コスタリカのココ島ダイビング・クルーズ紀行
   −初めての中米上陸、船上8泊のクルージング、12日間の中長期間の旅−
 
【2007年8月16日(木) 出発前日】
 
 相変わらず仕事に対して根が詰まり過ぎている。神経の消耗だ。これではダメだ。反省しなくてはだ。心構え、自己身体の自然存在状態を整地する必要がある。
 
 通常の8時間勤務を終え、バッティングセンターへ向かった。
 
ここ2年間程だろうか、ほぼ週1回ペース、1回あたり少ない時で40球、多い時で100球位の打撃訓練球数の積み重ねにより、150キロの剛速球に既に眼は慣れている。後は体、特に下半身がジャストフィットで、向かってくる動球に対応できるようにするだけだ。左打席の方が右打席よりシャープになった。流し打ちかセンター返しばかりだった左打席だが、最近は、右中間へも鋭い打球を飛ばすことができるようになった。

修行の成果が、打撃経験の長い右打席より、遥かに期間としては打撃経験の浅い左打席に現れ始めた。なぜか? 答えは簡単だ。僕の右打席には、小学校3,4年の頃から長年積み上げた、下手な癖が付いてしまっている。が、左打席には染み付いた癖は無く、全くの初心、純な心体構えで剛速球打ちの修行に当初から臨むことができていたからだ。
結果が出た後でその原因は分かるが、左打席の方が上達するだろうことなど、全く予測が及びもしなかったことだ。
右打席の癖、インパクトまでか遠回り。この癖の修正は可能だろうか? 少なくても今日、明確に意識化できたわけだから、今後多少の改善が図れるかも知れない。努力しだいだ。
 
今日は昼食に「めん郷」のネギメンマみそラーメン、夕食はさんま、菜の花、白菜の御新香、ひじき、ごはん、みそ汁。昨日はうな重、一昨日はぶりの照り焼き。出発前の心残り、食べ忘れは無い。荷作りも完了、胃整えも良好。明日はアメリカのヒューストン、そしてコスタリカのサン・ホセだ。
 
 
【2007年8月17日(金) 出発】
 
 15時55分発コンチネンタル航空006便は予定通りに成田からヒューストンまでを11時間10数分で飛んだ。残念ながら窓席を取ることができなかった。アメリカ西海岸の上空付近からロッキー山脈、山岳砂漠地帯を越えヒューストンまでに、あまり雲は無かったようだ。窓席だったなら、アメリカ大西部を上空からじっくり見ることができたはずなのに残念だ。各席に備わっているテレビ画面に移る航路によると、ネバダ州ラスベガス上空、アリゾナ州のグランド・キャニオン国立公園上空近くを飛んだようだ。アメリカ大西部の鑑賞は、帰路にかけよう。
 
ヒューストンのジョージ・ブッシュ・インターコンチネンタル空港は、去年末のペルー旅行の時にもトランジットで寄った。今回は帰路でこのヒューストンに1泊する。
ヒューストンからサン・ホセへの乗り継ぎ便(CO1499)の出発が3時間も遅れた。雷雨の影響によるものだ。4時間程の乗り継ぎ時間の予定が、空港に7時間もいることになった。この辺りでは雷雨の発生がよくあるのだろうか? そう言えば、前回のペルーからの帰国途上、ヒューストン空港への着陸前、機下に広がる雲海に稲妻が幾筋も走っていた幻想的な雷の光景があったことを思い出した。
 
乗継便の待合中に2人の日本人と話すことになった。一人はアルゼンチンへ向かおうとしている若者。母親がアルゼンチン人で、彼一人で初めての里帰りをしようとしているところだ。トランジットの仕方に不安があり、同じ日本人の僕に聞いていたのだ。「これでいいのだよ。」と話してやると、彼は安心したようだった。彼の母国アルゼンチンまでは、まだここから9(11?)時間?だそうだ。
 
もう1人の日本人は僕と同じピンク色のタグをバッグ付けていた。僕と同じダイビング・クルーズ船に乗って、ダイビングをする人だ。少し話を聞いたら、何と僕と同じ埼玉県の川口から来たそうだ。Sさんと出会い、クルーズ船の4人部屋は全員が外国人だろうと予測をしていたが、日本人と同室の可能性が発生した。
 
