大正拾弐年一月元旦

 自分が住んでいる所から、さほど離れていない場所にそんな名前の神社があると知ったのは、ほんの極最近のこと。
 和歌、短歌に親しむ人達にしてみたら、知らない人はいないだろうと思われる、藤原定家の名のつく、定家神社。まだ行った事も無い社だが歌好きの人が祀られたり、祀ったりしていることは言わずもがなと、宮廷などからは遠く離れて身を置く立場に居ても、雰囲気だけは察知することはできる。

 年も明け、カルタ遊びの習慣もなくなった家にいて、出版されて間もない白洲正子著「私の百人一首」文庫本のめくるページが前後して、鉛筆で意味もないような印をつけながらパラパラと虚ろに眺めている。

 教科書の副教材として揃えた冊子状の小倉百人一首は堅苦しい気がして、取っ付きにくいものに感じていたが、表紙や角も傷み、背表紙も違った紙で補強されて、高校生のときに購ったものが今も手許に残っているのだから、自分のどこかに波長の合う何かがあるのだと思う。
 中学生のとき修学旅行で初めて京都、奈良を旅して古い都を思い描くことはできても、感慨は少なく、それから数年が経ち、いくつかの歌をそらんじられるようになって、その歌に出てくる地名とが重なり、薄い冊子の一番後のカンタンな地図は、百人一首の教則本を携える修学旅行生の思いをいっそう増幅させていた。

 木の箱に入ったカルタは札が全部は揃っていなくて、姉が嫁ぐときにも持ち出されることなく、いつの間にか私の手許に残った。木箱に収まっているからといっても上等とは思えない紙質と印刷の出来具合で、文字は万葉かなづかいといったものだから誰に見てとられることもなく在ったのだと思う。絵札は揃っていたので足りない字の札探しを始め、菓子折りの厚紙を使って同じ大きさに切り揃え、百首のカルタを対にして、定家が並べた歌の順番通りに木箱に戻した。
 傷んで汚れていた木箱を、ボンドでくっつけたり、雑巾で拭いたりしていて、箱の蓋の裏に父親の達者な筆使いで書かれた購入年月日を見つける。今の自分よりもずっと若い、母と所帯を持つよりも前の年号が記されている。
 巡り合わせというのは妙なものだと思う。父も私もどちらかといえば学のない所に生きて、時間を過ごし、過ごした生涯だったと思うが、誰に知られることもなく接点をこんなふうに見つけ、解釈、鑑賞、記憶力といった意識の高さ低さといったことよりも、そこからも離れた所で遊ぶ愉しさ、歌の読み方に接していたのだと思う。

 歌会始めのニュースを見るのも嫌いな自分が矛盾した思いを持ち。故、白洲正子、次郎夫妻の時折垣間見るかつての暮らしぶりに、自分の今と桁外れの相違を見ても、共感を覚えるのは定家の審美眼とその歌のもつ、きっぱりとした不文律にあると思う。

 百名山と呼ばれる山が日本にはあって、私はそれらの山を数えるほどしか登頂していないが、暗唱できる百人一首の数も同じ位か、それよりもずっと少ないと思う。白洲正子さんが生きておられて、私のそんな悩みを打ち明けられたらと、考えを巡らせるそばから、「そんなお話が文庫本の中には散りばめてあるのよ。」といった思いが伝わってくる気がした。