Tranquility

 一面の緑が、風にそよぐ。

 その広く静かな自然公園の中で、川澄舞は寝転がっていた。
 Tシャツにジーンズというラフないでたちで、引き締まった体を無造作に投げ出し、長い髪を地面に広げ、地面に大の字に寝転がっている。その視界の大部分は空の青に占められており、わずかに浮かぶ白い雲と、視界の端に伸びる木々だけが、その中で異彩を放っていた。
 風は少し冷たくて、日差しはなかなか暖かい。地面も少し冷たかったけれど、寝転がっているうちに気にならなくなってきた。
 時計を持っていないので、舞には今の時間が判らない。家を出たのが午前九時ごろで、ここまで着くのに三十分くらいかかったと思うが、それからどれくらいこうしているのか。ちょっと考えてみたが、やはり判らない。
 舞は、倉田佐祐理と相沢祐一との待ち合わせでここに来ていた。
 この場所が誰の家からも大体等距離であるので現地で待ち合わせ、ということになったが、舞はそのとき「それでいい」と言ったことを、少し後悔していた。
 ちょっと、退屈。まあ、二人との約束では、たしか十一時に集合のはずだったから、自分が早く来てしまったのが悪いのだけど。
 だけどまあ、こうして寝転がっているのは悪くない。そよぐ風と照る日差しを受けていると、だんだんと眠くなってくる。体はふかふかとした感じになってきて、まぶたは重く心はうとうととしてくる。昨日は今日のことが楽しみでそわそわしていて、あんまり眠れなかったし。
 でも、我慢。
 眠ったら、だめ。
 もし眠ってしまったら、佐祐理と祐一が来たとき、私のことを見つけられないかもしれない。
 そしたらそのまま、二人で遊んだりお弁当を食べたりしたりするかもしれない。
 佐祐理は多分、そんなことをしようとはしないだろう。でも祐一は判らない。祐一はちょっといじわるだから、それくらいやりかねない。
 そんなのは、いやだ。
 だから、眠らない。
 割合シンプルな思考の持ち主である舞にしては珍しくそう推論し、眠気に対して必死に抵抗する。しかし敵は強く誘惑は強力で、こちらの分はやや悪いと言わざるを得ない。頑張れ、負けるな、立ち向かえ。

 一瞬意識が消えた。

 驚いた。びくっと体を震わせ目を見開く。コンマ何秒か完全に眠っていた。まずい。このままでは明らかにまずい。まずこの体勢がよくない。こんな風に脱力して寝転がっていては、睡魔の奴の思う壺だ。暖かな日差しも吹く風も揺れる草も流れる雲も、すべて奴の味方をしている。なんとかして起き上がらなければ。起き上がって運動のひとつもすれば、奴を打ち倒すことは容易なはずだ。簡単だ。なにせ自分は魔を討つものだ。さあ立ちあがれ。いち、に、さん。
 寝転がったままだった。
 だって、空が青いから。
 こんな強敵には出会ったことが無い。舞はそう思う。夜の学校のあの子たちも強敵ではあったが、この敵とはタイプが違う。直接的な危険こそ無いが、真綿で首を締めるかのような恐ろしさがある。負けたいと思っている自分すらいる。おのれ。どうしたらいいのか。必要なのは援軍だ。助けがいる。誰か敵に塩を送って欲しい。牛丼の差し入れとか欲しい。納豆も嫌いじゃない。ABCD包囲網ってどことどことどことどこだったっけ?
 舞の思考が変になっているのも、多分眠いせいだ。
 脳裏をよぎる敗北の予感。
 負ける。舞がそう覚悟した、その時だった。
 何かがぺろりと、鼻をなめた。
 さっきよりもびくっとした。その時舞は意識を保つのと失うのとの狭間、ちょうどオチかけていた時であったので、衝撃もひとしおだった。眠気が吹き飛ぶ。上半身を起こし、一体何事かと周りを見まわす。
 近くに、仔犬がいた。舞が急に起きあがったせいか、今は少し離れている。
 小さい。毛がふわふわしている。耳がぱたぱたしている。尻尾もぱたぱたしている。目が嬉しそう。口が嬉しそう。前足が嬉しそう。なんだか全身嬉しそう。多分、まだ生まれたばかりだ。どこの子だろう? ああそれにしても、かわいい。とても、かわいい。触りたい。抱きしめたい。
 そっと、手を伸ばす。急にやったら驚かしてしまうだろうから、ゆっくりと、ゆっくりと。
 手が近づいていく。あと十センチ。仔犬が逃げる気配は無い。あと五センチ。鼻を近づけてきた。ちょっと緊張する。さあ、あと、ちょっと――。

