第五課 労働組合運動の歴史
  1 労働組合の誕生と団結権の獲得
  2 労働組合運動の本格的発展
  3 帝国主義の時代の労働組合運動
  4 第二次大戦後の国際労働組合運動
  5 日本における労働組合の始まり
  6 運動の前進から戦時下の衰退ヘ
  7 戦後の労働組合運動の任務
  8 独占資本の復活と安保・三池の闘い
  9 「高度経済成長」下の闘い

 

第五課 労働組合運動の歴史


 労働組合運動の歴史は、資本家と労働者の永年にわたる闘いの歴史である。資本家は、よ り多くの利潤をあげるために、労働者への搾取を強め、労働者の団結を破壊し、分裂を拡大 しようとしてきた。それに対して、労働者は、資本の搾取強化に反対し、資本家とそれに追 随する一部の労働組合右翼幹部の分裂策動を克服して、団結と統一を守って闘ってきた。金 と権力にものをいわせた、資本家とその利益を代表する政府の弾圧や攻撃に直面した労働者 は、しばしば分裂と大きな後退を余儀なくされながらも、しかしやがて体制を整えて反撃に 転じ、以前の時点より一層高い水準に到達するという、らせん状の形をとりながら運動を発 展させてきた。そして、二百数十年前にイギリスで、ごく限られた小さな集団として世界最 初の労働組合がつくられてから、今日では、全世界で、だれもその存在を無視できない巨大 な社会勢力に成長し、発展している。この歴史をふり返り、そのなかから教訓を学ぶことは、 私たちの活動をすすめるうえでどうしても欠かすことができないことである。

    

1 労働組合の誕生と団結権の獲得


 酒場から生まれた労働組合  資本主義の初期の段階では、労働者は朝早くから日が暮れるまで安い賃金 で一日一四、五時間も働かされ、病気や事故で働けなくなると容赦なく首 を切られた。職場環境も労働条件も劣悪だったので、病気や事故も多く、 労働者の平均寿命はきわめて低かった。
 労働者は、資本家のひどいやり方やボロもうけをみて、自然発生的な抵抗をした。それは、 自分たちの作った製品をぬすむという個人的な抵抗だったり、集団的な暴動だったりした。
そして、このような抵抗は、犯罪としてきびしく罰せられるだけで、労働者の生活を改善す るうえで、まったく役立たないことを思い知らされた。
 労働者が組織をつくるきっかけになったのは、一日の長い労働の疲れをいやすために集っ た酒場での話し合いである。そこでは、職場のことや自分たちの生活のことが話題になった。
労働者は、子供が病気になっても医者にもみせられなかったり、父親が死んでも葬式も出せ ないような貧しい生活を助け合うために、賃金の一部を払出して基金をつくり、災害、病 気、失業に苦しむ仲間に相互扶助を行おうとしたのである。やがて労働者は、労働者が団結 して組織をつくり(はじめは職業クラブとよばれた)、資本家と賃金や労働条件の改善の交渉を することが必要であることに気づき、労働組合の結成へ大きな第一歩をふみ出した。このよ うに労働組合の成立は、労働者の階級的な連帯を基礎としていたのである。
 当時、賃金や労働条件は、国家や都市が決めるものとされ、労働者が団結してそれを改善 しようとすることは固く禁止されていた。したがって、労働組合はもちろん非合法の組織で あり、資本家はこのような組織の存在を知ると、警察や裁判所の力をかりてこれを弾圧した。
けれども、労働者は屈せず、互いに守りあい、組織をのばしていった。
 労働者階級の形成 こうして生まれた労働組合が階級的に発展し基礎を固めるのは、産業革命の結 果が現われてくる一八世紀末のことである。一八世紀の六〇年代に始まる産業 革命によって、従来の小規模な手工業は機械と動力を使用する大規模な機械制 工業に代り、資本主義は急速な発展をとげる。従来の熟練労働者の比重は低下し、多数の未 熟練労働者が工場に流れこみ、近代的労働者階級を形成し、社会は、資本家階級と労働者階 級という対立する二大階級に分かれていく。資本家は、新しい機械を使って多くの利潤を手 に入れ、他の資本家との競争にうちかつため、労働者をいっそう酷使する。未熟練労働者、 婦人、年少労働者の導入によって賃金は引き下げられ、労働者は、二交替制で二四時間機械 を運転し、ときには三日も昼夜ぶっとおしで働かされた。
 一八世紀末になると、かつて熟練職人の間にはじまった団結は、長時間労働、低賃金で苦 しめられている工場労働者のなかにもひろまり、本格的な労働組合に発展していく。
 あわてた資本家は国家に働きかけ、イギリスでは一七九九年に「団結禁止法」をつくって、 労働組合とストライキを禁止し、犯罪としてとりしまった。フランスでは一七九一年にシャ ブリエ法で団結を禁止し、アメリカでも一八〇六年、製靴労働者の団結が共謀罪として処罰 され、日本では一九〇〇年治安警察法がつくられる。このように、労働組合運動のはじめか ら、労働者は資本の搾取に甘んじるのか、さもなければ刑罰かの選択を迫られたのである。
しかし、労働者の運動は、資本主義社会の現実に根ざしている以上、弾圧だけで破壊するこ とはできない。労働者は、ひるまず闘いつづける。イギリス北東海岸の炭鉱労働者は、「も しも組合の指令にそむくようなことがあれば、心臓をつきさされるか、腸を断ち切られるか して殺されることを覚悟する」という「兄弟のちぎり」を交してストライキを行った。
 ラダイト運動 こうした闘いとともに、団結禁止法による弾圧のもとで、一九世紀の初期から十 数年にわたってイギリスの各地で「ラダイト運動」とよばれる機械うちこわしの 暴動がひろがり、機械をこわし、工場に火をつけ、製品を海や川に投げこみ、と きには工場主やその近親者を殺害した。自分たちの生活を苦しくしたのは機械のせいだとし て、その怒りを機械そのものに向けたのである。これは合法的に団結して闘うことを禁止さ れ、資本主義生産の本質について科学的な認識をもち得なかった労働者の、やむにやまれぬ 行動という側面をもっていた。
 しかし、このような抵抗も大きな犠牲をもたらす(最高刑は死刑)だけで、実際に生活を守 るには役立たなかった。労働者は、こうした闘いの経験を通じ、機械化と機械の資本主義的 利用とは違うこと、闘いのほこ先を、機械化そのものに向けるのでなく、機械を労働者の搾 取を強めるために使う資本主義のしくみそのものに向ける必要があることを、次第に認識し ていくのである。
 団結権の獲得 このようなきびしい弾圧のもとでも、労働者は闘い、組合の組織を発展させてい った。弾圧をいくら強めても効果がなく、逆に労働者の闘争と組織が強まるのを みて、イギリスの資本家は、一八二四年、ついに団結禁止法を撤廃した。イギリ スの労働者は、闘いによって世界で初めて事実上の団結権を獲得したのである(団結権を権 利として、法律で保障させるのは一八七一年の労働組合法によってである)。他の国の労働者もこの 闘いにつづき、アメリカでは一八四二年、フランスでは一八六四年、ドイツでは一八九〇年 に、団結権を獲得した。このうごきをみると、一国の労働者の闘いの成果が、他国の労働者 の闘いに波及し、大きな影響を与えることが分かる。
 団結禁止法が撤廃されたのちも、労働組合運動には大幅な制限が加えられていたが、弾圧 法の撤廃に勇気を与えられた労働者は、職業別、地域別に分散してつくられた労働組合を、 全国的に結集する行動にとりくみはじめた。これは、労働者が、資本家階級に対して、労働 者階級として自覚し、闘い始めたことを意味しており、労働組合運動の質的な前進を示すも のであった。

