随想−k2−                  加藤 富之

エピローグ  四十五日間の登攀活動を終え、帰りのキャラバンがスタートした。8400メートルまでしか登る ことのできなかったK2は、その姿をすでに二日間も隠し、とうとう私たちにその勇姿を再び見せる ことはなかった。  アタック翌日は、C1までしか降りられず、そこでビバーク。雪がまたもや30センチ以上も降り 積もり、下降路は姿を一変し、7月上旬の姿に戻ってしまったようだ。完全に、モンスーンがここカ ラコルムにもやってきたのだ。その後ABC跡での休息。非常に寒かった。衰退し乾いた体に、その 雪解け水はシンシンと凍みた。それまで、ABCと言えば、唯一の地面のテントサイトで『暖かい』 という言葉を発するのが常であったが、テントのかたづけられたその別天地は、同じく冬を迎えてい た。  そこからのBCまでの道程は、果てしなく遠いものであった。半月以上も御無沙汰していたゴッド ウィン・オースチン氷河は、様相を変え私たちを手間取らせた。セラックの崩壊が予想以上に激しく、 トランシーバーで受けた情報が理解できない。「ロープはいらない」は、アタックを終えた(敗退で あるが…)体には厳しすぎる。残されたフィックスロープの安全を確認し通過するが、トップで通過 した戸高氏は、ここの一歩で肋骨を痛めてしまった。更に足指は凍傷に犯され、歩行が困難となる。 しかし、歯を食いしばっての下山である。氷原に出るまでも様子が一変し、ガスと降雪で視界がき かず、哀れにも赤旗も倒れ方向が定まらず、難行する。  トランシーバーで戸高氏のことを連絡すると、早速コックのアリと従兄弟の叔父さんポーターがこ ちらに向かったと言う。その後、成田氏も出発して、こちらの応援にやってきてくれた。途中でアリ と出会い、荷物を担いでもらう。戸高氏、北村氏はゆっくりと歩いていく。自分は、アリとポーター の踏み跡を追いかけ、踏み跡が積雪で消えないように、両者の中間に入って、一人ポツネンと歩く。 この一人歩きがたまらなくいい。少し寂しいのだが…。そう言えば、アタックを8400メートルで 諦めた後の、瓶の首からの下りは一人だった。ガスに覆われ、視界がよくなかったが、ひとり寂しく も悦に入った心境で歩んだ。そして、二人よりも1時間以上も遅れてC4に到着したっけ…。  しばらく歩くと赤旗を振った黄色い人影。成田氏である。熱いお茶を持って迎えに来てくれた。彼 は、キャラバン初日から体調を崩し、BC入りしても、C1、C2と進んでいくうちに高所順応が遅 れ、ついにはアタッカーになれなかった。彼の最終到達高度は、8050メートルだが、それは自分 たちが1回目のアタックに入った(C4)当日であった。本来なら、その後一週間アタックが伸びた ので、アタックの可能性も有ったのだが、その時点で彼のK2は終わったらしい。生徒からもらった 旗を出し、写真を撮っていた。彼は4年前のナンガ以降、このK2を目標に日夜トレーニングに励ん でいた。それも、水泡と帰してしまった。アコンカグアでのBCからの日帰り登山、フルマラソン、 富士山のマラソン登山等そのどれもがずば抜けていたが、それは低酸素濃度の世界では通用しないの か…。  自分などは、隊長と会う度いつも注意されていたが…、まったくトレーニングもせず、努力もしな かった。『仕事を一生懸命やればいいんだ』とホラを吹いていたが、こういう人がまったく高度の影 響を受けず、やっていけたというのは、とても不思議である。しかし、やっぱりトレーニング不足で、 最後のラッセルで力が入らず、敗退の要因になってしまったのである。これは大きな後悔で、もう少 し体力とスピードがあればいいのだが……と反省する。  成田氏からは熱いお茶と飴をもらい、またひとりポツネンと歩いていると、後ろの二人が追い付き、 計4人で歩くようになる。氷原からモレーンとなり、岩屑の中を歩く。石を乗せて解け残った氷柱は、 そのほとんどが崩れて石を落とし、最後の幾つかが残っているばかり。7隊もあった各国のBCのテ ントも今は我々の隊のみ。