病室の高窓




  夏の茹だるような暑さと祭りの喧騒も去って、絵を描きに来た筈の街中に戻ってきたのは九月も終わりに近い、季節の境めの頃になっていた。
 カテーテレと呼ばれるシリコンチューブを体内に差し込んで、黒いプラスチックでできている三角錐の栓で尿がもれ出てこないように止めてある。寝るときは冷凍パックの密閉式のビニル袋に似た容器にチューブをつないでベッドの枠に吊り下げる。

 八月の暑い時期に尿道が詰まって排尿ができなくなり、もがき苦しんで緊急収容されたのはシエナの大聖堂の広場をはさんだ向かい側にある病院だった。
 1ヶ月の病院暮らしと、その後の、週に一度は病院に出向いて診察を受け、薬をもらったり容態を見てもらう通院も、1ヵ月は必要ということで、ただでさえ宙に浮いたような、宙ぶらりんの海外イタリア生活も此処に極まれり、といった時間を過ごしていたと思う。
 入院していた病室は5人分のベッドが並び、古い建物だが天井も高く、部屋の広さにも余裕が感じられた。同じ病室に入れ替わり入院してくる患者は、症状も様々だが、同病相哀れむの例えのとうり、言葉や容姿に違いがあっても、大抵はそう時間もかからず、仲間意識みたいなものが通じるようになって、そこにいる者の中にあっては私が物珍しい日本人ということばかりでなく、年齢差も問わず友人関係のようなものができあがっていった。
 担当医をはじめ、病院機関に働く看護、医薬、調理、介護、清掃、事務などの役割分担を受け持つ人たちの仕事を間近に体験する機会となり、快方に向かうに従って、置かれている立場も深く考えず、古いつくりの病室、病院に好奇心すら湧いてきて、もしかしたら一般的な事ではないのかもしれないが、そのときの私は厚遇に授かっていたと思う。
 週に一度、司祭服というのか、一目で、キリスト教会関係の人とわかる服装をした人が病室を訪れ、各自のベッドまで来て見舞いの声をかける。入院している人の家族の相談にも耳傾けていた。
 カメラ店の夫人、フランチェスカが特産物のお菓子をひと包み抱えて、病室を訪ねて来てくれたときは、誰一人知る人の居ない土地の筈なのに、とビックリした。先の週に一度やって来る神学者が、セルジョ、フランチェスカ夫妻の営むカメラ店で、「東洋人が一人入院してる。」と話題にあげ、この街に来て何度も声を交わしたわけではなかったが、私のことを覚えていてくれたセルジョが、夫人をつかわせてくれたのだった。
 同じ建物に下宿している日本の人とも連絡がとれ、リュックサック1つの少ない荷物の片づけと一緒に部屋を引き払うこともできた。

 病室の高窓は、何かちょっとした台の上に登らなければ開閉することもできない不便なつくりだったが、窓際の角のベッドにいた私は少し元気が出てきて、台の上に登れるようになると、外の景色を眺めたり、隣のベッドに寝ている爺さんの好みに合わせて窓を開け閉めする役もしていた。

 長いことといっても30日ほどだが、ベッドから離れられずに身動きもとれずにいて、街に出て来てから感じるのはまともに歩けなくなっていることだった、30分もあれば歩けた道程が2時間はかかる。
 退院できて喜ぶのも束の間、残る通院期間の間の下宿探しに困って、お礼もかねて退院報告に立ち寄ったセルジョのカメラ店で、そんな事情を話すと、セルジョはお母さんの持つ下宿のひと部屋を紹介してくれて、家賃は私の描く水彩画1枚ということに、話もすすめてくれた。病院の中のひと達もそうだったが、見ず知らずのくたびれた雑巾か、捨て猫みたいな風体の、それこそどこの馬の骨とも解らない者を対等に扱ってくれていることが何より嬉しかった。

 診察を受けに通う病院の、診てくれるマッテイ医師の背後の窓の向こうに、サンドメニコ教会の建物が眺められる。元気に絵を描いていたときにはそれとは知らず、遠くからこの診察室の窓も風景画の中に細かく描き込んでいたことに気づいた。