そして、はじめての夏。

「ゆーいちー!」

 そう叫ぶのと、俺の部屋のドアが勢いよく開くのと、どちらが早かっただろうか。
 ともかく、俺の部屋に真琴が乱入してきた。
 そして、入ってくるなり、

「あうーっ、こっちも暑ーい!」

 と騒ぎ立てた。その声だけで、部屋の温度が3度は上がったような気がする。

「あー、うるせー、静かにしろー」

 俺は、ベッドに横たわったまま、無気力にそう言う。

「祐一……なんでこんな部屋に寝てられるの? 暑くないの?」
「暑いぞ」

 確かに、寝ているには暑すぎるほど暑い。
 どちらかというと、あまりの暑さに力尽きて起きられなくなっている、という方が正しい。
 しかし、この暑さはどうしたことだ?
 冬も大概寒かったが、しかし、それでも「まあ、その分夏涼しいだろう」と思っていた。
 こっちに引っ越してきて、ほとんどそれだけを頼りに今まで生きてきたというのに、その夏は。
 無茶苦茶、暑かった。

「真琴、こんなに暑いのははじめてよぅ」
「名雪や秋子さんも、こんなに暑いのははじめてだって言ってたなあ」

 その名雪も秋子さんも、今はこの家にいない。
 名雪は部活で学校に行ってるし、秋子さんは「夏場は、色々忙しいから……」と、なにやら意味深なことを言って出かけてしまった。
 よって、今この家には俺と真琴しかいないわけだ。

「にしても、こんな時に限ってクーラーが故障しちまうんだからなあ」
「あうー……」

 夕方になれば多少マシになるが、あいにく今はまだ真昼間。
 太陽も、俺達になんか恨みでもあるのかといいたくなるぐらい一生懸命働いている。

「このままここで寝ていたら、脱水症状で死ねそうだな」
「ゆーいちー、かき氷作ってー」
「自分で作れそんぐらい」

 などと言いながら、俺は気合を入れてベッドから降りる。
 汗を吸ったシャツがべたべたして気持ちが悪い。
 まあ、下に行けば扇風機ぐらいあるだろうし。
 普段なら、とんとんとんっ、であるはずの廊下歩きSEを、べたべたべたっ、にしながら、俺達は下の階へと降りていく。
 降りたはいいが、そっちも暑かった。

「あちいなー」

 俺は扇風機のスイッチを入れる。
 風はいまいちぬるいが、つけないよりはずっといい。
 と、真琴の姿が見えない。

「真琴ー?」
「あうーっ?」

 声は、台所のほうから聞こえた。
 さっそく、冷蔵庫から何か漁ろうとしているらしい。
 俺も、そっちのほうへと歩いていきながら、

「なんかあったか?」

 と聞くと、

「かき氷のシロップが切れてる……」

 と、心底残念そうに言った。

「そりゃ、お前がばかすか食ってっからだろ」
「そんなこと、ないわよぅ」

 わめく真琴の後ろから冷蔵庫の中を見てみるが、運悪くめぼしいものは無い。
 仕方なく、氷と麦茶を取り出す。

「これでも飲んでっか」
「うん」

 居間に戻り、扇風機の前に行き、二人して麦茶を飲む。
 真琴は、テーブルにぐでー、突っ伏し、時々麦茶を飲んで、またぐでー、となる。
 なんか、水を飲む変な鳥(名前は忘れた)みたいでこれはこれで面白い。
 ぐでー。ごくごく。ぐでー。ごくごく。ぐでー。ぐでー。ぐでー……。
 と、真琴がぐでー、としたまま動かなくなった。

「真琴?」

 呼んでみるが、返事は無い。

「真琴!?」

 まさか、暑さで気を失ってしまったのか?

「おーい」

 目の前で手をひらひらと振ってみるが、返事は無い。
 とたんに、心配になった。

「真琴っ!」

 肩に手をかける。
 すると、

「なによぅ」

 と、目を半開きにして答えた。

「お前……起きてんなら返事ぐらいしろよ」
「暑さで気を失ってたのよぅ」

 む、マジでそうだったのか。
 ではなくて。

「まったく、心配かけさせんなよ」
「心配してくれたんだ」
「いや、まあ、そりゃ、なんつーか」

 なにせ、真琴に関しては前科(つーかなんつーか)があるからな。

「大丈夫。真琴は、もう、どこにも行かないから」
「……ああ」

 真琴の目が、一瞬真剣になった。
 ……が、体はだれたままだった。

「その体勢で行っても決まらないけどな」
「だって暑いんだもん……むー。祐一の手、暑いから離してっ」

 むう、確かに、くっついてたら余計暑いからな。
 俺は素直に手を離す。と、突然真琴は身を立てなおした。

「どうした?」
「いい事思いついたっ。祐一、美汐呼んでっ」
「ん?」

 なんだかわからないが、真琴は妙に興奮している。
 まるで、なにかとてつもないことに気がついたかのようだ。

「いいから、美汐に電話してっ」
「つってもなあ」

 真琴が天野を呼んで何をしようというのかまではわからないものの、

「さすがに、この炎天下で呼びつけるっつーのは、ちと天野に悪いんじゃないのか?」
「あ」

 今まで何かに勝ち誇っていたような顔をしていた真琴が、急にしょぼん、とした顔になる。

「そうだよね……美汐も、暑いもんね」

 さすがの真琴も、天野に対して無茶な行動はとれない。
 真琴がこう接するのは、他には秋子さんぐらいのものだから、やはり年の功という奴なのだろう。
 いや、天野は俺よりも年下だが。
 とかなんとか考えていると、ぴんぽーん、と玄関でチャイムが鳴った。

