戦争と革命の時代である二十世紀の前半を生きた思想家、経済学者


河上肇

1879年10月20日 生まれ
1902年 7月 2日 大学卒業
1908年 8月24日 京都帝大講師となる
1913年10月14日 ヨーロッパ留学に出発
1928年 4月18日 京大教授を辞す
1932年 9月 9日 日本共産党入党
1933年 1月12日 治安維持法違反で検挙される
1937年 6月15日 刑期満了で出獄
1946年 1月30日 死去
 

年譜及び著述目録 - 経済学大綱(昭和三年発行)から引用


(画像引用 経済学全集第八巻 マルクス主義経済学の基礎理論 から)


代表的著作    
発行年月 著作名 解説
     
1906(M39) 社会主義評論  
1915. 祖国を顧みて  
1916. 貧乏物語  
1918.  社会問題管見  
1918(T8)〜1930(S5) 社会問題研究  
1920. 近世経済思想史論  
1921. 唯物史観研究  
1922. 社会組織と社会革命  
1923. 資本主義経済学の史的発展  
1928. 経済学大綱  
1928. 資本論入門 弘文堂  
1929. マルクス主義経済学の基礎理論  
1930. 第二貧乏物語  
     

 
 
評論等    
  労働運動の使命  
     


河上肇関連リンク    河上肇関連資料    貧乏物語    第二貧乏物語    社会問題研究

「あなうれしともかくにも生きのびて戦やめるけふの日にあふ」1945年8月15日作


社会主義評論

単行本 一九〇六年、明治三十九年 (作者所蔵:明治三十九年九月廿五日改訂六版)
       例 言
○社會主義評論を書くに當つて、最初考へました事は、自分が執筆
者であるといふ事が世間に知れては困るといふ事でした。
○何故困るかといへば、外ではない、一言にして盡せます、我利の
爲めによくないからです。
○出來る事なら文部省の留學生にもならう、大學邇にもならう、
博士にもならうと云ふ爲めには、社會主義に同情したり、政府の政
策を非難したり、先輩の悪口を云つたりするのが、不得策である位
の事は、僕も知つて居たのです。
○それ故、假りに千山萬水樓主人といふ匿名を用ひ、東京に居て房
州に居る振りをしたり、病氣もないのに不治の病があると云つて見
たり、九州へ渡つた事さへ無いのに欧米を漫遊したと云つたりした
のです。
○そして、其の匿名の下で、大學邇が意氣地がないなどと、えら
そうな事をいふて人を罵つた處は、どう見ても我執根性のさせた事
に違ひありません。
○要するに、我利我執に迷ふて居た千山萬水樓主人が、一場の囈語
を吐いたのが、この社會主義評論です。こんなものは宜しく火にし
て仕舞ふべきですが、只だ最後の擱筆の辭があるばかりに、北鴎先
生のお勸めに従つて、新に册子として頂いて世に公に致します。
〇僕が此の評論を公にしてから、多くの知らぬ方々から、賞めたり、
質問したりして、手紙を、下さいましたが、匿名でやつて居る仕事で
したから、一向御返事を致しませんでした。
○殊に擱筆の辭を公にしてから、澤山に手紙を頂きましたが、今度
は、取り込んで居た爲めに、矢張り失禮いたしました。
○又た直接に訪問を辱うした先輩、知友、未知の方々も少くありま
せんでした。何れも皆な忝く思つて居ます。
○猶ほ此の評論を起草するに就いては、北鴎先生の容易ならぬ助力
を辱うして居りますから、特に誌しておきます。
 明治三十九年一月十二日    河  上  肇



経済と人生

一九一二年、明治四十四年発行 實業之日本社  (作者所蔵:明治四十四年十二月十一日初版)


祖国を顧みて

一九一五年、大正四年十二月五日発行 實業之日本社
(作者所蔵:大正五年二月一日六版)

   序
 大正二年十月著者日本を出でゝ、西欧の間に遊ぶこと一歳、 大正四年二月帰朝す。本書は主として其間に得たる見聞感想を 録せるもの。その中、中央公論に載せたる小篇二種を除くの外、 他は凡て大阪朝日新聞に寄せたもので、中には同時に東京朝日 新聞に掲載されたものもある。
 著者は幸福である。どんな物を書いても、少くとも一人は必 ず愛読者があると確信して、常に之を公にすることが出来る。 其愛読者といふは彼の父である。彼の父は、彼の書いたものな らば、どんな拙い、文章でも、又どんな専門的の論文でも、一字 一句のがさず鄭重に読んで呉れるのである。そこで彼は、官命に 依りて異邦に遊べる一歳の間も、絶えず其感想見聞を録して新 聞雑誌に公にし、半ばは彼の父母への消息に代へたものである。 彼の父は彼の書いたものをば一々切抜いて鄭重に保存し、彼の 帰朝を待って之を彼に與へた。彼は其を材料にして、或物には 多少の補説を加へ、或物は之を反古籠に棄て、かくて此小冊子 を編纂し了へたのである。雑駁な内容を有する本書の命名に苦 んだ著者が、遂に祖国を顧みてと題するに至つたのも、斯かる 因縁によるので有らう。
 大正四年十一月初四、雨ふる夜    河 上 肇
 


