『ファミリーゲーム』

 少し、緊張している。
 ちゃんと、上手くやれるだろうか。
 なにしろ、この日のために五年間も費やしてきたのだ。もしつまらないミスでも犯してしまったなら、その後一生後悔することになるだろう。幸いなのは、もし上手く出来なかった場合、『一生』が極めて短いもので済むことか。
 地図を見る。辺りを見まわす。自分の位置を確認する。
 本当はもう地図などいらない。ここまでくれば、彼の位置はそれこそ手に取るように判る。彼が自分の居場所を隠しているのなら別だが、どうやらそういうつもりもないらしい。少し安心する。とはいえ、それでも地図を見る。万が一にでも、道に迷ってしまうなどと言うことになってしまったら、恥ずかしくて仕方ない。
 胸に手を当てる。心臓が少し速く脈打つのを感じる。落ち着け、と自分に言い聞かす。平常心が大切だ。
 歩みを進める。また一つ、扉をくぐる。迷路のように入り組んでいる上に崩れかけたその建物は、とても人が住んでいるようには思えない。最も、彼のように人目を忍ぶ必要のある犯罪者にとっては、こういった建物の方が相応しいのかもしれない。
 犯罪者。そう、彼は罪を犯した。その頃はまだ、自分は産まれていなかったので詳しくは知らないが、何人もの人を殺し、女を犯し、最後には自分の同族に殺されかけ、死にかけ、しかし逃れここに辿りついたのだという。
 当時のことは、母に伝え聞かされてきた。多分、人の――正確には、彼の――殺し方と同じ程度には、聞かされてきたと思う。数枚残っていたという犯行現場の写真も見せてもらった。すばらしい破壊だった。自分は、ああも人を壊すことができるだろうか。少し難しいかもしれない。何分自分には力が足らない。それは彼に会うにあたっての不安材料でもあったが、それを補うための道具も与えられてきた。
 そこまで考えて、思う。忘れ物は無かったっけ? 少し不安になる。なにしろ本番になってから「あれが無かった」では済まされない。気になりだすと止まらない。仕方なく肩にかけていた、私がまるごと入ってしまいそうに大きな鞄を開き、中を調べる。一分ほどかけて、やはり何も忘れていないことを確認する。そうだ。出かけるときに、ちゃんと何度も確認したじゃないか。
 ああ、やはり緊張している。
 こんなことで、本当に大丈夫だろうか。ことが始まってしまいさえすれば、あとは体が覚えていることもあるし、どうにでもなるだろう。問題はその前だ。焦って、変なことを言ってしまったりしないだろうか。
 そうだな、と考える。そのときのために、少し台詞を考えておいたほうがいいかもしれない。例えば、どんなのがいいだろう。はじめまして、は少し軽すぎる。何も言わずにいるのは、さすがに無作法というものだろう。ちょっと、悩む。
 ええと。
 それに、彼のことはなんて呼べばよいだろう。名前は知っているが、いきなり呼び捨てにするのもなんだし、一応初対面なわけだから、馴れ馴れし過ぎるのはよくないだろう。さん付け程度でいいだろうか。多少他人行儀だが、まあ仕方ないだろう。
 そんなことを考えているうちに、すでにあと扉一枚、という場所まで辿りついてしまった。
 感覚で判る。この扉の向こうに彼が居る。そして。
 私を、待っている。
 鞄を背負いなおし、扉に手をかけ、深呼吸を一つ。心を落ち着けさせ、最後に、最初に言うべき言葉を口の中で小さく呟く。

「はじめまして。柳川裕也さん。
 ――あなたを、殺します」

 そして、扉を開く。
 扉の向こうに、彼がいた。
 彼はこちらを見て、にこり、と笑いながら、言った。

「君か」


 朽ちかけた建物の中に男が一人いる。
 瓦礫に腰をおろし、その訪問者を見つめる。

「君か」
「ええ。元気そうね」
「ああ。この体も厄介なものでな。死のうと思っても、一向に死んでくれない」
「そう。大変ね。あなたの中の『鬼』さんは、今どうしているの?」
「奴は消えた。少なくとも、あれから一度も出てきてはいない。大方自分よりも強い奴に出会ったショックで引っ込んでしまったんだろう」
「ふうん。あれだけのことをして、随分と小心者なのね」
「まったくだ……それで、今日はなんのようだ? 俺の場所をつきつめて、あいつらにでも売るつもりか?」
「まさか。確かに柏木の連中は逃げ出したあなたを探しているようだけれど、私にはそれに協力する義理もないわ」
「なるほど。やるなら自分の手で、と言ったところか。正直、君にだったら、殺されても構わないと思っている。出来るのならね」
「それは私もそうしたいけど、ちょっと無理。でもね、やり方を見つけたの」
「やり方?」
「ええ。あなたの殺し方。あなたを、殺してくれる人を、見つけたの」

