群馬登高会創立50周年記念講演会 日時 2000年10月22日(日)15:00〜16:00 場所 高崎ホワイト・イン

講師 山野井 泰史 氏

山野井泰史氏の主な登攀歴
1965年 東京都に生まれる
1986年 ヨセミテ コズミック・デブリ(5.13a)
1987年 コロラド スフィンクスクラック(5.13b)
      エルキャピタン ラーキングフィア 単独第3登
      ドリュ西壁 フレンチダイレクト 単独初登
1988年 カナダ バフィン島 トール西壁単独初登
1990年 パタゴニア フィッツロイ冬季単独初登
1991年 ブロード・ピーク登頂(日本ブロードピーク登山隊)
1992年 アマ・ダブラム 西壁冬季単独初登
1994年 チベット チョー・オュー南西壁単独初登
1995年 レディース・フィンガー南西壁初登
1997年 ペルー ワンドイ東壁,ピスコ南壁
1998年 クスムカングル東壁 新ルート開拓初登
2000年 K2南南東リブ 単独初登

   講  演

 初めまして山野井と言います。
 まずは、群馬登高会の創立50周年おめでとうございます。

 私は、若いときから世界中で色々な種類の登山を楽しんでいるので、スライドで見ても
らいながら話をしたいと思います。

☆石垣登りの写真
 私は、たしか12〜3歳の時テレビで山岳映画を見て以来、山の虜になってしまいまし
た。ほとんど一目惚れ状態でした。ただ小学生の時でしたから、周りの友人に岩登りをや
る人もいませんでしたし親戚にも居なかったので、自分で技術書を買って手足の動きやバ
ランスの取り方等、石垣でずいぶん練習しました。小学生なので友人にも石垣にへばりつ
いた者もたくさんいましたが、彼らは遊びで、僕は真面目に取り組んでいました。

☆当時の僕の部屋。
 ぶら下がり健康器を設置して岩登りの練習をしているところ。壁には8000m峰の1
つ、カンチェジュンガ峰のポスターが貼ってありました。本棚には、今では休刊になった
「岩と雪」があったりして、本当に山一色の部屋でした。友人達はよく、芸能人やオート
バイの話をしていましたが、私にはあまり関心がありませんでした。

☆岩登りをしている写真(三つ峠か?)
 中学、高校になると本当の岩場も1人で登るようになりました。ロープもつけずに登っ
ていました。よく行ったのは、三つ峠や日和田山など1人で登っていました。そして高校
に入った頃、谷川岳の一ノ倉沢など、よくあんパン1つ持ってロープもつけずに、高校時
代登っていた記憶があります。
 また、高校時代、雪山や岩登り以外に、ハイキングなどもよくしました。のんびりハイ
キングをしながら将来のことを考えていました。それは、就職しようとか進学しようとか
いうものではなく、いつどんな山を登ろうかと常に考えていました。

☆ヨセミテの写真
 高校を卒業するとすぐ、アメリカに旅立ました。本場の岩登りを経験して見たたかった
からです。アメリカの乾いた岩と乾燥した空気の中で登るのは、大変気持ちの良いもので
した。ときには、こういったオーバーハングを登ったりすることもありましたが、たしか
に、こういった技術を身に付けることによって、ヒマラヤなどの難しいところを登るのに
役に立ったことは確かです。それでもこういうことができるからと言って、一概にヒマラ
ヤで難しいところが登れるとは限りません。
 アメリカでもっとも長く滞在したのは、カルフォルニアにあるヨセミテ国立公園です。
この当時のクライマーにとっては、ヨセミテ国立公園は「聖地」の様な場所で、一度は行
かなければいけない、一度は行ってみたい場所でした。たしかに世界中からいろんなクラ
イマーが集まっていました。毎日考えることと言えば、夕飯は何をつくろうか、今日どこ
に登りに行こうかとか、そういうことばかり考える日々で、とても幸せな時間を過ごすこ
とができました。

☆エルキャピタンの写真
 そのヨセミテ国立公園でもっともたくさん僕が登ったのは、エルキャピタンという90
0mの岩壁です。これを何本も登ることによって、僕は大きな岩壁を登るノウハウを身に
付けたのです。ここは、レスキュー体制も整っていますし天候も良いので、練習するには
快適な場所だと思います。