貧乏物語

1916年
貧乏物語の「序」より

 人はパンのみにて生くものにあらず、されどパンなくして人は生くものにあらずというが、この物語の全体を貫く著者の精神の一である。思うに経済問題が真に人生問題の一部となり、また経済学が真に学ぶに足るの学問となるも、全くこれがためであろう。昔は孔子のいわく、富にして求むべくんば執鞭の士といえども吾またこれを為さん、もし求むべからずんばわが好むところに従わんと。古の儒者これを読んで、富にして求めうべきものならば賎役といえどもこれをなさん、しかれども富は求めて得べからず、ゆえにわが好むところに従いて古人の道を楽しまんと解せるがごときは、おそらく孔子の真意を得たるものにあらざらん。孔子また言わずや、朝に道を聞かば夕べに死すとも可なりと。言うこころは、人生唯一の目的は道を聞くにある、もし人生の目的が富を求むるにあるならば、決して自分の好悪をもってこれを避くるものにあらず、たといいかようの賎役なりともこれに従事して人生の目的を遂ぐべけれども、いやしくもしからざる以上、わが好むところに従わんというにある。もし余にして、かく解釈することにおいてはなはだしき誤解をなしおるにあらざる以上、余はこの物語において、まさに孔子の立場を奉じて富を論じ貧を論ぜしつもりである。一部の経済学者は、いわゆる物質文明の進歩―富の増殖― のみをもって文明の尺度となすの傾きあれども、余はできうるだけ多数の人が道を聞くに至る事をもってのみ、真実の意味における文明の進歩と信ずる。しかも一経済学者たる自己の現在の境遇に安んじ、日々富を論じ貧を論じてあえて倦むことなきゆえんのものは、かつて孟子の言えるがごとく、恒産なくして恒心あるはただ士のみよくするをなす、民のごときはすなわち恒産なくんば因って恒心なく、いやしくも恒心なくんば放辟邪侈、ますます道に遠ざかるを免れざるに至るを信ずるがためのみである。ラスキンの有名なる句にThere is no wealth, but life(富何者ぞただ生活あるのみ)ということがあるが、富なるものは人生の目的 ― 道を聞くという人生唯一の目的、ただその目的を達するための手段としてのみ意義あるに過ぎない。しかして余が人類社会より貧乏を退治せんことを希望するも、ただその貧乏なるものがかくのごとく人の道を聞くの妨げとなるがためのみである。読者もしこの物語の著者を解して、飽食暖衣をもって人生の理想となすものとされずんば幸いである。
 著者経済生活の理想化を説くや、高く向上の一路をさすに似たりといえども、彼あによくその説くところを自ら行ない得たりと言わんや。ただ平生の志を言うのみ。しかも読者もしその人をもってその言を捨てずんば、著者の本懐これに過ぐるはあらざるべし。

参考: Unto This Last - John Ruskin 1860

1917年(大正六年)初版発行
   (作者所蔵:大正八年四月十五日廿七版)貧乏物語


社会問題管見

一九一八年(大正七年)
(作者所蔵:大正七年十月五日七版)

    題  言
 新聞雑誌に公にせし短文若干を纂めて斯集を作る。一二の論文の外は、概ね専門外の一般読者を相手とせる通俗の随筆にて、卑俗低調、固より学者に示すべきものには非ず。若し人ありて著者に向ひ、汝は何が故に、斯かる片々たる小冊子を編むの暇を以て、其本職とせる経済学に就き専門的の大著述に志さずや、と詰られなば、恐らく彼は、恥ぢて答ふる所を知らざるべし。



近世経済思想史論

一九二〇年、大正九年 (作者所蔵:大正九年八月一日廿二版発行)
近世経済思想史論

     序
 私は昨年の夏、信州の夏期大学講習会に於て、又それに引続いて東京の帝国 教育会の講習会に於て、各々前後六日間に亙り、近世経済思想史に関する講演 を試みた。本書は、後の機会に於ける講演の速記に、多少の加筆を為したも のである。
 講演と謂つても、当時私は、− 数年来の習慣として− 豫め作つて置いた ノートを朗読したに過ぎない。それにも拘らず、特に速記者を労したのは、其 時々の気分で、ノート以外に脱出することも在り得る、と思つたからである。 しかるに私は、昨年の夏自宅を出る前から稍々健康を害してゐたが、信州に入 つてから、それは少しも善くならず、東京に出てからは、益々悪くなつたの で、頗る元気に乏しく、自然ノート以外に脱出する機会も割合に稀であつた。 従つて本書の編纂に当つては、速記文に加筆するよりも、自分の原稿を利用す る方が増しだと思はるゝ部分も、間々在つた。本書の語調が、場所によつて多 少の相違があるのは、斯かる事情より、其草稿の種類を異にせる部分がある ためである。
 本書が、近世経済思想の歴史として、甚だ不完全なるものなることは,著者 自ら能く承知してゐる。著者にして若し講習会に招かれなかつたならば、今日 斯かる書籍を公にする機会は、勿論在り得なかつたに相違ない。否な、信州に 於ける当時の聴講者から、これに多少の興味を有たれた事を聞き込まなかつた ならば、私は東京に出て、急に速記を依頼する手数も、敢て取らなかつたであ らう。されば、本書が幸にして若干の読者のため、社会問題に関する根本思潮 の流派を知る上に、多少の手引ともなることが有つたならば、著者の望はそれ だけで既に十分に達せられる訳である。
 本書中マルクスに関する部分には、既刊の拙著『社会問題研究』に載す所と、 多少重複せるものが在る。それは、講演後ノートの一部をば、そのまゝ『研究』 に掲載したのを、今重ねて利用したことが、主たる原因である。なほマルクス の思想中、社会民主主義に関する部分の説明は、私自身が見ても、甚だ物足ら ぬことは明かである。私は自分の著述の中では、曾て意識的に虚言を書いたこ とは無い積りであるが、今本書の中では、マルクスの社会的革命に就て、或は 多少消極的の虚言を言つてゐるかも知れぬと思ふ。黒い所を白いとは言はなか つた積りであるが、その外に赤い所もあるのを、黙つて伏せて置いた所がある かも知れぬと思ふ。しかしそれは今日の場合、読者の寛恕を請ふの外はないと 考へる。私は『社会問題研究』に「マルクスの社会主義の理論的体系」を連載し て来たが、之より政策の説明に入るといふ所で、一先づ筆を止めて、今だにそ の続きを書き兼ねてゐる。如何に言論の由由が束縛されたとて、吾々学問に従 事する者は、断じて虚言を言ふことは無いけれども、多勢の人を相手に著書を 公にする際には、「安寧秩序」を妨害せぬために、時としては、知つてゐても黙 つてゐなければならぬ場合も在り得る。其は姑く致方のない事であらうと思ふ。   大正九年三月初三   河 上 肇