サンホセ着、夜11時。日本との時差は15時間、日本時間だと翌18日の14時だ。日本を出発して22時間が経過している。雷雨による遅れがなければ、19時間位で着いていたはずだ。
ホテル「バルモラル」はサン・ホセの中心部にある。空港から20分位だったろうか。チェックインは、ちょうど夜中の12時だった。送迎車の運転手が英語を話せず、サンホセやコスタリカについて全く聞けなかった。
 
 
【2007年8月18日(土) サン・ホセの目覚め サン・ホセ中心街の風景
プンタレナス港からアグレッサー号に乗船】
 
1010分だぁ。朝食の時刻を過ぎている。」
さっと着る物を付けてエレベータで一階へ降りレストランへかけ込んだ。何か様子がおかしい。朝食に間に合っている。メニューを取り寄せ眺めた。オーダー(注文)に戸惑うこと数分。時計をよく見ながら気がついた。10時過ぎではなく7時過ぎだった。現在時刻は715分。なんだぁ、モーニングコールは920分に頼んだのに、2時間も早く起きてしまった。ゆっくり眠ってたかったのに。まいったぁ。
やっと決めたメニューは、クロワッサン、マンゴ、パイナップル、スイカ、バナナ。コーヒーとオレンジジュース付き。おいしかった。でも、9時半の朝食の方がおいしかったはずだ。何で2時間も早く起きなくちゃいけないんだ。時計の見方を間違えた自分が悪い。What a bad luck at the first morning in COSTA RICA. Its my own fault.
 
朝食後ホテル前のサン・ホセのメインストリート?のビデオ撮影に取り掛かった。撮影中、ヨーロッパ人らしい若者から声をかけられ、「バス停はどこか?」と聞かれた。返事は、「I dont know. Im Japanese.」。僕からの質問は、「Where are you from?」。 彼らカップルの答えは、「We are from Russia.」。
何と彼らはロシアから来たロシア人だった。ウラル山脈より東、モスクワから3000kmの何とか言う所から来たそうだ。びっくり。ロシアの田舎人がこんな所を旅しているのか、世界は近い。でもよく考えると日本の田舎人(僕)がこんな所を旅しているのだから、何の不思議もない。
 
タクシーでダイビングスタッフにピックアップされるアルタ・ホテルまで走った。そこで昼食。2時、送迎のバスにピックアップ。
プンタレナス港まで2時間半。途中寄った休憩場所の隣の土産店で、動植物が描かれたカラフルなTシャツが目についた。早速、僕は1枚購入した。いいデザインだ。ジャングルに花が咲き、鳥がいてライオンがいる。これがコスタリカなのだろう。
 
 
夕方5時過ぎ、プンタレナス着。プンタレナスは「砂の岬」という意味だ。ニコヤ湾に長さ5キロ程の細長い砂州が突き出ている。
 
「オケアノス・アグレッサー」に乗船。思ったより大きくない。
スタッフによるブリーフィングがあり、部屋割りが知らされた。日本人のSさんとは同室ではなかった。案内されたのは事前に知らされていた通り4人部屋。狭い階段をを下り、船体下部のキャビン、その最前方の4人部屋だ。この4人部屋を僕と後2人、計3人で使うことになった。1人はヨーロピアン風の若者、もう1人は中南米人風のおじさんだ。
 
彼らとこのキャビンに89日の寝泊りをする。
 
Im going to stay in this cabin with two foreigners named J. G. P from Uruguay South America and J. J. from Denmark.
(僕はこのキャビンに2人の外国人と一緒に滞在する。彼らの名前は、南米ウルグアイから来たJさん、そして、デンマークから来たJ君。)
J.G.P. runs a cleaning manufactory in Montevideo,the Capital city in Uruguay.
J. J. 24years old is a Univercity student majoring in Media. He lives in ,the second biggest city named Århus inside the ユトランド・ペニンシュラ in Denmark.
(Jさんはウルグアイの首都モンテビデオでクリーニング会社を経営している。
デンマークから来たJ君は24才、メディアを専攻している学生だ。彼の住んでいる所はデンマーク、ユトランド半島の内陸部にあるデンマーク第2の都市オーフスだ。)
 