その姿が見え出す頃、八尾さん、神ちゃんがやって来る。八尾さんはザッ クを持ってくれる。  テント跡の小山を幾つも乗り越し、とうとうBC到着。みんなで迎えてくれるが、恥ずかしいやら 疲れたりで返す言葉も少なめ。至れり尽くせりのもてなしも、疲れて喉を通らない。つくってくれた 人、暖かく歓迎してくれた人には申し訳ない。その後は、メステントの撤収のため外に出され、個人 装備をボックスに詰め込む。びしょびしょに濡れてしまった物もパッキングせねばならず、しかたな しのパッキング。おまけに天候も崩れっぱなしで雪になり、なんとも寂しいBC最後の夜。それでも、 昨夜よりも暖かいと何時の間にか眠りに就いた…。  アッという間に、帰りの朝が来てしまった。冷たい露空の下、凍り付いたテントをたたみパッキン グ。ポーターへの荷物の割り振りに時間をとられ、慌ただしいキャラバンのスタート。天候は悪く、 K2の姿も無く、気分はブルー。一番最後になるのはいやなので、成田氏の前に出発するが、途中で 追い抜かれ、歩みの速いポーターにも抜かれてしまった。また、ポーター達になかなか追い付けず、 コンコルディアへの横断は、本当に迷子の一歩手前だった。ウルドカス隊の再現になってしまうので はないかと不安の連続。それでも、氷河上のはるか彼方に、下っていくポーターの姿を確認したとき 救われたという思いがした。ここは、行きでもコックのアリに追い付けず、彷徨ってBPBCに到着 した場所だから……。  コンコルディアへ道は、果てしなく遠く、長く感じられた。雨の中、傘をさしたり畳んだり、氷河 の隅を歩いたり、中央のモレーンの登り降りを繰り返したり、はたまた大きなクレバスを避けたりと …変化に富んでいた。ポーターは速く、休憩や食事をする暇も無く、疲れた体を引きずって、漸くコ ンコルディアへ辿り着いた。もう歩きたくなかったので、予定変更で今晩はコンコルディアに泊まる ことが決まったときはホットした。  その後のキャラバンがどの様に続いたかは、想像におまかせします………。 無事帰国できたこと、みなさまに感謝致します。
好きな山  「どんな山が一番好きか」と問われると、私はいつも「大きな山」と答えた。それは、南アルプス の甲斐駒ヶ岳や北アルプスの剣岳を想定した。何故、甲斐駒ヶ岳であり、剣岳であるかは、自分の経 験した山の中で何等かの特別な印象をもった山だからであろう。  山そのものに風格があり、自分が一番思考し苦労した山、登って「やったー」と思えた山。つまり 『登り甲斐のあった山』である。 『理想の山』  深田久弥は名著『日本百名山』の中で、山の選定について、三つの基準を挙げていた。   1 山の品格(厳しさ、強さ、美しさ)    2 山の歴史   3 個性のある山(形体、現象、伝統)  これに自分の理想とする山の姿を重ね合わせると   1 登るのに困難な山(一般ルートでも世界第一位のエベレストよりも難しい)   2 歴史を持つ山(その悲劇の歴史は、『魔の山』ナンガ・パルバットに並べられ『非情の山』    といわれる)   3 巨大なピラミッド型(BCから約3400メートルの三角錐)   4 高い標高(世界第二の標高8611メートル)  K2は、その迫力と存在感、困難度、そしてその姿が理想にピッタリで、「登るべくして存在する 山」、『理想の山』となる。 『憧れの山』  大学卒業時の山行記録集(1982年の秋、八ツ峰・北鎌尾根・北尾根を単独縦走した山行)の記 録の最後に、  「……略…… 目標…決してそれが無いわけではない。それは最終的には『ヒマラヤ』。めざすピ   ークはまだ決めていないが、八千メートルのジャイアントヘ。憧れはやっぱり「K2」…誰かが   『どうみてもK2は登るためだけにある山だ』と書いていた。そのK2なのだ。   だけどこれはどうみても無理そうなので、K2は、バルトロ氷河のコンコルディアから眺めるだ   けでも十分な気がする。        ……略……                   」 と書いてある。