どうか。
 この子たちの行く先に、いつも暖かな空気がありますように。



 その日は晴れた春の日で、日差しは暖かくて、風はそよそよ吹いていた。
 昼寝するにはいい日だが、さすがに進級して間もないこの時期から寝るわけにもいかず、あくびをかみ殺しながら授業を受けている。
 そんな、なんでもないような日だった。
 
 授業が終わり、放課後。
 座っていたせいで固まった体を伸ばしていると、教室の端の方に、なにやら人だかりができてるのが見えた。
 少し気になったので、近くの席のやつに聞いてみる。

「なんだありゃ?」
「さあ? 行ってみりゃわかんじゃねーの」
「そりゃそうだな」

 どうせ教室をでるにはその近くを通らなければならない。
 俺は、鞄を持ちそちらへと歩いていった。
 人ごみの中を覗くと、そこにいるのは一匹の猫。

「ぴろ?」
「あ、祐一。ぴろが学校に来ちゃったよ」
「なんでまた」

 それは、うちで飼っている(と、言うか勝手に住みついている)猫のぴろだった。
 クラスの猫好き連中に文字通り猫かわいがりされているのを、猫アレルギーで近づけない名雪がうらやましそうに見ている、と言った感じらしい。

「この子、水瀬さんと相沢くんちの猫?」
「ああ、まあ、そうだが」
「へー、可愛いね」
「ああ、そりゃどうも」

 しかし、ここから俺たちの家まで、猫の足だとかなりかかると思うのだが。
 このぐうたら猫が、なんでわざわざそんなことを。
 などと思っていると、こちらを確認したらしいぴろが、そのとき抱かれていた女子の腕から脱出し、こちらへと飛びついてきた。

「うおっ。びっくりするじゃねーか」
「あっ、相沢くん、今私の番なのにっ」
「次俺だぞ」

 どうもこのクラスは猫好きが多いらしく、ぴろを抱く順番まですでに決められていたようだ。
 猫好きの執念はすさまじい。周囲の連中は、こちらに飛びかかって来かねない勢いだ。
 なんとかして誤魔化さねば。

「すまんが、この猫は人見知りするたちなんだ。これ以上は勘弁してやってくれ」
「え? そうなの?」

 などと口からでまかせを言い、集まる大衆を追い払う。
 ぴろは俺の手の中でぐったりとしている。
 どうもマナーの悪い猫好きが多いようだ。大変なげかわしい。

「なんとか落ちついたね、祐一」
「そうだな。しかし、」

 手元の猫を見て、

「お前、なんだってこんなところまで来たんだ?」

 と聞いてみる。
 ぴろはその、あるんだか無いんだかわからないような目でこっちを見て一声。

「うにゃん」

 と鳴いた。
 大体、それでわかった。

「そっか」
「祐一どうしたの? ぴろが何か言ったの」
「ああ。春だなあ、ってな」
「祐一、猫の言葉なんてわかんないでしょ?」

 名雪は疑いのまなざしをする。

「いや、実は俺は猫道の免許皆伝でもあるんだ。当然、猫の言葉だってわかる」
「え? 本当?」
「本当だ」
「いいなぁ」

 名雪は心底うらやましそうにこっちを見る。

「今度教えてよ」
「猫道は厳しいぞ」
「うん、がんばるよ」

 俺のホラ話を真に受ける名雪。
 もうちょっと、人を疑うことを覚えたほうがいいかもしれない。
 ま、そこが名雪のいいところだが。

「まあ、ともかく行くか」
「うん。今日部活無いから、一緒に帰ろうよ」
「いや、ちょいっと用事がある」
「え?」

 名雪が首をかしげる。

「どこか行くの?」
「ちょっと、人を迎えに行く」
「お迎え? 誰? 私の知っている人?」
「ああ。俺の嫁だ」
「祐一、結婚なんかしてたっけ?」
「実はしてたんだ。驚いたか」
「うん。びっくり」

 名雪の言葉は、相変わらずびっくりしているようには聞こえない。

「それじゃ、帰り遅くなるの?」
「んー。そうだな。まあ、夕飯までには帰ると思うが」
「そ。じゃあ、お母さんに頼んで、お夕飯一人分多く作ってもらうよ」
「そうしてくれると助かる」

 そこで俺は、重要なことを思い出す。

「あ、やっぱり二人分にしといてもらえるか?」
「まだ誰か来るの?」
「ああ。多分な」

 そう。
 もう一人、忘れちゃ行けない人物がいる。
 彼女を呼びに行かなければ。
 俺はぴろを頭の上にのっけて、そこから移動しようとする。
 と、思ったがぐらぐらして安定しない。
 やはり本職のようにはいかないのか。

