Bad Moon

 月が暗い。
 こんな夜は、外を歩きたくなる。
 目を閉じて、周囲の音に耳をすます。
 聞こえるのは窓の外の、かすかな風の音だけ。
 たぶん今、この家の中で起きているのは私だけ。
 それなら、ちょうどいい。
 布団を体から引き剥がしてベッドから体を起こし、窓に近づいてそれを開く。
 途端に、冷たい空気が差しこんでくる。
 冬の日はもう遠くなってきたけれど、それでも夜はまだ少し寒い。
 息を吐くと、白く濁る。
 クローゼットから上着を取りだして、それとお気に入りのストールを身にまとい、私は音を立てないように部屋の扉を開き、冷たい床を歩いて、静かな玄関から月が照らす外の世界へと出る。
 空を見る。
 雲と、その向こう側にぼやけて見える、白い月。
 その下に広がる、白い世界。
 日の下とはまるで配色の違う世界を見て、月並みだけれど、別世界のようだな、とか思う。
 なんとなく、愉快な気持ちになりながら、白の世界へと歩き出す。
 胸を触る。
 傷は、痛まない。

 いつかの並木道へと辿りつく。
 ここまで歩いているうちに、少し体が暖まってきて、ひんやりとした空気は逆に心地よくなってくる。
 同時に、少し不安にもなってきた。
 考えも無しにここまで来たけれど、こんな夜中に女一人で歩くなんて、明らかに無用心だ。
 不審人物に出くわしたりしたら、ちょっと、困る。
 なんて考えて、でも、こんな夜中に徘徊している私も、十分不審人物かな、と思う。
 なんにしても、物騒なことには違いないから、そろそろ帰ろう。
 そう、あの場所まで行ったなら。

 真夜中だというのに、その公園の噴水はちゃんと動いていた。
 動力が何なのかは知らないけど、誰も見ていないのだから、ちょっと勿体無いかな、と思う。
 だけど、淡い月の光に照らされる水の飛沫はとても綺麗で、そんな考えはどこかへ行った。
 噴水の縁に近づき、手で軽く汚れを払って、そこに座る。
 そうすると聞こえるのは水の音だけになる。
 静かな、白い世界。
 それは、自然と、あのころのことを思い出させる。
 白い壁、白い床、白い天井、白いシーツ、白い私。
 時折廊下から聞こえる、何かが転がる音。誰かの喋り声。
 窓の外から見える、窓の外にしかない、色のある世界。
 左の手首が、じくり、と痛み、私は顔をしかめる。
 そこを見る。
 そこにはもう、傷はない。
 傷は、ないはずなのに。
 
 彼女は、そこにいた。

 ちっちゃくて、痩せていて、辛気臭い顔をして、それでも愛想笑いは忘れずに、諦めたふりをして、それでもほんとは、自分が死ぬなんて思ってなくて、お父さんに、お母さんに、お姉ちゃんに、みんなに迷惑をかけて、それでも、一番ひどいめにあっているのは自分だと思っている。
 私の、大嫌いな、私だ。
 なんで。
 今頃になって。
 あなたが、現れるのか。

「いたいの」彼女は言う。
「なんでわたしだけ?」彼女は呟く。
「おねえちゃんは、あんなにげんきなのに?」うるさい。
「姉妹なのに、ずるいよね」黙れ。
「ほんとは、ずっとそうおもってた」そんなこと、ない。
「きずは、なくなったとおもってる?」あたりまえだ。
「でも、そんなのうそ」……。
「きずは、ずっときえないの。あなたがいきているかぎり。あなたがそれをおぼえているかぎり。だってそうでしょう? このきずは、あなたそのものなんだから。
 ――もしも、そのきずを、なくしたいのなら」
 それなら。