 2段ベッドで構成されたキャビンの1階の方の広いベッドは体の大きい彼らが使い、2階の小さなベッドが僕用のスペースに決まった。2階の2つのベッドは部屋の両サイドに離れてあるのではない。それはこのボートの前方先端部にあり、ベットが横に2つ続けて並んでいる(縦に2つと言ったほうがいいのかもしれない)。凡そ縦幅190cmのベッドが縦に2つ連結されているのだ。僕は上の方のを寝床として使い、下の方のはスーツケース等の荷物置きとして使うことにした。
 
これから、ここプンタレナス港からIsla del Coco (ココ島)へ向かう。約1日半、30数時間のロングクルーズ(長距離の船旅)だ。
(後で聞いたことだが、実際に掛かった時間は28時間位だそうである。)
 
まもなく、「オケアノス・アグレッサー」は出発した。ココ島はプンタレナス港の400km沖、かなり遠方にある。クルーザーはニコヤ湾内から外洋へ向かった。
 
外洋にはかなりの揺れがあった。
 
 
【2007年8月19日(日)】
 
物凄い船揺れ。船酔いの発生。僕が船に酔った?のは確か生まれて初めてじゃないかと思う。今日2回吐いてしまった。僕はこれまでに船に酔ったことがない。酔った事があるのは酒と美しい女性だけだ。どうして船の揺れなんかに酔ってしまったのだろう? 原因は何なのだろう。疲れ?、船の大揺れ?、食べ物?、睡眠不足?。
過去、僕は船の大揺れをエジプトの紅海で経験している。エジプト国内最大のリゾート地シャルムシェルエイクから、ダイビングのため小型ボートでサウジアラビアの方角に向かった時だ。揺れとしては、あの時の揺れのほうが激しかった。
 
 
 揺れが長時間続いた。僕は狭いキャビンの2階の狭いベット(幅凡そ60cm)に長時間横になっていた。夜も横に、昼も横に、ベットに横になっていた。読書もせずに、食事時間(4回の食事(夕、朝、昼、夕))、嘔吐時間(2回)、そして、同室の外国人との少しの会話時間以外は、ずっと横になり船に揺られていた。ベッドから天井までの高さが凡そ60cmの2階ベッドに。
 
 
【2007年8月20日(月) ダイビング初日、旅の4日目】
  
 真夜中の何時だったのだろう。船の揺れが止まったことに気が付いた。その時に、船の進行もたぶん止まったのだろう。僕は時計を見なかった。時計を見る気力が無かった。熟睡ができたのはその後の数時間(4,5時間?)だけだった。横になっていた凡そ30時間の内、ほとんどは船が揺れ、僕は酔いに揺れていた。
 
 
 朝が来た。そこはIsla del Coco(イスラ・デル・ココ(ココ島))だった。
 
太平洋最大の無人島だ。「宝島」(有名な小説?or映画?)の舞台の島であるとの説があり、「ジュラシック・パークT」が撮影された島だ。確かに、恐竜が出てきても不思議ではない風貌、化配、気配の孤島だ。
かつて海賊が水を求めて船を寄せ、宝を島内の洞窟に隠した?のかも知れない。
緑のジャングル、湧き水、川、滝、そして、動物、昆虫、鳥。人間は住んでいない。
 
 
 朝食の後、ココ島でのダイビングがスタートした。
 
 ダイブ・コンピュータはMUST(マスト(必ず必要))とのことで、僕は初めてダイ・コンを持たされてしまった。僕はダイ・コンの使い方や見方を知らない。説明はそこそこで、とにかく、渡されたダイ・コンを左手首に巻き、ココ島ダイビングが始まった。1年前、メキシコのラパスとコスメル島で潜って以来の海中世界だ。
 
 その海中は、サメだらけだった。ホワイト・チップ・シャークとハンマーヘッド・シャークがウヨウヨしている。エイもいっぱいだ。フグ(黒地に白の水玉模様や黄色のヨゴレフグ)も群れている。小さな魚もいっぱいだ。ただし、透明度がよくない。快晴ならもっと透明度が上がるのだろうが、ココ島は曇りや雨が多いようだ。
 