「うわぁっ、相沢、なんだそのサマはっ。ファンシーにもほどがあるぞっ」
「いいなぁっ、それ、私にもやらせてよっ」

 猫好き連中リターン。
 が、こいつらに構ってると時間が無くなるので俺はさっさと教室から出ていく事にした。
 後ろから聞こえる声は、この際聞かなかったことにする。
 目指すのは2年の教室。
 去年まではこっちに通っていて、進級してからも間違えてこっちに来そうになったこともあったほどだが、こうして来て見ると、なんとなく場違いなところへ来てしまったかのような感覚を覚える。
 これが歳を取るってことだろうか。違うか。
 ともあれ。
 そのうちの一つの教室に近づいていくと、聞き覚えのある声が聞こえてきた。
 教室の中を覗く。するとそこには、知り合い女の子、天野美汐が、クラスメイトらしき女子と話し合いをしているところだった。

「おーい、天野」

 俺は声をかける。
 天野はこちらを振り向き、落ちついた口調で、

「相沢さん。何かご用ですか? あ、ぴろも一緒なのですね」」

 と言った。
 ちなみにぴろは俺の頭の上で必死にバランスを取っている。
 なかなか難しい。

「いやちょっと、な。一緒に帰ろうかと思って」
「はい。それは構いませんが」

 そんな風に俺たちが会話していると、

「天野さん、この3年の人、彼氏?」
「わー、天野さん、やっるー」

 天野と話していた女子が、やたら楽しそうにそんなことを言ってきた。
 しかし、天野は慌てず騒がず、

「違います」

 と言い放つ。
 そこまではっきり言わんでも。

「そーなんだ。ちぇ、つまんないの」
「うー、せっかく浮いた話が聞けると思ったのにー」

 女子はぶーたれているが、そんなことに動じる天野ではない。
 その態度には、なにか年月を経た風格すら感じる。

「相沢さん、何か失礼なことを考えてはいませんか?」
「そんなことはないぞ」
「どうも、あやしいです」

 天野はじっとこちらを見つめる。
 心の奥底まで見透かされそうな気がして、俺は密かに冷や汗をたらす。

「そ、それよりもだな、帰り、なんだが」
「いいですよ。一緒に行きましょう」

 そう言って、天野は歩き出す。
 もう、行き先がわかっているかのように。

「それではみなさん、また明日」
「うん。ばいばーい」
「天野さん、じゃーねー」

 クラスメイトに別れを告げ、天野は教室から出ていく。
 俺も慌ててそれについていく。

「天野ー、待ってくれぃ」
「相沢さん、廊下を走ってはいけませんよ」
「おー、そうだな。すまんすまん」

 そんなこんなで、俺たち二人と一匹は廊下を歩き、昇降口を通りすぎ、校門を経過して学校から出ていく。

「いや、それにしても、お互い進級できてよかったな」
「なんですかいきなり」
「世間話だ」
「そうですか。そうですね。でも、相沢さんはともかく、私は問題ありませんから」
「俺だって別に問題はあるわけじゃないぞ。少なくともこの学校では」
「前の学校ではあったんですか」
「いや」

 俺はあさっての方向に目をそらす。

「まあ、それは昔のことだ」
「なんだかあやしいです」
「ま、まあ、それはそれとして、天野、友達出来たみたいだな」

 その言葉に、天野はちょっとはにかみながら、

「はい」

 と答えた。

「どうだ?」
「はい。みなさんいい人ですよ。ただ、

 ちょっとだけ、曇った顔をする。

「みなさん、何故か私に敬語を使うのです」
「まあ、気持ちはわかるが」

 俺はうんうん、とうなずきながらそう答える。

「どういう意味ですか?」
「いや、一応年上であるはずの、」言葉は途中で遮られ、
「はず、じゃなくて年上でしょう?」
「であるはずの俺でさえ、何か気が引ける所があるからな」
「とてもそうは思えませんけど」
「いやいや。これでも遠慮してるんだ。本気の俺はもっとすごいぞ」
「そうなのですか。一度見てみたいです」