 死ね。

 驚くほど小さいその首に、手をかける。
 そのまま、彼女を押し倒す。
 馬乗りになって、体重をかける。
 親指で喉を押し潰し、人差し指から小指までの四本の指で骨を折る。
 ゆっくりと、彼女の首が折り曲げられていく。
 それでもなお、彼女は身動ぎ一つしない。
 なんでだ。
 納得がいかない。
 なぜ抵抗をしない。なぜ命乞いをしない。なぜ助けを求めない。なぜ痛みを訴えない。なぜ。
 ――生きようと、しない。
 ぽたりと、雫が、零れ落ちた。
 誰かが、泣いている。
 私が、泣いている。
 どっちの私が、泣いている?
 どっちの私も、泣いている。
 首から手を離し、彼女の涙に、そっと触れる。
 その涙は。
 温かい。
 そして、私はその傷を見る。
 彼女の少しはだけた胸元に見える、小さな傷痕。
 私にもある、その傷痕。
 それは、手術の痕。
 手首の傷は、死ぬための傷。
 そしてこれは、生きるための傷だ。
 私が、生きようとした、その痕だ。
「そっか」
 私は、横たわるその子を抱き起こし、抱きしめる。
「ごめんね。痛かったよね。そうだよね。今の私には、あなたの……あの時の私の気持ちが、判るはずだよね。あなたは、怖かったんだね。ずっと、ずっと、怖かったんだよね」
 抱きしめるそれは、私の傷。
 あの場所から動けずにいた、あの日の私。
 なくすことのできない、私自身の痛み。
 あのころの私は、そんな自分を見ることができなかった。
 だけど今の私は、見ることができるはずなんだ。
 私は、たぶん、少しは強くなれたのだから。
「一緒にいこ。大丈夫だよ。私は、一人じゃないんだから。お父さんだって、お母さんだって、お姉ちゃんだって、
 ――あの人だって、いてくれるんだから」
 だから、この子と一緒に行こう。
 傷を抱えて、私は生きていこう。
 いつか、私が終わるときまで。

「……栞?」
 声が聞こえた。
 私の、大好きな、声だった。
「あ、お姉ちゃん」
「『あ、お姉ちゃん』じゃないわよ。なにやってるの? こんなところで」
「ええと、深夜のお散歩。なんだか、ロマンチックな夜だったから」
「なにそれ。まったく。遠くから見たら、座ったまま動かないから、あたしはてっきり即身仏にでもなっちゃったのかと思ったわ」
「私、五穀断ちなんてしてない……じゃなくて、座ってたら、やっぱりちょっと眠かったらしくて、うとうとしてただけ」
「なにやってんだか」
「それより、お姉ちゃんはなんでここに?」
「ああ、夜、ちょっと寝付けなくて台所に水を飲みに行ったんだけど、たまたま玄関を見たら、あなたの靴がないじゃない? 部屋を見たらもぬけの殻だったし。それで、不肖の妹が夢遊病にでもかかっちゃったのかと心配して、ここまで見に来たってわけ」
「でも、こんなにあっさり見つかっちゃうなんて、お姉ちゃんすごいです。姉妹の愛情を感じますね」
「……何言ってんの。あんたは」
 お姉ちゃんは私の額に指を近づけ、ぺし、と弾いた。
「……痛い」
「もういいから、さっさと帰るわよ。この辺りだって、最近は物騒な噂もあるんだから」
 そう言って、お姉ちゃんは振りかえり、すたすたと歩いていく。
「わ、お姉ちゃん、待ってよっ」
「いいから早く来なさい。置いてくわよ」
「わ、わ、お姉ちゃんのいじわるっ」
 そんなことを言いながら、私はお姉ちゃんのあとをついていく。
 歩きながら、私は、お姉ちゃんの耳に口を近づけ、そっと、呟いた。
「……ありがとね、お姉ちゃん」
 お姉ちゃんは、少しびっくりしたように振りかえり、
「いきなり何よ」
「ふふ。なんでもない」
「……変な子ね」
 それきり、私たちは黙って、家路につく。
 空を見る。
 雲と、その向こう側にぼやけて見える、白い月。
 その下に広がる、白い世界。

 そしてその中で、私とお姉ちゃんだけが、色を持っていた。

『BadMoon/終』