    

2 労働組合運動の本格的発展


 チャーチスト運動 労働者が階級全体の共通の利益を意識し、全階級的闘争に立上っていくなかか ら労働者階級独自の政治行動も発展していった。一八三六年に、ロンドンの労 働者と手工業者たちがはじめたチャーチスト運動は、イギリスの政治体制の徹 底的な民主化−(1)成年男子普通選挙権、(2)毎年議会改選、(3)選挙の際の秘密投票(当時は記 名投票)、(4)平等な選挙区、(5)議員の財産資格の撤廃、(6)議員への歳費支給(当時の議員は名 誉職で、歳費が支給されないので労働者は議員に選ばれても食べていけない)−を要求するの六ヵ条 の「人民憲章(ピープルズ・チャーター)」を掲げた大衆的政治運動であった。署名運動やたい まつを抱げた大集会、議会への請願が組織された。この運動のなかで労働者政党の原型とな る「全国チャーチスト協会」も結成され、約三〇〇の支部と五万人余りの会員をもち、三三 一万名以上の署名が集められた。しかし、せっかくもり上った運動も、指導の統一を欠き、 軍隊による大弾圧で挫折するに至る。けれどもチャーチスト運動の高揚に危機感をもったイ ギリスの資本家階級によって、炭坑法、工場法、一〇時間労働法などが制定され、労働者は 婦人・年少者の労働時間の制限、坑内労働の禁止などの成果を獲得することができた。そし て、この闘いは労働組合が経済闘争とともに政治闘争を闘い、政治行動に参加することの重 要さとともに、労働組合の枠内で政治闘争をすすめるのでなく、労働者階級の利益を代表し、 政治闘争を指導する労働者政党をつくる必要を教えたのである。
 科学的社会主義の成立と労働運動  このような階級闘争の発展を背景に、労働者階級の闘いの指針となる 科学的社会主義の理論が確立される。
 マルクスとエンゲルスによって確立された科学的社会主義の理論は、 資本主義社会の発展法則そのものによって、階級闘争の発展、資本主義社会の変革、社会主 義社会の実現がさけられないこと、さらに資本主義から社会主義への歴史的移行を突現する のは労働者階級の歴史的使命であること、を明らかにし、労働者階級の闘いにゆるぎない確 信と展望をあたえ、「万国の労働者団結せよ!」と訴えた。これは、資本主義の幣害を知り、 社会主義を目標にかかげながら、もっばら、人の善意や教育をたよりにしていたサン・シモ ン、フーリエ、オーエンなどの空想的社会主義とは、決定的に違っていた。社会主義の理想 は空想から科学に発展した。こうして労働運動は、それまでのいわば手探りで活動をすすめ てきた段階から、科学的な理論にもとづいて闘いをすすめ、運動を大きく発展させることが できる理論的基礎を手にすることができたのである。
 国際労働者協会の創立 一八六四年、ヨーロッパ各国の労働組合、協同組合、共済組合、労働者教育 団体などが参加して国際労働者協会(のちに第一インターナショナルとよばれる ようになる)がロンドンで創立され、これを中心に労働運動の国際連帯が強ま り、また各国での運動の発展が促進され、強化された。第一インターは資本家権力の打倒と 労働者階級の権力樹立を終局目標にかかげる大衆的な国際革命組織であったが、各国のスト ライキ闘争を指導し、八時間労働制、婦人の深夜業禁止など日常要求の闘いにも力をそそい だ。
 その活動のなかで、労働組合運動は無意味だとし協同組合運動で社会主義を実現しようと するフランスのブルードン主義やドイツのラッサール主義の誤りと、労働組合運動を過大評 価し、それによって全てが解決できるかのように主張するイギリスの労働組合主義の誤りが 浮き彫りにされ、労働組合は労働者階級の大衆的階級組織だということが明らかにされた。
 労働組合運動の本格的発展 労働組合はますます労働者階級の大衆的組織として発展する方向をたどっ た。たとえば、一八五〇年代にイギリスに現われ支配的となった職業別組 合は、近代的な工場労働者の組織ではあったが、組合員を熟練労働者だけ にかぎり、狭い自分たちだけの利益を追求した。一九世紅後半になると、機械制大工業の発 展とともに増大する近代的な工場労働者が、ますます労働運動の基幹部隊となってきた。こ れこそ、労働組合運動が強力な大衆運動としてこの時期に大きく発展し、その組織を強固で 恒常的なものとすることのできた基本的な条件であった。発展しつつある基幹産業の労働者 が運動の中心的なにない手になるとき、労働運動の力量と影響力は大きく拡大される。そし て、広範な未熟練労働者を組織化する「新組合運動」が発展し、熟練労働者とともに広範な 未熟練労働者を組織する戦闘的な産業別労働組合をつくりだしていった。
 一八七〇年頃から一九〇〇年頃までの約三〇年間は、資本主義が急速に発展をとげた時期 であったが、労働運動も広がりをました。イギリスでは一八六八年、職業別組合を集めてイ ギリス労働組合会議(TUC)という全国中央組織が設立された。アメリカでは一八八六年に、 熟練労働者を結集するアメリカ労働総同盟(AFL)がつくられ組織をのばした。一八七〇年 代から組合運動が活発になったフランスでは一八九五年に労働総同盟(CGT)が生まれた。
 この時期に各国の労働組合運動は、今日までつながる全国中央組織を確立するが、このよ うなうごきとともに、第一インターの努力が実って一八七〇年代以降各国で労働者階級の政 党が、相次いで組織された。ドイツでは、一八七五年にドイツ社会民主党が結成され、七六 年アメリカ、七九年フランス、八〇年イギリス、八三年ロシア、九二年イタリア、一九〇一 年日本(即日禁止)、というように各国に社会主義政党が組織され、ヨーロッパとアメリカで は合法的地位を確立した。一八七一年三月から五月までパリで蜂起した労働者は世界で初め て権力をにぎり(パリ・コンミューン)、世界の労働運動を大いに励ました。
 第二インターとメーデー 第一インターは、一八七六年、その歴史的任務をはたして解散したが、そ の後、国際的な結びつきを回復しようとする動きがつよまり、一八八九年 七月一四日のフランス革命の一〇〇年記念日に、第二インターがパリで結 成される。第二インターは、社会主義政党だけでなく労働組合なども包含しているという点 は第一インターと同じであったが、社会主義政党の占める役割が大きく、マルクス主義の色 彩が濃い点では異なっていた。創立大会では政治闘争を発展させ、労働者階級が権力をにぎ るために大衆的労働運動を強め、社会主義政党を結成することが必要であるという決議を採 択し、八時間労働日、賃上げ、現物支給制反対などの日常要求のために闘うことを決め、A FLが、一八九〇年に実施しようとしていた八時間労働日要求のゼネスト計画を支持し、五 月一日を国際労働運動の示威の日と決めた。これがメーデーであるが、その起源となったの は、一八八六年五月二日アメリカで行われた八時間労働制を要求するゼネストである。この 闘いで多くの労働者が八時間労働制を獲得したが、支配階級はこの運動に対し弾圧と挑発を くりひろげ、無実の指導者が逮捕され、五人に死刑判決がだされた。
第二インターが社会主義政党の国際的連合体としての性格を強めていくにつれて、労働組 合運動の独自性が表面化し、労働組合の国際組織を求める声がつよまり、一九〇〇年までに、 一七の国際職業別労働組合書記局(ITS)がつくられ、国際金属労働者連盟は一一〇万六、 〇〇〇人を結集し、一九〇三年には、各国労働組合中央組織を集めて各国労働組合中央組織 国際書記局がつくられた。

