四月半ばのよく晴れた日。
旧校舎のその廊下を、一ノ瀬ことみは三階にある図書室へと歩いていく。
空からの日差しはとても暖かく、所々開け放たれた窓から吹きこむ風もまたぽかぽかで、歩いているだけでも気持ちがよくなってくる。
と、そんな風にして歩いていると、窓に小さな点がついているのが見えた。
ことみは少し興味を持ち、近づいて見てみる。それは赤地に黒い七つの点を持つ、小さな虫。
「ナナホシテントウ」
ことみは呟く。
「テントウムシ科。体長は八ミリほど。背中の七つの国紋が特徴。成虫のまま冬を越え、春早くから活動をはじめる。成虫・幼虫ともにアブラムシを主食とする。益虫。学名はココシネラ・セプテムプンクタータ」
淀みなくそこまで言ってから、ぽ、と頬をほんのり赤らめ、
「……かわいい」
そう言って、じっと見つめる。
テントウ虫はぴょこぴょこと動き、ことみもそれにあわせて移動する。
暖かさのせいかテントウ虫の動きも活発で、それにあわせてことみもぴょこぴょこぴょこ。
廊下を歩き階段を上り下りし、テントウ虫と歩いていく。
しばらくそんな風にして移動していたことみだけれども、テントウ虫はやがて開かれた窓からぴゅう、と外へと飛んでいってしまった。
「あ……」
残念。
もっと見ていたかったのに、と思いつつも、気を取りなおして図書室へと向かおうとする。
と、気付けばあまり来ない場所にいることに気付く。
いつもまっすぐ図書室へと向かっていることみにとって、知らない場所はたとえ校内でも、ちょっと怖い。
とにかくここはどこだろうと思い、辺りをきょろきょろと見回すと、目に映るのはすぐそばの教室に付けられた『資料室』と書かれたプレート。
それを見てことみは、先ほどと同じように、呟く。
「資料室。旧図書室。設備に不安の声が上がって、図書室は今あるものに移行された。現在では、図書室の補助としてあまり読まれない本などが置かれている」
自分で言ってから、はじめて状況を理解したかのように、言葉を続ける。
「あまり読まれない本」
読んでみたい、と思う。
ことみの鞄の中には、町の図書館で借りてきた本がぎっしりと入っている。
それらもとても素敵な本だとことみは思うけれど、目の前の部屋にある知らない本への好奇心は、それよりもちょっとだけ上回った。
知らない部屋に入るのは少し緊張した。
けれども、人気の少ない旧校舎だし、今の時間なら誰もいないだろうし、と思い、意を決して扉に手をかけ、力を込め……るまでも無く、扉はがらりと開け放たれた。
すごく、びっくりした。
そして目の前に入る人物を見て、さらにものすごく、びっくりする。
「ん、おっといけねえ、出るのは窓からだったな」
目の前の人はそう言っている。この学校のものとは違う、随分とバンカラな制服を着ている。その人は随分と背が高く、資料室の中に振りかえった体勢を取っていることもあって、ことみのことには気付いていないらしい。
彼はそのままを返し踵を返し、言った通り窓から出ていった。
ことみはと言えば、びっくりしたまま、廊下に立ち尽くし、
「どなたですか?」
と、声をかけられた。
その声を聞いて、はっと我に返り、その声の主へと目を移す。
さっきみたいなおっきな人だったらちょっと怖いな、と思ったけれど、そこにいるのは自分よりも小さな女の子だった。
とりあえず、ほっと一息。でもまだちょっとどきどきしてる。
「えっと、資料室になにかご用ですか?」
彼女は言葉を続けてくる。
ことみは何か返事をしなくちゃと思い、ちょっと考えて、
「ご本」
と言った。
「本、ですか?」
「うん。ご本。読むと、とてもしあわせ」
「はい、そうですね。ここにも本はたくさんありますよ。お読みになられますか?」
「うん。そうしたい」
