エスプリ

  新年の挨拶と一緒に、休眠状態だったコンサートホールを再開するという案内を頂戴した。昨年何かの折に伺った際にはどんな理由でか、施設のあちこちが取り払われ、「いったい、どうして、何があったの?」と、複雑な法律がからむ背景に首をかしげ、誰とも見えない相手に、端にいる者の自分でさえ、やる方のない憤まんを覚えた。
 Sさんの主宰する、そんなコンサートホールが再開されると知り、お言葉に甘え、普段着のまま出掛けていった。

 林千枝子(メゾソプラノ)無伴奏ソロライブ
 ジョルジョ・アペルギス<レシタシオン>全曲演奏

 無知なもので、タイトルを眼にしてもコンサートの内容を想像すらできないまま、以前とどこが変わったのか解からない、会場を訪ね、その補修工事の大変さをねぎらうようにSさんに声をかけると、いつもと変わらぬ様子で、「あちこち穴が開いちゃって、」と修復工事の後が残ってしまった事を言葉少なくもらされた。
 時間がきて、声楽家は横に細長い楽譜の前に立つ。耳を傾け、演奏が始まる。

 ほんのごくまれに、それは自分の思い込みだが、映画や何か物事が「自分の為だけに特別用意され、作られた。」と錯覚と言いたくない感情を持つときがある。1900、ミッレノヴェチェントと題された映画をTVで観ていたときも、しょっちゃて、「これは私のために作られた作品だ、」などと、1人悦に入って。TVに向かってうなずいていたりした。
 いわば、ささやかな倖せものの、どこか足りない話だが、自分では上手に発音できない「レシタシオン」と言う言葉を小声でつぶやいてみる。その日の演奏会は、それが又、巡ってきた。

 ときどき眼を開いて演奏家の姿を確かめてはみるが、眼を閉じるとイメージが広がり、千変万化する、作曲者の遊びを十二分に表現されて、日本語にするとなんて意味なのか解からないが、生のエスプリのシャワーを全身に浴びる感触に、得心した自分が又、誰にも何にも言えないで1人でニヤけている。
 
 声楽家は、演奏する、と声を出す表現法を説明した。作品をご自分の身体を演奏楽器として使って、体現された。
 コンサートホールも同じように、音を包み込み、久し振りに体躯の隅々に音をしみわたらせ、その役割を実感したと思う。

 音楽会に又、出掛けてみよう。補修の穴にエスプリのカケラが引っかかって残っていたら、内緒でポケットに仕舞って持ち帰ろうと思う。