 天野は興味深そうにこっちを見る。
 本気の俺を見てみたい。
 その言葉になにかしらえっちくさい響きを覚えてしまうのは、俺の若さゆえの過ちだろうか。
 さておき。

「相沢さん」
「ん? なんだ?」

 天野に呼びとめられ、その場に止まる。

「買い物をしていきましょう」
「え? ああ、そうだな。そうしよう」

 せっかくだし、な。
 そうして。
 あるだけの肉まんを二人で持って、俺たちは丘へと向かう。
 奇跡が終わり、そしてはじまるあの丘に。



 森を抜けて、丘へと辿り着く。
 春になったとはいえ、まだ少し肌寒い。
 でも、ときおり吹く暖かい風は、やはり春のものだった。
 空を見上げる。
 青く、広い。
 しばらく、そうして空を見ていた。

「ここは、」

 天野が口を開く。
 その顔は、空を見ている俺には見えない。

「静かですね」
「いや、そうでもないさ」

 天野の呟きに、俺は答える。
 風の音が聞こえる。
 風に揺れる草や木々のざわめき。
 耳をすませば、この丘に暮らす生き物たちの声も聞こえてきそうだ。
 こんなにも、世界は音にあふれていただろうか。
 俺は天野の方を見て、

「ここは、賑やかだよ」

 天野は俺を見て、そしてすこしきょとん、とした顔をしてから、

「そうですね。賑やかなところですね。ここは」

 微笑みながら、そう言った。
 ひときわ強い風が吹く。
 口笛のようなその音を聞いて、俺は振り向く。

「お前もそう思うだろう?」

 そこに、少女は立っている。

「な、真琴」

 あのときのままの姿で。
 黙って。
 突っ立って。
 いつか見たような、寂しげな瞳をして。
 もう、そんな目をする必要はないのに。
 みんな、おまえのことを待っているのだから。

「よ、元気か?」

 軽く片手を上げて、俺は真琴に近寄る。
 真琴は、呆然とこちらを見ている。

「肉まんかってきたけど、食うか? まだ暖かいぜ」
「あ、ぅ」

 袋から、肉まんを一つ取り出し、真琴に渡す。
 真琴は少しの間それを見つめた後、ものも言わずに食べ始める。

「どうだ? うまいか? あ、それとな」

 と言って、俺は頭に乗っけていたぴろに合図を送る。
 俺の頭にはすでに愛想がつきていたのか、それとも古巣が懐かしいのか、ぴろはほれぼれするほどの勢いで真琴の頭へと飛び移った。
 なんか「がしっ」とか装着音がするのでは、というほどそれは似合っていた。
 やはりこうでなくては。

「おお、すごい安定感だ。やはりプロは違うな」

 ぴろも、ここが安住の地であると言わんばかりのくつろぎっぷりを見せている。
 そして真琴は。
 肉まんを口に加えたまま、じっと、こちらを見ていた。
 ゆっくりと、近づいてくる。
 すんすん、と何度か鼻を鳴らし。
 そして。
 その目から涙をこぼし。
 顔を、泣き笑いにして。
 持っている肉まんも放り投げて。
 思いっきり、こっちに抱き着いてきた。
 いきおい余って俺は後ろにこける。

「うぉっ、びっくりするじゃねえか」
「……」
「肉まん投げ捨てたりして。食べ物粗末にするなっての」
「……ゆ、」
「ん?」

 絞り出すように。
 名前を呼ぶ。

「祐一ぃっ」

 泣きながら。
 ぎゅっと、俺の服を掴む手に力をこめる。
 頭を俺の胸に押しつけ、小さく震えている。
 俺は、そんな真琴の顔に手をやり、そっと顔を上げさせる。
 俺は、笑いながら、こう言う。

「ばーか。何泣いてんだよ。こんないい日にさ」

 その俺の顔を見て。

「祐一だって、」
「ん?」
「泣いてる、でしょ」

 真琴は、笑う。
 俺が、本当に見たかった、その顔で。

「何言ってんだよ、俺の、これは、ただの花粉症……」

 いつも通りに冗談混じりのごまかしをしようとして。
 止めた。
 こいつの前では、俺ももう少し素直になろうと思うから。

「いや。泣いてる。悪いか?」
「……ううん」
「分かればいい。じゃあ、帰ろう。俺たちの家に」

 俺の言葉に、真琴は少し照れたような、戸惑うような顔をして、でも、飛びきりの笑顔で、うなずく。

「うんっ」

 背後から天野が歩いてくる音が聞こえる。
 日差しは暖かく、風はそよそよと吹いていて、真琴がすぐそばにいる。
 春が、来ていた。



 丘に生い茂る草の影に隠れるように、狐が数匹。
 そのうちの一匹が、じっと、その子供たちを見ていた。
 やがて、他の狐たちに連れられるように、そこから遠ざかっていく。
 最後に、もう一度振り返り、。
 その子が幸せであることを願い。
 彼女は去っていった。