 1本目のダイビングの直後、海から小さなダイブボートに上がって直ぐ、僕は嘔吐した。ダイブボートから海に向かって。
 2本目のダイビングの最中、僕はシュノーケルを海中で落としてしまったらしい。海から上がったら、マスクに付いているはずのシュノーケル部分が無くなっていた。16年間くらい使っただろうか。僕が使い慣れた黄色のシュノーケルは、今日から僕の手元ではなく、ココ島の海を漂い始めたのだ。太平洋の海流が動き揺れ流れるこの海を、僕のシュノーケルは、どのようにどの方向に流れるのだろうか。
 
 僕のダイビング・スタイルは1日2本だ。他のメンバーは3本潜り、その内の数名はナイト・ダイビングもして1日4本潜る。
 
 
【2007年8月21日(火) ダイビング2日目、旅の5日目】
 
 朝食前に今日の1本目。
このココ島に来る以前、1度も見たことの無いハンマーをいっぱい見てしまった。それも直ぐ近くを泳ぐたくさんのハンマーを。色々な種類の魚が、このココ島にはたくさん生息している。
朝食後に2本目。
このココ島は凄い。海中生命の宝庫だ。
 
 
午後2時がもう少しだ。これからココ島へ上陸する。島の沖100mの海に繋留中のクルージング・ボートから小型ボートで世界最大の無人島に向かう。
ジャングルだ。小川が流れている。
 
 
 Jさんとの会話で以下の計画が予定されることになった。
 
He is going to VISIT China and Japan next april or march.. When he comes to Tokio next year I introduce him around Tokyo for one day. His daughter is going to 北京 to study Chinese. So he goes there for three day and after that he comes to Japan.
 
(彼は来年3月か4月に中国と日本を訪れる。彼が来年日本に来る時、僕は1日彼に東京を案内する。彼の娘さんが来年中国語の勉強をするために北京に留学する。それで彼は3日間北京に行き、その後日本に来る。)
 
 
【2007年8月22日(水) ダイビング3日目】
 
 今日もダイビング2本。朝食前に1本、朝食後に1本。
大きなマグロが泳いでいた。体長3mくらいだろうか。エイも直ぐ近くを泳ぐ。砂地や岩の間に休息中のホワイト・チップ・シャークとエイがたくさんいた。
 
昼食の後、サッカー大会が開かれることがゲストに知らされた。僕は叫んだ。「I have a shortage of sport.(僕はスポーツ不足だ。)」。このダイビング・クルーズ船に乗り込んでから今日で5日目、この凡そ91時間、僕は半径
 
通知された通りにサッカー大会が実行された。ビーチ・サッカーだ。僕達は再びココ島に上陸した。この島では極少の砂浜にダイビング・クルーによって俄かサッカーコートが作られた(ココ島の海岸線はほとんどが崖だ。緑に覆われその崖の所々には滝が流れている。幾筋もの美しいフォーリング・ダウンを僕は鑑賞し、精霊と交信した。)。ゴールは両側に枝を差し立てただけの簡単なものだ。コートのラインは描かれず、両サイドの片側は波が寄せては返す入り江の海、もう1方の片側は広大なジャングルの木々だ。
 
砂浜サッカーだ。裸足のサッカーだ。
 
ダイビング・クルー対ゲストの7対8のサッカー試合が始まる。
ダイビング・スタッフは全員がコスタリカ人。プンタレナス(人口凡そ7千人)とサン・ホセ(人口凡そ100万人)の出身者だ。中南米ではサッカーが一番盛んなスポーツだ。みんなゲームが始まるのを喜びプレーを楽しもうとしている感じだ。
ゲストの中から僕1人だけ、現地スタッフのチームに加わった。ワァー、みんなジャングルと山と海が似合うサルのような人間だ。
 
ゲストチームのメンバーは世界各国から集まったメンバーだ。イタリア人2名(ボローニャからの1名(坂本龍一のファン)とフィレンツェからの1名(カップルでこのツアーに参加、彼女は北野武ファン))、ドイツ人1名(ジャーナリスト(リトアニアにも駐在経験のある新聞の編集者、村上春樹と吉本ばななのファン、南米も1人で旅する女性バックパッカー)、デンマーク人1名(メディアと英語を勉強中の学生、ザ・ラスト・バイキング)、スウェーデン人1名(会社経営者らしい、夫婦でツアー参加)、フィリピン人?1名(フィリピン在住でマニラからそう遠くない?所でリゾートのオウナーをしている)、ウルグアイ人1名(工場経営者)、コスタリカ人のドクター(医者)1名。
 
