原点
朝、5時45分に起きて、掃除にかかり、交代で3人の食事当番が用意する朝食を7時に食べ始める。夏も冬も決められた時間は変わらなくて、冬の水道の蛇口が凍ってしまうような寒さの日には、お風呂の残り湯でバケツの冷たい水を割って館内の調度品を磨き上げた。 16、7才の少年から30才近い若い男性ばかりが20人以上も寝食を共にする集団には、異様と言えないにしろ、特別な雰囲気はあったと思う。 20代前半の3年間を、我が家のようにその家で過ごし、そのうちの1年半くらいは建物の北の端の2間つづきの座敷を仕事部屋として、ガマ編みと呼ばれる、椅子の座の部分をい草で編みあげる作業に明け暮れていた。 働き者の社長夫人も現役で、額に汗してそのガマ編みの作業に従事していた。ヴァン ゴッホの絵の中にもある、ラッシ編み、とも呼ばれるスペインの田舎の椅子作りに見られる製法など、もともと日本にないものだから、誰かが輸入したものをほどいて、素材探しやら、さして難しくはない作業工程を再現して、商品化したものだが、その多くは夫人の功績だと、随分と経ってから気づいた。 若手の見習いのような立場の者が3人位はいつもそこにいて、留守番の役割もしていた。 「浦松佐美太郎が今度来るのよ。」そこに居合わせる人達の誰もが知っている有名人といった扱いで、作業の合間に夫人からおしらせをいただいた。 私の他にそこに居合わせた人達の表情は思い出せないが、いちばん深く反応を示したのは、言い出した夫人よりも私のほうだと、今でも、何かの拍子にそのときの光景が浮かんでくるときがある。 何度も繰り返し読み返した本ではないが、山好きな浦松佐美太郎がヨーロッパを旅して、山登りに興じたり、山宿に泊まったりしたことをつづった話は、沈殿するように、コーティングされた層のようになって、変わらず残っている。 今ではない、黎明期、登山史の夜明けの頃といってもいい時代の話の作者張本人が、あと何日もしないで、自分の住んでいる、この松本民芸生活館にやってくる。 ワクワク、ドキドキした。 池田三四郎社長と浦松佐美太郎氏の対座する和室の座卓の脇に、死刑囚のごとく硬直しながらも、擦り切れて、傷んだ1冊の本を、差し出すように持つ私を、キクヱ夫人が、ニコやかに、ひき会わせた。 「よく持っていたな。」 ニッ、と眼に光のある笑いを浮かべ、三四郎社長が眼線を私の方に投げてよこす、私は「へっ。」というような顔をして、「此処にも居るんです、こんなのが、」と内心思ったことは、同様に、佐美太郎氏に顔を向ける三四郎社長の表情にも、眼の奥に見てとれた。 1958年に文芸春秋社から出された、浦松佐美太郎著、「たった一人の山」を今手にして、あらためて見なおしてみても、魅きつけられる。 私自身の内に、憧れと同義の西欧コンプレックスのようなものが何処かに潜んでいるとしたら、このあたりを原点に発芽していったように思う。 山は真実の姿で いつも大空に聳えている という言葉を、中表紙に書いて頂いた。浦松佐美太郎氏から直接頂戴した言葉だが、本人も、その場に居合わせた証人となる御夫妻も、今はなく、その後、マネ事のように出向いたヨーロッパアルプスの峰々はたがわず、空に高く聳えていた。 |
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