これが大学卒業時の山に対する気持ちであった。遠い未来の目標、『憧れの山』であっ た。なぜなら、ヒマラヤ遠征という長期の休暇を取ることは、教職という身の上ならば、それがいか に困難で現実離れした空想なのかと考えさせられてしまうのであった。  しかし、どうしたことか、自分の意思が校長、市教育委員会、教育事務所、県の教育委員会にも通 じ、とうとう実現したのである。これは、夢のような話で、県としても前例のない第1号の承認であっ た。この場を借りて、ご尽力いただいた関係者の皆様に厚く御礼申し上げます。  しかし、今この遠征をあらためて振り返ると、単に運が良かっただけではなく、「私という存在が 周りの人々に影響を与え、その反応としてこの遠征が実現した」と考えるようになった。  どのような影響や刺激を与えたかは定かでないが、意志(目標)を持ち、前向きに前進することは、 して損のない行為であることを私自身の体験から確信し、公言します。
K2との初対面  7月1日の日記「…キャラバン6日目。ブロードピークBCでポーターチェックをする事になり、 LOのエバースと追い抜き合戦…。ブロードピークが近付き、ミートルピークが確認できると…左前 方に白い山肌がチラッと見えたかと思うと…まさしくそれはK2の南東稜であった。コンコルディア に着くと、さらにはっきり見えた。そこで先頭集団のポーターが一休み。自分は荷物を置いて、少し 先まで走っていって…K2をカメラにとらえる。でっかい。でっかい。でも、思ったほど威圧的では ない。「こんにちは」という感じで、そこに座っていた……。」  それが、K2との初対面であった。あこがれに一歩近づいた。
7月3日の日記  「…山登りを始めたきっかけは『家を出たい→自立したい』という気持ちからだった。これは浅は かな面も多く、両親に対しては申し訳ないことも多かったが、家(両親)から離れたいということだっ た。それが直ぐ自立につながるとは思えないが…。  そして、山を登るようになってから感じてきたことは『自分を強くしたい』『高めたい』→『自己 実現』という考えだった。普通の生活とはまったく違った事を好き好んでするのであるから、辛いこ とも多く『その逆境の中で、いかに自分が大きな愛をもって過ごすことができるか…』ということを 考えながら、色々なことに出会い、過ごしてきた。  『歩くことが、辛い…休みたい…』という低次なことから…『誰かが倒れて、荷物を担がなければ ならない』、そして時には、『自分の目的(命)を投げ出しても、相手を救助する』という状況で…、 そして中には『弱音を言ったり、相手を罵ったり…』そういう事をできるだけ許し、受け入れる。そ して、自分自身は『そんな姿をさらけ出さないように頑張ろう…』と思ってやってきた。  そうしていると、自分の心や他人の心が見えてきて…それを乗り越えることによって、自分は前の 自分より一段高い人間になったのではないかという『自己満足』を得るのであった。だから山登りも より高度になりハードルも高くなってくるのだが、高くなればなるほど、それを乗り越えたときの気 持ちはより高くなるのである。  所詮『自己満足』の域を出ないことかもしれず、それは他人には解らないことかもしれないが…自 分がより高い人間になれると思うと止められないのである。これは、自己実現に繋がることでもあり… マズローの欲求の三段階説にも通じるし(成田氏)、戸高氏の『魂』にも通じることだと思う。いや、 戸高氏の考えにかなり近いのです。  戸高氏は、「今は自分で自分の魂を鍛えるが、後には他人の魂を鍛えることをしたい」という。こ れも自分の考えに近い。K2モーテルでの話の中で戸高氏は、「山を中心にして、心を鍛える学校を つくりたい」というニュアンスのことを言っていた…。隊長は、「それは今の野外学校でもやってい ることで、特に社会人の新人研修等でやっているではないか…」と言っていたが、…それは少し違う ような気がする。