い音を立て、幻聴の発生源こと私の兄、折原浩平はすっとんだ。
「あ、こーへー」
 私はぽつりとそう呟く。すると兄は起きあがり、怒り心頭、と言った風に、
「『あ』じゃねーっ。てめみさお、一体なにをするだぁーっ。俺はお前に久しぶりにあった兄に対し振り向き際のストレートをかますような子に育てた覚えは無いぞっ」
「あ、それは、その、えと、ごめん」
 素直に謝る。さすがにこれに関しては私が悪いし。
「む、まあそこまで言うならよし。でもそれはそれとして、お前なんでこんなとこに……いや、まあそれはいいから、とりあえずほれ、傘使え傘」
 そう言って、兄は手に持つ傘を私に渡す。反射的にそれを受け取り、差す。雨粒が体に当たらなくなると、少し気分が落ちついてきた。と、よく見れば、兄は傘を差していない。
「こーへー、傘いっこしかないの?」
「ん? まあそりゃな。傘を何本も持ち歩くやつもおるまい」
「じゃあこーへーも入りなよ。濡れちゃうよ」
「別に俺は構わんが、どうしてもと言うのなら入らせてもらおう」
 そう言って、兄は私の一緒の傘に入る。そんなに大きくない傘の下で、すぐ近くに、それこそ温もりが伝わってきそうな距離に、兄がいる。
 それは、私を壊す暖かさだ。
 ほっとする、気が緩む。そこに滑りこむように、あの感情がやってくる。だめだ、泣くな、胸を張れ、毅然としろ。
 お兄ちゃんの前で、私は、泣いたらいけないんだ。
 顔を下げる。歯を食いしばる。そんな私を見つめる視線を感じる。気付かれる。
 そう、思ったとき。
「はぁっ、やっと追いついた……もー、折原くん、いきなり走り出すから驚いたよ……って」
 と言う女の人の声が聞こえた。そちらを見ると、そこには制服――確か、兄の学校の女子のものだったと思う――を着た、一人の、綺麗な女の人がいた。
 その人を見た瞬間に、直感的に、根拠も無く、しかし確信を持って、私は思った。
 この人が、兄が、好きになった人だ。
 彼女は、私を見て、
「あ、こんにちは。えと、折原くんの知り合い? あ、もしかしたら妹さん?」と訊いてきた。
「あ、はい。妹の、折原みさおです。はじめまして」
「うん。はじめまして。わたしは長森瑞佳。折原くんのクラスメートだよ」
 声も綺麗だな、と私は思った。
 なるほど、兄が惚れるのも無理がないかもしれない――その僅かなやりとりで、私はそんなことを考えてしまった。
 と。
「それはそれとして、みさお。お前そんな格好でいたら風邪引くぞ。ウチでちょっと風呂でも入ってたらどうだ?」
「え?」
 言われ、改めて自分が雨で濡れていることを思い出す。服は私の体にぴったりと貼りつき、体のラインが浮き彫りに……いや、浮き彫りになるほどのラインなど無いけれど、ともあれそんな状況なのだ。これは、なんと言うか、恥ずかしい。そしてすぐ側に兄がいる。致命的だ。思わず逃げ出したくなってしまう。今この状況に比べれば、雨の中を全力ダッシュする程度どうということもないだろう。
「べ、別にいいもんっ。私すぐ帰るし、由起子叔母さんの家まで遠いし、」
「いや遠くないぞ」
「え?」
「つーか、そこだ、そこ」
 そう言って兄が指差す先を見ると、そこには確かに、いつか見たような家が立っていた。
 どうやら、ぐるぐると迷っているうちに、いつのまにか目的地のすぐ側まで来ていたらしい。
「……」
 ふと、思った。
 私は、もしかしたら、バカなのかもしれない。

 ざあ、と言う音が外に聞こえる。雨はかなり強くなってきているようだ。雷の音その音を、私は由起子叔母さんの、つまり兄が居候している家の脱衣所で聞いていた。服はすでに脱ぎ、今の私ぱんつ一丁のみ穿いているといういでたちである。
 上着は、私がお風呂場でシャワーを浴びている間に、干して乾かすことになった。下着は、由起子叔母さんが留守であったこともあり、長森さんが買ってきてくれることになってしまった。さすがにそれは悪いので、私は止めようとしたのだが、その間も無く彼女は走り出してしまった。どうやら、長森さんはかなりの世話焼きであるようだ。
 彼女のことを思い出してみる。
 彼女は綺麗な人だった。そして、それ以上に優しそうだった。兄はなんだかんだでああいう母性的なタイプに弱いので、その辺りに惹かれたのかもしれない。ちょっと見ただけだけれど、スタイルも良かったような気がする。こう、なんていうか、胸とか。
 自分の胸を見てみる。