   

3 帝国主義の時代の労働組合運動


 第一次世界大戦とロシア革命  二〇世紀に入ると、資本主義は、その最高で最後の段階である帝国主義 の時代に入る。この時代には、ひとにぎりの独占資本が、政治や経済を 左右し、商品の輪出に変って資本の輸出が大きな役割を演じ、帝国主義 諸国の資源、市場、領土拡大をめざしての対立が激しくなり、それをめぐっての戦争が不可 避になる。独占資本と労働者階級、勤労諸階層、植民地・従属国人民との矛盾・対立は激化 する。
 このような激動の時代であるにもかかわらず、労働組合運動は全体として正しく運動を発 展させることができたとはいえない。それは、独占資本が、超過利潤の一部を熟練労働者や 職制層などの労働者上層部に分け与えて高賃金にし、あるいは階級協調的な組合幹部に政府 の委員会などのポストを与えて、彼らの側にとりこもうとするやり方をとり、それが一定の 成功をおさめたからである。第二インターの指導者の一部と、イギリスの労働組合運動に典 型的にみられた労働組合主義者は、独占資本の帝国主義的政策と真剣に対決しようとせず、 第一次世界大戦のような帝国主義戦争にも反対することができなかった。こうして、第二イ ンターは崩壊していくのである。
 一方、ロシアでは、レーニンたちに指導されたポリシェヴィキが帝国主義戦争に反対し、 労働者階級の手に権力をにぎるために闘い、ついに一九一七年二月七日、ブルジョア政権 を倒して、社会主義革命を成功させる。社会主義は、理論から現実のものになり、第一次世 界大戦とこの革命の成功によって、資本主義の全般的危機が始まった・  ロシア革命の成功は、各国の労働者に大きな影響をあたえ、フィンランド、ハンガリー、 ドイツで革命がおこったが、強力な労働者政党の指導が欠けていたため、これらの革命は失 敗に終った。日本でも一九一八年八月に米験動がおこる。
 反ファシズムの統ー戦線 世界資本主義は、ロシアをのぞく各国の革命運動が敗北したあと、相対的 な安定期を迎えたが、一九二九年に始まった世界大恐慌は、資本主義の基 礎をゆり動かした。何千万人という失業者が街にあふれ、辛うじて職につ いている労働者も賃金を容赦なく引き下げられた。
 安定期に”最新の技術進歩を土台に資本主義は無限に発展“すると主張し、「合理化」を 讃美した「理論」は破綻し、労働者は戦闘化した。他方、この危機の打開のために、ドイツ、 イタリア、日本などの独占資本は、ファシズムヘ移行しようとしたが、これに対し労働運動 は、反ファシズムの統一戦線を結成して対抗した。労働戦線が分裂していたフランスでは、 一九三四年、ファシズムの危機に対して、社会党と労働総同盟、共産党と統一労働総同盟の ゼネストとデモが、時期を合せて合流し、「統一行動」が合い言葉になり、社共両党の間に 反ファシズムの統一行動協定が結ばれることになった。そして、三五年には、広範な民主勢 力が人民戦線をつくり、翌年の選挙に勝利し、人民戦線内閣をつくった。労働組合も分裂以 来一四年ぶりに組織合同を実現した。スペインでも三六年に人民戦線政府がつくられたが、 ヒトラーやムッソリーニなどの支援をうけた反動勢力の攻撃によって敗北した。こうして世 界はファッショ勢力と反ファッショ勢力に分かれての第二次世界大戦に突入し、各国の労働 者階級はファシズムに対する抵抗闘争をつづけていくのである。

    