 スタッフの中から1名、映画俳優のようなルックスの白人の若者がゲストチームのメンバーに入った。このチーム構成はすべてキャプテンが決めたものだ。
(後でふと気が付いたのだが、これは都会人映画俳優チーム対田舎人サルチームの対決だ。平均身長だと、178cmチーム対166cmチームの中身長人対低身長人の対戦。相手チームのメンバーは、全員がアメリカン・ムービー(映画)に出ているような風貌・顔付き、味方チームのメンバーは、全員がジャングルに暮らしているような風貌・顔付きだ。)
 
 試合が始まった。さすがセントラル・アメリカン(中米人)。みんなサッカーが上手い。ヨーロピアン(欧州人)もサッカーに慣れ親しんでいる感じだ。ヨーロッパでもサッカーは凄く盛んだし、たぶん中南米と同じく、サッカーが1番盛んなスポーツなのかな。セントラル・アメリカンもヨーロピアンもやる気充分だ。
 
 ゲームは、今日のダイビングの2本目と3本目の間の余暇とはとても思えない程の力の入りようだった。20分位で切り上げるだろうとの予測に大きく反し、前後半25分位づつ計50分間も試合は続いた。ハーフタイム(途中休憩)は取られなかった。
 
 結果は2対1でゲストチームの勝ち。総合力でほぼ同様なチーム構成だったが、スタッフチームの方が1人少ない分、守りが甘く、ゲストチームの得点に繋がっていた。
 
 試合終了後、言い出したのは誰だったのだろう、僕は皆から「ナカタ・ヒフミ」、「ザ・ナンバー1・プレーヤー」と呼ばれ囃し立てられた。「ナカタ」はイタリアのプロサッカーチームで活躍していた中田選手の「ナカタ」だ。
「ナカタ・ヒフミ、ナカタ・ヒフミ、ナカタ・ヒフミ!」。
「ザ・ナンバー1・プレーヤー」。
 
 僕はこの試合のMVP(最高殊勲選手)に選ばれたらしい。振り返ると、セントラル・アメリカンもヨーロピアンも皆、個人プレーに頼る部分がほとんどだった。僕は珍しく個人プレーでもかなりチャレンジしていたが、ほとんどをパスやフォローのチームプレーに費やしていた。外国人は個人プレーとパワー重視だ。日本人は個人技に弱く、チームプレーに頼りがちだ。部活動における普段の僕はほとんどチームプレーだけだが、今回は個人技を随所に見せる外国人に影響され、所々で個人技にチャレンジングだった。無意識に自然に。
 
そう言えば3人の相手チームのディフェンダー(守り手、バックス)に僕は1人直近まで立ち向かい(結果的にその3名を引き寄せ、周りを手薄状態にし)、そこから味方のセンター・フォワードへ、後ろ右足左横方向ふわっと後ろ面パスを繰り出していた。残念ながらセンター・フォワードは全く予測していなかったのだろう、離れ業過ぎる絶妙なパスにフィニッシュ(最終シュート)を合わせることができなかった。「エクセレント(すばらしい)!」、「ビューティフル(美しい)!」。掛け声が砂浜に響いた。
それから、ドンピシャまでではないが、いいセンターリングも数本あった。かなりいい位置にポジショニング(場所確保)し、味方からのパスを待ち受ける場面も多々あった(シュートを打てるいい位置での待ち受け場面は少なくなかったのだが最終パスは全く来ず、全て味方メンバーがシュートまで行くか相手にボールを奪われていた)。無理な所まで個人技で進み、失敗に終わる場面の多かった他のグッド・プレーヤー(上手な選手)より、パスや全体的動きがよく、離れ業のあった僕が、結果的にMVPに選ばれたのだ。
 
「後ろ右足左横方向ふわっと後ろ面パス」は意識的にされたものではない。自然に勝手に体がその様に動いていただけだ。個人技の上手いメンバーに引きずられると個人技が上達し、チームプレーが上手いメンバーに影響されるとチームプレーが上達する。スポーツの何も、上達には環境が影響し、周りの人間の行動が反映される。
 
