万場の山女魚
鉄道高崎線、本庄駅で下車して、車を仕立てて鬼石へ向かい、途中金鎖神社に詣でて多宝塔を見上げる。三波石を鑑賞した後、万場に2軒あった宿の1つに泊まって、今度はバスに乗り込み神流川を終点の乙母まで遡る。塩ノ沢峠を越えて下仁田に向かう途中の山村の暮らしぶりなど、外国人が見た景色か、文明人が見た未開の地、といった表現に近い格差、ギャップをその山旅の中でたのしんでいる様子が伺える。 1本川筋が違えば、私が生れた町の話になっていたことに残念な思いもするが、今ではおぼろげにしか写らない景色を、私が小学校に入学する前の年の3月末に深田久弥という人が書き残した。 古い山の話を見聞きしていなくても、身近な所の話は興味深い。歴史学、考古学、地理地質学、民俗学、学術調査隊とかいって、あちこち堀返す仕事をする人の誰か、私たちが住む町を研究対象に選んでくれないものか、と願っている。「そりゃあほんとに面白い、なんでもある。」ギリギリだけど今ならまだ間に合うような状態で研究素材は転がっている。 アニメーション映画だと、スタジオジブリの監督が、ときどき作品の下敷に用いるような部分もある。ジブリ作品では「紅の豚」が好みのタイプの私だが、「平成ぽんぽこ」は環境問題を扱っているようにみえて、もうちょっと奥があると思う。機会があれば腰をすえて確かめるように見てみたい。映画に出てくる狸のことだが、アイヌ民族ウタリアン、というよりサンカ、に置き換えてみるとどんな話の展開になるのだろう。資料を持たない者の憶測や推論は危険だが、未知なるものへの探検隊的魅惑はある。「ハズレ」とアニメ映画監督は答えるかもしれないけれど、全部を観たスタジオジブリ作品ではないが、その中のいくつかには研究者の眼で下地に織り込まれているような気がする部分は、どうしてもある。 アニメーションやコンピュータグラフィックにしか描き出せない世界やストーリーがあって、平成ぽんぽこの人気度が高くないのは、人が狸を見破れなかったことの証拠ともとれる。 サンカの文化は教科書や新聞にその記述が載ることはなく、被差別部落の成り立ちとあわせて説明しようとしてくれた人もいたけど、それはピントが外れているように感じた。 滅多に会う人でない、大学で何かを教えている、「教授」に専門外だけど、永年山登りを続けている人だから、「サンカに会ったことある?」と訊ねたことがある。答えは残念なものだったが、平成ぽんぽこのストーリーには、もしや、と確かめてみたい気持ちにさせられる。 深田久弥さんは「百名山」で著名な方だが、おいくつの頃の話かわからない、万場の山女魚を3尾おなかに収めて峠を越えて都会へと戻られた。 山稜が手を広げたような形に、平野部に伸びて、川はその指の隙間にある谷底を流れる。気候にも恵まれる山波と平野部の狭間に私たちの住む町はあって、歴史は幾重にも層をなす。 |
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