行田市合併への経緯
作者:元埼玉県議会議員・元行田市議会議長 荒井藤次氏
(2000年1月28日 82歳で他界)
今回、下忍公民館より「行田市への合併の経緯」について原稿執筆を依頼され、昭和二十九年四月から三十一年四月まで二ケ年に及ぶ合併紛争の資料を四十年ぶりに埃を払って整理してみると、生々しい当時の息づかいが昨日のことのように感ぜられ、全く感無量の心地であった。
当時私は、その前年、昭和二十八年十二月十三日帰国するまで約八力月、第二回派米農業実習生として米国カリフォルニア州に派遣されていた。帰国後二十九年八月下旬、当時の下忍村の四Hクラブ(農事研究会)会員約二十名とともに、前年派米実習生として滞米中終始行動をともにした石川県の東元安氏の地元で、彼がリーダーをつとめていた農事研究会の会員宅に分宿して、主として稲刈り作業を中心とした農業研修に参加していた。八月末に帰村してみると、わずか二週間足らずの留守の間に村は二分されて人変な対立の空気が渦巻いていた。
二九年四月以来、町村合併推進法の施行に伴う全国的な町村合併の嵐の中に、下忍村も有無を言わせず巻き込まれたような騒々しい空気に一変していた。当初下忍村は、明治初年以来北埼玉郡という行政区域の中で比較的教育文化のレベルの高い平和で告かな村と自負し、経済的には行田市の経済圏、村の主流である農業も水利を含めて行田市周辺の農業と一体感が深かった関係から、行田市への合併が自然の流れと考えられていた。
一方では当時の村の指導者の政治的思惑、町付合併問題に関する先見性の不足、行田市・吹上町の指導者の下忍村に対する認識の軽重等のくい違いにより、不幸にも吹上町に隣接する大字下忍(下分)、大宇鎌塚、大字袋の三字と行田市に近接する大字下忍(上分)大字樋上、大字堤根の三字に分かれ、それぞれ吹上合併派、行田合併派に二分される状態に陥った。
私は当初から、米国という拡大な新天地のフロソティアスピリットとでもいうか、広い視野から事態の本質を見直すべきだと信じ、下忍村を見つめ直し、ー村を挙げて行田市との合併、あるいは一歩進めて下忍村が仲介する立場で、行田・吹上・下忍の三者大同合併の可能性を検討すべきと思料していた。残念ながら事態はは急速に進展し、思いがけなくも私の父が行田市合併期成同盟の会長に推されるようになった。
私はそのころまで前述のような考えで冷静に事態静観の立場に立っていたが、ある日突然、当時の行田合併派の村議五名全員で私に面談を求め、「このままでは吹上合併派の多数暴力の前に屈し、心ならずも吹上町に合併することになる。あなたも傍観者の立場でなしにー期成同盟会長の父親に孝行する心構えで期成同盟の運動に参加してほしい」と要請され、以来行田市合併捉進運動の一員として参画することになった次第である。
以来ー私が携わった合併運動の経緯を日時を追って当時の資料をもとに記録すると別掲のようになる。さらに、当時の膨大な資料の中から主な生々しい資料を整理し、索引をつけて下忍公民館に寄贈したので、関心のある方はご覧いただきたい。結果としては、現在の行政区域のように、下忍村は行田市と吹上町に分割合併になったのであるが、今でもなお、これでよかったのかという反省の感を深くする。特に大字下忍上分の小字西裕と吹上町との境界線を、一旦は当方の主張どおり県が提案した清水落しと決定しながら、吹上町の政治的圧力により現況のような複雑な境界線に変更されたことは、まことに取り返しのつかない痛恨事であった。
あの当時の状況からすれば、この決果が一応の目的達成と言われたわけであるが、最近とみに提唱されている本格的な地方の時代の確立、地方分権推進法の成立、広域行政、広域合併の必要論が提唱されている。行田市と吹上町との合併、さらに一歩進めれば高崎線経済圏としての熊谷との合併、十七号熊谷バイパスが名実ともに関東平野の中央を南北に貫く経済動脈「上武国道」になり、この国道と高崎線の交通網を中心とした県北中核都市の中に、行田市が大きく脱皮することも夢ではないように思う。そのためのワソステップとして行田市との合併は意義づけられると思う。
町村合併紛争は、一種の熱病のようなものだったのかもしれないの別掲の経過記録の中に簡単に表現しているが、新築して数年にも満たない下忍付役場に行田派吹上派こもごも大挙して乱入し、村長以下を糾明した不特定多数の陳情合戦、樋上宝珠院に行田派が大拳集結して、村長提案により一方的に吹上町に一括合併を議決した島崎村長を吊し上げたときの燃え立つような熱気、吹上町の田沼町長に向かって吹上町との合併反対の大陳情団を動員し、町長は町役場に不存と知るや大挙して私宅に乱入し、忠臣歳の義士討入りもどきに各部屋を全部捜し回り、あげくの果て、私は首謀者として吹上駅前通り派出所に一時軟禁される始末。二回にわたり県の小委員会に代表二名が呼び出され趣旨説明をする機会に、合併期成同盟会員がバス二台に分乗、県庁玄関前のロータリーに横断幕を張りめぐらし、声をからして行田市合併を絶叫したあの熱気、当時人づてに「荒井はこんな町付合併運動に参加させるためにアメリカに派遣したのではなかった」と大澤雄一知事が慨嘆されたと耳にし、一瞬絶句したこともあった。
三十年十月一日、一たん吹上町に一括全村合併することになったときが、正に最大の合併運動の危機であったと思う。別掲資料にあるとおり、その時点で行田合併派は、九種類のチラシを用意して動揺阻止に備えた。なお十月一日の早朝、大字下忍(上分)、樋上、堤根、それぞれ村社の社頭に同盟会員参集、行田市合併祈願祭を挙行し、行田市合併宣誓書に全員の署名をした。
さらに吹上町が企画した十月十五日を期して新吹上町発足祝賀事に全員不参加を決め、祝賀パレードが行田市合併派の地域に進入することを阻止し、主要道路に「ピケ」を張って気勢を上げた。よくも一糸乱れぬ結束が保たれたものである。
時あたかも敗戦後十年、虚脱の中から立ち直り、戦後復興の機運がみなぎり始めたころとはいえ、郷土愛の心映え、地方自治に対する関心は、泰平をむさぼり、豊かな生活におぼれ切った現在よりはるかに高かったのではないかと思われる。
振り返れば雲煙漂渺四十年前の一こまではあったが、現在の下忍は、その冷厳なる結果を踏まえて生活していることも事実である。世界は今、冷戦後の新しい羅針盤のない不確定な時代を漂っていると言っても過言ではない。祖国日本も明治維新、昭和敗戦に次ぐ第三の開国と言われる誠に不安定な、いわゆる激動の時代を迎えている。当然地力自治体も私たちの行田市も、さらに愛する郷土下忍も大きな変化の時代を迎えようとしている。
今この思い出の記録を擱くに当たって、県の審議会に設置された下忍担当小委員会に私と一緒に出席され、また全県下の小委員さんの自宅を陳情行脚に苦労をともにされた堤根の山崎茂さん、樋上の小河原好雄さん、二人とも既に亡く、三十年四月村議改選前後の期成同盟代表役員の中で健在の方は、樋上の高橋三千男さん、堤根の岩崎正市さん二人になってしまった。 何とぞ、私たちの時代を継ぐ次の世代の皆様に、このささやかな思い出の記録が何がしかの心の支えになっていただければ幸いである。