4 第二次大戦後の国際労働組合運動

 世界労連の創立 一九四五年、第二次世界大戦は、反ファッショ勢力の勝利によって終った。フ ァシズムの敗北には国際的な労働者階級と労働組合が決定的な役割を演じた。
 このたたかいのなかで、ソ連、イギリス、フランス、アメリカ(CIO)の労働 組合の交流や連絡がすすめられ、一九四五年二月、まだナチス・ドイツのロケット弾が落下 しているロンドンで三八ヵ国の労働組合と、一五の国際労働組合組織の代表が集まって世界 労組会議を開き、その決議によって、四五年一○月、パリで世界労連が創立された。創立大 会には、五六ヵ国六五組織、六、四〇〇万人以上の労働者の代表が集り、文字どおり全世界 の労働組合を結集した新しい統一国際労働組合組織として発足したのである。
 その規約や宣言のなかには、ファシズムの根絶、平和の擁護、反独占、生活と労働条件の 改善、植民地制度の廃止などがかかげられた。
 分裂攻撃の強まり 第二次世界大戦の結果、ソ連を中心とする社会主義陣営の比重が大きくなり、 植民地・従属国も相次いで独立し、資本主義諸国でも反ファシズムの闘いの中 心となった労働者階級の力が前進した。国際情勢は労働者階級に有利に、独占 資本に不利になった。他方、資本主義諸国の間では、戦争の直接的被害の少なかったアメリ カの比重が増し、アメリカは戦後の経済復興を「援助」するという形で、資本主義や従属国 への支配を強め、その障害となる労働戦線を金と権力によって分裂させていった。
 四七年には、フランス、イタリアの労働総同盟に分裂が現われ、アメリカでも戦闘的だっ た産業別労働組合会議(CIO)の左派が追い出された。そして、イギリスやアメリカの組合 指導者は世界労連がマーシャル・プラン(社会主義封じ込めのトルーマン・ドクトリンと結びつい たひもつき援助)を支持すべきだと主張し、世界労連の統一のためにその問題は世界労連では 結論を出さずに、各国労組の自主的決定に任せるという提案さえも拒否して脱退し、四九年、 ロンドンで国際自由労連の結成大会を開いた。労働組合運動は、きびしい分裂の時期を迎え た。分裂の結果、労働者の労働条件は低下し、既得の権利は奪われていった。
 いたるところに統一を 世界労連は、「いたるところに統一を」を合い言葉に、要求にもとづく統一 行動を重視し、組織していった。
一九五二(昭和二七)年の世界労連総評議会で、フランス労働総同盟書記長 プノワ・フラションは、統一行動の経験を総括した。それは要約するとつぎのようなことで あった。(1)労働者階級を、同じ意見をもったもののあつまりとみるな。(2)統一行動を呼びか ける相手の労働者をあるがままにみるようにし、われわれがこうあってほしいと思うような 労働者とみるな。(3)労働者をまよわせているうそを、労働者自身が経験をとおしてみぬいて いくように援助せよ。(4)一つの要求で統一行動を組むようにし、われわれの綱領全体を柏手 におしつけるな。(5)統一の力で要求を現実にかちとり、統一の力を自覚させることが大切で ある。(6)統一行動をいったん組むことができても、相変らず労働者の間に意見の違いが残っ ていることを忘れるな。(7)労働者階級を裏切っている幹部への批判を放棄することで達成さ れる統一は、有害な統一である。
 資本主義の危機の深化と労働運動の新しい高揚  資本主義の全般的危機は、一九七〇代に入るとともに、いっそう の深まりをみせている。国際通貨危機、インフレの激化、高度経 済成長の破綻などによって、資本主義諸国の労働者の生活は悪化 している。
 統一行動をつみ重ねてきた労働者の闘争は高揚し、フランスでは六八年にゼネストで、権 利や労働条件で大きな成果をかちとり、イタリアでは六九年の「暑い秋」の闘いで、「労働 者憲章」を闘いとり、さらに職場に根をはった工場評議会がつくられている。イギリスや西 ドイツでも、労働者は従来の階級協調路線を打破って、職場委員を中軸に自発的にストライ キを行い、アメリカでも労働組合運動は、独占資本に追随していく部分と独占との対決を深 める部分とに分化しつつある。
 国際労働組合運動は、先進的なところでは行動の統一から組織の統一へとすすみ、反独占 の国民的諸要求の実現をめざして、いま新たな高揚を迎えている。

    

5 日本における労働組合運動の始まり


 最初のストライキ 一八六八年にはじまった明治維新は、近代的統一国家をつくり日本の資本主義 的発展に道を開いたが、資本家階級と封建的諸勢力の妥協によって絶対主義的 天皇制が成立した。このことは戦前の労働組合運動の発展にとって大きな障害 になった。
 日本の労働者の最初の闘いは、明治の初めに各地の鉱山でおこった、虐待や賃金切下げに 反対した自然発生的な暴動であるが、最初のストライキは、一八八六(明治一九)年に、山梨 県雨宮製糸工場の女子労働者によって行われている。この時期は、資本主義もはじまったば かりで労働者階級も未成熟であり、労働者の闘いも散発的であったが、のちの組織的・意識 的な運動の出発点になったという点で重要である。
 日本の労働者が、労働組合に団結するようになるのは、日清戦争から日露戦争までの産業 革命をへて、労働者の数が一〇〇万人前後にふえ、工場制度が広がり、鉱山の開発がすすみ、 鉄道が全国的に延長され、その結果として労働者階級が本格的に形成されてからである。
 日清戦争が終ると、物価の値上りや、戦後の経済変動による生活不安に反対して各地でス トライキがおこるが、そのなかには一八九八年の日本鉄道機関方のストライキのように、東 北線一帯の列車をピ夕リと止め、経営者を屈伏させる本格的な闘いもあった。このような闘 争を土台に、一八九七(明治三〇)年に、片山潜、高野房太郎らによって、「労働組合期成会」 がつくられ、そのよびかけで、同年一二月に一、一八四名の金属労働者で「鉄工組合」がつ くられ、次いで「日本鉄道矯正会」「活版工組合」などが結成された。「鉄工組合」は、各 工場の”鉄工”を横断的に加入させ、一九〇〇(明治三三)年九月には四二支部、組合員五、 四〇〇余人に達した。
 治安警察法との闘い しかし、山県有朋反動内閣は、一九○○年に「治安警察法」を公布して、団 結権、団体交渉権、争議権を全面的に禁止した。資本主義が確立し、労働者 階級を中心にした抵抗のつよまりを予想した支配階級が、敏感に先手をとっ て弾圧してきたのである。この法律は、労働運動に致命的な打撃を与え、労働組合期成会も 一九〇二(明治三五)年ごろには自然消滅した。
 また、片山潜、辛徳秋水、安部磯雄などによって、一九〇一年、社会民主党というわが国 最初の社会主義政党がつくられたが、治安警察法によって直ちに禁止、解散させられ、活動 することができなかった。
 しかし、労働者は闘いをやめたわけではなく、日露戦争の後には、呉海軍工廠や東京小石 川砲兵工廠、三菱造船所など政府経営の軍需工場や財閥経営の大工場にはげしいストライキ がおこり、一九〇七(明治四〇)年には、三、六〇〇名の足尾銅山の労働者が、賃上げその他 二四項目の要求を掲げて立上がった。
   一九一〇(明治四三)年、支配階級は、幸徳秋水などが明治天皇の暗殺を企てたとして「大 逆事件」をデッチあげ、幸徳ら一二名を死刑に、その他二名を無期懲役にした。わが国の 労働運動はきびしい「冬の時代」を迎えるが、それでも、一九一一年の大みそかから翌年の 元旦にかけて、東京市電の六、○○○人の労働者は、慰労金の差別分配に反対してストライ キで闘い、勝利した。一九一二(大正元)年八月一日には、鈴木文治を指導者に一五人の労働 者によって「友愛会」が結成された。これはのちに総同盟へと発展する。

    