 そう言って、女は、自分の腹を押さえた。

 母の言葉を思いだす。
 彼は、すでに定常的に鬼であるという。
 鬼。ある地方に伝わる、昔話の怪物。それは昔話の中にとどまらず、現在にもその血を引くものが存在するという。
 その生きる証拠が、彼であり、自分だ。
 鬼は普通の人間よりも遥かに力が強い。が、その力は常に発揮できるわけではない。
 鬼の血を引いているとはいえ、それは本来のものと比べれば格段に薄く、平時は人として活動する。通常はそうだ。
 だが、彼は違う。
 それは隙をついて殺すことができないという点では優れていると言えるが、勿論体にかかる負担は大きい。間違いなく寿命は縮む上、力も段々と衰えていく。
 今目の前にいる彼は、最も強かったときと比べ、力自体は落ちているはずだ。
 それでも、勝てるかどうかは判らない。
 それでも、やらないわけにはいかない。
 鞄を床に置く。瓦礫に腰かける彼に、ゆっくりと近づいていく。彼を殺す。それが、今の私の目的だ。
 けれども、それと同じぐらいに。
 私は、彼のことが知りたい。
 体勢を落とす。顔が地面に着こうかというまで体が崩れ、そこから一気に加速。流れ行く視界のその先に彼がいる。近づく。走りながら右手で小さな瓦礫を一つ拾い、それを投げつける。受けるか、避けるか。どちらにせよ、その動作で出来た隙に、
 彼は何もしなかった。
 私が投げつけた瓦礫を平然と額で受け止める。瓦礫が砕け、破片が飛び散り、しかし彼は動じない。そのまま手を伸ばし、迫り行く私の頭をそっと触る。頭部に彼の指の感触。みしり、と骨が軋む音が僅かに聞こえる。背筋にぞわり、という寒気を覚える。潰される。逃げろ。全身に指令を出し、とっさに姿勢を変える。地面に着けた足の指が方向転換するための力を溜める時間すらもどかしく感じる。永遠とも思える一瞬を終え、私はなんとか後ろに跳ね、距離を取る。立ち上がり、再び彼を見据える。
 危なかった、と思う。
 あと僅かでもああしていたら、私の頭蓋骨は潰されていただろう。私の身体能力は常人よりも優れているが、破損に対する耐性はさほど変わらない。そんなことになったら、即死とはいかずとも、戦闘を続行できるとは思えない。
 酷くうるさい音が聞こえる。何かと思ったら、自分の呼吸音だった。たったこれだけの動作で、こんなにも呼吸が乱れている。まったく、こんなことで本当にこの先大丈夫なのだろうか。
 それは不安だったが、一つ、安心したこともある。
 彼は、強い。
 それは、とても嬉しいことだ。
 自分が殺すべき対象が、自分が生まれ生きている原因が、あっけないものであったら、それはとても悲しいことだろうから。
 気持ちが高揚していくのが判る。
 彼は強い。
 その彼を、自分は殺す。
 それは、どんな気持ちがするものなのだろう。
 未だ知らぬ感情を前にして、私の胸は高鳴った。
 さて。
 どうやって、殺したものだろう?
 素手ではおそらく無理だろう。ある程度予測していたが、先程の接触で確信した。彼の体を壊すだけの破壊力を、私は作りだすことが出来ない。当たらない攻撃に意味は無く、当たっても効かない攻撃にはさらに意味が無い。ならば、自分の能力を拡張してやるしかないだろう。
 ゆっくりと後ずさり、先程床に置いた鞄に手を伸ばす。
 そしてその中から、一振りの刀を取り出す。
 銘も飾りも無い、鉄の塊と言ったほうが正しいような、無骨な代物。
 母に渡された、彼を殺すための武器。
 それを見て、彼はほお、と嘆息をつき、続いて呟く。

