夏休み



  下宿している家の軒下に停めてあるペダル付きのモーターバイクで、トラジメーノ湖畔までは1時間近くかかる。
 8月も後半に入ると、早朝上ってくる太陽の光の強さも真夏のものとは大部違ってきていて、陽が上る前に小路から広い通りにバイクを押し出し、ゆるい下り坂の坂道を利用して、飛び乗るようにしてエンジンを掛ける。

 背中に背負ったリュックサックの中には、スケッチブック、水彩絵の具、絵筆のほかにも、パン、サラミソーセージ、リンゴ等の食料品が紙袋に納まっている。

 イタリア、ウンブリア地方にある湖の中で1番大きなトラジメーノ湖は周囲に小さい村落が点在している。鉄道や高速道路が隣接する付近は町然としたところもあるが、どこか長閑とした空気が、日中になればまだ夏の力を取り戻す太陽の光と一緒に、その季節の間の抜けたような時間の中によどんでいる。

 眺めのいいホテル。マジョーレ島を間近かに見る景色。観光地というより、そこにもやってある小舟が小型の船外機を取り付けたものだったり、魚網が干してなければ見過ごしてしまいそうな小さい漁港。
 10日近くもそんな景色を写生に通っていると、ホテルの主人に「昼めしはどこで食べてる?」ときかれたり、中東からの出稼ぎ労働者は、調理場の窓からオレンジを落としてよこして、ビックリさせられるが、食べるようにと、ジェスチャーする。休日毎にミラノから帰ってくるビジネスマンはドライブに誘ってくれたり、母親の料理する手打ちきしめんのようなタリアテッレを、「うまいだろう。」と窓が小さい広場に向かって開いた台所での昼食に招いてくれる。
 漁師があがって来る時間は猫も楽しみにしていて、どこからともなく尻尾を立てて集まってきて、淡水魚の売り物にならない雑魚をねだる。
 漁師たちがそれぞれの小舟からその日の漁獲を水揚げしたり、漁具の片づけや、手入れが一段落する頃、皆からドットーレと呼ばれる大学出の紳士が新聞を小脇にして現れ、そこに居る人達の関心がありそうな記事を少し大きな声で読み上げる。インテリだからニュースキャスターのように、わかりやすくコメントも付け加えてくれるので、「日本からのニュースは何かある?」と、同じベンチに腰掛けている私も一緒になってたずねると、「今日もないなぁ。」と、ローカル新聞の隅の方を見やって、残念ともつかない表情を向けてよこす。

 部屋を間借りしている下宿先の婆さんは、私のそんな毎日の、絵の仕上がりをたのしみにしている1人で、トラジメーノに浮かぶマジョーレ島が描かれた絵を見ると、古い絵葉書をどこからか見つけ出してきて、湖が全面結氷した、とても寒かった年の冬、島を背景に氷の上をFIAT500の小さい車が走り回っている古ぼけた写真のはがきを見せながら、さも愉快そうに、「この冬は車で島へ渡れた。」そんなことはその年だけだった、と昔話を語るみたいに話してくれる。
 
 下宿しているペルージァ市街、鐘楼のある建物の時計の下をくぐって、坂道を下っていく通り。プリオリ通りの、中程。夏も終わるこの頃になると、夕陽が両側の建物に狭められた細い通りの真中に、ウンブリアのゆるやかな丘陵地の彼方に、丸い大きな輪郭を描いて沈んでいく。
 街中に見知った顔が戻ってきて、焼けた肌を比べ合ったり。あちらこちらに小鳥のさえずりみたいな、さざめきが撒き散らかされて、よく聞き取れなくても、大事な夏の休暇がどんなに素晴しかったか、雰囲気だけでも理解できるほどに伝わってくる。

 プリオリ通りに大きな夕陽が沈む頃が、夏の終わりの合図だと、ペルージァ生まれでもない私だが勝手にどこかで、そう思い込んでいる。