6 運動の前進から戦時下の衰退へ



 第一次世界大戦(一九一四〔大正三〕年〜一八年)から一九三一(昭和六)年の満州事変にかけ ては、独占資本主義が確立し、それを基盤に労働者階級の闘争が大きく前進する時期である。
だが、満州事変から日中戦争(三七年開始)へと、日本が侵略戦争に突入するなかで、労働運 動はきびしい弾圧を受け、衰退を余儀なくされていくことになる。
 ロシア革命の影響と米騒動  第一次世界大戦の間に、工鉱業労働者数は、開戦前年の一四五万人から終 戦の年には三四八万人とふえ、男子の重工業労働者が多くなり、京浜、京 阪神、北九州などの大工業地帯に密集するようになった。このような変化 を背景に、労働運動は新たに発展しはじめるが、そのうごきを刺激したのは、一九一七(大 正六)年のロシア革命の成功であった。友愛会は、「ロシア革命の感想」という懸賞文を募 集したが、そのなかで、ある労働者は次のように書いている。
 「私はいままで、ロぐせのように、子供らにこういってきかせていた。‥‥いまの世の中 は、われわれ貧乏人には浮かばれないようにできているのだ‥‥おまえたちは、あきらめら れなくてもむりにあきらめて、一生食いはずさないような技倆をみがいて、職工として暮し てゆけ。ゆめ大望をおこすなよ、と。ところが、‥…ロシアに大革命がおこってまたたく間 に天下は労働者の手に帰してしまった。‥‥私はおどりあがった。そして家にかけこんで、 子供らをだきしめてこう叫んだ。”おい子僧ども、心配するな、お前たちでも天下はとれる んだ! 総理大臣にもなれるのだ!いわばロシアの革命は、われわれに生きる希望をあた えてくれるのだ」と。このロシア革命の影響をうけ、一九一八(大正七)年には、米騒動がお こり、約二ヵ月間、全国四三都道府県で一、○○○万人以上が「米よこせ」のスローガンで 大衆運動を展開した。しかし、軍隊や警察の弾圧をうけ七、七〇〇名以上が起訴された。一 方、寺内内閣はこの責任をとって総辞職した。
 わが国最初のメーデー 米騒動の影響をうけ、その翌年から労働組合の結成がめざましくす すむ。一九一八年に一〇七だった労働組合は二一年には三〇〇と急テンポでのびる。そして、 一九一九(大正八)年には、川崎造船をはじめ造船関係の組合のストが相次ぎ、二〇(大正九) 年には、日本最大の軍需工場八幡製鉄の二万五千人の労働者が、三割の賃上げ、住宅手当の 支給、時間短縮、手当の本給くりこみ、などを要求して熔鉱炉の火を消す大ストライキに入 った。明治初期のストは個別的、分散的であったが、第一次大戦後の争議は相互に関連をも った闘争として行われるようになった。同じ年の五月二日(日曜日)、わが国で最初のメーデ ーが「治安警察法一七条の撤廃」「最低賃金制の確立」などを要求して上野公園で開かれ、 約五、○○○人が参加した。
 総同盟の分裂と評議会 一九二一(大正一○)年、日本労働総同盟が全国的な労働組合の統一組織とし て結成された。翌一九二二(大正一一年)年の総同盟大会における綱領改正は、 「我等は断固たる勇気と有効なる戦術とをもって、資本家階級の抑圧迫害 にたいし、徹底的に闘争せんことを期す。我等は労働者階級と資本家階級が両立すべからざ ることを確信する。我等は労働組合の実力をもって、労働者階級の完全なる解放と、自由平 等の新社会の建設を期す」とのべていた。
 しかし、アメとムチによる支配階級の労働運動対策は、総同盟内部に路線上の対立を引き 起し、分裂をまねいた。一九二四年(大正一三年〕二月の総同盟一三回大会での大会宣言をめ ぐつての論争は、右派の方向転換−「組合主義」の確立と評価という主張にたいして、左派 は「階級的立場の堅持」という根本精神は変えるべきではないと主張し、右派が多数を占め る総同盟中央委員会は左派を除名、二五年五月、左派は日本労働組合評議会を結成し、分裂 は確定した。
 評議会は、「太陽のない街」で有名な共同印刷や浜松日本楽器などの大きなストライキを 組織し、一九二七年には失業手当法、最低賃金法、八時間労働法、健康保険法の徹底的改正、 婦人青少年労働者保護法を要求する「五法律獲得闘争」にとりくんだ。また、中国に対する 武力干渉や帝国主義戦争に反対して闘ったが、一九二八(昭和三)年に、政府の弾圧で解散さ せられ、その組織は日本労働組合全国協議会にひきつがれた。
 これより先の一九二五(大正一四)年、普通選挙法の制定にともない「合法無産政党」結成 の気運が高まり、同年十二月に農民労働党(結成三時間後に弾圧解散)、つづいて労働農民党、 社会民衆党、日本労働党などが次々と結成されたが、これらの政党はそれぞれ評議会、総同 盟、組合同盟などと直結し、労働組合運動は政党系列ごとに分裂してすすめられることにな った。
 戦時下の労働運動 一九三一(昭和六)年、満州事変がおこった。世界恐慌の影響をうけ、日本経済 は深刻な危機に直面していたが、その打開の方向を帝国主義戦争に求めたので ある。そして、この戦争に反対する人たちには、治安維持法などの悪法によっ て弾圧を加えた。一九二五(大正一四)年に制定された治安維持法は、国体(天皇制)の変革、 私有財産の否認を目的とする団体の結成、行動などを、死刑を含む極刑の対象としたが、実 際には、共産主義者だけでなく、労働者政党、労働組合、民主運動の全てが対象となり、行 動や組織だけでなく思想そのものをも犯罪とみなした。
 すでに、共産党や全協は非合法に追い込まれていたし、一九三七年には、合法左翼といわ れた日本労働組合全国評議会(全評)や日本無産党に結社禁止が命ぜられた(第一次人民戦線事 件)。さらに一九四〇年には、スト絶滅宣言まで行った総同盟や戦争協力の姿勢を示した社 会大衆党も解散を余儀なくされた。
 こうして、立場のいかんを問わず、労働者の自主的組織が全て破壊されると、それにかわ って一九三八(昭十三)年に産業報国会がつくられ、労資が協力して軍需生産をおしすすめる 運動がはじまった。日本の労働者は、一九四五(昭二○)年八月の敗戦まで、自分の生活と権 利を守る組織をもてず、個々の消極的な抵抗以外になにもできなかった。
 戦前の労働組合運動のまとめ 戦前の日本の労働組合運動は、最高のときで、組織労働者数四二万人 (一九三六年)、組織率七・九%(一九三一年)という状況で、労働者階級 のなかに根を下ろした大衆的なものにはならなかった。それは、基本的 には治安警察法や治安維持法などの悪法を活用して、労働組合運動や民主運動を徹底的に弾 圧した絶対主義的天皇制権力の専制支配が、主要な原因であった。また、資本家が共済会や 親睦団体などをつくって組合結成を妨げたこと、労働組合の右派指導者が、戦闘的な組合や 指導者の追い出しに重要な役割を演じたこと、戦闘的労働組合の側にもセクト主義や未熟さ があったことなどもその原因としてあげられる。
 政党と労働組合との関係が正しくとり扱われず、労働総同盟の第二次、第三次分裂にみら れるように、政党の系列ことに、組合が分裂するという不幸な事態が生まれ、それが戦後に も引きつがれた。
 このような誤りや未熟さをともないつつも、世界にも稀な天皇制権力の弾圧にも屈せず、 労働者の生活と権利の擁護と向上、民主主義と戦争反対をかかげて活動してきた労働者の戦 闘性は高く評価されねばならないし、それは戦後に受けつがれていくのである。