☆エルキャビタンを登っているところの写真(約500m登ったところ。)
 このような大きな岩壁を登るには、岩の割れ目、つまりクラックを使って登って行くの
ですが、クラックを登るテクニックが無いと、こういった大きな岩壁はなかなか登れませ
ん。このテクニックも、手を突っ込んで色々な形をしてくさび止めのようにするのですが、
一度やれば、なかなか忘れない技術の1つです。

☆クラック(  サイズ)を登っている写真
 このくらい体が半分ぐらい入ると、体は安定します。しかし途中ハーケンなど打てない
ので、落ちると大変なことになります。それでも、こういったところを確実に登る技術が
ないと、なかなかこういう大きな岩壁は登れません。

☆人工登攀の写真(エルキャピタン)
 ハーケンのどういうサイズを選ぶか、どういうふうに打ち込むか、あるいはどのように
回収するかというのを学びました。たとえばこういうところでは、ミスをすると30m,
40m落ちるという人工登攀をします。バンジージャンプと違って、30m落ちると相当
腰に負担がかかることは確かです。しかし、そういう恐怖に耐えながらもじわじわと登っ
ていくのです。

☆簡易ベット(ポーターレッジ)に乗って寝る準備をしている写真
 こういった生活技術もこのエルキャビタンで学びました。この技術も大変重要です。た
とえばトイレひとつとっても、体からロープを外すことは勿論できませんし、常にロープ
を結んでおかなければなりません。寝るときも寝相の悪い人は落ちてしまう可能性がある
ので、ロープで結んでおきます。そういった細かい作業なども大変勉強になりました。
 僕は、結局アメリカに4回(4年連続)行き、ヨーロッパアルプスに1回行って、多く
の技術を身に付けました。しかし、どこか物足りないものがありました。アメリカやヨー
ロッパですとアクシデントがあっても直ぐ誰かが救助してくれるのです。
 そこで、私は敢えて冒険的なものを求めて、1988年、23歳の時、カナダは北極圏
にあるバフィン島に向かいました。

☆アプローチの写真 スノーモービルで前進しているところ。
 僕はスノーモービルを操縦できないので、イヌイットの方に操縦してもらいました。途
中にアザラシなどいて大変楽しい旅でした。

☆キャラバンの写真
 スノーモービルを降りた後、一週間位キャラバンをするのですが、ポーターも居ないの
で自分で担ぐことになります。僕は、ひとりでトール西壁に挑戦しましたが、食料と登攀
具を合わせると荷物は120sありました。私は小柄ですが120 kg の荷物を担ごうと
思えば担げるのですが、そういうことをすると本番の山の前に体を壊してしまうので、1
日3回に分けて3往復しながらキャラバンを進めていきました。

☆トール西壁の写真(標高差1400m)
 大変切り立っています。新宿の高層ビルの5〜6倍位ありますでしょうか。高所恐怖症
の方には辛い場所でしょう。

☆下から見たトール西壁の写真
 見上げていると頭がクラクラするぐらい大きかったです。頂上直下の赤黒い層があり、
よく落石がありました。その大きさは、登っていると毎日落ちてきたのですが、トラック
位の大きさの落石でした。実際3年位前に日本の若いクライマーが落石で亡くなっていま
す。

☆別の壁の写真
 バフィン島には、美しくて未知の要素のたくさんある岩壁がいくつもあります。人間臭
くない岩場がたくさん存在しています。

☆トール西壁取り付きの写真
 1988年6月20日、私はトール西壁に1人で向かいました。このときは大変緊張し
ました。これから何日ひとりでこの壁の中で過ごすのかわからないし、病気になったり怪
我をしてもだれも助けに来てくれない場所なので、大変緊張しました。

☆ポーターレッジから顔を出して対岸の山を撮った写真。
 このときは、オーバーハングしたところにポーターレッジを吊していましたが、夜中に
台風のような風が吹き、ハーケンが抜けるのではないかとびくびくしていました。ここで
重要な食料を落としてしまい、残り3日間は、飲まず食わずで登り続けました。

☆最後の1日(7日目)の写真。
 この当時、私は大変お金が無く(今でもありませんが)、航空券を買う金はありました
が、装備を充実するお金はありませんでした。目出帽も持ってなく、手袋もこれひとつで
した。手はかなり凍傷になったと思います。また高校時代に八ヶ岳で前歯を失っていまし
たが、歯を入れるお金もありませんでした。