 ……擬音にするなら「すとーん」である。
 なんだか、さっきとはまったく違う方向に、泣きたくなってきた。
 首筋に濡れた髪がまとわりつく。うっとうしくて剥がそうとそれに触れる。ふと、長森さんと私の髪型が似ていたことを思い出す。括り方とかは微妙に違うけれど、どちらも腰ほどまで伸びた長い髪。あんな綺麗な人と少しでも似ているのは嬉しいのだけれど、しかしそこにも落ちこむタネは転がっている。私の髪は兄譲りのクセっ毛で、朝など整えるのにものすごく苦労する。髪の長さは似ているけれど、その質には大きな差があるようだ。
 ううむ。
 なんだか、考えているうちに勝てる要素がまるで見当たらないことに気付く。いやいやいやいやいや、別に勝つ必要なんて無いのだ。長森さんは兄の好きな人であり、もしかしたら……恋人であり、さらにもしかしたら私の未来のお姉さんである。張りあう必要などどこにも無い。
 もし。
 それが、あるとするならば。
 それではまるで。
 まるで。
「……何考えてるんだろ、私」
 やっぱり気が滅入っているようだ。いつまでもこんなところで考え事してないで、さっさとシャワーを浴びてしまおう。その後はまあ、なるようになれ。
「おーい、みさおー、入ったかー?」
 と、脱衣所の扉の向こうから、兄の声が聞こえてきた。やはり、考え事に没頭しすぎていたようだ。今踏みこまれては困るので、私は「まだー」と応え、さっさとぱんつも脱ごうとする。
 そこに。
「そーか。よし、こうなったら折角だからこの兄君様が雨に濡れた可哀想な妹めを存分に洗ってやら、」
 私はその言葉を最後まで聞かず、
「ばーかっ。そんなことしたら、ぶん殴ってやるんだからっ。もしその扉を開けたりしたら、命の保証は出来ないと思えっ」
 と言い放った。
「ぐ、お前兄上に向かってなんて口の聞き方をするんだ。なんか前より口調が乱暴になっている気もするぞっ」
「ふーんだ。妹の裸を覗こうなどと企む兄のことなんか知りませんー」
「いやちょっと待て、そんな世間体の悪い事を言うなっ。別に俺はお前の裸など見たくないぞ」
「あーもーっ、いいからちょっと黙っててよっ。喋られてると服、脱ぎづらいじゃないっ」
 そんな風に、私たちは扉越しに話しあった。
 よし。
 大丈夫。
 いつかしたような会話を交わし、私の心は冷静さを取り戻した。少なくとも私はそう思った。大丈夫だ、私は。
 こうやっていれば、泣かないでいられる。
 その時だった。
 一際強く大きく雷鳴が鳴り響いた。光ってから音がなるまでほとんど間が無かったと、私にはそう思えた。音に体がすくみ、光に心が怯えた。次の瞬間、ふ、と灯りが消え去った。頭では判っていた。ただの停電だ。雷によるものだから、少し待てば元通りになる。そう、判っていた。
 なのに。
 私は。
 私の心は。
 すべての理性が遮断された。すべての理屈が否定された。その闇に飲みこまれるように、私の心は陥ちていった。怖い、と思った。こわいこわいこわいと子供のように反復した。背筋も膝も指も体の全てに震えが走った。頬に涙が流れる感触。唐突に訪れる闇。それは、死の気配。
 あの頃、ずっと恐れつづけ、今もなお、私の中でうごめくもの。
 切り裂くような引き裂くような音が聞こえる。遅れて、それが自分の口から弾かれた悲鳴だと知る。なんて弱く悲しく暗い声を出すのだろうと、心の片隅の私が思う。そして。
 闇の中、扉が開く音がする。
 私の名前を、呼ぶ声が聞こえる。
 瞬間、恐怖よりも強い感情が私に生まれた。それは泣くな、と私に命じた。暗くたって判る、見えなくたって感じる。兄が――おにいちゃんがそこにいる。ないてるわたしをしんぱいしてる。おにいちゃんにはしんぱいをかけちゃいけないんだ。おにいちゃんにはないてほしくないんだ。だから、わたしはないちゃだめなんだ。だから、わたしはなくのをやめたんだ。わたしは、つよくなろうときめたんだ。
「みさおっ!」
 強い声を聞いた。私の体を抱きしめる、その腕の温かさを感じた。私の体を抱きしめる、その心臓の鼓動を聞いた。お兄ちゃんがそばにいる。お兄ちゃんが心配している。だから、私は。
「だ、大丈夫、大丈夫だよ、お兄ちゃん、わたし、泣いてなんかないんだから、ぜんぜん、へいきなんだから」
 そう言う私のその声は、けれども涙で震えていた。それじゃあだめだと思っても、震えも涙も止まってくれない。
 しぼりだすように、私は言葉を続ける。