   

7 戦後の労働組合運動の高揚



 労働組合の再生 一九四五(昭和二〇)年八月、日本の敗戦によって事態は大きく変った。悪法は 撤廃され、政治犯は釈放され、労働組合は急速に組織された。労働組合の団結 権を保障する措置として、四五年一二月、わが国ではじめて労働組合法が制定 され、翌年三月から施行された。敗戦後一年たらずの四六年六月には、一二、○○○組合、 三六八万人が組織され、組織率四一・五%という規模に達した。労働組合は、敗戦直後の食 糧難、住宅難、物資の欠乏という状況のなかで、生活擁護をかかげ、また、戦犯経営者の追 放をはじめとする職場の民主化のために活発な活動を開始した。
 戦後の労働組合運動の出発に当っては、政党ごとに系列化され主義・思想の対立から分裂 を繰り返した戦前の反省のうえに、全日本の労働者を一つに結集する統一した労働組合組織 を作ろうという構想が立てられ、努力が続けられた。けれども残念なことに、この努力は実 らず、戦後日本の労働組合運動は日本労働組合総同盟(総同盟、八五万人)、全日本産業別労働 組合会議(産別会議、一五六万人)という二つの全国組織に分かれて進められた。
 全国金属産業労働組合同盟(全国金属の前身)は、総同盟傘下の組織として一九四六(昭和 二一)年九月に結成された。
 二・一ストと全労連の結成  総同盟と産別会議の分立という不幸な状態はあったが、日本の民主化と爆 発的なインフレーションから生活を守るための大幅賃上げ、首切り合理化 粉砕などの要求をかかげて、運動は短期間にめざましい発展をとげた。こ のなかから、統一への運動が力強く前進したことも、見落すことはできない。占領軍の弾圧 で実らなかったとはいえ、その頂点となるのが、一九四七年二月一日に予定された二・一ゼ ネストであり、全国労働組合連絡協議会(全労連)の結成である。
 二・一ストは、全官庁共闘に結集した労働者が、賃上げ、最低賃金制確立、勤労所得税撤 廃などを政府に要求、民間労働者も加わり、産別会議、総同盟さんかの組合を含め六〇〇万 人が結集、吉田反動内閣打倒、民主人民政府樹立の目標をかかげた大闘争へ発展した。二・ 一ストはその前日、マッカーサー命令によって禁圧されたが、この闘いの中から、わが国の 労働組合運動史上、初めての統一組織である全労連が生まれた(四八年三月)。全労連には産 別会議、総同盟、中立系組合四六〇万人が参加、組織労働者の八三%を組織したが、あいつ ぐアメリカ占領軍の弾圧、分裂攻撃のために短命に終った。
 初期には、日本の軍国主義に対抗する勢力として労働組合などの育成政策をとったアメリ カ占領軍は、急速な労働運動の高揚におどろき、また、中国全土における革命勢力の勝利が 決定的となるなかで、弾圧政策に転じたのである。
 占領軍による弾圧と首切り  占領政策の反動化とともに、四八年七月にはマッカーサー書簡による政令 二〇一号で公務員労働者のスト権が全面的に禁止され、同年末の国家公務 員法改悪、公共企業体等労働関係法=公労法の制定、つづく地方公務員法 (五〇年)、地公労法(五二年)制定で、公務員・公共企業体労働者のスト権は剥奪され、団結 権、団交権についても大幅な制限が行われた。
 民間の労働組合に対しても四九年の労組法政悪をテコに、アメリカ型協約を押しつけ、労 働者と労働組合の権利を大幅に制限する攻撃が加えられた。
 一九四九(昭和二四)年夏は、戦後の労働組合運動の大きな曲り角であった。中国革命の成 功をみたアメリカは、日本を反ソ・反中国の前線基地にするための活動を強めた。前年一二 月に発表された経済九原則にもとづくドッジ・プランによって「合理化」政策・首切りがす すめられ、実数約一〇〇万人と推定される大量の失業者が生まれた。この攻撃に対決する戦 闘的な労働組合に対しては、四九年七月の下山事件、三鷹事件、八月の松川事件などの謀略 事件*が相次いでひき起され、首切り反対闘争はおしつぶされた。
 さらに、一九五〇(昭和二五)年六月、朝鮮戦争が始まったが、その前後に、日本共産党中 央委員の公職追放、全労連の解散、レッド・パージ(共産党員や組合活動家一万数千人の解雇) が行われ、労働運動に大きな打撃を与えた。

    