☆トール西壁頂上の写真
 8日目トール西壁の頂上に立ちました。まわりには、誰も触れていない岩壁があり大変
感激しました。日本の方もどんどんこういうところに行ってもらえたらなと思います。

☆帰りトール西壁を振り返った写真
 登山を無事に終えて、ほど良い疲れの中次の山を浮かべるというのは、大変気持ちの良
いものです。このときもまた、次の山を考えていたのだと思います。

☆パタゴニアの写真
 そして翌年(1989年)、私は南米は南端のパタゴニア地方に向かいました。当時、
すでにパタゴニアの登攀も、夏はポピュラーなものになっていました。そこでわたしは、
敢えて厳冬期のパタゴニアに、また1人で挑みました。

☆パタゴニアのキャラバンの様子(馬を使って)
 馬を使ってのキャラバン。私は馬に乗れませんでしたし、私の分の馬を雇うこともでき
なかったので、一緒に歩いたり走ったりして写真を撮りました。この馬方のおじさんが、
私をかわいそうだと思ったのか、後に、馬を一頭丸ごとバラして僕にくれました。

☆フィッツロイの写真
 こういう天気の良い日は、ほとんどありません。一年中吹雪というか強風が吹いていま
した。写真では大きく見えませんが、実際は非常に大きく1000m位岩壁があります。
人間が登っていても肉眼では確認できないでしょう。

☆ベースキャンプにしていた小屋の写真
 小屋といっても枯れた木を合わせたようなもので、あまり快適とはいえません。隙間風
がたくさん吹いています。

☆小屋の中の写真
 毎日毎日台風並の風が吹いていて、ほとんど外へは出られませんでした。登りに行くこ
とができませんでした。毎日やることと言えば、焚き火を見つめているか、やたら野ネズ
ミが多かったので、その野ネズミと格闘するぐらいでした。この中に50日間ぐらい居た
のですが、強い孤独感を感じたのは確かです。

☆取り付きの雪洞から出てきたところの写真
 フィッツロイの取り付きに雪洞を掘りました。一週間この中に閉じこめられました。一
週間このような所に閉じこめられ、また1人ですと強い孤独感を感じました。空腹とか寒
いというのは孤独感をさらに強くさせるものだと感じました。

☆フィッツロイ登攀中の写真
 フィッツロイ自体、そんなに技術的には難しくなかったです。ただ、常に風速20m以
上の風が吹いているので、目も開けられないほど強い風でした。それで自分がどこにいる
のかよくわからなかったのが難しいところです。またロープ作業が、風でロープがあっち
やこっちへいって非常に厳しいものでした。
 結局1989年は登り切ることができずに、翌1990年冬に行って1人で登り切るこ
とができました。このフィッツロイでは、技術的なことより、孤独とはどういうものか、
悪天候とはどういうものかを学んだような気がします。ここ以上の悪天候や孤独を、それ
以降経験したことは、私はありません。

 もうすこし岩壁登攀を見てもらおうと思います。

☆レディース・フィンガー(1995年)の写真
 正面からは、世界中の優秀なクライマーが挑戦していましたが登れてない岩壁でした。
800m〜900m位ある岩壁。この右にはウルタルという山があります。有名な長谷川
恒夫さんが無くなった山です。

☆ベースキャンプでルートの確認
 このとき、私は3人でいきましたが、こういったところをどういうふうに最初ルートを
見つけるかと言いますと、ベースキャンプについたら天体望遠鏡や双眼鏡で岩の割れ目が
しっかりしているかどうかを確認します。その次、岩の色を見て脆いか堅いかを判断しま
す。花崗岩の場合、黒い色や白の部分は大概は脆いわけで、なるべく赤い場所、赤茶色の
部分を狙って登っていくことになります。

☆ポーターレッジで食料をもらっている写真
 あんまりこういうベットは快適ではなく、随分窪んでいますから、下からの上昇気流の
時は寒いです。このときは食料計画を失敗しまして、朝はビスケット3枚、昼はスニッカー
ズ1つ、夜はジィフィーズを3人で1袋だったと思います。それで12日間過ごしたわけ
です。

