徳本峠

 自転車を降りて沢沿いの道を歩き始める。島々谷を少し登って二股を左に折れるとすぐに自転車に乗ったままでは前に進めなくなってしまった。片手で引きずるように、両手で前に押し出すように、岩魚留小屋を過ぎてからは自転車のフレームの三角になっている所を肩に掛け、暗い谷間をさかのぼって徳本峠までかつぎ上げた。

 
長野県松本市にはいくつもの川が流れ込み、箒の柄みたいになった犀川が長野市の方向に向かって流れ出している。

 田川に架かる橋のたもと、庄内町の下宿を朝暗いうちに出発して、西に岐阜県との境界をつくっている山波に向かって、国道158号線野麦街道をペダルを踏んだ。
 松本電鉄の新島々の駅を過ぎて、曲がり角を見落とさないように注意して、橋を渡ってから島々の谷に入ってきた。

 徳本峠は山登りをしている人の昔話にときどき出てきて、年代物ワインのようなコースになっているせいか、少ない客の顔ぶれもどこかちょっとクラシック。登山者の面持ちをついそんな目で見てしまいがちだが、実際上高地にやって来る人たちのほとんどが梓川沿いに自動車道がつくられた後、バスとタクシーの利用者なのだから、わざわざ時間を掛け、遠回りしてまで登山史を追体験することの方が、今でも贅沢なハイキングだと思う。

 梓川にぶつかる手前、明神の近く、白沢出合まで転がしていった自転車に再びまたがり、上流へと向かう。バスターミナルのある上高地から奥まった地域に入っていくには、遊歩道のあちこちに車両通行止めの注意書きが張り出されているが、島々谷から入ってくるこの古い道にはそんな断り書きは見つけられない。
 ゆるいアップダウンを繰り返し、登山道は槍ヶ岳、穂高岳へと続いて、分れ道となる横尾までとも思ったが、すでにサイクリングの領域をはみ出していた。
 チラホラ観光客らしき人の姿も見受けられる徳沢園の広場で帰り仕度にかかる。

 スピードの出ない山道は散歩気分。河童橋、大正池は人気のある景勝地。路面がアスファルト舗装となり下り勾配もきつく、真っ暗な釜トンネルの中では頼りないタイヤと荒れた路面、天井からの水滴に悩まされるが、その先は奈川度ダム、稲核、島々辺りまで豪快なダウンヒルコースが続く。ロードレーサーの本領発揮とばかりに、足許のペダルに付いているストラップベルトを一段ときつく締め上げ、スパートをかける。下り坂の斜度が緩み、少し登るように波田町あたりまで戻ってくると、車も、店舗のある家並も増え、黄昏れる奈良井川を越え、田川を渡ると、旅行ガイドブックに出てくる松本、普段住みなれた松本とも、また違った町がそこに広がって
いた