轍
他愛もない会話にちょっと挟まって出てきた話題で、「太田部に行ってみたい。」と言われた事がずっと耳に残り、それから又、大分経った、晴れた日の夕刻、当人も忘れてしまっただろうか?と心配半分の気持ちで軽トラックでのドライブに当の彼氏を誘った。 私が案内する役だが、道順をどうしようか、と訊ね、周回するようなコースを提案してみた。 隣町界隈を散策するだけの、距離も時間も数字にしてみれば僅かなものだが、少し早い夕食を済ませ、燃料もタンク一杯に詰め込んで、中古の自動車は走り出した。 40年?位だったか、助手席の乗客はこの町に生れてこの方、「まだ通り抜けたことがない。」と言った峠を越えて隣村へ入り、山腹につけられた細い車道をくねくねと辿る。神流湖はダムで堰き止められた人造湖だが、対岸の群馬県側につけられた道路がメインロードで、右岸に申し訳程度につけられた道路は極端に少ない交通量と、少し荒れた路面が様々な事情やいきさつを物語っている。 最初で最後、1度だけ行ったことのあるその土地を20年以上過ぎて、「テレビで見た。」と言った人を伴って再訪しようとしている。 神流川の対岸に見える山脈を指示したり、湖の底に沈んだ道や家があったことを、実際には見たこともないのに説明を加えている。自分の口調が歴史学研究家のようになっていることに気づいて、少し気恥ずかしくなった。 対向車に往き交うこともなく、どこが界ともわからないまま吉田町に入っていた。 太田部という標識を見て、そちらの方向へ向い、陽が落ちてもまだ空の明るさが残っている頃、車は狭い道を譲り合うようにゆっくりとすれ違う。地元の人とどちらからともなく開かれているドアウィンドゥ越しに声を掛け、挨拶を交わした。同乗者は思い出すように、テレビで見たことのある景色に出会い、「そうそう。」とうなずいている。 細い車道の舗装が途切れる、僅かに道が広くなった所で、尻を谷側に向けて車の向きを換える。 「ちょっといいですか?」と、声を掛けられて、隣に座っている人がそれまで我慢していた煙草に火を点ける。少し戻り、廃校となった小学校の入り口に車を停めて外に出て、街灯が点り暮れていく空を仰いだ。 分校の校舎もグラウンドも可愛いらしい規模の施設だが、山間部では貴重な、地形からすれば一等地の安全に配慮した平坦な場所に鎮座している。 良く手入れされた家に生活の灯が点り、数少ない戸数の中の家々が藪に囲われたり、戸締りされて生活臭のなくなった抜け殻も、山村の今の姿だ。 曖昧な記憶の中で、以前来たときには奥まった所に位置する家で、お茶をご馳走になり、老夫妻の話を伺った気はするが、その家の所在もどの家かはわからずじまい。 山へ向かう道は、奥へと轍を残して続いて、自分の、今一歩前に進みたい気持ちをくすぐっていた。 帰り道、すっかり陽の暮れた小さい峠に出て、そこから自分達が住む町の夜景を展望する、くるくるとジェットコースターで転がり落ちるみたいに下りてきて、見知った場所に出て来てから、同行者はそこが自分の家とそう遠く離れていないことを確認する。 エアコンの利いた、ジェット旅客機や新幹線鉄道を使った忙しい旅行もあるが、窓を開け放して山林の中をゆっくり巡る探索もある。地元の人が滅多に東京タワーに登らないのと同様、こんな夕涼み散策を愉しむ人はこの辺りでも多くない。 |
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