   緒   言
 今日から六日間に亙り、近世経済思想の歴史の極く大体を講演致します。数 年来の私の習慣として、講演と申しても大体は私のノートを朗読して行く積り であるが、先づ最初に、講義全体に捗る緒言を申します。
 抑々経済思想の歴史は、其淵源を尋ぬるならば、殆ど際限なきものにて、東 洋にあつては支那の古代、西洋にあつては希臘の昔に潮ることが出釆る。併な がら私が茲に問題として居る所は、吾々が今日生活して居る所の現代の経済思 想界を支配しつゝある、根本的なる、経済思潮の歴史である。而して私の観る 所に依れば、現代を支配しつゝある経済上の根本的思潮は、之を分つて二つと することが出来る。其一は個人主義的の経済思想であり、其二は社会主義的の 経済思想である。此等のものが今日では各々一定の体系を備へて、それぞれ独立 の学問になつて居る。さうして此等学問の成立及び発展の歴史を述べやうとい ふのが、私の講演の目的とする所である。然るに是等二派の思想が、何等か学 問的の根拠を得て、一個独立の科学たる面目と組織とを備ふることになつたの は、決して其時代を同じくして居ない。即ち前の個人主義の方が、後の社会主 義に較ぶれば,遥に早く一個独立の経済学を組織するに至りしものにて、私の 名付けて仮に個人主義の経済学と謂ふのが即ちそれである。而して此個人主義 経済学が既に成立完成を告げ、正に動揺改造の機運に向つた際に及んで、社会 主義的の思想は、大体に於て個人主義経済学の理論を承継しつゝ、而かも之を 発展せしめ徹底せしむることに依り、始めて科学的の根拠を得、社会主義経済 学とも謂ふべきものを組織するに至つたのである。故に私は順序として先づ個 人主義経済学の成立及び完成の歴史を述べ、然る後、社会主義の由来並に其学問 的根拠の一斑を述ぶる積りであります。

 印刷物にして講義の目録をお渡して置きましたが、其目録に第一講アダム・スミス、第二講マルサス及びリカアドーとある所が、個人主義経済学の成立および完成と云う所に相當するのである。そうして以下申すことは、此等二つの章の全体に亙っての緒言である。

 私が茲に個人主義の経済学と謂ふのは、後に講述すべき社会主義の経済学に 対立せしめる意味から名付けたもので、或は資本主義の経済学と謂つても差支 ない。茲に資本主義と謂ふは、資本本位主義又は資本家本位主義と云ふ意味であ る。随て資本主義の経済組織と云へば、資本の利益又は資本家の利益を本位と した経済上の社会組織のことである。然るに既に資本の利益又は資本家の利益 と云ふ以上は、社会全体の利益の外に特に資本の利益又は資本家の利益と云ふ ものがある筈である。若し資本が社会の公有に属して居るならば、資本の利益は 即ち社会の利益と云ふことになるのであるが、資本が社会の公有に属せずして 資本家と云ふ社会一部の人々の私有に帰して居るならば、社会には何等の資本 を所有せざる無産者の階級がある筈である。即ち資本主義の社会には、必ず資 本家といふ階級と労働者又は無産者といふ二の階級があるのである。さうして 社会の人々の生活に必要なる貨物を生産し供給する事業は、一私人たる資本家 が− 国家の機関たる政府でなしに一私人が − 自己の営利事業として、利潤 を得、資本を増殖することを目的に、之を経営して行く。他方無産者階級に属 する人々は、自分の有つて居る所の労働力を資本家に売付け、一定の労働を提 供して資本家の事業を助くることに依り、其代価として一定の労賃を受取り、 之を以て其生活を維持して行く。斯の如くにして社会の人々の生活に必要な貨 物を生産し供給する為の事業は、資本家の利益又は資本の利益を主眼にして経 営され、無産者の利益又は労働の利益は之に附随的のものとなり、随て資本の 利益と労働の利益とが相衝突する時には、労働の利益は躊躇なく資本の利益の 為に削り去られ、労働の利益を図ることは資本の利益を害せざる範囲に於ての み始めて行はれると云ふことになる。資本主義の経済組織とは斯の如きもので ある。さうして吾々が現に棲息して居る今日の社会組織は、大体に於て斯る組 織を原則として居るのであるが、今個人主義の経済学の根本思想は、先づ斯の 如き資本主義の経済組織を是認し、次いで其組織の下に於ける各個人の利己的 活動を是認し、各個人の利己的の活動は期せずして社会全体の公益を増進する ものであることを主張し、随て政策の方面に於ては、各個人の為すが侭に之を 放任し置き、之に向つて何等の保護又は干渉を加へないと云ふ主義、即ち自由 放任主義を主張するのである。故に之を名付けて個人主義の経済学とも、或は 自由主義の経済学とも謂ふ者がある。又古典学派乃至正統学派と云ふ名称を附 せられて居るのは、是が正系本流の経済学である、之に対して社会主義の経済 学は所謂異端に属するものである、と云ふ意味からである。
 さて此個人主義の経済学なるものは何処で生れたかと云へば、主として英国 で生れ且英国で育つたものであつて、即ち英国は此学問の祖国である。故に或 は之を英国学派とも謂つて居る。随て此学問の開祖とも看傲すべきアダム・ス ミスは勿論のこと、彼の事業を承継いで此学派を大成した所のマルサスもリカ アドーもべンタムも皆尽く英国人である。以下私は此個人主義の経済学が如何 にして成立し、如何にして完成されたかと云ふことを、二つの章に分つてお話 をする積りである。
 