「はい。そうしましょう。ではこちらへ」
少女に促され、ことみはゆっくりと部屋の中へと入る。緊張はあまり無い。
少女の持つほわほわとした雰囲気に、ことみもだいぶほわほわとしていた。
――このひとは、いいひとそう。
ことみはそう思う。中に入って扉を閉め、奥に見える本棚に引き寄せられるようにして歩いていく。
そんなことみに、少女は話しかける。
「コーヒーと紅茶は、どちらがお好きですか?」
「紅茶の方がすき」
「はい。では淹れさせてもらいますね」
「うん。ありがとう」
「いえいえ。私も、好きでやってることですから」
少女はそう言うと窓際に置かれたポットへと近づいていく。
ことみはと言えば、本棚をじっと眺め、興味の引かれる本を探す。
どれにしよう。すごく、迷う。
そして、ふと目についた一冊を選び、そのまま図書室へ戻って本を読もうとし、
「あのー」
と少女に声をかけられる。
そうだ、とことみは思い出す。自分は、紅茶を振舞ってもらえるはずだったんだっけ。
「あ……ごめんなさい。私、ちょっとぼーっとしてるってよく言われるの」
「いえ、いいんですよ。とりあえず読みたい本も決まったようですし、こちらに座ってはいかがですか?」
「うん。そうするの」
言ってことみは、ぱたぱたと部屋の中心近くにある長机の椅子一つに座る。
少女はことみの目の前の席に座り、紅茶を置いて、にこにこと笑いながら、
「二年の宮沢有紀寧です。有紀寧は、『有終の美』の有に、『二十世紀』の紀、それに『丁寧』の寧と書きます。はじめまして」
と言った。
ことみはそれを聞いて、少女――有紀寧をじっと見つめ、
「有紀寧ちゃん」と、言った。
「はい。有紀寧ちゃんです」
「有紀寧ちゃん、有紀寧ちゃん。有紀寧ちゃん? 有紀寧ちゃん! 有紀寧ちゃん♪」
イントネーションを変えながら色々言ってみる。
「とても、いい名前」
「ありがとうございます」
ちょっとうっとり。
と、そこまで言ってから、つまり有紀寧は自分に自己紹介をしたのだと気付いて、
「あ。ええと、はじめまして」
「はい、はじめまして」
「ことみ。一ノ瀬ことみ。ひらがなみっつでことみ。呼ぶときはことみちゃん」
「はい。一ノ瀬先輩」
「ことみちゃん」
「はい。ことみ先輩」
「ことみちゃん」
「はい。ことみちゃん先輩」
「うんっ」
満足したらしい。
「ええと、ちょっと話しこんじゃいましたね。では私の事は気になさらずに、本を読んでください」
「うん。ありがとう」
言って、まずことみは紅茶を一口。それは匂いもとってもよかったけど、味もとっても素敵だった。次いで、ことみは本を読み始める。
それほど難しい本では無かったこともあり、かなりのスピードで読み進めていく。
しばらくそうしていたことみだけど、ふと鼻につく紅茶の匂いに気付く。
それはとてもいい匂い。そうだ紅茶を飲まなくちゃ。
思い、本から目を外して紅茶に手を伸ばそうとする。
と、こちらをじっと見つめている有紀寧に気付く。彼女はやっぱりにこにこしている。
なんだろう。顔に何かついているだろうか。ことみは自分のほっぺたを触りながら、
「……ええと、顔に何か、ついてる?」
「え? あ、すみません、見つめちゃったりして」
「ううん。それはいいの」
「ありがとうございます。えと、ですね。ことみちゃん先輩、本当に楽しそうに本を読まれるものですから。なんだか、見ていてこっちも楽しくなってしまいました」
言って、有紀寧はにっこり笑う。
つられてことみもにっこり笑う。
二人だけのその部屋で、少女たちはにこにこと笑いあった。
「そう言えば、その本はどんなことが書かれているのですか?」
「ん……ええと」
ことみは読みかけの本を閉じて、表紙を有紀寧に見せる。
「『おまじない百科』ですか。とても楽しそうな本ですね」