☆荷揚げの写真
 こういった大きい岩壁では大変荷物が重くなります。まず雪がないので、最初から下か
ら水をペットボトルに詰めて持っていきます。私たちは80リットルの水を運びました。
それだけで80sあります。また、ポーターレッジ1つ5〜6sあったり、登攀具全部で
150s有ったかもしれません。
 上に滑車を取り付け、僕が下に降りると荷物が上がるというシステムをつくります。
 登攀は、せいぜい毎日100mから150m登って、毎日ポーターレッジに寝るという
ことで、垂直の旅行というところです。

☆頂上で遊んでいる写真
 頂上は大変切り立っていました。実際人間が立つのが不可能なくらい薄っぺらいもので
した。本当はもうすこし向こう側が高かったのですが、折れそうなので止めたわけです。
 このようにビックウォールクライミングは、じっくり行けばそれほど登頂率の悪い登攀
ではありません。

☆ブロードピークの写真(8054m)
 私が始めてヒマラヤで行った山、ブロードピークです。僕はもう最初から、ヒマラヤへ
行く前から、将来ヒマラヤの難しいところをひとりで登ってみたいという気持ちはあった
のですが、その当時、申請の方法とか高山病に対する知識がなかったので、大きな遠征隊
に参加させてもらいました。

☆初めてのヒマラヤのキャラバン 
 初めてのヒマラヤのキャラバンです。長いことは長い。ブロードピークまで一週間位か
かりました。それでも今まで写真集でしか見たことのない山々が次々に展開していくので
飽きることはありませんでした。

☆ポーター達の写真
 私は、どこの国に行っても会話はできなくても現地の人と直ぐ仲良くなれます。そうい
うのも大変重要なことだ思っています。たとえば、海外の食事でも、パキスタンだと彼ら
はカレーを食べていますが、僕は一年中カレーを食べても大丈夫だし、ネパールへ行けば、
ダルバートという豆のスープに御飯ですが、一年中食べても僕は苦ではありません。こう
いった環境から慣れていくのも登山にとって重要だと思っています。

☆村の子供達の写真
 大変かわいいです。ただ、文化の違いもありますので、やたら写真を撮ったり、抱き上
げたりするのは気をつけなければなりません。

☆ベースキャンプについたところの写真
 荷物が多かったです。7人のメンバーで行きましたが、ポーターは100人位いました。
私にとって最初で最後の大きい遠征です。僕は、何がどこに入っているか全然わかりませ
んでした。ほとんどが食料だったと思います。

☆登っているところ(C1付近)
 登山方法は、とてもクラッシックな方法でした。キャンプ1、キャンプ2,キャンプ3,
キャンプ4を作ってその間を何度も荷揚げするわけです。まあ、大変飽きる方法であった
ことは確かです。しかし確かにこの極地方は、飽きる方法ではありますが、初めて高い山
に行く人には悪くない方法だと思います。何度も上り下りすることによって、どのように
高山病になるのか、どのようにしたら回避できるのかを学んでいくことができます。
 ブロードピークで大きな成果だったのは、憧れのK2を見ることができたことです。登
りながら常に気になったのは確かですし、将来登ってみたいなと思いました。

☆頂上近くの写真(約8000m付近)
 頂上は、実際はこの見えている一番高いところからさらに1〜2時間かかります。この
辺りまで来ますと、スピードは落ちますし、一歩一歩、本当にあゆみはのろくなります。
 しかし、7人のメンバーで行ったのですが、僕はとても強い方でした。高所経験はあま
り無かったのですが、確かに強い方でした。それは、トレーニングをしたからとかという
ものではなく、今は遺伝的なものもあると聞きますが、よくわかりません。

☆ブロードピーク山頂 
 初めてのヒマラヤ8000m峰に、酸素器具を使わないで登れたことはラッキーでした。
これによって、将来難しいところもひとりで出来るのではないかと思うようになったわけ
です。それでも結構この時はぼけていまして、かなり高山病だったのでしょう。あんまり
このときの記憶が今だにはっきりしません。実際ここで住所を聞かれても答えられないぐ
らいぼけていたと思います。

 翌年から、私はヒマラヤをひとりで活動するようになりました。

☆メラピーク
 最初に行ったメラピーク西壁は、残念ながら力量が足らず登り切ることができませんで
した。

☆アマ・ダプラム西壁の写真
 最初にヒマラヤの登攀でひとりで成功した山です。正面の西壁からひとりで挑戦したも
のです。

☆クレバス帯の写真
 ヒマラヤに限ったことでは無いのですが、単独登攀の場合一番の問題は、氷河を歩くこ
とです。このようなクレバス帯は、パートナーがいればそれほど危険ではないのですが、
私はこのようなところをひとりでロープもつけずにジャンプしていかなければなりません。
もちろん落ちれば100m位落ちる可能性の高いものもありますし、落ちたら助からない
ですね。優秀なクライマーもたくさんこういうところで亡くなっています。