今年の冬の部活は、多少個人技を目指そうかなぁ。でも、個人技を見せてくれる選手や職員がいない状況の中では、僕はきっとチーム技に終始するのだろう。
 
外国人メンバーとのサッカーは、物凄くエキサイティング(興奮)し、楽しいものであった。
 
《メモリー》
クルーザー同乗者は、砂浜サッカー大会出場者以外に次のメンバーだった。

 まずは、各国外国人10名位のグループ・リーダーである、アメリカ系?アメリカ人のバンカー?(銀行家)。ジョークや身振りでみんなをよく笑わせてくれる。

キャシィー。香港のゴールドマンサックスに勤務しているチャイニーズ・アメリカン(中国系アメリカ人)のバンカー。彼女はニューヨーク生まれ、ニューヨークや東京六本木ヒルズや麻布でも勤務した経歴があり、レポート・メイキング(報告書作成?)が仕事。

 マイク。同じく香港の、バンク・オブ・アメリカ?に勤めている韓国系アメリカ人のバンカー。すごい海中ビデをカメラ、すごいフラッシュ付き、を海に潜る時はいつも携えていた。無口な好青年。

リカ。ニューヨークのドイツェ・バンク(ドイツ銀行)勤めのバンカー、日系アメリカ人両親は日本人。彼女はカリフォルニア州      生まれのアメリカ人。

 そして、     。イタリア系アメリカ人のバンカー。ノートPCに水中で撮影した写真を取り込み、みんなによく見せていた。20代後半?乗客の中で最年少?
日本人のSRさんも忘れてはならない。埼玉県の高校教諭。世界各地の海を潜っている。
 
 
【2007年8月23日(木) ダイビング4日目】
 
 今日の起床は6時40分だった。1本目は7時からだ。2階のベッドから床に降り、顔も洗わずに、階下のキャビンから食堂のあるデッキ・フロアーに歩き上がった。5種類のシリアルの中から2種を選んで皿に注ぎ、牛乳も注いでダイニングの椅子に座った。甘みのあるシリアルがおいしい。今日の早朝ダイビングの前の食料はこれだけだ。
 
Lets go diving! Dive,dive,dive
 
今日の1本目は最悪のものだった。死んだ珊瑚、少ない魚。おまけは、Diarrhea(下痢)。
悪いことは重なる。
 
(後で聞いた話だが、このつまらなかった1本目はホエール・シャーク(ジンベイザメ)狙いだったようだ。あの付近がジンベイの出没ポイントのようだ。)
 
 凄くつまらなかった1本目の後の今日2本目。僕の目当てのホエール・シャークが登場してくれた。やっと出会えたジンベイザメである。
 
 潜水してから30分以上過ぎていたと思う、ドクター(サン・ホセの大病院に勤務しているコスタリカ人医師)が僕達を手招きサインで呼んだ。「何だろう?」。彼は僕達にサインを送ると、素早く振り返り、僕達の進路とほぼ逆方向に猛スピードで泳ぎ始めた。僕は彼の後を追った。すると、透明度のよくない海中15mくらい前方に、何やら巨大な斑模様の尾ビレが見える。不気味だ。僕のフィン・キックは勢いを増した。僕は海中速力を全開し、もがき泳ぎ進み、その物体から10m位の近さの所まで辿り着いた。息が切れ、呼吸が苦しくなった。海中での過激な運動は危険だ。
 
霊気が周囲に及んでいる。物凄くでかく、全身が斑模様の魚体がゆったり海中を漂っている。深度は海面下12m位だったろうか。
 
「ジンベイだ。」
 
その巨体はそこに静止しているようでもあったが、実際は動泳している。僕らはジンベイの霊力エナジーに包まれた。僕の体の中枢部はそのエナジーに呼応し、震動し、沈着する。呼応・震動・沈着のサイクルがどれくらいの間繰り返されたのだろう。数秒間隔?で彼or彼女は意識or無意識的に電磁波を発している? 声を発している? 言葉を発している? 
 
