(朝日新聞・埼玉地方版に掲載)
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<第一話> 秩父事件 @
「僕らの住む町は面積の80%が緑豊な山や野原です。
自由民権運動に立ち上がった秩父事件で知られています」
五月末、西秩父の山あいにある吉田町で開かれた県植樹祭。
知事や国会議員など1600人の出席者を前に、町の「緑の少年団」を代表してあいさつした町立吉田小六年宮下彰夫君(12)が誇らしげに胸を張った。
町の文化財保護委員長を務める青葉佐一さん(73)は、感慨深げだ。
「町では長年、事件の話はタブーでした。知っていても口にするのは避けた。自分から話題にするなんて、考えられないこむでした」
町の中心、下吉田地区。役場近くの旧道沿いに、明治の自由党員だった井上伝蔵の屋敷跡を示す案内板が立つ。
「1884年、(明治17年)10月12日の夕刻。ここに10人の男が人目を忍んで集まり、命がけで政府と戦う決意を固めた。
その20日後の11月1日、役場の後ろに立つ椋(むく)神社の境内に、火縄銃や刀、竹やりなどを手に3000人の農民が集まった。
明治政府の屋台骨を揺さぷった事件は、舞台を上州、信州と広げ、やがて圧倒的な政府軍の火力で鎮圧される。
政府側は一団を「凶徒」と呼び、決起に影響を与えた板垣退助すら、後の「自由党史」で「暴動」と切り捨てた。
この秋で、事件からちょうど百十五年になる。
境内はいま、イチョウやケヤキが巨木となってそびえ、木陰を秋風が渡る。
町では長い間、事件にかかわった大勢の農民たちの家族や子孫が、犯罪関係者の烙印を背負って生きた。
加わらなかった少数派の家も、隣人に負い目を感じながら暮らしてきた。
関係者らが復権するのは戦後になってからだ。
秩父市出身の歴史学者井上幸治が、改めて秩父事件に光をあてた。
膨大な警察調書や裁判記録、官庁の報告書に当時の経済状況を重ねて分析し、事件を「自由民権運動の最後にして最高の形態」と位置づけた。
井上の解釈をきっかけに、事件を再評価する動きが広がる。
三十年ほど前からは学校の社会科教師や郷土史の研究家らが、町に足を運ぷようになった。
「タプー解消に決定的な役割を担ったのは、子どもでした」と青葉さんは振り返る。
身を硬くしていた関係者も、歴史の勉強に来る子どもたちには心を開いた。次第に新しい事実の解明が進んでいった。
青葉さんの祖父・故伊左吉さんも、そんな風潮の中で「語り部」を務めた一人だ。
事件当時、7歳の伊左吉さんは神社の境内にあった学校に通っていた。農民たちが立ち上がったその日、授業は午前中で打ち切られた。
帰宅途中、刀を持った集団に道を阻まれ、高台の自宅に遠回りして帰った。雨戸を閉ざした家では、母が弟を抱えて震えていた。父の姿はなかった。
その日の昼ごろ、畑仕事をしていた両親は、通りかかった巡査の頼みで制服の外とうを預かった。家に持ち帰って間もなく、武器を
持った農民らが家々を訪ね、狩り出しを始めた。恐れた父は裏山に隠れたという。
発砲音を聞き、二階の雨戸のすき間からのぞくと、集落のあちこちでパッと白煙が上がり、ドーン、ドーンという音が続いた。銃や刀を持った男達が「あっちだ」「こっちだ」と走り回る。隣のおばさんが、「死体を見た」と駆け込んで来た。
騒ぎが収まると、大人達が家の前の畑を掘り始めた。中に人の首が埋められた。境内の総決起を前に農民と巡査らが衝突して、双方に死傷者が出たことを知ったのは、だいぶ後になってからだった。
小学校の校長も務めた伊左吉さんは、晩年の数年間、子供たちを相手に体験談を語った。家族のだれにも明かさず封印してきた話を残して、25年前に97歳で亡くなった。
84年11月、早稲田大学の大隈記念講堂で、自由民権百年の全国集会があった。秩父困民党の遺族たちは、各地の民権家の子孫とともに壇上に並んで紹介され、百年来の汚名がすすがれた。
現在、町の子どもが習う教科書でも、秩父事件は自由民権運動の典型だったと紹介されている。毎年、吉田小に来る新任教師たちは町内の史跡を巡り、事件について勉強する。
それが町の習わしになっている。
町教育長の横田岩夫さんは言う。「ええ、秩父事件は郷土の誇りですから」
農民が決起した背景
明治政府は基盤整備や近代産業の育成、1877年(明治10年)に起きた西南戦争の戦費を賄う目的などで不換紙幣を乱発し、激しいインフレを招いた。81年秋、大蔵卿に就いた松方正義は財政を立て直すため、支出を厳しく絞ってデフレ政策を進めた。一方で軍備増強の財源をつくるため、諸税率を引き上げ、新税を創設したことから国内景気は一気に冷え込む。幕末の横浜開港から、生糸の輸出ブームで養蚕を主体とする秩父の農山村も潤っていたが、内需の落ち込みに海外の不況も重なり、生糸をはじめ農産物価格が暴落。好景気の時代に生活や設備拡張の資金を借りた農民らは困窮し、自殺者も急増する。高利貸や警察、郡役所などに返済期限の延長や金のかかる学校の休校、税の軽減などを訴えたが無視された。切羽詰まった農民らは「秩父自由党」(困民党は官側の呼祢)を名乗り、「世均し」(よならし)を目指して立ち上がった。