唯物史観研究

一九二一年(大正十年)
(作者所蔵:大正十二年十二月十五日十六版)
唯物史観研究


社会組織と社会革命

一九二二年(大正十一年)
(作者所蔵:大正十三年五月二十日十一版)
社会組織と社会革命

   序

 この書は、大正十年三月から大正十一年十月に至る約二箇年の間に、時を殊にして公にした私の論文−それは尽 く『経済論叢』又は拙著『社会問題研究』の何れかに載せたもの−を纂めたものである。 私は先きに唯物史観に関する若干の考察を纂めて『唯物史観研究』と題する書−それは粗末なる研究で、実は研 究の名に値せず、寧ろ『唯物史観入門』とも名づくべかりしものーを著したが、茲に公にする『社会組織と社会革 命』は、社会組織及び社会組織の変化(即ち社会革命)を考察するに当り、常に唯物史観の見地に立脚したといふ点に おいて、此の史観の実際的適用を取扱つたものだと謂ふことができ、おのづから又、先きの著述に対し姉妹篇を成す べきものである。
 各篇に収めた総ての論説は、最初から一書に纏めるといふ成案なしに、各々独立の論文として、その時々に執筆し たものである。従て或者はポレミックの形態をとり、或者は講義の体裁をなし、且つ一のものと他のものとの間には、 度々論旨の重複があり、引用文の同じものさへある。しかし一旦書き上げたものは後から何うすることも出来ないの で、何れも略ぽ嘗て公にした折の原形のまゝに存した。ただ此等多少づゝの重複が、もし各章を有機的に連絡するの 糸ともなり得ば、著者にとつては偶然の仕合せである。
 社会組織及び社会革命に関する研究は、著者が二十年来自分自身の問題としてゐる所で、恐らく其の終生の仕事と なるものであらう。ただ之に関する最近の考察が或る段落に達したかに覚えらるゝため、姑く之を茲に一書となした に過ぎない。回顧すれば、一昨年の冬、私は微症を獲て引籠つた。その時、私の友人櫛田民蔵君は私を病床に訪づれ、 別を告げて海外に立たれた。ところが、同君が船脚のおそい貨物船に便乗して、ジャバあたりにまで寄航しつゝ、や がて倫敦に着かれた頃には、私も元の健康を快復して、同君が欧羅巴の到る所に巡遊されてゐるうちに、私は京都以 外殆ど足一歩をも出でずして、此処に纏めた此等の諸論文を書きためた。同君は、私の父と同じやうに、私の書いた ものならば、如何なるものでも必ず見遁さずに読んでくれる。今、同君の不在中に書きためたものを一冊子として公 にするに当り、私は、先づ私の父が例により莞爾として之を手に撫してくれ、また少くとも私の一人の友人が間もな く之を通読してくれる、といふ期待を有つの幸福を有するだけで、この書の編纂、校正等のために若干の時間を犠牲 としたことを悔ゐない。けれども若し之を機縁として、拙き諸論文に対し新たに一人でも多くの読者を得ることが出 來たならば、著者は勿論之を一層の幸福となすであらう。
 なほ最後に一言して置くが、此の書には、社会主義的組織の実現に必要とされる生産力の発展程度の研究が省略さ れてある。マルクス主義によれば、社会主義が実現さるゝための社会革命も、之が実現を目的とする政治革命も、旧 組織たる資本主義制の下において社会の生産力が其の余地ある限り発展し了へることを、その前提条件とするのであ るから、資本主義制の下における生産力の発展限度如何といふことが、マルクス主義の研究にとつては、おのづから 重要な一問題とならざるを得ぬのであるが、私の見るところによれば、その問題は之を世界的に(即ち問題を或る一 国に限定せずして)考察する必要がある。マルクス主義の運動がインタアナショナルの性質を有し来たるは、恐らく 其のためであらう。しかし其のインタアナショナルなアスペクトの研究は、暫く之を他日に譲つた。本書に対し恐ら く向けらるゝであらうと予想せらるゝ一二の批評に対しては、著者自ら他日之に答ふるの予定を有する。

  一九二二年初冬
              河  上   肇


資本主義経済学の史的発展

一九二三年(大正十二年)
(作者所蔵:大正十三年一月三日十一版)


資本論入門

 

(作者所蔵:昭和三年四月二十日発行)