8 独占資本の復活と安保・三池の闘い


 このように左派勢力が弾圧されると産別会議も弱体化し、この過程で一九五〇(昭和二五) 年、日本労働組合総評議会(総評)が結成された。全金同盟は同年秋の第五回大会で、総同盟 の古いカラをうち破り、総評を唯一の統一母体としてこれに結集するとともに、名称も全国 金属労組と改めて、産業別統一組織をめざす方針をうち出したが、一部代議員は総同盟全金 同盟の維持存続を主張して退場し、今日まで全金同盟としてのこることになった。
 平和四原則と総評の戦闘化 朝鮮戦争は、日本の独占資本にとって”救いの神”であった。アメリカ軍 の「特需(膨大な軍需品の日本での調達)をテコに日本の鉱工業生産指数は 戦前の水準を突破した。しかし、労働者にとって戦争がもたらしたものは、 労働強化であり、労働災害の増加であり、実質賃金の低下であった。
 五一(昭和二六)年に、講和問題をめぐって日本の国論は二分した。米日支配層は、ソ連や 中国など社会主義国を排除した「単独講和」を行って、日米軍事同盟を結ぼうとし、労働者 階級の多数はこれに反対して、全面講和と再軍備反対を主張した。総評も、戦闘的な立場を とり、右派の反対や占領軍の脅かしにもかかわらず、「再軍備反対、中立堅持、軍事基地提 供反対、全面講和実現」の「平和四原則」を採択し、国際自由労連加盟提案を否決した。こ れがいわゆる「ニワトリからアヒルヘの転化」といわれるものである。
 労働者、勤労国民諸階層の反対を押しきって、五一年九月、単独講和と日米安保条約が締 結され、わが国は、形の上では「独立」したものの、全国にアメリカの基地がおかれ、占領 軍はいすわり続けた。その後吉田内閣のもとで、破防法制定(五二年)、労働三法改悪(五二年)、 スト規制法制定(五三年)、MSA協定締結(五四年)というように、アメリカ帝国主義と復活 した日本独占体の圧力によって、日本の独立、平和、民主主義、生活改善をめざす階級的労 働運動への抑圧が強められた。総評は、これらの弾圧と搾取の強化に反対し、しだいに階級 的大衆的方向を強めていったが、これを不満とする右派組合は一九五四年、総評の平和四原 則、破防法反対、電産・炭労の長期ストを、階級闘争至上主義、左翼偏向と非難、海員組合 や全繊同盟は総評を脱退し、全労会議を結成した。
 日本生産性本部の発足 一九五五年は、いくつかの重要なできごとがあった。二月には、ア メリカと財界・政府の後押しで日本生産性本部が発足し、「神武景気」といわれる好況を背 景に生産性向上運動という「合理化」を推進するセンターになった。この年総評では高野氏 に代って岩井章氏が事務局長に就任し、経済闘争中心のいわゆる太田・岩井ラインを形成し 春闘が開始される。また、自由党と民主党が合同して自由民主党となった保守合同、左・右 社会党の統一、日本共産党の統一の回復など、政治の分野でも大きな動きがあった。
 その後、労働組合の分野では、五七〜八年の勤評闘争、五八年の警職法反対闘争などがお こった。警職法反対闘争では、短期間のうちに一、○○○以上の共闘組織がつくられ、社、 共両党、総評、全労をはじめ広範な勢力が民主主義擁護のために立上り、この法案を流産さ せた。この勝利の経験が五九(昭和三四)〜六〇(昭和三五)年の安保闘争に引きつがれた。 五七年以来の金融引締めのもとで、中小企業の争議が激化し、全国金属では田原製作、成光 電機、光伸社などが警察の介入に屈せず、長期にたたかい抜き、地域の共闘を発展させた。
 こうしたなかで、全国金属は一九五八年二月、産別金属と合同した。
 安保闘争と三池闘争 五九年三月、安保条約改定阻止国民会議が結成され、数百万の民主勢力を代 表する百数十団体が参加し、五九年四月から翌六〇年一月まで、二三次に わたる全国的な統一行動が組織される。六〇年五月一九日の強行採決は、多 くの人たちの怒りを呼びおこし、国会は連日、包囲され、三波にわたって抗議ストがおこな われた。安保条約は自然成立したが、岸内閣を総辞職においこみ、アイゼンハワー米大統領 の来日を阻止した。安保闘争では、労働者階級を中心とした統一戦線の力がいかに重要であ るかをはっきりと示した。
 安保闘争と相互に支えあいながら、六〇年一月から一〇月にかけて闘われた三池闘争も歴 史的な大争議であった。独占資本は「石炭斜陽論」を唱えて石炭鉱業の「合理化」に乗り出 し、七万五、○○○人の炭鉱労働者の首切りを計画、その第一目標として戦闘力を誇る三池 の一、二七八名の指名解雇を設定した。この中には約四〇〇名の職場活動家が、「生産阻害 者」という名目で含まれていた。三池の労働者は、延べ三七万人、海外からをも含む二〇億 円の闘争資金カンパに支えられ、第二組合の結成、会社、警察、暴力団、裁判所が一体とな った攻撃にもひるまず、英雄的に闘った。しかし、独占資本が総力をあげた「合理化」に対 して、三池の闘争だけでは勝利できなかった。

    

