今日も、あの子はそこで待っていてくれた。
 柔らかい光に溶けこむように広がる、名前も知らない色とりどりの花が咲き乱れる広い花壇。その中心に植えられた、まだ人の背丈ほどしかない若木のそばで。
 瑞々しい緑の葉の向こうに隠れるように、彼女は立っていた。
 清潔そうな真っ白な服にかかる長い髪をそわそわと揺らしながら、落ちつきなくきょろきょろと周りを見まわしている。その勢いが良すぎて、首だけではなく全身が動いてしまっているようだ。
 もう少しだけ、声をかけないでいようか――そんな悪戯めいた考えも浮かぶ。ただ見ているだけでも楽しくなれるような、そんな彼女の仕草のひとつひとつが可愛くて仕方がなかった。もしかしたら、あれで隠れているつもりなのかもしれないとすら思ってしまう。

 ――そんな余裕なんかなかったんだ。もう、残された時間はあまりに少なかったのに――

 つと、若木の枝越しに彼女がこちらを振り向く。一瞬、驚いたような・・・・・・なにか、辛いものを噛み締めるような色が澄き通った目に浮かぶ。けれど僕が何か言う前に、それはいつものはにかむような明るい笑みに変わった。
 いつも・・・・・・。
 嬉しい事があったとき。誰かになにかを自慢したくてしょうがないとき。寂しいとき。
 泣いたとき・・・・・・。
 僕が会いたくなったとき、あの子はいつもここにいてくれたのだ。

 ――いつも――

 ――いつまでも続くと思っていたのに――

 ・・・・・・だけど、その日は違っていた。
 なにも話す事が見つからず、次にまばたきするまでさえ視線を合わせられない。今まで、ふと会話が途切れた時間を埋めていたくすぐったいような気持ちはなんだったのだろうか。無理に言葉を出そうとすれば、泣き出してしまいそうな痛み。
 こんな事は今までなかった。 彼女がなにも喋らないという事が、ただそれだけの事がこんなにも辛い時間だなんて考えた事もなかった。
 だから、ずっとうつむいたままだった彼女が、顔を上げて僕を見てくれたときは本当に嬉しかった。
「・・・・・・わたし」
 何かを言いかけて、息がつまったようにすぐに口を閉じる。彼女は視線をそらして、僕の後ろに立つ若木を見上げた。
「お花、見たかったな・・・・・・」
 ぽつんと、呟く。
 花だったら、周りにたくさんあるよ――そう言って、彼女がどの花を欲しがっているのかと周りを見まわす僕を横目で見ながら、彼女は寂しそうな表情で枝の先についた青い蕾に触れた。
「真っ白な、小さなお花が咲くの。小さな小さなお花。だけど、その花は、いつか甘い実になるの」
 花だったら、いっぱいあるじゃないか。僕は拗ねたような気持ちで、もう一度繰り返した。 そんな咲くかどうかも分からない小さな花じゃなくったって、すぐそばにきれいな花はたくさんある。それに、その木の枝には、ちょっと見ただけじゃ分からないけれど、小さな棘だってあるんだから。

 ――だけど、その痛みこそが、僕の気持ちの証だった――

「うん・・・・・・そうだね」
 彼女は僕を見つめて、優しく微笑んだ。
 そのまま、光のなかに溶けて消えてしまいそうなほど優しく。
 壊れそうなほど、儚く。
「あなたは、これからいっぱいお花を見つける。棘だらけの小さなお花を選ぶ必要なんてないもん。わたしの事は、辛い時にだけ思い出してくれればいいから・・・・・・」
 微笑みながら、彼女は泣いていた。
 頬を伝う光が涙だととっさに気づかせないほどに、彼女の優しさは切なくて、眩しくて。
 愛しかった・・・・・・。
「ずっと、一緒にいたかった」
 その一言がどれほど僕を不安にしただろう。怖かった。「絶望」なんて言葉はまだ知らなかったけれど、とても大切なものが僕のそばから消えてしまう予感がした。
 それは、・・・・・・「別れ」の言葉そのものだったから。
「・・・・・・」
 僕は、彼女の名前を呼ぼうとして・・・・・・
 初めて、気づいた。
 その子の事を、なにも知らなかった事に。
 どこに住んでいるのか、どこから来るのか。
 彼女がいてくれるのは、あまりに自然で、当たり前の事なのだと思いこんでいて。

 ――だって――

 ――彼女は――

「ごめんなさい・・・・・・。わたし、もう、帰らなきゃいけないの」
 どうして? なぜ? 子供がその問いを繰り返したとき、大人が困った顔をして答えを探すように。
 それを繰り返している間は、彼女はここにいてくれる。そんな幼い考えがよけいに彼女を辛くしていると知りながらも、僕にはそれしかすがるものがなかったのだ。
「だって、わたしはあなたの・・・・・・」
 その先は、彼女には言えなかった。
 年相応に、ただ泣きじゃくるだけしかできなかった。
 そんな彼女に、そのとき、僕がしてあげられた事は。
 ただ、頷くしか・・・・・・なかった・・・・・・。

 ――言ってあげられなかったんだ、あの子がいちばん欲しがっていた言葉を――

 やがて、とまらない涙を抱きしめながら彼女は歩き出す。
 すれ違う瞬間に指先に触れた、彼女の髪のやわらかさが切なかった。
 ・・・・・・いなくなる。
 彼女が。
 僕のそばから、永遠に消えてしまう。
 もう、会えない・・・・・・。
 ・・・・・・。
 ・・・・・・・・・・・・。
 ・・・・・・嫌だ・・・・・・そんなのは嫌だ!
 この優しさを失うよりも辛い事が他にあるはずがない。
 たとえ――
 それで世界の全てが僕を責めたとしても――
 彼女がそばにいてくれるなら。僕の横で笑っていてくれるなら。

 ――僕は――

「・・・・・・!!」
 抱きしめる。後ろから。 強く。
 どんなに弱く壊れそうに見えたって。消えてしまいそうに見えたって。
 彼女はいまここにいる。僕の腕のなかにいる。それを確かめるように。
 彼女は一瞬身体をこわばらせたが、やがてゆっくりと力を抜いて、そっと両手で僕の腕に触れた。
「いつかお花、咲くかな・・・・・・?」
 囁き。それはむしろ、祈りだったろうか。
 その問いかけ自体には、彼女自身にとっても大した意味はなかったのかもしれない。けれど、今はただ、「約束」が欲しかった。
 だから。
 僕は、しっかりと頷いた。その動作が確かなほど、約束も強くなると信じて。
「・・・・・・うん。わたし、絶対に帰ってくるね。絶対に帰ってくるからね・・・・・・!」
 僕は、守りつづける。
 君が帰ってくる日まで。
 君の見たかった、白い小さな花を。
 たとえ、世界でひとりぼっちになったとしても!
「わたしのこと、忘れないで・・・・・・!!」
 忘れない――絶対に。君のこと。

 ――忘れない――

 ――決して――

 それが、僕と彼女との約束だから。
 約束だから・・・・・・!



・・・・・・そして・・・・・