☆山頂の写真
 結局、アマ・ダプラムは、3日間かけて山頂に立つことができました。僕にとって最初
のヒマラヤのソロクライミングの成功だった山でもあります。
 ただこのとき大変重い凍傷にかかってしまいまして、指を随分真っ黒くさせてしまいま
した。若いとき(高校時代など)は、凍傷になると登山家ぽいなぁ、格好いいなぁと思い
ましたが、実際、一回凍傷になるとかなり毛細血管もいかれますし、凍傷だけは気をつけ
た方がよいと思います。

 そのほか、私はたくさんヒマラヤの山々に挑みました。

☆ガッシャブルムU峰からT峰の写真(8000m峰から見た8000m峰)
 ただ、僕が思うのは、あまり高さだけには拘りたくないなぁと思います。世の中には低
くても美しい山はたくさんあるので、あまり高さだけには拘りたくないなぁと思っていま
す。

☆チョー・オュー南西壁(8201m)
 1994年 ひとつの大きな夢でもあった8000m峰にある難しいところをひとりで
登り切るために、チョー・オュー南西壁を選びました。頂上は9201mです。切り立っ
た場所が、2200m続いています。ここをひとりで登ろうとしたわけです。なぜこの山
を選んだかと言いますと、裏側に大変優しい一般ルートがあります。もし登り切って疲れ
切っていても、あの一般ルートなら降りられるだろうと思ったわけです。

☆ベースキャンプで雪の状態を双眼鏡でチェックしている写真
 ☆一般ルートの写真(南西壁は裏側) 
 ここで、しっかりした高度順化を行ってから南西壁に向かいました。
 ☆一般ルートで高度順化をしている写真
 約7000m近いですが、ここまで気分的にはハイキングの様な気分で来れないようで
は、実際の目標の所へは行けません。
 僕がどのように高度に慣れたかどうかを判断するかと言いますと、最近ではパルスオキ
シメーターという血中酸素飽和濃度を測る機械がありますが、僕は使いません。こういう
ところを走ってみてどのくらい息切れがするかとか脈拍を測ってみたりします。そして判
断します。

☆チョー・オュー南西壁と鶴
 9月20日 チョー・オューへひとりで向かいました。ちょうどこの日、鶴が山頂を越
えるのを見ました。大変珍しい光景です。鶴が越えるとよく「ずっと晴れる」と言われて
います。私はこの時さすがに大変緊張しました。こういうところで多少高山病になります。
意識障害とか幻覚まではいきませんが、多少高山病になります。だからといって(高山病
になったからといって)直ぐ降りてきては、一生登れないわけです。だからといって上の
方で強い高山病になればもう二度と帰って来ることはできません。その辺の判断が非常に
難しいです。
 私は、夜8時出発しました。私は単独登攀の場合いつも夜出発します。それは、雪崩や
落石の危険がある程度寒さによって回避できるでしょうし、夜登って日中寝た方が温かい
し、寝袋も小さいのですみます。軽量化にもつながり、スピードアップにもなります。

☆足跡を振り返って下を見た写真
 こういった高度に来ると、難しい岩場を登っていても恐怖心が下よりも薄まります。そ
れ自体大変危険なことで、「ここは怖いんだ、ここは怖いんだ」と常に思いながら登らな
いと大変危険です。ただ怖さが鈍ることは確かです。

☆途中1泊したところ
 こういうところでは、あまり眠ることは考えません。体をマッサージして疲れをとった
り、血液が濃くなっているで水をたくさん飲むことです。よく言われるのが、8000m
峰では1日6リットル位の水が必要だといわれます。しかし6リットルの水を作るのは大
変ですが、4〜5リットル位は飲んだと思います。

☆テントの中のセルフポートレート
 目の赤さは、疲れだけでなく高山病がすこし来ているのではないかと思います。実際こ
の後、頂上直下でちょっと目がはっきり見えなくなりました。少し危険な状態です。