9「高度経済成長」下の闘い


 春闘の発展と最低賃金制闘争  一九五五(昭和三〇)年にはじまった春闘はその後しだいに発展していっ た。五五年には、八単産(全国金属、電機労連、合化労連、私鉄総連、紙パ 労連、炭労、電産、化学同盟)、七三〜四万人の参加であったが、五六年の 第二回春闘で官公労組を加えて一挙に三〇〇万人近い規模に達した。さらに六一年には、中 立労連が一本で参加して総評とともに春闘共闘委員会を設立し、六一年春闘の参加者は約五 ○○万人に達した。「高度経済成長」を背景に、資本も名目賃金では一定の譲歩をし、イン フレーションと「合理化」でとり戻すという方法をとったので、参加者の増加とともに賃上 げ額も増加していき、春闘はわが国の労働組合運動のなかで定着していった。
 一方、同盟(六四年までは全労、総同盟)は、春闘に批判的な態度をとり、春闘が終った頃に、 総評、中立労連の獲得した実績をみて資本に要求するやり方をとり、日本生産性本部に加盟 し、積極的に生産性向上運動にとりくんでいた。しかし、職場労働者の賃上げを求める声が 強まり、安保闘争の翌年の六一年春闘には、同盟系の一部単産なども、時を同じくして賃上 げ闘争を行うようになった。
 全国金属は春闘のなかで積極的な役割を果した。六一年には安保闘争の経験のうえに、 「どこでも誰でも五千円」というスローガンを掲げ、初めて、統一要求・統一交渉・統一ス トの産業別統一闘争を展開し、春闘を大衆闘争として闘った。
 総評は、一九五二(昭和二七)年に発表した賃金綱領で八、○○○円の最低賃金制を確立す るよう要求したが、実際に闘いがもり上がったのは六三〜六四年で、全国金属は、最低賃金 制の要求をかかげて、統一ストライキを実施し、対政府交渉では、当時の大橋労相が「全国 一律について前向きの姿勢でとりくむ」ことを代表団に約束し、同席の村上労働基準局長に 指示した。これは最賃制を要求する統一行動のもり上がりの反映であった。しかし、この約 束は自民党政府によってほごにされた。
 池田内閣の所得倍増計画  安保・三池闘争の高揚をみた一九六〇年以降、岸に代って登場した池田首 相は、所得倍増政策をとりあげ、もっばら「寛容と忍耐」をモットーとし たいわゆる低姿勢の政策をとり、自民党も労働者の財産づくり、持家制度 などをもりこんだ労働憲章を作成して、労働者にバラ色の幻想をばらまいた。日経連も「今 後の労使関係は対立から協調へと進まねばならない」とする原則をうちだした。
 アメリカ国務省も一九六二年、あらたに日米労働関係人物交流計画を作成、国務省の費用 で労組中堅幹部を大量にアメリカに招待し、また国際自由労連、国際産業別組織の右派幹部 をつぎつぎにわが国におくりこんだ。この年にケネディ・メッセージが電機労連大会によせ られている。
 このように支配層は、六〇年の闘争の教訓から学んで、民主勢力の分断をたくらんだ。そ して、「高度経済成長」政策の推進によって得た超過利潤の一部を、労働者の一部にばらま くことで、労働組合の右傾化をねらった。一方、その攻撃に屈しない組合に対しては、プリ ンスや三菱長崎造船などのように容赦のない分裂攻撃が加えられた。これらの攻撃が「大型 合併」など、独占資本の強化をめざす産業再編成の機会を通じておこなわれたことも目立っ たことである。
 IMF・JCと同盟の発足 六二年に連絡調整機関として同盟会議を作った全労と総同盟は、六四年に はそれぞれの組織を解消し、統一体としての全日本労働総同盟(同盟)を 結成した。総評と中立系単産の内部の右派グループは、六三年全国民主化 運動連絡会議(全国民連)を結成し、同盟と提携して公然と組織活動をはじめた。金属戦線の 分野では、国際自由労連の産別組織である国際金属労連が五七年、日本事務所を開設、七年 以上の準備工作を経て六四年にはIMF・JC(国際金属労連日本協議会)が発足した。
 IMF・JCについて総評は「その背後には、AFL=CIOの反共工作、日本労働運動 の右翼化工作があるように思われる。とくにJCが賃金、時短闘争などで『相互協力のなか で連絡共闘の実を期してゆく』として、総評・中立労連の春闘、そのなかの金属共闘に対抗 する方向を打出していることは、国内労働戦線の新たな分裂を策すもの」(岩井事務局長、月 刊総評、六五年十二月号)であると批判した。
 同盟は資本が推進している生産性向上運動に積極的に手をかし、「合理化」に協力した。
そして、資本の攻撃に対して、王子製紙(五八年)や三井三池(六〇年)の労働組合が長期の 争議に入っているとき、組合を分裂させて第二組合を結成し資本の側に加担した。この階級 協調を基本とする路線は、支配層の支持のもとに、鉄鋼、造船、自動車などの基幹部門で影 響力を強めている。
 しかし、「高度経済成長」の現実は、若干の名目賃金の上昇とひきかえに、労働強化、労 働災害、健康破壊の増加をもたらし、インフレを促進し公害を広めるものであった。
 ベトナム反戦と制度要求 わが国の労働組合は、この期間、アメリカ帝国主義によってすすめられた ベトナム侵略に反対する闘いにとりくみ、一〇・二一国際反戦デーを提唱 して国際連帯を示し、春闘によって、大幅賃上げをはじめ諸要求を獲得し、 東京、大阪をはじめいくつもの府県や大都市で革新自治体をつくることに貢献した。また七 〇年の安保闘争を沖縄返還闘争と結んで闘った。
 一九七一(昭和四六)年八月のニクソンの新経済政策の発表は、戦後の資本主義の繁栄にピ リオドをうち、資本主義の危機がぬきさしならない段階を迎えていることを示すできごとで あった。インフレの著しい高進と、さらに七三年秋のオイル・ショックと、その後の資本主 義諸国を一斉におそった深刻な不況は、「高度経済成長」の破綻を物語っている。膨大な失 業者の存在、残業切捨てによる賃金の減少、配転、出向、一時帰休、「希望退職」の募集、 などの人べらし攻撃が続出し、一方、物価は依然高く、実質賃金を低下させている。
 このような状況で、労働組合は、革新政党や民主団体と力をあわせて、独占資本や自民党 政府に対する抗議行動をつよめ、七三年秋から七四年はじめにかけては、商社の買いしめ売 りおしみなどをきびしく追及した。
 また六〇年代の終りごろからすすめられてきた労働戦線の右翼的統一のうごきは、全国金 属をはじめ、総評内の階級的組織の活動によって流産し、独占資本とそれに追随する労働組 合の右派幹部のたくらみが一時挫折したことも、この時期の重要なできごとであった。
 戦後の労働組合運動のまとめ  戦後の労働組合運動の、戦前との違いは、日本の社会のなかでもつ比重 の大きさの決定的な相違である。戦前は、組合員は五〇万人もいなかっ たし、組織率も労働者の一〇%に満たなかった。ところが、戦後は組織 労働者は、一、○○○万をはるかにこえ、組織率も三分の一を上回り、最高時では五五・ 八%(一九四九年)にも達した。今日では、労働組合の存在を無視しては、だれもなにもでき なくなっている。春闘の時期になると、新聞やテレビが労働組合の活動を大きく報道するの も、労働組合のうごきが社会に与える影響の大きさを示している。
 そして、五八年の警職法改悪や七三年の小選挙区制強行のたくらみを、労働組合は、国民 運動の中心になって粉砕したし、六〇年の安保闘争や三池闘争でも積極的な役割を果した。
 独占資本とその政府は労働組合の力が強くなればなるほど、必死になって労働組合の丸が かえを策動し、それが成功しない場合は分裂を狙う。この分裂攻撃に対しても、ねばり強く 闘い、統一を回復していった組合も少なくはない。しかし、一面では、独占資本の攻撃はな お一定の成功を収めており、基幹産業部門の多くの工場で階級協調路線が支配的になってい ることもまた事実である。
 五〇年代なかばからはじまった「高度経済成長」による超過利潤の獲得は、右翼的潮流を 育成する物質的条件になっていたが、七〇年代に入っての深刻な危機は、その基盤をゆるが せつつある。
 そのようなとき、決定的に重要なのは統一行動であるが、わが国の労働組合運動では、要 求にもとづいて統一行動を発展させ、全体の力関係を変えていくという経験は、全体的には まだ乏しい。統一の重要さについての認識の弱さ、運動のなかにある未熟さやセクト主義、 それに加えて企業別組合という組織形態もマイナスとして作用しているが、戦後の運動の歴 史は闘う組合が統一行動のイニシアチブをとることの重要さを示している。六〇年の安保闘 争へのとりくみが六一年春闘の成果を生み、七三年から七四年にかけての独占資本の売りお しみ、買いしめに対するたたかいが、七四年春闘の前進につながっていったように、経済闘 争と政治闘争の結合が一層重要になっている。
 七〇年代のなかばには、戦後の資本主義のもつ矛盾や弱点が一挙に大規模に表面化してき た。雇用保障や最低賃金制、その他の制度的要求を重視し、その実現のためのたたかい、革 新政党、民主団体とも力をあわせて、社会の民主的変革を実現することが、労働組合運動に 課せられた基本的な責務になっているのである。

  【設 問】
1 労働組合の組織、団結する権利は、どのような闘いを通じて確立されたのだろう。
2 帝国主義(独占資本主義)の時代の労働組合運動にはどんな特徴があるか。
3 戦前の労働組合運動と戦後の運動にはどんな特徴があるか。どこが違うか。
4 六〇年代の労働組合運動の前進面と弱点について考えてみよう。
5 あなたの支部(組合)は、いつどのようにして生まれ、どんな闘いをしてきたか。

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