    序   言

大正十五年(一九二六年)の五月から翌昭和二年の一月に至るまでの間、私は、 学生のために『資本論』第一卷第一篇の講読をなしたが、その折の速記に多少の筆を加へ、『資本論入門』の名をもつて公刊するつもりで昨年一九二七年の夏には殆ど百頁ほどその組版を終へてゐた。しかるに當時私は、友人宮川實氏と共に、新たに『資本論』の翻訳に従事する決心をなし、殆ど総ての餘暇をそれに献げることとなつたので、先きの仕事は、すでに印刷に着手中であつたにも拘らず、全くこれを中絶して今日に及んだ。
 しかるにその後書肆の熱心なる勧誘もあり、また邦訳『資本論』の広く流布されたる今日、これが手引となるべき解説書を公にすることは、はじめて「資本論』を讀まんとする人々にとつて、多少の利益ともなるであらうと考へられるので、茲に再び先きに中絶したる仕事に着手した次第である。
 私が學生のためになした講義の速記は、先きに一言したやうに、第一卷第一篇『商品および貨幣』の範囲に止まる。『資本論』のこの部分は、レー二ンが吾々に繰り返し讀めと勧めてゐるものであり、それは全体にとつて最も基礎的な部分であると同時に、− 私はそれを『資本論序説』と名づけても可からうと思つてゐるのだが、−また最も難解な部分である。それゆゑ、最初は速記録の存する部分だけを、− それは講義の速記であるといふ理由で、多少とも軽い気持でこれを公にしうるとも考へたので、− 『資本論入門』の名で公にする計畫を立てたのである。
 右の範囲については、現に私の手許に講義の速記録が横たはつてゐるから、− それには勿論新たに少からず筆を加へなければならぬ面倒があるけれども、− 今はその第一分冊を公にするにすぎぬが、恐らくその各部を完結することが出來よう。
 第二篇以下については、今全く何等の見込をも有たぬ。 ― 私は大正十二年(一九二三年)五月以降の『社会問題研究』に『マルクス資本論略解』を連載し、第三卷の半程までその稿を継続したが、その頃になつて特に最初の部分につき遺憾に思ふ部分が餘りにも多くなつたために、大正十四年(一九二五年)の夏その各部を書き改むる計畫を立てた。同年の秋公にした『資本論略解、第一卷第三分冊』は、その計畫の一部を実現したものであつた。翌年の夏休には、せめて第一卷に相当する部分は全部完成したいと思つたのだが、長男の重患とそれに引続く彼れの死のために、途中で筆を擲つことを余儀なくされた。昨年の夏休には、その仕事を継続しようと思つて、書きかけた原稿を取り出して見たが、筆を擱いた當時の追憶に妨げられ、到底これを継続するの氣力を有ちえなかつた。昨春更に父に分れた私は、かくして今年を迎えたのである。出來得べくんば、この新たなる形態における『資本論入門』を、『資本論』そのものの邦譯に併行させて、最後まで継続させたいとの希望を心の中に有たぬではないが、微力なる私のことであるから、どうなることか先きは分らない。
 書中に引用するところの『資本論』の文句は、すべて宮川氏と共譯の岩波文庫による。單に頁數のみを記入せるは、右岩波文庫の頁數を指すのである。
 昭和三年二月二十四日              河   上   肇 

 

(作者所蔵:昭和三年五月十五日発行)

     第二分冊への序言
 第一分冊を公にして間もなく、私は大学から退くことになつた。『私はむしろ喜ん でこの機會を捉へ』、今後しばらくはこの『入門』をもつて大学の講座に代へようと思ふ。
 第二分冊は『資本論』の本文冒頭数行のためにその全部をさゝげた。私は読者が私の此の如き多辯を咎めざらんことを望む。『入門』は奥に進むに従つて益々簡単にする豫定であるから。
 昭和三年五月五日   河 上  肇


経済学全集 第一巻 経済学大綱

一九二八年(昭和三年)
(作者所蔵:昭和三年十月二十三日発行)

 私は明治三十一年(一八九八年)の秋から明治三十五年(一九〇二年)の夏まで東京帝国大学の学生であったが、この 期間に私は始めてバイブルを繙き、そこに説かれてある絶対的な無我主義とでもいふべきものに、ひどく心を打たれ た。それ以来、利己主義と利他主義との問題が、いつも私の心を占領してゐた。大学を卒業して三年目の明治三十八 年(一九〇五年)の十二月に、私が一切の職を拗つて、当時「無我愛」を唱道されてゐた伊藤証信氏の無我苑に飛び込 んだのは、かゝる年来の問題を根本的に解決せんがためであったので、決して一時の思ひ付きに出でたのではない。 それより三年目の明治四十年(一九〇八年)の秋には、私は京都帝国大学に赴任することとなり、爾来本年の春に至 るまで殆ど二十年間そこに在職したのであるが、そこでの私の研究は、今から振り返つて見ると、経済思想史の範囲 では、最初約十年の間、やはり昔年の問題たる利己主義と利他主義との関係を中心としてゐた。旧著『資本主義経済 学の史的発展』が、最初はマンダヰ゛ルによる利己心是認の主張に筆を起し、最後にラスキンによる之が否認の主張に 筆を擱いてゐるのは、そのためである。それは経済学史といふよりも、経済学の領域に反映した道徳思想の歴史とい ふが如きものであつた。それは、善かれ悪かれ、かゝるものとして一の統一を形成してゐたかに思はれる。今回これ を重刷するに当り私が新たに追加したところの、アダム・スミスの価値説や、リカアドウの価値説やが、旧著に省略 されてゐたのは、当時の計画から、むしろ当然のことであつて、かゝる事項を新たに追加したことは、却て全体を一 貫せる脈絡を破壊したかに感じられる。
 利己的活動是認の思想の歴史的変遷の叙述、−かゝる思想の成立、発展、および死と、その反対物による代位と、 その歴史的過程の叙述、−かゝるものとして先きの旧著は、なほ若干の価値を有ちうるであらう。そこにいふとこ ろの利己的活動の是認なるものは、本質的には、資本家の利己的活動の是認なのである。封建社会から資本家的社会 への推移の時期−すなはち封建社会が崩壊してその廃墟の上に資本家的社会が成立せんとしてゐた時期−に当つ ては、ブルヂョアジーは正に人類の労働の生産力の発展を代表する立場に立つてゐた。当時の彼等は一の革命的使命 を帯びてをり、その使命の実現のために、歴史は、何等拘束されることなき活動の自由を、彼等に保証せざるをえな かつたのである。封建的な道徳思想に反抗して、「私悪は公利である」といふ主張の起ったのは、人間の生活の物質 的諸条件の上に起れる変革が、人間のイデオロギーの上に反映したものに外ならぬ。かゝる思想は、資本家的生産の 発展につれて発展し、その崩壊期に及んで崩壊せんとしてゐる。私の労作はかゝる変化の過程を表示するものとして、 なほ何程かの価値を有ちうるであらう。
 今や第二の変革期に当り、新たにプロレタリアートがブルヂョアジーに代つて、人類の労働の生産力の発展を代表 する立場に立たんとしつゝある。社会形態変革の歴史的使命は、すでにブルヂョアジーからプロレタリアートに推移 した。しかもプロレタリアの一切の活動は、強力的にまた精神的に、全般的な拘束を受けてゐる。仮に道徳論の範囲 について見ても、罷業、怠業、その他プロレタリアの企てる一切の階級闘争は、いづれも皆な道徳的に非難されてゐ る。だが千七百年代の初葉に「私悪は公利である」といふ思想が起つたのと同じやうに、吾々の住む現在の社会には、 「労働者階級が自己の階級の利益のために闘ふのは、人類全体の利益のために闘ふのである」といふ思想が起るべき であり、また現に起りつゝある。階級社会においては、公益の実現は必ず私益の実現を媒介とするのである。
 これを要するに、本書下篇はブルヂョア経済学の歴史的発展の一斑を述べ、本書上篇は斯かる歴史的過程の承継者 たるプロレタリア経済学の大要を明かにしたものである。全体を名づけて『経済学大綱』といふは、聊か借越に似た れども、微力の能ふかぎりにおいては、実際のところ大綱を把握したつもりではある。
 昭和三年八月三十一日        河上肇