「なるほど。『エルクゥ殺し』か」

「『エルクゥ殺し』……か」
「ええ。あの事件のあと、私は自分を襲ったあれがなんなのかを調べてみた。まあ一種の代償行為ね。自分が負った傷を、何か有意義に思える行動を取ることで忘れようという。調べてみると結構判るものね。知ってる? 鬼の末裔が、この現代日本にどれだけ生き残っているか」
「まあ……俺が思っているよりも、多いだろうな」
「ええ。とはいえ、柏木の連中やあなたほど血を色濃く受け継いだ家系は見つからなかったけどね。ちょっと苦労したけど、一年もしないうちにかなりのことを知ることが出来た。エルクゥ。地球外からやってきた、異星の狩猟者。もし、自分があんな目にあわなかったら、とても信じようとは思わなかったでしょうね」
「だろうな。まさに御伽話かSFの世界だ。俺とて、自分がこんな血を引いていなかったのなら、信じもしなかっただろう」
「してみると、私達は互いに被害者なのよね。悪いのは大昔の鬼のせい。その血をしつこくも現在まで絶やさなかった柏木のせい。最も、今の私はどちらも恨むつもりもないけれど」
「随分と達観したものだな」
「色々あって強くなったのよ。単に何かが壊れただけかもしれないけどね。とにかく、私は鬼――エルクゥについて調べたそして、知ったの。狩猟者たる彼らが、自らの中に産まれた異端を排除するために作ったシステム。わずかな伝承として残された、処刑者の存在。その者達が使う、対エルクゥ用の武器」

 女はそこで言葉を止める。
 そして、優しいとさえ言える声色で、宣告する。

「私はエルクゥ殺しをつくる。あなたも、柏木も、この地上に残るすべての鬼を、その子に殺してもらう。
 ――それが、私の復讐よ」

 刀を構える。
 これで、私は彼を殺す手段を得た。
 が、それだけだ。戦況で言えば、自分がまだ不利だと思う。
 色々準備してきたけれど、これ以外は使わないことにしておく。さっきの接触で、彼の実力は少し判った。持ってきた中で一番強いこれ以外を使っても、たぶん体力の無駄遣いになるだけだろうし。
 さて。
 刀を下段に構え、ゆっくりと歩み寄る。
 最初の一撃が重要だ。彼と私の実力差を考えるに、その一撃が不発に終わったならば、次の瞬間、おそらく自分は生きてはいない。
 刀の性能に不安は無い。母に渡されたこの刀は、なんでも自分たちの種族を殺すためのもので、刀身が我らにとって毒となる素材で出来ているらしく、これに斬られたならば、体に毒が周り、強靭な生命力を持つ鬼ですら死に至らしめると言う。
 狙うは心臓近辺。そこに毒をしこめれば、いかな彼とて短時間で殺すことが出来るだろう。
 近づく私を見て、彼は立ち上がり――無造作にこちらに近づいてくる。
 その様には戦意も警戒もない。気楽に近所を散策するかのような歩調。そしてそのまま、口を開く。

「構えが、なかなか堂に入っているな――あの時の子が、大きくなったものだ」

 その言葉を聞いたとき。
 私は、泣きそうになった。
 彼が、私を認めてくれた。
 それは、なんと幸せなことだろう。
 私はずっと、それを望んでいたのだから。
 だが、泣いている暇は無い。まだだ。まだ、私は自分のすべてを彼に見せてはいない。
 よし。
 いけ。
 踏み込む。さきほどよりも、いや今までの人生の中で、一番速く。
 見る。彼の姿を。彼の動きを。刀を通す軌道が白い線として見える。それにあわせ、刀を滑らす。
 斬る。
 斬った。
 そう思った。
 しかし、浅い。
 手応えはあった。床に転がる物体が一つ。それは彼の左腕。しかしこれでは浅い。
 その傷は鬼である彼にとっても軽くは無いだろう。しかし、それだけだ。死に至らしめることは出来ない。
 刀を振りきった私の体は、隙だらけ。
 死んだ。そう思った。
 しかし、そうはならなかった。
 彼は私を殺すはずの右腕で、しかし私を攻撃せずに、ただ私の髪を触れた。
 髪を、そして私の頬を撫でながら、彼は言う。