急激過激なオーバー・エクササイズ(限度を越えた運動)のためか、ジンベイからの電磁波のためか、僕はそれ以上進めなくなり、佇んだ。数秒前に僕の左下横をハイスピード(高速)で泳進し、僕を軽々と追い越したキャプテンは、ジンベイ目掛けて猛泳進を続けている。
 
僕はジンベイまで7,8メートルの所までしか近づけなかった。
 
霊気に縛られ、それ以上進めなくなった僕を置き去りに、斑模様の胴体は僕の視界から消えてしまった。海中透明度は15m位。海の暗がりの中にジンベイは消えてしまった。巨体のため、見掛けはほとんど動いていないような感じだったが、彼or彼女は僕よりも泳ぎが速かった。僕は彼or彼女の全容を見ることができなかった。斜め後ろから、胴体と尾ビレしか見ることができなかった。残念だ。
 
 
2本目のダイビングを終えクルーザーに戻ると、キャプテンが早速、直前に海中で撮影したジンベイの様子をテレビ画面に映し出してくれていた。物凄い。キャプテンはそのジンベイを後方から、横から、上から、前方からビデを撮影していたのだ。巨大なジンベイダ。僕は体長8m位かと思っていたが、12メートル位だそうだ。確かに録画されたあのジンベイは12m位の巨体だ。凄い。
 
僕は会話をしたかった。「君はどうしてそんなに体が大きいのですか? 海の暮らしはどうですか? 君はどこで暮らし、何を考えているのですか?」
 
 
 その夜夕食の席上、ドクター・コスタリカ(同乗のコスタリカ人医師)は僕に向かって時間爆弾を爆発させた。
Time Bomb! Hifumi, You are born again.
(「時間爆弾だ。 ヒフミ、君は生まれ変わったんだ、また。」)
 
 
【2007年8月24日(金) ダイビング5日目】
 
 ダイビング最終日。1本目は体が冷えてしまい、他のメンバーより一足早く浮上し、27度前後の海中から29度前後の大気中へ戻った。
 
 今日も、ハンマー・シャーク、ホワイト・チップ、エイ、そして、様々な色形をした面白く元気な魚達と一緒に、ぼぼ無重力状態の中、快適に過ごすことができた。僕はこのココ島の海で、ハンマー・ヘッド・シャークとホワイト・チップ・シャークに見慣れる結果になった。後は、ジンベイザメだ。
 
 今日の2本目、ココ島ダイビング10本目を終え、小型ダイビング用ボートでクルーザーに戻る途中、イルカが僕達を見送ってくれた。海面上にジャンプし縦長の半楕円を描きながら。半円を描くジャンプや横長の半楕円を描くジャンプは、いろんな海でこれまでも何度か出くわしているが、縦長に高く跳ね上がる光景を見るのは初めてのことだ。ココ島で暮らしている魚達は元気者が多いのかも知れない。
 
 ココ島は凄い。海の生命の宝庫だ。

「PURA VIDA(プラ・ビダ)!!!」

英語だと「PURE LIFE」、日本語だと「純粋な生活、純粋な生命、ピュアーでシンプルな生活生命」


 
コスタリカン・ドクター(コスタリカ人医師)から教えてもらった現地語のスペイン語で、オケアノス・アグレッサー船内で購入したTシャツに印字されている言葉だ。いい響きを持つ。


 1990年代初頭まで?は、乱獲によりに海中生命の減少状態を招いていたようだが、その後のコスタリカの国を挙げての環境保護対策により、豊かに生命の息づく海を取り戻したようだ。適正な対策により、10数年間で環境は変え得る、と考えたい。
 

 
 
 午後3時頃、5日間のダイビングの全日程を終了したクルーザー・ボート(その名はオケアノス・アグレッサー)はココ島の海岸沖に下ろしていた碇を上げた。プンタレナス港へ戻る。28時間を掛けて。
 
 ココ島の入り江から外洋に出ると、往路と同じようにクルーザーは揺れ始めた。
 
 壊れかけた胃腸を回復させるため、僕は夕食を空け1人先に就寝した。他のゲストは皆、夕食後もダイニング・リビング(食堂と居間)に前日までの夜より遅くまで集い、話したり踊ったり?して楽しんでいたようだ。ルームメイトが部屋に戻ったのは、普段より1,2時間は遅い時間だったように思う。
 
【2007年8月25日(土) 帰路の船旅】
 
 朝食と昼食は、太平洋の波に揺られながら。ナイフ、フォーク、そして、料理を乗せた皿までもが急な大揺れの際は、食堂のテーブルから床へ何度も落ちた。
 
帰路に船酔いは全く無い。往路の船酔いは何だったのだろう?
 