☆山頂の写真
 52時間後、山頂に立つことができました。ひとつの夢が実現した瞬間でもあります。
この日は無風快晴で大変気持ちの良い山頂でした。山頂は広いです。奥に見えるのがエベ
レストです。
 私は、結局この登攀で10sぐらい痩せました。10s痩せるというのは、大変肉体的
にも消耗したでしょうし、多分その間に脳細胞も相当破壊されたかもしれません。基本的
に脳細胞が多い方ではありませし、あまり気にしません。まあ、感動ができる脳細胞さえ
残っていれば私はいいわけで、かまわないと思っています。

ずっと成功した山ばかり見てきましたが、ここで失敗した山を見て貰います。

☆ マカルー西壁
 世界中のクライマーが挑戦して、ヒマラヤ最後の課題といわれた山です。何故このマカ
ルー西壁が難しいかと言いますと、最初は易しいのですが、8000m付近になってオー
バーハングした壁があります。ここを突破するのは大変厳しいわけです。
 結局、私はこのオーバーハングを突破するためにたくさんの荷物を持っていきました。
その為にスピードが遅くなり、危険な個所でも登山スピードが遅くなり、落石に打たれて
失敗してしまったわけです。それともう一つ失敗した問題としては、テレビクルーが一緒
に付いて来たことです。僕自身、ディレクターの方とは仲が良かったのでかまわなかった
し、テレビ会社からお金を貰っているわけではないので、プレッシャーを感じる必要もな
かったのですが、ぼくひとりが登るのに周りに5〜6人のスタッフがいるのです。やはり
集中できなかったことは確かです。このような大きな登山や冒険をする時にに、余計な人
は連れていくものではないなと思いました。
 結局このマカルー西壁は、まっすぐにはまだ誰も登っていません。それでも将来きっと
誰かが登ることでしょう。それが登山の歴史というものでしょう。

☆マナスル北西壁の写真 (1998年)
 2年前奥さんといった山です。この山を見た瞬間、未踏なのですけれども、どう見ても
危険だなということはわかっていました。どこからいっても雪崩の危険性があるなと思っ
たのです。この時点で止めるべきだったでしょう。
 しかし、僕が思ったのはこのマナスル北西壁が未踏で登ったらすごいなと言う野心みた
いなものと、夫婦二人で300万円を使ってしまったので、少しは上がらないともったい
ないなと思いました。それで結局そのまま突っ込んで行ったら、案の定雪崩が来まして二
人で300m〜400m程流されました。私は、雪の中に潜ってしまいました。
 このマナスル北西壁は失敗した例では、一番悪い例です。野心で突っ込んでいったので
す。見た瞬間に止めれば良かったと思います。

☆K2の写真(コンコルディアより)
 大変均整が取れていて美しいですし、いつかは登ってみたいなという山の一つでした。

☆ベースキャンプから見たK2
 よく「黒いピラミッド」と言われていますが、やはりこのように黒い岩が多くて迫力が
あります。何処から行っても確かに難しい山の一つでもあります。

☆南南東リブの写真
 7月28日、私はひとりで南南東リブというところに行きました。けれどもそれ程僕は、
強い緊張を持ったわけでもありません。まあ過去に何百本と単独登攀も行ってますし、最
近では高所の知識も増えてきたので、それ程強い緊張感は持っていなかったと思います。

☆7900m付近の写真
 この辺の高度に来ると、ゴーグルをしていてもとても眩しく、空は水色よりも紺色に近
くなり、なんか地球上で登っているというよりも宇宙空間に居るような感覚に陥ります。

☆K2山頂の写真
 私は、ベースを出発してから48時間後の7月30日、K2の頂きに立つことができま
した。
 
 このように私は、スライドを見てもらってわかります通り、ものすごい数を登っていま
す。友人からは、何故そんなにしょっちゅう行くのかと言われますが、どこかに常に登山
に満足していないというか、もう少し自分の可能性を引き出したいなと思いながら登り続
けています。
 これからも私は、登山を続けると思いますけれども、あまり高さとか有名な山だとかに
拘らないで、小さくても美しい山がありますし、あくまでも未知なものとか冒険的なもの
を求めて登山をやっていきたいと思います。
 私はちょうど35歳になりましたが、20年近く登り続けています。最近では手足、肩
が痛いのですが、それでもまだ魅力ある山が沢山あるので登り続けるでしょう。
 みなさんも自分たちの登山を実践していただければと思っています。

 これで終わりにしたいと思います。ありがとうございました。



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