「あの時の子か……大きくなったな」

 私は体勢を整え、刀を翻し、

「随分と、頑張ったのだろう。動きを見れば判る。そこまで鬼の力を遣えるようになるには大変だったろう?」

 力を溜め、再び彼を殺せるだけの打撃を準備して、

「ああ……それに、そうだ。
 ――母さんに、似ているな」

 次の一撃を彼に振るおうとして。
 頬を触れる彼の手の温もりを感じて。
 瞳から、涙が流れるのを感じながら。
 刀を振るい。

「だが――まだ、甘い」

 彼の言葉を聞く。
 同時。脇腹に衝撃が走る。体が吹き跳び、地面に転がる。激痛。攻撃は左足での蹴り。おそらく肋骨が折、
 負傷を確認している暇は無い。彼は脅威的な速度で私へと近づき、手を伸ばす。痛みを殺して回避。転がりながら距離を取る。喉が熱い。咳をする。吐血する。折れた骨が肺にでも刺さったのだろうか。なんにしてもこのままでは戦えない。少しでも、体力を回復させる必要がある。ならば。
 体を反転。彼に背を向けるのは辛かったが、今は仕方ない。床を転がる刀を回収し、走り出す。振り向く余裕は無いが、彼が追いかけてくる気配も無い。
 それは余裕のあらわれか。それとも、彼にとっても片腕の損失は大きいのか。
 判らないが、とにかく逃げるしかない。
 受けた傷が致命的に広がらないように気をつけつつ、私は走る。
 それにしても――情けない。
 私は、涙を流した。
 闘いの場で、私は、子供のように、泣いたのだ。
 私は、なんて、弱いんだろう。

 強くあろう、と思っていた。
 ずっと、そう思っていた。
 母がそう望んだから。
 私も、それに答えたかったから。
 そして、いつか、彼に会ったとき、私の力を見せたかったから。
 自分が、他の子供たちとはずいぶんと境遇が違っていることは知っていた。
 けれど、それは大きな問題ではなかった。
 自分には母がいたし、日々は穏やかに流れ、いつか来る出会いを楽しみにすることも出来た。
 他の子供達を、片親がいないことで羨望することも特殊な力を持っていることで優越感を抱くこともなかった、と思う。
 ただ。そう、ただ。
 彼がいないことは、やはり、寂しかった。
 寂しかったんだ。
 だから、彼に会うときには、最高の自分を見せたかったのに。
 それなのに。

 痛む体を引きづりながら歩く。
 階段を探しながら、上へ、また上へと。
 ほとんど割れた窓ガラスからは、雨と風が吹きつける。外は暗く、雲は厚く、雨音は他のすべての音をかき消さんばかりだった。
 上へ。
 まだ、手はある。まだ。
 まだ、自分は終わっていない。

 話を終え、女は立ち去ろうとする。
 男は座りこんだまま、その姿を見る。

「それじゃあ。私は帰るわ。いつかこの子が会いに行くと思うから、その時まで、元気でね」
「ああ。そうだな。これで死ぬわけにはいかなくなった」
「そうよ。勝手に死なれたら困るから、気をつけてね」
「……そうだ。ひとつ、聞いていいか?」
「ええ。なに?」
「その子の名前は、なんてつけるんだ?」

 その問いに、女は一瞬あっけに取られたような表情をし――そして、微笑んで。

「そうね。ゆき、にするわ。あなたと、私から、一文字ずつとって」
「そうか……いい名だ」
「ええ」

 そのやり取りを最後に。
 女――相田響子は、その場所から立ち去った。
 後に残されるは鬼一人。
 彼は待つ。自らの子が、自らを殺しに来るのを。

 目を開く。
 少しだけ、眠っていた。
 僅かな時間だが、多少は体力を回復させることができた。呼吸を整え、傷の痛みをやわらげる。
 空からは雨が降り注ぐ。
 上へと向かいつづけ、ついにはここ、建物の屋上までやってきた。
 周囲には障害になるような手すりや金網は一切無い。地上までの距離はかなりある。
 並の人間なら、落下すれば悪くて即死。相当運がよくても、重症は免れないだろう。
 それでも、彼のような鬼にはさして脅威となる高さにはならないだろう。
 それだけならば。
 雨音の中に、微かに足音を聞いた。
 顔を上げる。雨に濡れながら、彼がそこに立っていた。左手は無いが、すでに血は止まっているようだ。