マルクス主義経済学の基礎理論

一九二九年、昭和四年十二月発行

     序

 マルクス主義経済学は、その哲学的基礎から離しては、これを正当に理解することが不可能である。本書上篇はそ の趣旨から、マルクス主義の哲学的基礎を明かにするに努めた。論述の順序は、すべて抽象的なものから具体的なも のへといふ段階を踏んでゐる。すなはち第一章においては、唯物論一般について述べた。しかる後、第二章において は、弁証法的唯物論の何物たるやを明かにせんがために、主として弁証法の特徴を論じた。更に第三章においては、 弁証法的唯物論の人間社会への適用としての・史的唯物論(唯物史観)について論述した。ところで、この史的唯物論 は、人間社会の進化に関する極めて一般的な・従つてまた抽象的な・理論たるにすぎない。この一般的な理論を導き の糸となしつゝ、吾々は更に、現代社会の特殊なる運動法則の発見に進まねばならぬ。かくて吾々の研究は、全世界 観たる弁証法的唯物論から、一の史観たる史的唯物論に進み、更に一般的な史観たる史的唯物論から、一の歴史的社 会形態たる資本主義的社会の研究に進んでゐるのであり、要するに、最も抽象的なものから、次第により具体的なも のへ進んでゐるのである。
 下篇は、『資本論』における商品の分析の解説から成る。商品は資本主義的社会の細胞である。そして本来の細胞 学が「生物学の基礎」であり、「生物界の現象の究極的の説明を与へるものに違ひない」のと同じやうに(山羽博士 『細胞』はしがき、参照)、この商品の分析は、資本主義的社会の経済学の基礎であり、現代社会のあらゆる矛盾に 対して究極的の説明を与へるものに相違ないのである。この下篇の内容は、私が今歳の春『資本論入門』の名におい て公けにしたものと、ほゞ同じである。この部分の論述は、今の私にとつては、もはやこれ以上に改善する余地なき ものと見えてゐるのである。(下篇の本文中に挿入したる引用頁のうち、書名を示さざるものは、すべて『資本論』 第一巻の頁を指す。)
 私が書斎で過ごしうる時間は、近頃急速度をもつて逓減しつゝある。そのため、本書の脱稿は少からず予期に後れた上に、その上篇においては、若干予定の計画を実現しえざりし部分もあつた。だが、幾多の不備を免れざる本書も、 始めてマルクス主義を学ばんとする人々にとつて、なほ何程か有用な手引となるであらうことは、著者の安んじて自 信しうるところである。
 著者は今月中にこの京都を去つて東京に移住しようとしてゐる。二十余年間住み慣れた京都において私が筆を執り えた著作の最後のものが、すなはちこれである。今筆を擱かんとするに臨み、ひそかに多少の感慨なきことをえない。
 一九二九年十二月三日、洛東古今洞の南窓に日を受けつゝ認む
                          河  上  肇


第二貧乏物語

一九三〇年、昭和五年(作者所蔵:昭和五年十一月一日発行)

     序

 本書は一九二九年の春から一九三〇年の夏に至る期間に、雑誌『改造』に連載したものを、そのまゝ一冊子に纏め たものである。今これを読み返して見るのに、到る所に無駄が多く、計画も最後まで貫かれてゐず、まことに不完全 なものであるが、これを書き改める余裕は今なく、また書き直されうるものでもないので、すべて原文のまゝに従つ た。検閲に対する出版者の顧慮から、依然として所々に伏字がしてある。『資本論』や『政治経済学批判』からの引 用句で世間周知のものですら、場所によつては伏字が用ひられてをり、殊に自分にとつて重要と思ふ個所には、恰も それが最も多くなつてゐる。これは筆者の最も苦痛とする所であるが、致方もない。執筆の際充分に予定の計画を貫 きえなかつたのも、半ばは斯かる事情に基づくのである。
 附録としたものは、いづれも私の編纂してゐる定期刊行物たる『社会問題研究』に連載したものである。それはお のづから本文の補足をなすものである。なかんづく第二附録となしたスターリンの報告演説は、それだけで非常な価 値をもつものである。やくざな本書の刊行も、かゝる附録のためにその意義をもちうるであらうことは、筆者の慰め とするところである。
   一九三〇年九月二十日  河  上  肇