「だから、心配しないでいいんだから。お兄ちゃんまで泣いちゃ、だめなんだから、だから、」
 言葉を紡ぐ私の体を、しかしお兄ちゃんはぎゅっと抱きしめ、耳元で囁くように、私に言った。
「……いいから。無理しなくていいから。ごめんな。俺は、お前のことを強いやつだと思ってた。お前があんまりしっかりしてるように見えたから、俺なんかより、ずっと強いやつだと思ってたんだ。だけど、そうだよな。お前の体は、こんなにも、ちっちゃいんだから。強いだけじゃ、ないんだよな。だから、無理しなくていいんだ。お前は、みさおは、ぼくの、」
 やさしい声で、私に言った。
「――俺の前でなら、いくらだって、泣いてくれていいんだから」
 そう、言ってくれた。
 その言葉は、私の心の堰を壊した。
 顔を上げる。いつの間にか光は取り戻されていて、すぐ近くにはお兄ちゃんの顔が見えた。いじわるで、大雑把で、変なことばっかりしてる、
 私の、大好きなお兄ちゃんの顔が、見えた。
 そして、その胸の中で、私は。
 久しぶりに、何も考えずに、大声で、ただひたすら、泣いた。
 その暖かさの中で、ずっと、泣いていた。

 それはどれくらいの時間だっただろう。ひどく長かったような気がするけれど、もしかしたら数分足らずのことだったかもしれない。ともあれ、泣くのも結構疲れるもので、いい加減涙も流れなくなった私は、まだ少ししゃがれた声で、お兄ちゃんに言った。
「……ありがと、お兄ちゃん」
「ああ。落ちついたか?」
「うん。あーあ、これでも学校じゃクールなみさおちゃんで通ってるのに、みっともないよね」
「いや、そんなことはないだろ。お前クールじゃないし」
「否定するのそっちかよう……なんてね。あはは」
 笑う。それは元気さが足らないものだったけど、でも確かに私は笑えていた。
 ……と、そこまではいいのだけれど。
「にしてもだな、みさお」
「え?」
「お前、ちょっと見ただけでは判らなかったが、ちったあ成長しているのだな」
「え? え? え?」
「うむうむ。成長期とはいいものだ。しかしだな、このぱんつはいただけないな。いや個人的には悪くないと思うのだが、『こっとん100パーセント』かつ『ややぶかぶか』かつ『かめれおんさんのバックプリント』など、まさしくお子様そのもので、一部の人は喜ぶかもしれんが色気に関しては皆無ではないか」
「え? え?……あーっっっ」
 ワンテンポ遅れて、私はそのことに気付いた。
 私は、お風呂に入ろうとしていたのだ。
 私は、服をほとんど脱いでいたのだ。
 つまり。
 ……私は、裸で、兄と抱き合っていたのだ。
 それは、なんていうか、
 無茶苦茶、恥ずかしい状況ではないか。
「わ、わ、わーっっっ。こここここここーへーっ、なにしてるんだよーっ。はやくはなれろーっ」
「む? しかしお前の二つの腕は、この兄を確かに抱擁して離さないじゃないか。これはアレか? 『口ではそんなこと言っても体は素直』という状態か?」
「んなわけないでしょばかーっ。さっさと離れてここから出てけこのすけべーっ」
「そんな人聞きの悪いこというな。さすがの俺とて、何年か前まで一緒に風呂にも入っていたような妹相手に劣情したりはせんぞ」
「『何年も前』でしょーっ! それに劣情なんかしやがったら、切り落としてやるんだからーっ!」
「うわ、お前、そんな下品かつ怖すぎること言うなっ。ちょっと本気で怯えたぞっ。お前にはちょっと口の聞き方というものを教えてやらんといけない、」
 と。
 兄が、そこまで言ったところで、脱衣所の扉辺りで、ばさりという何かが落ちるような音がした。
 私と、兄は、そちらを見た。
 そこには。
 長森さんがいて。
 その足元に、コンビニの袋が落ちていて。
 その顔はなんだか「見てはいけないものを見てしまった」という風で。
 その視線の先には、私たちが……ほぼ裸の私と、それを抱きしめている兄がいるわけで。
 この状況を四字熟語で表すなら「絶体絶命」だろうか。「問答無用」でも「現行犯逮捕」でもいいかもしれない。や、最後のは五文字だけど。
 ともかく、まあ、そんな状況なわけで。
「……ご、ごめんっ。わたし、二人がそんな関係だなんて知らなくて……」
 と、長森さんは言いやがってくれた。
「でも安心して。このことは誰にも言わないし、わたしも見なかったことにするから。うん、そうだよね。『好き』って気持ちは、いつだれに生まれるか判らないもんね。じゃあわたしはもう行くから……ごゆっくりっ!」
