幸田露伴と鐘楼門タイトル
 
百年前に長善寺に立ち寄った明治の文豪

寛保3年(1743年)現在の本堂が完成し、安永7年(1778年)総欅造りの鐘楼門(しょうろうもん)が建立された。鐘楼門はその構造のめずらしさから文豪幸田露伴秩父紀行(知々夫紀行)に出てくるが昭和41年の台風で倒壊し惜しくも失われ現存しない。
幸田露伴は明治31年(1898年)8月6日住まいの東京隅田川のほとりからこの川の上流(荒川)を究めたく寒月子夫人と二人で旅に出ている。
午後2時に上野駅から汽車に乗り、熊谷駅で下車し石原から現在の国道140号線を宝登山方面への石碑を左折し、秩父路を目指した。
8月6日は石原、広瀬、大麻生、明戸を経ぎ夕刻に田中 、現在の埼玉県深谷市田中(旧:川本町田中)の旅館島田屋に宿している。国道旧140号線に面する島田屋のある旧:川本町の荒川は近年、白鳥飛来の地として知られている。
8月7日朝、島田屋を出立し・・・・・以下、知々夫紀行原文によると
七日、朝いと夙く起き出でて、自ら戸を繰り外の方を見るに、 天いと美はしく横雲のたなびける間に、なお昨夜の名残の雷光す。涼しき中にこそと、朝餉済ますやがて立出づ。路は荒川に沿えど磧までは、あるは二、三町、あるは四 、五町を隔てれば水の面を見ず。少しずつの上り下りあれど、ほとほと平らなる路を西へ西へと辿り、田中の原、黒田の原とて小松の生ひたる廣き原を過ぎ、小前田というに至る。
路のほとりに
やや大なる寺ありて、如何にやしけむ鐘楼は無く山門に鐘を懸けたれば二人相見ておぼえず笑ふ。九時少し過ぐる頃寄居に入る。
鐘楼門大正14年 梵鐘が認められます。鐘楼門とは鐘楼と山門とが合体した二階建て構造で、上部に梵鐘を懸けて階下が山門の構造形式を云うが、幸田露伴は鐘楼とは見ず、山門に梵鐘を懸けていると見て滑稽と思ったのであろう。
露伴が長善寺を訪れた当時は梵鐘が懸けてあったが、第二次世界大戦の金属供出によって鐘は無くなったが荘厳な鐘楼門は永く存在していた。しかし昭和41年の台風で倒壊し失ったのも、鐘の無いことで構造物の重量均衡が失われて、倒壊したのではないかと推測され、まことに惜しい限りであり、幸田露伴が目にした頃の風景を想うに鐘楼門が懐かしい。昭和41年9月25日真夜中鐘楼門が大音響とともに倒壊したのが記憶に残る。
(写真は大正14年 鐘楼門風景)

明治31年当時は熊谷から秩父、三峯まで鉄道は通っておらず、徒歩または馬車
での旅であったろう。その後、昭和5年(1930年)羽生−熊谷−三峯口駅まで秩父鉄道が全線開通している。
寄居、鉢形、末野、長瀞、皆野を経由し秩父 で宿をとり、8月8日には三峯神社に足を延ばしそこで宿している。翌日に雁坂峠を越えて甲斐へ出ることを考えていたようだが、途中八里八町人里も無くと知り、ここから戻って8月9日に小前田に宿をとり、10日朝に長善寺より左折する路を観音堂を通り、岡部を通り、深谷 へ至り深谷駅より汽車に乗り、鴻巣駅で下車し、吉見の百穴を見て再び鴻巣駅より汽車に乗り上野へと、4泊5日の旅を終了している。
ここで、10日朝に長善寺のわき路を左折し・・・と長善寺の名称が出てくる。往路では鐘楼門にふれて、やや大なる寺と表現しているが帰路で長善寺の名称を記載していることから、 小前田(旅館藤田屋と伝えられる)に宿泊した際に、寺の名称を聞いたか、或いは寺に寄ち寄り鐘楼門を見上げたとも考えられるのではなかろうか。
立ち寄ったとの当時の資料は存在しないが、鐘楼門をくぐって本堂前に足をすすめた、百年前に当山を巡拝した文豪の足跡を想像するに歴史のなかにロマンを感ずる内容ではなかろうか。
現在は雁坂峠を越えて山梨県への道路が完成しているが露伴が旅してから丁度百年経て峠を越えての甲斐への秩父路の遍路路が新たな旅の出発地となっている今日この頃である。
 
知々夫紀行(秩父紀行) 全文 PDF 12ページはこちら。 知々夫紀行 PDF 

大正14年 鐘楼門
大正14年 鐘楼門風景  写真拡大サイズ
鐘楼門は大正11年に茅葺き屋根から亜鉛板葺寄棟屋根に改修されているので
上の写真は改修間もなくとなる、幸田露伴が望見したのは茅葺き風景であったろう


 
鐘楼太平洋戦争召応
太平洋戦争金属応召での梵鐘類  写真拡大サイズ
 
昭和30年頃の鐘楼門   写真拡大サイズ
 
昭和41年頃 鐘楼門
昭和40年頃 台風被災前の鐘楼門  写真拡大サイズ
現在はその跡地に金剛力士像が建立されている。
 

 
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