アイル オフ マン

 「レース観戦目的のお客様の宿泊はお断りします。」
 地の果てといっても大袈裟にならない程、自分の生れた土地から離れた所にある宿の入り口には、そういった内容の張り紙がしてあった。

 ロックバンドグループ、ザ・ビートルズのメンバーが若き頃たむろしていた港町リヴァプールからフェリーボートに乗り込み、英国はアイリッシュ海の中ほどにポツンと米粒状に地図にも載っている、アイル オフ マン。ダグラスという港町から路面電車とバスを乗り継ぎ、安宿を探して辿りつくと、くたびれた旅仕度の異邦人は扉を開いて、主人に数日の宿泊を乞う。つんと鼻をつく床板に摺り込まれたワックスの匂いと、暗い室内、客室に通されて、荷物をほどき、寝床を見つけて、ようやくそこで一息ついた。

 緯度は日本より10度ほど高く、離れ小島の天候は変りやすい。モーターサイクルウィークとも言える6月上旬はヨーロッパ各地からは無論、ときどきアジアの外れの島国からもこうして、その時間を共有しようと人は訪れる。

 マン島に到着するまでの間、船の中でずっと後悔し続けていた。

 催しの開催期間の中頃、中途半端な時期に島に渡るということもあって、乗船客は多くなかったが、ほとんどの人達が、パートナーといえるモーターバイクを従えて船に乗り込んできていた。少し傷んではいるものの機関は程ほどに手入れされ、その島を走り回るにも充分な性能を秘めている自分のバイクを故国に残して、単身上陸することは、レンタバイクという手法があっても、島での常識や価値基準からも大きく外れることを意味していた。

 若い日本人ライダーとビアンキ伯爵が会話している。「ヨーロッパで会いましょう。」と約束して返事する場面もあったと思う。小説の中での出来事、1シーンだけれど。それを読んだ私も自分の中のどこかで、そうしよう、と漠然とだが、決めつけた。
 松本市の家具工場に働き、昼めしを食べながら見上げる町食堂のT.V.ニュースに一瞬映った、イタリア三色旗色に塗り分けられたヘルメットを被るライダーのレースシーンも、動く映像がより現実へと結びつける。ただ、寒いフェリーボートの客室には再会の約束を果たす相手もなく、船倉にマウンテンコースと呼ばれる道を駆け抜ける自分用のモーターバイクも眠っていない。

 ユースホステルは、どこの土地でも本当に辺鄙な場所にある。そんな悪態などつける身の上でもないから、簡素な食事もありがたくたいらげ、1日おきにあるクラス別のレース観戦にバスや鉄道を使って、島のあちこちへ繰り出して行き、報道カメラマンみたいな顔をしてシャッターボタンを押した。
 
 随分と経って、ひょんなことで知り合ったアイルランド人にそんな話をしてやったら、「黒ビールは飲んだか?」ときり返され、含みのある笑いと、知らない奴だな、という意味あいが、自分の、「飲んでない。」という返事の向こうに、残念という顔をした彼氏の表情に同居していた。