 そう言って、長森さんはその場から走り去った。
 一つ、長森さんの印象に付け加えたいことがある。
 この人、ひょっとして兄に似てるんではなかろうか。
 いや、そんなことを考えている場合じゃなくて。
「こーへーっ、そんなぼーっとしてないでっ」
「おう?」
「だーかーらっ、長森さんなんか壮絶かつお約束な誤解しちゃってるでしょっ。追いかけて捕まえてなんかこう舌先三寸でうまいこと御魔化してっ」
「む、むう……」
「はやくっ」
「わ、判ったっ」
 私の指示に従い、弾かれるように兄は走りだした。
 そして、あとには私一人。
 ……まあ、とりあえず。
「お風呂はいろ」
 呟き、私はさっさとぱんつを脱いでお風呂場へと向かった。
 やれやれ。ちょっといい雰囲気だったんだけど、やっぱり最後までそんな風にはいってくれないらしい。
 だけど。
 ――お兄ちゃんの言葉は、嬉しかった。それだけは、確かなことだ。
「……ありがとね、お兄ちゃん」
 聞こえるはずのない呟きをして、私はお風呂場に入った。
 さて、何はともあれシャワーを浴びますか。

 それは古来より現在にまで伝わる、とてもとても由緒正しき、オンナのコのみが遣えるサイキョウのマホウのヒトツであると言う。

「ういーっスみさぽんっ。今日も元気かねーってキサマは誰だーっ」
「失礼なことを言わないの。私よ。わーたーしっ」
「むう、しかし私のみさぽんはそのような短い髪ではなかったハズ……」
「切ったのよ。単純に。似合う?」
「むむむ、まあ似合うっちゃ似合いますな。つか萌え」
「萌えるな」
 それは次の日の、なんでもない学校の朝。
 前の日よりもちょっと軽い頭でもって登校した私に対し、悪友からのそんな声がかけられた。
 そう言うわけで、私は髪を切った。理由としては色々だけど、確実なのは気分転換だ。
 やっぱり、日本人はカタチから入るものであるし。
 この髪が元の長さに戻るくらいまでには、ちょっとは前に進めているようにと。
 そんな、決意表明というか願掛けとしての意味もある。
「やー、しかしなんの前振りも伏線もないからびっくりしちゃいましたよ」
「別にあんたに対して伏線はる必要もないでしょ。それよりもさ、ちょっと聞きたいことがあるんだけど」
「はいはい。私に答えられることでしたら、なんなりとどーぞっ」
「うん。ちょいと恋文のしたため方など教えてくれない?」
「……そいつはまたエキセントリックなことをお訊きになりますね。なんですか? もしや密かに思いを寄せるお人にその切ない胸のウチを打ち明けたりするのですか?」
「そりゃ恋文書くからにはそうに決まってるでしょ。なんかこう、ぐっ、と来る殺し文句とか教えてくれない?」
「そりゃ構わないですけれど、それはそれとして相手はどなた? もしや愛しのお兄様?」
「んなわけないでしょーが……ま、同じくらいヘンなヒトではあるかもね」
「ほうほう。『あの』折原浩平に並びうるほどの変人となると、なかなか数が限られますな」
「『あの』を強調しないように。とにかくそれはヒミツのミステリーよ。恋は心に秘めるものよ。判ったらさっさと教えなさい」
「へーい。でも、ヒントくらい教えてくれない? 私の知ってるやつ?」
「ん。そーね。おはようからおやすみまで知ってるかもね」
「わ、またミステリアスなヒントを下さいましたわね。それが叙述トリックにおける重大なヒントなわけなわけ? んーん。でも判んないからそのときを楽しみにしています」
「そーしなさい」
 そんな風に、日課のごときバカ会話は過ぎていった。
 ふと、思う。
 昨日は否定したのだが、やっぱり私も兄に似ているのかもしれない。
 ま、今となっては、それもまたいいかもしれない。
 ん、と背伸びして欠伸をひとつ。昨日の雨が嘘のように、窓から外を眺めたならば、今日の空は晴れ渡っている。そのどこか下にいるだろう、兄のことを考える。今頃兄もこうして学校の教室にいるのだろうか。もしかしたら遅刻しかけて走っているのだろうか。たぶん後者だな、となんとなく思う。教室のざわめきが聞こえる。開いた窓から風が吹く。
 ――つらいことや、いたいことも多いけど。
 やっぱり、私は、なんだかんだで幸せらしい。
 それでは、ま。
 色々と、がんばってみましょうか。

flipflop B+「たとえあなたと離れても」fin.