社会問題研究

第一冊 大正8年(一九一九年)1月20日発行
 〜第一〇六冊 昭和5年(一九三〇年)10月5日発行

   第一冊
     序

 『社會問題研究』は、今後大凡そ毎月又は隔月に一回宛、号を逐うて公にせんことを予期せる余の著書であり、雑誌である。否な著書とも謂ひ難く、雑誌とも名け難き、一種の小冊子である。出来得べくんば定期に、略ぼ一定の紙数の中に、雑文を編纂し、同じ題號の下に、之を公にせんとするが故に、其形式に於ては雑誌に似たれども、自己の筆に成れるものゝみを採録し、自己の思想を以て全体を統一せんとするが故に、其実質に於ては、分冊して発行する所の一個の著述である。

 一個の著述なるが故に、言ふべきことの総てを言ひ尽したらば、おのづから其時を以て終刊とする。それは百頁書き終へたる頃なるか、千頁を費したる後なるか、今全く予定するを得ぬ。仮ひ総てを言ひ終らずとも、何時如何なる故障に由り、定期の刊行を狂はすか、或は全く中絶するか、凡てが「未だ知らざる径」である。

 抑々社會問題とは何であるか。簡単に言はゞ、社會の大多数の人々が貧乏して居る、其を如何にして救治するを得るかと云ふこと、それが即ち今日謂ふ所の社會問題である。大多数の人々が貧乏して居るが為に、第一に、彼等は其肉体をば健全に維持して行くことが出来ない。育つべき小供も育たない。死なゝくとも済む若者が、種々の病気に罹つて死んで仕舞う。特別に頑丈な、篩に掛けられた人間のみが、纔に天命を完うしつゝある有様である。又大多数の人々が貧乏しているが為に、第二には、彼等は其精神をば健全に発育成長させて行くことが出来ない。人並みの教育を受けたならば、何等かの方面に衆に優れた人間となつて、社會の為に少からざる貢献を為すべかりし多くの人々が、十分なる教育を受くるの機會を有ち得ず、折角持つて生れた天分をば十二分に発揮することなくして、詰らぬ仕事の為に一生を送りつゝある。甚しきに至つては、貧乏に迫られて其魂をも喪ひ果て、誠に生き甲斐の無い憐れなる生涯を送る者も決して少くは無い。然るに社會の大多数の人々が此の如き境遇に沈澱して居ると云ふことは、如何なる方面から如何様に考へて見ても、社會全体の健全なる発達の為め、到底看過し置くべき事柄では無い。譬へて言はゞ、今日の社會は貧乏といふ大病に冒されて居る所の、疲せ衰へたる病人の如きものである。人間は無病でさへあれば其で可いといふ訳では決して無いが、現に斯かる大病に罹つて居る以上、兎も角其病気を治すことを第一の急務とせねばならぬ。然らば此病気は如何にして之を根本的に治療することを得るか。『社會問題研究』は即ち此問題の解決に就て、余が若干の読者と継続して共同的思索に耽らんが為め、新たに起せし所の思想的機関である。

 社會問題は今後の世界に於ける最大問題の一である。此問題を健全に解決し得たるものは、今後の世界に於て繁栄する国民であり、此問題を十分に解決し得ざるものは、今後の世界に於て或は滅亡する国民であらう。然るに我国民は、此問題に就て、今日まで殆ど何等の理解を有しない。世界の文明人中、我国民ほど、此問題に就て無関心なりしものは、蓋し他に在るまい。而かも「夜己に闌けて、日は近づけり」。今の時は、急ぎ此問題の解決の為め、総ての人が大なる力も小なる力も、尽く之を竭して、思想界の準備を整ふべき時である。吾々は今の時に於て、或人々の為には其の旧き諦めを解き、他の或人々に向つては新しき諦めを嵌めねばならぬ。少くとも私は斯く信ずるが故に、茲に此叢書を公刊し、此問題の解決の為め、涓埃国に益することを僥倖せんとする。

 余は社會問題に就て何等か危険なる思想を有し居る者なるかに、或一部の人々に依つて、信ぜられて居るかと思ふ。併し余白身は、自己の思想をば何等の危険佐を有せざるものと信じて居る。それ故、余は何人の前に出づるも、自己の思想を正直に発表することを憚らざるものである。余の思想は,仮ひ社會の或一部の人々の利益の為に危険なるものであるとしても、社會全体の利益の為には決して危険なるもので無いと確信して居る。否な余は、常に社會全体の利益を以て其中心の標準と為すことに依り、或事を主張し或事に反対して居る積りである。故に自分自身より考ふれば、自己の思想が社會全体の利益に危険を及ぼすと云ふ事は、元釆考ふべからざる事である。若し又余の思想の中に、左様なる危険分子があるならば、余は何時にても之を気附きし刹那に於て、直ちに其部分の思想を抛棄し訂正するに於て、何等の躊躇をも示さぬであらう。他人から見ては如何にあらうとも、余自身の主観は此の如くである。故に余は、何人の前に出づるも、余白身の抱懐する思想を露骨に発表することに就き、更に何等の危惧を感ぜざるものである。