「逃げるのは、もうやめにしたのか?」

 彼が聞いてくる。私はこくり、と小さく肯く。声を出すだけの体力も惜しい。

「そうか。なら――今度は、私から行くとしよう」

 来る。彼の立つ屋上の床に、みしりと亀裂が走る。私は待つ。彼が、来てくれるのを。
 恐ろしいほどの速度で、彼が駆け寄る。私はまだ動かない。
 チャンスは一度。
 それを逃したなら、今度こそ、すべてが終わる。
 彼は手を伸ばす。狙うはまっすぐ私の心臓。負傷は構わない。だが致命傷は避けねばならない。足に力を込め、彼に向かい跳びかかる。彼の攻撃の軌道は変わらないが、私の位置は変わっている。衝撃に備え、刀を握る手に力を込める。
 彼の腕が、私の腹を貫いた。
 先の負傷に倍する痛み。だが、これで気を失うわけにはいかない。彼の左手はすでに無く、彼の右手は私の腹を貫いている。つまり彼にはもう、この距離からの私の攻撃を防ぐことは出来ない。
 そして、私は屋上の縁を背負っていた。
 そして、彼は私に向けて駆けていた。
 この位置で、この速度で、この刀を彼に突き刺す。その負傷、痛みは彼の動きを阻害し、おそらく彼は止まることも出来ずに、私ごとここから落ちる。
 そうすれば、受身を取ることも出来ずに落ちたならば、いかな彼とて、無事ではすまないだろう。
 そう。残るはあと一手。この振り上げた刀を振りおろせば、それで。
 彼は、死ぬ。
 腹を貫かれたまま、最後の力で、刀を振りおろそうとし、
 ふと。
 気付いてしまった。
 私を見る彼の瞳の優しさに。
 私を貫く彼の腕の暖かさに。
 そして、彼を殺してしまったら――
 二度と、それを感じることが出来ないことに。
 それは一瞬の迷い。
 そして、致命的な迷い。
 刀を握る手の力が抜けていく。
 それは痛みによるものか、雨によって滑ったのか。
 それとも、私の迷いによるものか。
 結局、最後まで判らないまま――
 刀は、私の手から滑り落ちた。
 床に当たり、からん、と音を立てる。
 彼は足を使い減速。屋上間近で踏みとどまる。私は腹を貫かれたまま、体は宙に浮かんでいる。
 まただ。
 また、私は迷った。
 私は、強くあれなかった。
 今度こそ、私は死んだんだ。
 私はまた、泣いていたかもしれない。幸いなのは、それは雨に紛れ、彼には見えないことだろう。
 体の力が抜けていく。血が流れすぎているのだろう。私の生命力からして、あとしばらくは生きていられるだろうが……生きていられるだけだ。もし彼がその気になったならば、その瞬間私は死ぬ。
 しかし、彼はそうしない。
 なぜだろう。思う。もしかして、私の弱さに呆れてしまったのだろうか。
 それは、それだけはいやだ。
 せめて最後ぐらいは、格好をつけたい。
 だから、私は。

「殺せ」

 と、呟いた。何分負傷が酷いので上手く喋れるか心配だったが、どうにか聞こえる程度には言えたと思う。

「断る」

 彼は答える。

「お前はまだ強くなれる。俺よりも、柏木よりも、この地上の誰よりも。俺はそれを望んでいる。そうなったお前に殺されることを望んでいる。生きろ。そして強くなれ。そして、」

 彼が腕を引く。私たちの体が接触し、それを引っ掛けにして腹から腕が引き抜かれる。
 一瞬だけ、彼の体の温度を感じ――
 私の体を支えるものは、無くなった。
 浮遊感を覚え、そして、私は落下する。
 最後に。
 雨音に混じって、彼の言葉を、聞いた。

「そしてまた――パパに会いに来ておくれ」

 雨に霞み、それでもその向こうに。
 彼が、微笑んでいたように見えた。

 聞こえたのは雨音と、水溜りに跳ねる足音だった。
 私は生きていた。
 頭をひねって周りを見まわす。
 そこには様々な塵が放棄されていた。私はその中に、半ば埋もれるように寝転がっていた。
 どうやら、これらが落下の衝撃を和らげてくれたらしい。
 ともあれ、私は生きている。
 それを確認したのち、足音の方に向けて、言う。

「負けちゃった」
「ええ。残念だったわね」
「うん」
「パパはどうだった?」
「うん。すごく強かった。それから、」
「それから?」
「すごく、あったかかった」
「そう。よかったわね」
「……でも、負けちゃった」

 それきり、私は黙りこむ。気配が近づき、私を抱き抱える。
 それは、よく知っている匂い。
 母さんの匂い。

「明日からまた、頑張らなくっちゃね」
「うん。頑張る。次はもっと……頑張りたいから」
「ええ。でもまずは、傷を治さなくちゃね」
「うん。ほんとは、すごくいたい。でも我慢する」
「うん。強い子ね」

 母に背負われ、私たちは家路につく。
 傷のせいか意識はまどろみ、うとうととしてくる。
 薄れゆく意識の中で、思う。
 彼は強かった。
 とても、とても強かった。
 今回は、私の完全な敗北だった。
 だけど、次は。
 次こそは。
 ――次があるのが、彼にまた遭えるのが、すごく、すごく嬉しかった。
 背負われながら、後ろを振り向く。雨に霞むその場所では、もはや彼の姿を探すことは出来ない。
 それでも、きっと彼は私たちを見ているだろうと、そう願いながら。
 心の中で、呟いた。

 またあおうね、とうさん。

『了』