鎌倉




  小学校の修学旅行で「江ノ島・鎌倉」を旅したのが鎌倉へ行った最初で、その後は10度を越えて鎌倉を訪ねている。生れて初めてさわって見た海も、その時の江ノ島を背景にした片瀬の海岸での出来事。お土産物やの2階が修学旅行生相手の旅館といった風情の宿泊所だったが、夜はサーチライトのように回ってくる江ノ島灯台の光の束と、波の音とが枕元に届くのが相まって、大部屋で雑魚寝する集団の中にいても、旅する気持ちに遜色はなかった。

 モーターバイクの運転免許証を取得して、地図で道を覚えながら、私のモーターサイクル トラヴェリングのイメージも少しづつ遠くへと広がり、小さなバイクで鎌倉を日帰り旅行する頃には、そのことが一大冒険に感じる年頃でもあった。

 身近な風景を水彩画にして、少しづつ描きためていたのはイタリア、ペルージァでの個展を開きたいという思いからだった。京都、奈良の景色と同じように日本の古典を求める考えから、小さいトラックに荷物を積み込んで鎌倉を目指していった。西口にあった映画館で年とったヘンリー・フォンダとキャサリン・ヘップバーンがスクリーンに映し出される「黄昏」が上映されている年で、出かける前に知人を紹介してくれる人がいて、材木座に住む人の家に半月ばかり逗留して、食客となった。主は若いが人も好く、仕事の合間に海釣りに誘ってくれたり、小町通りをちょっと入った、役者の殿山泰司夫人のお店や、詩人田村隆一が顔を出す店等、地元の人ならではの案内をしてくれるのだった。
 使われていない小さいバイクも見つけてきてくれて、鎌倉の慢性マヒした道路交通事情に関係なく、藤沢、鎌倉、逗子、葉山を探検する隊員みたいに風景を求める行脚に役立てた。

 富士は霞んでうっすらと小さく見える。洋風建物のたたずまいが港に突き出す、鐙摺葉山港。手前に貸しボート屋があって、親父さんがボートをひっくり返して、舟の手入れをしている。サザンオールスターズの歌に出てくる日陰茶屋の、海辺のレストランの景色。
 大正の時代には大杉栄、伊藤野枝、神近市子といった人達のあやなす「葉山日陰茶屋事件」の舞台ともなった、料亭旅館の新しい欧風料理店。
 妙本寺、円応寺、藤沢の龍口寺の景色も描いていたが、このときの滞在で最後に描いたのがラ・マーレ・ド・茶屋の景色で、見る人にはそう説明しないとわからない程度の表現で海の向こうの富士山が描かれている。
 コスモポリタンな生き方をしている印象の女性、マリー・クリスチーヌという方が、当時日陰茶屋の女将だったと思う。
 
  今はもう人手に渡った私の生家は鎌倉街道に接する商家だったが、祖母の代にはそことは少し離れた街道の辻角にうどん屋を商っていた。サザンの原ぼうと少し違った歌い方で、「あきた秋山十二天 帰りは、、、」とうたわれ、往時を知る人達も今はなく、何かそれらしい形跡を探しても世代をへだてて残っているのは、家族の中にスパゲッティー等の麺類好きが居ること、そのことは何の証左にもつながらないけど、自分が納得するには充分な話で、イタリア人みたいにパスタの茹で加減を口やかましく言葉をはさむ男は、彼の国のようにカッコよく写らないらしいが、時折流れているうどん屋の血筋が騒いで、家人を困らせる。  

 初めて鎌倉へ行ってから正確には何度めになるのか、家族ドライブで車を走らせる。タクシードライバーになったつもりで町中の細い道を走り回って、知ったかぶりして道に迷って、少しばかり疎んじられても、それも旅の愉しさで、あちこち巡り巡って、観光にも疲れ、食料雑貨店の駐車場に車を停めて、地域住民を装ってショッピング。鰯の油漬け缶詰、イタリアの天然水と深入りコーヒー豆、どれも赤札の付いた売れ残りの半額セールといった品物ばかり、鎌倉で不人気の食料品は私の嗜好品、という思わぬ収穫に幼い修学旅行生の気分に戻って家路についた。