4月のマラネッロ

 

 10年も前にT.V.で放映された映画だが、今でも劇場でリバイバル上映されれば観たい映画のひとつに「ゴー・トラビ・ゴー」がある。
 旧、東ドイツに住む高校教師家族が、ゲーテのイタリア紀行に憧れて、年頃の娘を伴って往時の大衆車、それも、大分やつれたトラバントというポンコツで南イタリアのナポリを目指す旅物語。
 コミカルな珍道中仕立てに終わる内容だが、歴史観や、風光明媚な映像も愉しませてくれる。とりわけ共感を覚えたのは修理に修理を重ね、ナポリまで走り抜くボロなトラビィ。今風にいえば1台のコンパクトカーが、影の主役だったと思う。

 珍しく、京都に住む友人宅を訪ねたのも、3カ月のモニター期間が終わりそうになるので、長距離ドライブを試したかったこともあるし、その期間内に少しでも走行距離を伸ばしておきたい、と思っての軽自動車京都往復ツーリングだった。

 一晩だけ泊めてもらい、その夜の談笑のなかで、イタリアツーリングの提案が冗談のように出され、私は宿題のようにそれを我家に持ち帰った。
 自動車好きの友人の望みは、イタリアを走りたいことと、聖地のように思われるフェラーリの工場を訪れ、そこの前にあるレストランで食事する。といった、いたってそっけない、もったいないような一週間ほどの旅程は軽い中身のまま、空港で落ち合って、日本を後にした。

 ミラノ、マルペンサ空港のAVISでブルーのフィアット・プント55を借り、その晩はミラノの友人宅の子供部屋のベットにもぐり込んだ。
 翌朝、時差の関係もあってか、早起きした中年2人組みのグランツリズモは、予定の軽い中身とは反対の方向へ突っ走って、表面だけを辿る自動車旅行もイタリアという国柄が少しづつ印象を強くしていった。
 車を借りるときドライブマップを一部多くもらっておいたので、サイドシートに座り続ける私はメモがわりに地図に走行過程を記入していく。紙の片面は北イタリア、もう片方は南イタリアが印刷され、必要としたのは北の片面だけだったが、走行は上と左にはみ出してしまった。
 マンガから得た知識だけだったのだと思う。高速道路を降りて、モデナの町に入り、キヨスクのような所で地図を買い、人に訪ねてもその町にはフェラーリの工場も博物館もなくて、少し離れた小さな田舎町、マラネッロが目指す場所だと、そこまで行って、町の人に教えてもらって気がついた。
 雨が上がって、薄暗い午後、まだ路面が濡れているその町に入っていった。
 車で走りまわると、家々の並びや、工場、博物館、ショップが眼に入ってくる。鉄道の陸橋になった所からフェラーリのテストサーキットが見わたせる。夕刻、お望みのレストランが開くのを店の前で待っていると、遠くからサーキットを走るF−1マシンのエンジン音が響いてくる、日頃よく耳にする暴走族のヒステリックな爆音と比較したら怒られそうだが、この町に時折響きわたるF−1マシンの咆哮には、イタリア人のプライドがかなりの度数で含まれている。色も血の色だし、同行者の熱もかなり上がってきている。

 フェラーリの工場に通う従業員がよく使う喫茶店で、ノー天気な2人組みはどうやったら工場を見学できるか、自転車やスクーター、古いフィアットで通勤してくる朝の時間帯にコーヒーとパンを齧りながら、奥のテーブルで作戦を立て直した。

 「こちらのお客様はフェラーリのなんとかかんとかに乗っていらして、コーンズからは紹介のファクシミリが届いていると思うが、今日ははるばると日本から工場を見学に来た、ついては工場内を案内願いたい。」
 
 と、工場入り口の事務受付に、つたないイタリア語通訳すると、脇の応接場所に30分位待たされたが、期待むなしく、丁重にお断りされてしまった。
 
 博物館のスーヴェニールを扱うショップや、私達のような巡礼者相手にフェラーリ小物や、グッズを扱うお店をひやかしにめぐり。私が見つけたのは、フェラーリの技術者を育てるための専門学校生が使うブルーの作業コート、文房具屋のような店で扱っていて、生地も薄っぺらで、仕立ても安っぽいがそでを通すと、エンツォ・フェラーリに憧れる少年の気持ちが少しだけわかるような気がする。

 すっかりお馴染みのような顔をして、薄暗い店内にF−1パイロットのヘルメットがぶら下がる田舎料理屋で少し遅い昼食を済ませ、高速道路へと戻ると、小さい車体に空気の重さをまとうような速さで、フィアット・プントは北へと車首を向ける。