途中、旅行記を書けたし、映画も3,4本(帰路を含めクルーザー乗船中に見た映画は7,8本だろうか)見ることができたし、本を読むことも多少できた。この旅に本を15冊前後持参したが、2冊と4分の1しか読めなかった。本を読む時間が充分確保されるだろうとの予測は、実際のものにはならなかった。往路の船酔いが無かったら、後2,3冊は読めたかも知れない。購入済みで未読の本が溜まってしまった。この旅に持って来なかった分も合わせると、16,7冊が帰国後に僕の家の机上に積まれることになる。それらが読まれるのはたぶん次の旅においてだろう。
 
 
 夕方7時頃、クルーザーは無事にプンタレナス港に帰港。
 今夜はこのまま港に停泊するクルーザーの中で夕食と睡眠をとる。
 
 
【2007年8月26日(日)】
 
 6時半の朝食後、7時過ぎに下船。スタッフ、ゲストのみんなと記念撮影。
 
 送迎のバスでサン・ホセ空港へ。緑濃いジャングルを通過。途中、土産物店に立ち寄り、買い物。
 
 10時空港着。降りたのは僕とリカだけ。後の人はサン・ホセにもう1泊し、明日の便でそれぞれの故郷へ帰る。リカは12時頃発のコンチネンタル便でニューヨークへ直帰した。
コンチネンタル航空便(CO)1477は予定通り14:45にサン・ホセ空港を出発。窓席を確保。コスタリカの山々、自然が美しい。中米最大の湖ニカラグア湖、ニカラグア、ホンジュラス、グァテマラのカリブ海沿岸、ベリーズ、メキシコ上空、そして、メキシコ湾上空を通過した。
 
 ヒューストン、ジョージ・ブッシュ・インターコンチネンタル空港着陸。泊を伴うアメリカ入国は、これが2度目に過ぎない。ヒューストン1泊。アメリカ現大統領ジョージ・ブッシュの地元だ。 
 
 
【2007年8月27日(月)】
 
 CO 007(コンチネンタル航空7便)は10:50発。何と、チェックインはタッチパネル式の自動チェックイン機だった。パスポートを通し、必要事項をタッチパネルで入力するとチェックイン完了。飛行機のチェックインの際、人を介さずに自動だったのは初めてだ。係員に説明を少し聞かなくてはならなかったが、凄く簡単なチェックイン手続きだった。機械の券出口から搭乗券が自動で出て来た。1年数ヶ月前から、この空港では搭乗券発券の自動化が始まったそうである。
 
 機は、昨年末のペルーからの帰国時のルートより東北寄りを飛んだ。記憶だと昨年のルートはソルトレイク(塩の湖)上空、マウント・レーニエ(レーニエ山)上空、太平洋上空にさしかかった場所は、バンクーバーやシアトルより南だったと思う。今回は大部内陸部を北上したようだ。
 
 
 日付変更線を通過。
 
 
【2007年8月28日(火) 】
 
 午前8時、成田空港着。
 
 
【帰国後】
 
Time Bomb! Hifumi, You are born again.
(「時間爆弾だ。 ヒフミ、君は生まれ変わったんだ、また。」)


「PURA VIDA(プラ・ビダ)!!!」

英語だと「PURE LIFE」、日本語だと「純粋な生活、純粋な生命、ピュアーでシンプルな生活生命」

 
 
 ドクター・コスタリカの時間爆弾の影響が出始めた。コスタリカの霊的エナジーが僕の体に沈着し、霊気が体中に充填され始めた。変な感じだ。自分が変わってしまいそうだ。コスタリカ本土とココ島のジャングル、ココ島の海、ジンベイ、ハンマーヘッド、ホワイトチップ、エイ、復活した海の生き物たち、愉快な外国人たち、そして、海上船中8泊の初体験。
 
 僕は変わっていく僕を感じ始めた。