 只社會問題は極めて複雑である。されば如何に浅薄なる余の思想にても、各方面のことを漏れなく同時に説明するは不可能であつて、或場合には或方面のみのことを語るに止め、他の場合には又他の方面のみのことを言ふに止むるを免れぬ。斯かる事情あるが為に、余は余の思想の一端をのみ捉へたる者に依り、往々にして危険なるものと誤解せらるゝの虞あるやを気遣ふ。余が自己の文章に於て、仮ひ意識して虚言を云はぬにしても、屡々其思想の一部を留保するの癖を有するは、畢竟是が為である。打開けて人に心の底を見せ其隅々を示すは、客を奥座敷に案内して押入や戸棚を開放するが如きものである。押入を開け戸棚を開けて一々人に其内を示さば、或場合には刀剣も出でん。併し仮ひ刀剣が出でたればとて、余を以て直ちに強盗殺人の意思ある者と速断せられては、余の甚だ迷惑とする所である。それは只祖先伝来の記念物に過ぎぬかも知れぬのである。又或場合には、机の抽出よりモルヒネなども出でん。併し仮ひモルヒネが出でたればとて、余を以て直ちに他人を毒殺するの陰謀を企てつゝある者と速断せられては、これ亦大に迷惑である。私は能く胃痙攣を起す癖がある。それは其時の注射剤に過ぎぬのである。私の家の或隅には、危ぶない物も蔵つてあり、醜汚極まる物を貯めて居る所もある。私は如何なる場所にても凡て之を開放するを憚らぬが、只私の恐るゝは、単に其一隅を見て全体を速断せらるゝの危険である。

 余は社會問題に就き自己の抱懐する所を、何等留保する所なく、総て露骨に、之を説明するを憚らぬ者である。乍併、其の代りに、余は必ず全体を見て貰はんことを希望する。それ故余は、種々の新聞雑誌に、色々の読者を相手にして、自分の思想の一面又は一部分宛を、彼方此方に蒔き散らすことを嫌ふ。これ余が『社會問題研究』を続刊することに依り、数は如何に少くとも、前後引続いて同じ読者と共に、此問題の研究に従事せんとする所以である。今後暫くの間、私は、専門的の著述又は専門雑誌に公にする学術上の論文の外は、専ら此『社會問題研究』にのみ筆を執る積りである。只一二の雄誌に年来の宿約の未だ果さゞるものあり、又労働者の独立経営になれる一小雑誌に時々短文を寄稿するの約束あり、成るべくは之のみを僅かなる例外と為すに止めたいと思ふ。

 小序を終るに臨み、最後に、社會問題に対する余の立場を慨言し置くことは、必ずしも無用ではあるまい。余は社會問題の根本的解決といふ事を最後の標準として、個々の社會的政策を批評する積りである。余の信ずる所に依れば、社會問題は之を根本的に解決することが是非に必要であるが、而かも是が為には、相当の準備と時間とが又是非に必要である。吾々は出来得る限り速に進まなければならぬが、而かも又順序を迫うて進まなければならぬ。従て多くの所謂社會政策は、社會問題の根本的解決に到達する手段として、何れも皆必要である。余は斯かる理由に於て、殆ど一切の社會政策を是認する者である。只所謂社會政策なるものゝ中、余の信ずる所の根本的解決に対し却て其妨げと為るべきもの、乃至社會政策を主張する学者の中、之を主張することに依りて、余の信ずる所の根本的解決の必要を否認せんとする者に至つては、余は敢て之を排斥し之と相争ふを辞せざる者である。
 余は社會問題の根本的解決といふ事を最後の標準として、一切の社會政策を批評すると同時に、更に人間の道徳的完成といふ事を最後の最後の標準として、社會問題の根本的解決の為の実行手段を是非するであらう。既に述べたる如く、今日の社會は貧乏といふ大病に冒されて居るのであるから、兎も角之を救済することは第一の急務に相違は無いが、併し人間は無病でさへあれば其で可いといふ訳では決して無い。無病息災に暮らすといふのみが人生の本義では無い。人生の目的は各自の道徳的完成にあらねばならぬ。それ故、如何に病気を根治することが急務だとは云へ、肉を救ふが為に霊を亡してはならぬ。病気は飽くまで根治せねばならぬが、それは本来魂を生かす為なのであるから、病気を治療する為の手段が、魂を汚すが如き種顆のものであつてはならぬ。斯かる意味に於て、余は目的の為に手段を選ばんとする者である。手段の末の末に至るまで、人生の根本目的に照らして、出来得る限り潔癖的に之を取捨せんとする者である。それ故私は、此叢書に於ても、時折人生といふ事を考へるであらう。

 専門の学術雑誌にあらねば、經濟学といふ狭き科学の埒外に出づるも由由である。自分一人の編纂物なれば、如何に長き続物にて普通の雑誌に載せ難きものにても、又如何に短き感想にて独立の篇を成し得ざるものにても、随時随所に之を採録するを得る。蝸牛の殻の如き小さなる城にはあれど、余は、余の知らざる間に、斯かる自由の天地を余の為に調へ呉れし二人の友人に向つて、深く之を感謝するものである。

昭和4年2月1日発行第89冊 


賃労働と資本

1921年(大正十年)
河上肇訳 カール・マルクス原著


レーニンの辯証法

大正十五年
河上肇訳 デボーリン原著 
マルキシズム叢書 第一冊

1946年1月30日没

多度利津伎布理加幣里美禮者山河遠古依天波越而来都流毛野哉
(辿りつき振り返り見れば山河を越えては越えて来つるもの哉)

1980年12月27日法然院にて作者撮影


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