作者プロフィール
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ハンドル名 びーすけ(我家の愚犬の名前)
年齢 ポスト第1次ベビーブーマー???
ファミリー 妻、娘、父、母、兄弟姉妹
現在の仕事 児玉高校教員
休日の暮らし DIYの日々
これからのこと 南の島に行きたい(よくある願望)
読物・ネットワークづくり(暇だったらお読み下さい)

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転勤したらパソコンがない
はじめてのパソコン通知表
苦労した通知表の印刷
1台のプリンタで300人分
理解ある事務室長
スタンドアローンの地獄
情報処理部の発足
放送室からサーバー室へ
校内Webの立ち上げ


 この学校にきた当初は、何か新しいことをやってみたいという気持ちが強かった。そしてこの年に、パソコンを買うという、今思えば画期的なことがあった。93年のことだ。当時最新の486のNECのモノクロノートパソコンだった。24万円は夏のボーナスから。この大出費はけっこうな決断であった。以前より書院ワープロを使用していて、簡単な表計算の「味」は知っていた。転勤の直前に学校にNEC98FA(i486 SX16MHz)が入り、HDDも付いていないパソコンながら、フッロピーで起動するロータス表計算の早さには感動するところがあった。個人的にクラスの仕事に使ってみて、驚異的(その時の気持ち・・・)に仕事が早く終わるので、うきうきしたものである。
 ところが転勤したら自由に使えるパソコンがない。仕事の道具を自分で支出するのは悔しいが、興味が勝っていた。こうして自分だけで「こっそり」楽に仕事をしていたところに、翌年、商業教室の生徒用パソコンの入れ替えがあった。今までのNEC88から98に代わり、DOSながらロータス123と一太郎が入った。
 ここから先の話しは当HPの「学校LANの課題・他」の中で年表形式にまとめたが、パソコンによる通知表の発行については、自分の所属する学年の先生方がよくも一緒にやってくれたと今だに感謝してしまう。他学年の一部からは異議も出たのだが、私としては不思議なくらい平常心で「突っ走れた」のだ。パソコン2年目の初心者が随分大胆な冒険をしたものだと思う。
 苦労したのは通知表の印刷だった。今では名前も忘れてしまった、あの両サイドに穴のあいた用紙が、ギーギー音をたてるドットプリンタから排出されてくる。全然きれいに印刷できない。どう見ても手書きの通知表の「格式」には負けてしまう。私などはそれでも良いと思ったのだが、けっこう「権威主義」的な学校では、ぺらぺらな通知表など受け入れられない。と、そうしていたら進路室に新しいNEC98BAが1台入った。しかもWindows3.1が動き、当時最新のエプソンLP8000SXまで付いていた。
 この1台のプリンタからその年に300人分の通知表が発行された。翌年からは、他学年でも希望する担任がパソコン通知表を使うようになり、Windows3.1上のエクセル5.0がフル稼働して、それでも成績出しの日には「待ち時間」がでるほどになった。
 天の助けというのか、96年に、当時としては情報機器に理解のあった事務室長が、パソコンやプリンタなどの予算に配慮してくれて、パソコンとレーザープリンタ3セットが入った。前年発売されたWindows95が搭載されていて、これは凄いと思ったものだ。
 以後、年々パソコンを増やしてもらい、職員室、研究室等でスタンドアローンで表計算ソフトをつかった成績処理が展開していった。97年には確か7〜8台のパソコンに24クラスの成績ファイルを分散させて運用していた。担当(といっても正式な校務にはなっていなかったが・・・)していた私は、シーズンがくるとあっちこっち駆けずり回ってファイルをコピーし、バックアップ管理を行っていた。自宅にも持ち帰って、面談資料にして担任に配布したり、この年にははじめて調査書のパソコン発行にも踏み切った。コンピュータを使っているのだが、何やら手仕事的な感覚になっていた。当時は進路指導の仕事をする一方でこんなことをやっていたので、目が回るような日もけっこうあった。
これじゃ続かない。これは、きちんと校務に位置付けなければだめだ・・・。」と思っていた時、たまたま学校の問題をいろいろ論議する委員会があって、分掌としての情報処理分掌の発足を提案させてもらった。委員会内に小委員会がつくられ、これが準備会となって他の分掌との調整も計りながら翌年「情報処理部」が5名の定員で、視聴覚機器部門も引き受けて発足した。ものごとにはタイミングがあるもので、この準備段階の途中で、たまたま立ち読みした雑誌のイラストが校内ネットワーク構築のヒントにつながったのだった。
 LANなど、その言葉さえ知らなかった私だが、ケーブル張り自体は出来ると直感できた。そして、自分の家にある2台のパソコンでまず実験をした。2枚のネットワークカード(NIC)とクロスケーブルで、教科書は本屋で買った「はじめてのパソコンネットワーク」。とにかくつながった。規模が大きくなってもやることは同じ。あとは体力勝負だ。
 情報処理部初年度の2つのテーマが決まった。1つはDOS/Vの組立パソコン。パーツを購入して11台のDOS/Vマシン(AMD k6-2)を新規に導入。これには協力者も多かった。校内のパソコン人口も増えてきた頃だ。端末が20台を超えたところで、次のテーマがネットワーク接続である。98年の秋、いよいよネットワーク工事にとりかかることになった。

 前準備として、この年の夏休みに従来の放送室の整理に着手した。ネットワークをつくる以上、サーバーを置く場所が必要だと思ったのだが、職員室は手狭で置けず、考え得る場所は放送室しかなかった。新しい投資が出来ず、既存の設備に割り込む形で何かをやるにはどこの世界でも抵抗のあるものだが、関係者にやや無理に理解をしてもらって、「間借り」することが出来た。もっとも、ネットワークが発達して、この場所が学校情報の核に発展して行けば、旧来の放送室の意義が別の形で発揮できるとも思える。大げさに言って、そんな熱意もあったと思う。
 汗の流れる暑さの中で実感したのは、ここをサーバー室にするには空調が必要ということだった。お陰さまで翌年の夏には小型のエアコンを設置してもらって、サーバーは安定して運転されている。
 9月中旬、やや涼しくなりはじめた頃、いよいよケーブル引きの作業に入る。工事計画はサーバー室に近い職員室、進路室、保健室、事務室、上階の社会科と英語科を第1段階とし、理科、図書館、家庭、体育等の遠隔区域を第2段階として、合計約2週間の工期で実施した。さすがに別の階への通線などは手伝って貰わなければならなかったが、廊下天井へのケーブル張りなどは一人で出来る作業だった。何事もはじめると勢いで片を付ける性分なので、休日にも出勤して誰もいない校内で「奮闘」した。作業内容については、このHPで詳解させてもらったが、殆どトラブルなく予定どおり10月上旬には計画は終了した。総延長約1000mの工事であった。パーツショップのすすめでカテゴリー5のツイストペアケーブルを使用したので、後々、HUBを交換して100BaseTXに対応させることも可能だ。校舎全体の基幹が一応完成したので、翌年以降の拡張は少しの工事で簡単に済むようになった。98年10月12日、ファイルサーバーにWebページを立ち上げ、校内ネットワークがスタートした。
 表計算ソフトによる成績処理システムも改良し、学期末の仕事の効率化をすすめることが出来た。
 99年6月には、県からインターネット接続予算がつき、ようやく校内LANからインターネットに出られるようになり、本年2月には学校のホームページも公開できるようになった。