【高崎線の開業と旧下忍村】

 上岡良氏「吹上ステンショ物語」によると、高崎線開業当時の人々のようすを次のように言っている。

「見物人は途中の畑や畔にむしろをしいて「魔物」の通るのをおっかなびっくり待っていた。遠くから来たものは吉見や行田から来て、弁当持参で見たという。『あぶねエから、あんまり近よらねエほうがよかんベェ』 『なんでも、開いた話によると、でかいずうたいがまっくろな煙を吐いて、ものすごいうなりを立てて通るんだとさ』 『そうだってなァ、怒ったようなつらアしてそばを通るときなんざア地ひびきがして、眠がまわるって話だ』 『子供なんか遠くで見てろ、かぶりものなんかしっかり結んどかねェと首ごともってかれちゃうぞ』」−「吹上郷土読本」から引用−

 明治14(1881)日本鉄道会社が設立されその最初の事業となったのが高崎線(当時は中山鉄道)である。官営富岡製糸に代表されるように有数の製糸業地帯である高崎付近の生糸を横浜などの貿易港に運び出すためであったという。翌明治15(1882)91日川口で起工式が行われ、翌明治16726日には上野〜熊谷間の工事が完成し、翌明治17(1884)には並行して工事が進められていた熊谷〜高崎間と接続され、上野〜高崎間の高崎線が開業した。吹上に駅ができたのは明治18(1885)であった。

本稿の取材のなかで樋ノ上の老人と話す機会があった。翁によると「本来高崎線は現在の国道17号熊谷バイパスがある辺りを通る計画であった。日本鉄道会社の技師が測量までしていたのだが**の**が(あえて伏字)大反対したおかげで鴻巣から大きく曲がり吹上を通ることになった。」という。「行田が高崎線の通過に反対だったので吹上を通ることになった」という話は昔からよく聞いていたが、実は旧下忍村が反対をして・・というのが真相であるらしい。

明治期の鉄道建設は近代国家(産業国家)の基盤造りであった。地中に張る根のように養分を循環させ太い幹やたわわな枝、滋養ある果実を実らせる基となった。一方で農村は都市への人口流出、軽工業の割安な原料供給地として収奪された。先に揚げた「旧下忍村の人口動態」は、旧下忍村が現代と近世との狭間に位置していたのが見てとれる。吹上に開設された駅は磁石が砂鉄を吸い寄せるように人々を引き寄せた。

リーダーが「地ひびきがして、眠がまわ」っていたのではいけない。街造り百年の大計を立てるべきときに迷信に惑わされるのではなく、横浜の街の賑わいを実地検分すべきであった。「近代化」と産業構造の変化が鉄道>産業国家化によりもたらされることを予見すべきであった。埼玉県は“近代化の父”渋沢栄一の出生地である。翁の同時代人に先見性を期待するのは酷であろうか?

資料【国民純生産で見た生産構造の変化】(単位:%)

年次/産業

第1次産業

第2次産業

第3次産業

1955

23.1

28.6

48.3

1960

14.9

36.3

48.8

1970

5.9

43.1

51.0

1975

5.5

37.3

57.2

1980

3.6

37.8

58.6

1985

3.1

37.5

59.4

1996

1.8

33.7

64.5

http://www.esri.cao.go.jp/jp/sna/h14-nenpou/3main/3gdp/1nominl/90fcm3n_j.xls

駅周辺が開発され、人口・産業の集積がおこり、飽和状態になると周辺の開発が行われ、というのがこれまでの市街の発展パターンであった。少子高齢化・人口減少が予想される将来において街の発展はこれまでのパターンの延長ではないのかもしれない。