オトオカ橋下の川原


「天の園」は今もそこにある

 「天の園」の小説に初めて出会ったのは、仕事の中で出会った打木村治さんの「孤寒を旅ゆく」の言葉からだった。そのときに自分の子どもに読ませようとして買い求めていた。
 その後しばらくして、縁あって日本スリーデーマーチのコース選定のお手伝いをするようになり、コースの彩りになればとの軽い気持ちで小説を読み始めた。20年近くのつきあいとなった。

 自分の生まれ育った土地も、保とはそんなに離れていない隣村だったこともあり、懐かしく自分の子ども時代を映しながら小説の中の保と遊んだ。
 保の時代から自分の子ども時代までの四十五年はまったく変わっていなかったように感じた。こどもの遊び、地域の親や兄弟たちのかかわりなど、親が忙しかったから兄弟や隣近所の遊び仲間がお互いに育ちあいをしてきたといえる。
 果たして今、自分の子ども時代から四十五年余りが経とうとしているが、この四十五年はがらりと様相を変えてしまったようだ。

 少子化、自家用車の送迎、カプセル化の現代。自然の中で、地域の中で子どもたちはその時間を持ち得ない。

 自分を含めて、親が変わらないと子どもは変えられないと思い、実行してもきた。おかげでよく歩いた。

 打木村治さんは、第6巻の中で、「ふゆ子」との最後の別れと重ねて「《天の園》は千年万年子どもたちの魂の学校として残るだろう。―永遠に・・・この世に子どものあるかぎり《天の園》は世界のどんなすみずみにもあって、子どもが親になりその子がまた親になり、親から子どもに受けつがれ、子どもたちを育てるのだ。―」と述べ、
 また、小説のあとがきで「保を通した母の深い愛情を描いた」と言っている。その母の愛は大きな自然の中での感動ではないかと思う。

 少しでも、一人でも気づき、目覚める、そんな体験をして欲しい。
 そしてそれは外に出ること。歩き回ることなのだ。
 保が生涯サンキチであったように。

「天の園」はすぐそこに今もあるのだから。