当山は寄居町鉢形に築城されていた武蔵国鉢形城主北条氏邦(藤田氏邦)の三男「光福丸」の菩提寺として知られ、和歌山県高野山の「金剛峰寺」を本山とする高野山真言宗の寺院です。 鉢形城は天正18年(1590年)豊臣秀吉の関東攻めの際、小田原城主北条氏直(第5代当主)の父氏政(第4代当主)の弟氏邦が城主であったが、前田利家らの大軍の猛攻を受けて降伏開城。氏邦は利家に従い加賀金沢に赴き優遇されていたが慶長2年(1597年)57歳で病没した。 氏邦には四人の男子がいたが長男東国丸は幼逝、二男亀丸は仏門に入り、三男光福丸当時4才が氏邦の命にて養育係町田土佐守秀房に小前田で守られ、慶長2年秀吉より15歳になったら十万石与えるの御朱印を賜るがその後、慶長4年(1599年)7月15日13才で病没。 四男は庄三郎(生没年不詳)で後に氏邦の家督を相続している。 光福丸:天正15年〜慶長4年(1587年−1599年)法名:医王院殿寿林光福大童子 光福丸菩提の為、長善寺が創建されたのは翌慶長5年(1600年)であったが、年代不詳なるが後に火災で焼失した。 寛保3年(1743年)4月法印廣寿代に現在の本堂が完成し、安永7年(1778年)5月法印白明代に総欅造りの 鐘楼門しょうろうもん が建立された。 鐘楼門はその構造のめずらしさから、明治31年8月6日から8月10日に文豪幸田露伴が秩父を4泊5日旅した「秩父紀行」(知々夫紀行)に出てくるが、昭和41年9月25日台風26号強風で倒壊し惜しくも失われ、現在は本堂正面の跡地に金剛力士像が建立されています。 長善寺のご本尊は金剛界大日如来さまであり ご真言は オン バザラダト バン とお唱えします。 ご詠歌は よろずよの ねがいをここに まんがんし ほとけのちかい たのもしきかな とお唱えします。 |
五三の桐紋 真言宗 宗紋 |
国道140号境内入り口 |
三つ巴紋 高野山真言宗 宗紋 |
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後北条氏の家督相続 |
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新編武蔵風土記稿(文化・文政期 1810年起稿し1830年に完成した武蔵国の地誌) 榛澤郡(はんざわぐん)之五 鉢形領之二 小前田村 長谷寺 新田にあり、真義真言宗 江戸本所弥勒寺末、光福山医王院 と記載されていますが、この 長谷寺 と称する寺院 は同地において他の文献などにその名称見出せず、長善寺が曽て 長谷寺 と呼称された証は発見されず、後の明治8年(1875年)6月 太政官示達により編纂された、武蔵国郡村誌では同地に 長善寺 真義真言宗 江戸本所弥勒寺末、光福山医王院と記載されており 同地において 長谷寺 と呼称される寺院は、その存在が確認されないことから、新編武蔵風土記稿の 長谷寺 は 長善寺 の名称が誤って 記載されたと判断され、後の武蔵国郡村誌では訂正され 長善寺 と記載されたと考えられます。 現在の長善寺の住所は深谷市小前田ですが、それ以前は大里郡花園町小前田、大里郡花園村小前田、新編武蔵風土記稿にある 榛沢郡の地図には荒川の北側に小前田村と小前田村新田の記載があります。残念ながら榛沢郡の地図には寺院の名称記載はありません。 榛沢郡は 1896年 男衾郡、幡羅郡と共に大里郡に編入されています。 新編武蔵風土記稿または新編武蔵國風土記稿と”武蔵”と”武蔵國”の表記があるようです。 新編とは”古風土記”に対して新しいと云う意味で付けられた名称で、他に1842年に完成した新編相模国風土記稿もある。 長善寺縁起におきまして、上の記載内容と過去印刷物内容が異なる部分がありますが、上の内容を史実情報としております。 |
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