「うん。楽しい。いろんなおまじないがたくさん」
「そうですね。あ、そうだ。一つ試してみませんか?」
「試す?」
「はい。その中に書いてあるおまじないを、ひとつやってみましょう」
「……うん。楽しそう」
「はい。ことみちゃん先輩は、なにか試してみたいおまじないはありますか? 知りたいこととか、かなえたいこととか、仲良くなりたい人とか、一緒に倉庫に閉じ込められたい人とか」
最後は妙に具体的だった。
さておき、言われてことみは考える。
知りたいことはたくさん。でも、これは勉強していけばいい。
かなえたいことはひとつ。でも、これはもう、決してかなうことはない。
仲良くなりたい人は……ええと。
――そう。もし、会えるなら。
「……また会いたい人がいるの」
「お別れしちゃったんですか?」
「うん」
「男の方ですか? 女の方ですか?」
「うん。男の子」
「ことみちゃん先輩の好きだった人ですか?」
いきなりそんなことを言われて。
ことみは、今までになく処理に時間をかけて。
そして、頬をぼっ、と赤らめた。
「あはは、ごめんなさい、変なこと聞いちゃいましたね」
「うん……いいの」
「そうですね、そんなのもあるかもしれませんね。『初恋の人に再会できるおまじない』。ええと、どこにあるかな」
そう言ってことみから渡された本をぺらぺらとめくる有紀寧に対し、ことみは
「五十三ページ」と、言った。
「はい?」
「それだったら、五十三ページにあったの」
「はー。もうそんなとこまで読まれてたのですか」
「うん」
「五十三ページ五十三ページ、と。あ、ありました。ことみちゃん先輩、すごいですね」
「……そんなこと、ないの」
ちょっと照れ照れ。
「ええと、やり方は……こう、両手を胸の前であわせて、ですね。そして、心の中で三回、となえるんです――」
*
トオイ オモイハ イマモ マダ
*
その日ことみは図書室で、いつものように本を読んでいた。
あの、資料室で有紀寧とおまじないの話をして、さっそうそれを試そうとし――そこに乱入してきたごっつい男の人にびっくりして思わず逃げ出してしまった日から、すでに数日が経っていた。
有紀寧ちゃんはいい人だし、資料室の本にも興味はあるから、また行ってみたいと思うけれど、あんな風な人がいると思うと、ちょっとためらうものがあることみだった。
それでも、いつかはまた行きたいと思う。
おまじないは、あれから何度か試してみた。
けれどもまだ、その効果は発揮された様子は無い。ちょっとがっくり。
ともあれそんな風にして、ことみの日々はいつも通り、少しさびしく、でも平穏に流れていった。
ことみは今日も本を読む。
それはいつものことだけど、いつもとちょっと違うことがひとつ。
それは、読書の前のおまじない。
まだ効果のないおまじないだけど、それでも。
そうして心の中で三回唱え、辺りを見回してみるけれど、やっぱりそこは誰もいない図書館のままで、またがっくり。
仕方ないので気を取りなおし、本を開いて読み始める。
読書はやっぱり楽しくて、ことみはそれに夢中になって、すぐに周りのことは目にも耳にも入らなくなってしまう。
だから、気付かない。
図書室の扉が開いたことに。そこから一人の男子生徒が入ってきたことに。彼がことみに近づいて、ことみは本を読んだままで、その中に『その』名前を見つけて、ほとんど無意識的にハサミを取り出して、いつものように切り取ろうとして。
――ちょっと待てっ、こらっ
そんな声を聞くまで、ことみは気付きもしなかった。
そして。
その少年を見る。あの頃よりも背が伸びて、あの頃よりもちょっと目つきが悪くなって、あの頃よりもちょっと、かっこよくなった、
あの日の、少年を。
そして物語は、また。
おわり