山でどんな面を鍛えられ、考えるようになるのかは予想がつかないが、一般人にす ぐ八千メートルを要求する(つまり八千メートルの体験は、生半可ではできないし、それぐらいの体 験でないと、人生の中で勝てないかもしれず…、逆に人生におけるハードルはそれほど高くもなく、 八千メートルは異質のものであるかもしれない…という隊長の考え)よりかは、『登山の中で身に着 けた精神力を一般の人にも広めてやりたい』という戸高氏の考えに共鳴する。  特に、今の日本の小学生の生活や態度を目の前で見ていると、このままでは本当にクズな人間になっ てしまうのではないかという危機感。日本、外国…いろいろ見回しても、このままでは、この子供達 が可愛そうではないか…と思ってしまう。確かに学力の面では優れている者が昔よりは多いかもしれ ないが…人間性という面から考えると…これは遥か原始人よりも低いレベルであると思う。やさしく ない、冷たい、無関心、無感動、無責任、無気力…言い出したらきりがないほど、心が狭く…人間と して育っていない。もっている心は同じだと思うが、それが今までの体験の中で開発されていないの である。この心の開発には、戸高氏のような方法もあるだろうし、自分の考えるもっとサバイバル的 な方法もあると思う。いや自分の考えているサバイバル的なものは、もうすでに野外学校である程度 やっているはずなのだが…それが今の子供達の教育に生かされていないのだ。…略…」
K2山巓との対峙   7月28日の日記「…上部プラトーに飛び出すと、K2の山頂部が目の前にバッチリと写る。 『大きい』というよりかは『近い』という印象。めざす山頂まであと数百メートル。今にも行ってき てしまえそうな感じ。C3から急な雪原を進みセラックを越え、かなり急峻な雪壁を越え、雪庇を乗 り越えると上部プラトーになる。良く見ると、雪原の真ん中に国際隊のテントが3張りある。その中 間に我々のテントを張り、交信。思わず喜びの声をあげてしまう。『ABCからC1位の所に見える、 このまま行けそうな距離だ』と言ってしまった。テントを張り終えてから、一時間半歩いて八千メー トルラインまで行く…調子は良い。そしてC4を経てC3に到着。明日は、BCに戻ってゆっくり休 養をとり…登頂めざして…再出発。」
初めてのアタック  8月4日の日記「…略…中間地点のセラックから、今度は北村氏がトップでクレバスを抜けあがっ て行く。左手にトラバースしたかと思うと雪庇が見え、右手には黒い岩峰と懸垂氷河、そして赤旗… あれーと思い、そこを越えたら上部プラトー。C4のあるところである。この間の下降の長かったこ とを思い出すとまだまだ先のような気がしたが…何時の間にかC4に着いてしまった。とは言っても 今日の山頂部はガスに隠れたり出たりで、なんとも遠くに見えたのだ。この間はとっても近くに見え、 そのまま登り続けたら着いてしまうのでは?と思ったくらいなのに。…略… 午後8時50分、目が 覚める。隣のテントの音も聞こえるが、さらに風と雪の音も凄まじい。「外が見えますか」という北 村氏の声。開けると、そこはブリザートの世界。これではどうにも外に出られない。「様子をみよう」 と言う事でひとまず寝て待つことになる。次の交信は12時。しかし、12時の交信時も雪は降り続 き…タイムリミット、今日のアタックは中止。残念…。あんなに期待していたのに…(と思いながら も内心ホッとした何故か不思議な心境)。隊長のいった通り、一回で成功する筈がない…という声が 蘇り反芻する。それはないよ…と思うが、現実は失敗。次回に賭けるしかない。」
再起
  行き着いた目的地は   もう目的地ではなかった   どの道も廻り道で、   どの休息もあたらしい   憧れを生んだ。    おおくの廻り道を   まだ私はするだろう   おおくの成就がなおも私を   失望させるだろう。   いつかは一切がその意義を   あらわにするだろう。           ヘッセ  
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