「……誰だ? この暑い中」
「誰だろーね?」
「真琴。行け」
「いやよう」
「……じゃんけんで決めよう。最初はぐっ」
「わ、ちょ、ちょっと待ってぇ」

 じゃんけんの結果、俺が玄関へ出ることになった。
 俺はしぶしぶ玄関へと歩いていく。

「ほーい。今開けるます」

 扉を開く。そこにいるのは……天野だった。

「噂をすれば影か」
「……なんですか、人の顔を見るなり」
「いやまあ、とりあえず上がるか」
「はい。お邪魔させてもらいます」

 天野は靴を脱ぎ、玄関を上がる。
 すると、話を聞いたのか、真琴がやってきた。

「あー、美汐だーっ」

 そして、天野にひしっ、と抱きつく。
 ……暑そうだな。

「真琴。何やってんだ?」
「美汐、体温が低いから、ひんやりして気持ちいいのよ」
「……まあ」

 老人は体温が低いからな、と言おうとして……まだ命は惜しいから言わずに置いた。

「ところで、なんで天野はウチに来たんだ?」
「ええ……」

 ひっついている真琴が暑いようだが、真琴相手に邪険にすることも出来ず、ただ俺の質問に答える。

「何か……私の悪口を言っているような気がしたものですから」
「いや、別に誰もそんなこと言ってはいないぞ」

 俺はちょっと考えたがな。

「……まあ、それは冗談として、ちょっと近くを通りがかったものですから」
「そか」

 真琴が戻ってきてからと言うもの、天野はちょくちょく俺達の所に遊びにくるようになっていた。
 本人の話だと、他にも友達が出来たりしているらしい。
 ただ「最近の人達の会話についていくのは、大変です」とも言っていて、そこらへんも天野らしいが。
 それはさておき。

「しかし真琴。そんなに天野は冷たいのか?」

 さすがに、そこまで冷たいとは思えないのだが。
 天野だって、血の通った人間であるし。

「冷たいよー」
「私は……ちょっと暑いです」
「あ、美汐、ごめん」
「いえ……大丈夫です」

 謝っておきながらなお離れないあたり、真琴はそうとう気に入っているらしい。
 反面、天野は暑そうだ。

「真琴は体温高いからなー」

 子供だからかな?。

「あう? なんで祐一がそんなこと知ってるのよぅっ」
「相沢さん? どういうことですか?」
「え?」

 ……しまったっ、失言だったか。

「いや、その、なんつーか」

 身をもって確かめたというか。
 いや、そうでなく。

「……相沢さん?」

 う、天野の目線が冷たい。
 やったぜ。これで俺も涼める。
 ではなく。

「いや、その、なんだ。まーそれはともかくっ」
「ともかく、じゃありません」
「いやまあ、いいってことよ」
「なんだかわかりませんが……まあ、とりあえず、この話は後で」

 ぐ。無かったことにはしてくれないのか。
 ともあれ、眼前の危機からは脱出できたのだが……。

「それにしても……本当に真琴は涼しそうだな」
「涼しいよ」
「……そうなのか」

 それほどまでに涼しいのだろうか。
 そのような涼しさを、真琴だけに味わせておいて、よいものだろうか。
 よくはないだろう。
 てんで、

「どれ」

 俺も、ちょいっと天野のほっぺたに手のひらを当ててみた。

「あっ」
「ふむ」

 む。確かに冷たい。
 さすがだ天野。なんか低血圧そうだしな。
 が、しかし。

「あう?」

 と一声上げ、真琴は天野から離れた。

「どうした、真琴?」
「……美汐、温かくなっちゃったよぅ。祐一、変なことしたでしょ?」
「え?」

 見ると……。
 天野の顔は、ちょっと赤くなっていたりして。
 って、俺が手を触れたからか?

「あ、わりぃ」慌てて手を離す。
「いえ……大丈夫です」

 と言いながら、天野は少し顔をそらす。
 ……。
 二人とも黙り込んでしまう。
 なんか、非常に気まずい。
 そんな感じで、ちょっとばかり黙っていたのだが、

「あうーっ!」

 真琴が、本日何回目かの叫びを上げた。

「暑いんだってばー!」

 いや、それはもう言わずともわかる。

「もーいい。真琴は、街に出る」
「……出てどうする?」
「どうするのですか?」
「街に出て、体温の低そうな人を見つけるの。で、ひっつく。そうすれば、涼めるの」
「いや、素直にクーラーのきいてそうな店にでも入れば良いんじゃ……」

 俺としてはきわめて真っ当なことを言ったつもりだが、真琴はすでにやる気だ。

「よーし! ぴろー!」

 と、この家に住む猫の名を呼ぶ。
 たったったっ、と、どこからかぴろがやってきた。
 そしてがしっ、と真琴の頭の上のへと乗っかる。
 そこがぴろの定位置だからだ。
 ……いや、それ暑そうだぞ。

「それじゃあ、ごー!」

 拳を振り上げ、真琴は外へと出ていった。
 元気なんじゃねーか。

「元気だなあ」
「そうですね」
「俺たちも着いてくか」
「そうですね」
「やれやれ」

 外は暑そうだ。
 まあ、それもいいだろう。
 なんにせよ、真琴が元気なら、それが一番だしな。

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