「ひしゃまるーっっっ」

 突然、声が鳴り響いた。またびくっとした。知らない声だ。自分よりもかなり年下の女の子の声だったと思う。声のした方を見る。思った通り、まだかなり小さい女の子がいる。そして、その子の方へと走っていく、さっきの仔犬。多分、あの子が飼い主なのだろう。さっきのは多分、仔犬の名前を呼んだのだ。少女と仔犬は歩いていく。その姿が見えなくなるまで、舞はその後ろ姿を目で追う。
 差し出した手が空を掴む。しばらくその体勢のまま止まっていて、ようやくその手を引き戻す。
 あと、ちょっとだったのに。
 晴れ渡る空とは裏腹に、心の中がどんよりと曇る。なんだかひどく寂しくなる。
 佐祐理と祐一は、まだ来ない。
 そう考えると、ますます落ち込む自分に気づく。
 いつから、一人でいることがこんなに辛くなったのだろう。
 考えて、思いつく。
 最初から。
 ずっと、昔からだ。
 実の所自分は、相当寂しがりやなのだろう。
 ため息ひとつ。
 ついでに腹減り。
 空腹は意思の力を削り不感を増大させる。なんだか泣きたくすらなってくる。もういい。もう一回寝転がってしまおうと、座った姿勢から体重を後ろにかけ再び大の字になろうとする。
 そのとき。

「いよー舞。随分早かったんだな」
「あははーっ、舞ー、おまたせーっ」

 本日一番びくっとした。
 倒れかけたためにバランスを崩した体を、両腕をばたばたさせてなんとか立て直し、何事もなかったかのように立ち上がる。そして振り向くと、確かにそこに佐祐理と祐一がいた。何時の間に来たんだろう。ひょっとしたら、今までの一部始終を見られてしまったかもしれない。極力顔には出さないまでも、舞はちょっと、焦る。
 しかし、そんな舞の心配とは裏腹に、祐一は舞の僅かな表情の変化を見取って、何かしら思うところがあったのか、舞に向かって言う。

「あー、舞。ちなみに俺と佐祐理さんはここの入り口あたりで偶然会って、それでここまで一緒に来たんだからな。えーと、別に舞を除け者にして二人で来た訳じゃないからな」
「はい。そうなんですよー」
「……別に、気にしてない」

 舞は答える。
 その口調はいつも通りのそっけなさだが、その裏では自分の失態――寝転がってうとうとしながら時々びくっとしたり、犬になめられてびくっとしたり、犬をなでようとして逃げられたり――を見られていなくて、ほっとしていたりもする。
 ほっとしたら、空腹であることを思いだす。見ると、二人は大きめのバスケットを一つずつ持っている。中からなんだかいい匂いがする。気になる。なのでじっと見る。すると二人はその視線に気付き、

「ん? ああ、これは佐祐理さんが作ってくれた弁当だよ。一人で二つも持ってたから、重そうだったんで片方持ったんだ。俺は二つとも持つっていったんだけど……」
「それは悪いですから、片方だけ持ってもらったんです。舞、気になるんですか?」

 こくん。うなずく。

「じゃあ、ちょっと早いですけど、ご飯にしましょうか。祐一さんも、いいですか?」
「ん。そうだな。そうしますか。んじゃ、準備しようか」
「ん」

 舞はうなずき、三人は一緒に弁当を食べる準備をする。佐祐理は随分と気合をいれて弁当を作ったようで、その量はかなりのもの。バスケットから取りだされていくそれらを見ていると、思わずおなかがぐうとなった。佐祐理の作るお料理は、いつだっておいしそうだと舞は思う。準備が終わったら食事開始。おなかが空いていた舞はひたすら食べ、佐祐理は二人にこれはどうかこれもどうかとおすすめし、祐一はそれが義務であるかのようにことあるごとにボケをかます。
 それはこの三人が出会ってから幾度と無く過ごしてきた、なんでもない、平穏な時間。
 三人が、一番好きな時間。

「そーいえば、舞」
「なに?」
「さっき遠くから見たとき、なんかばたばたしてたみたいだけど、何やってたんだ」

 舞の動きが止まる。見られてた?
 内心動揺が走るが、つとめてそれを表に出さず、ただ一言、答える。

「ん……なんでもない」

 呟き、食事を再開する。少し腑に落ちない祐一も、それにならう。そんな二人を見て、佐祐理が笑っている。
 一面の緑の中に、三人はいた。

『Tranquility/終』